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第8話 ミナと紙の星

【登場人物】

■リシェル・ヴァルハイト

人の心を読む力を持つ十四歳の亡国の皇女。帝国崩壊後は、誰かの道具ではなく「自分自身」として生きる道を探している。


■ヴェラ

黒髪の機械仕掛けの女騎士。身長177cm、体重173kg。圧倒的な出力と防御力を誇る近接戦闘特化型アンドロイド。敵を正面から受け止める「黒い盾」。


■イリス

銀髪の機械仕掛けの女騎士。身長177cm、体重173kg。浮遊支援兵器《オービット》を操る戦術支援型アンドロイド。索敵、分析、護衛を得意とする「銀の針」。


■ミナ

管理社会パノプティコン連邦から逃れてきた少女。違法共同体《ノイズ》の一員として生きている。


【世界背景】

●ソル・テオクラシー

人々を救済へ導くことを掲げる宗教国家。リシェルを「聖母」として迎えようとしている。


●パノプティコン連邦

感情や行動を数値化し管理する超合理国家。予測不能な存在を危険視する。


●ノイズ・ネスト

連邦の管理を拒んだ人々が地下に築いた隠れ里。泣き、笑い、怒ることを捨てなかった者たちの居場所である。


それぞれが異なる「正しさ」を掲げる世界で、リシェルたちは新たな選択を迫られていく。

最初に重力が沈んだ。ノイズ・ネスト中央広場の床が、軋みを上げて陥没する。逃げようとしていた人々が膝をつき、荷物が床へ叩きつけられ、古い照明が火花を散らした。ヴェラの足元の金属板が、悲鳴のような音を立てる。


「重力制御」


イリスが低く告げた。広場の入口に、一人の女が立っていた。長い黒藍の髪。感情のない瞳。白い連邦軍装。


「デネブ」


ミナが震える声で言った。


「空間固定の化け物……」


デネブはリシェルを見ない。ヴェラだけを見ている。


「Unit-09。高重量機体を確認。固定します」


見えない手が、ヴェラを床へ押しつけた。通常なら、ヴェラの重さと出力は突進力になる。だが重力を数十倍に変えられれば、その重さは鎖になる。ヴェラの膝が沈む。床が割れる。それでも、彼女は倒れなかった。


「姫様に近づくな」


ヴェラは一歩、前へ出た。それだけで床が砕ける。リシェルは叫ぶ。


「ヴェラ!」


「問題ありません」


「問題あるわ!」


「動けます」


ヴェラはさらに一歩踏み出した。重力場の中で、黒い女騎士の装甲が軋む。肩の修復部が裂け、火花が散った。床に深く足跡が刻まれ、そこから亀裂が放射状に走る。デネブの瞳が細まる。


「出力異常」


次の瞬間、銀色の影が横を抜けた。アルタイル。薄金の瞳を持つ女が、細い剣を抜いてイリスへ迫る。


「〇・五秒後、あなたは右へ展開。〇・八秒後、防壁。一・二秒後、反撃失敗」


アルタイルの声は平坦だった。イリスが防壁を出す前に、剣先がその展開点を貫く。防壁が乱れた。イリスが後退する。


「短期未来予測」


「はい」


アルタイルは淡々と答えた。


「あなたの演算は速い。しかし、感情ノイズが混入しています」


「感情ノイズ?」


「護衛対象への過剰優先。相棒機体への反応遅延。非合理」


イリスの瞳が揺れた。そこへ、第三の女が現れた。ベガ。柔らかい笑みを浮かべ、白い指先で空中をなぞる。


「見つけた。心が芽生えかけた機械、Unit-07」


赤いノイズが空間に走った。イリスの視界が刹那、乱れる。ヴェラの肩の損傷部から火花が散る。


「電子侵食」


イリスが歯を食いしばるように言った。


「感情制御領域へ干渉されています」


「感情制御って何よ!」


リシェルが叫ぶ。ベガは楽しそうに笑う。


「それ、本人たちも知らないんじゃない? かわいそう。芽生えかけたものって、一番壊しやすいの」


ヴェラがデネブの重力圏を破ろうとする。だが重い。床が沈み、出力を上げるほど周囲が崩れる。イリスはアルタイルとベガの二重攻撃を受け、防戦に回る。《オービット》が三機、青い残光を引いて飛ぶ。一本はアルタイルの剣に弾かれ、壁へ叩きつけられて火花を散らす。


もう一本はベガの赤い侵食線に絡め取られ、悲鳴のような電子音を上げて落ちた。避難民たちは悲鳴を上げて逃げている。ミナがリシェルの腕を掴んだ。


「こっち!」


「でも、ヴェラとイリスが」


「ここで立ってたら、あの二人が困る!」


その言葉は正しかった。悔しいほど。リシェルは歯を食いしばり、ミナと共に走る。通路の奥では、連邦の無人機が正確に人々を追い詰めていた。殺すためではない。捕らえ、識別し、分類し、処理するための動きだった。その正確さが恐ろしかった。逃げ遅れた老人が転んだ。無人機の銃口が向く。リシェルは反射的に意識を伸ばした。だが、相手は機械。心がない。触れられない。何も読めない。


「止まって!」


叫んでも止まらない。その瞬間、ヴェラが重力圏を無理やり破って飛び込んだ。老人の前に立つ。銃撃がヴェラの背中に叩き込まれる。黒い軍装が裂け、火花が散った。装甲片が飛び、床を跳ねる。


「ヴェラ!」


「避難を」


ヴェラは振り返らない。デネブの重力がさらに強まる。


「非合理行動。護衛対象から離脱」


「違う」


ヴェラは低く言った。


「姫様の選択を守っています」


リシェルの胸が熱くなった。自分が言ったことを、ヴェラは覚えている。リシェルとして生きる。その選択には、見捨てないことも含まれている。イリスの防壁が通路を塞ぎ、避難民を守る。しかしベガのノイズが防壁に赤いひびを入れていく。


「Unit-07。あなた、だんだん人間みたいになってるね。そういうの、大嫌い」


ベガが囁く。


「壊したら、どんな音がするのかな」


イリスは答えない。ただ、リシェルを見る。そして言った。


「姫様。走ってください」


「嫌!」


「走ってください」


「二人を置いていかない」


イリスはふと目を伏せた。


「では、信じてください」


その言葉に、リシェルは足を止めた。信じる。守られるだけではなく。任せること。信じて、自分の足で逃げること。リシェルはミナの手を握った。


「行く」


ミナが頷く。背後で、デネブの重力が唸り、アルタイルの剣が光り、ベガのノイズが赤く瞬いた。それでもリシェルは走った。自分が生き延びることが、二人の選択を無意味にしないためだと知っていたから。


東ルートは、半分崩れていた。ミナは瓦礫を蹴り、古い制御盤をこじ開け、手動で隔壁を上げた。


「急いで!」


人々が次々と通路へ逃げ込む。泣く子供。荷物を抱えた老人。足を引きずる男。リシェルは通路の横で、流れ込む心の声に耐えていた。


――死にたくない。


――置いていかないで。


――また管理されるのか。


――いやだ、いやだ、いやだ。


その恐怖が、リシェルの内側を押し潰す。彼女は人々を落ち着かせることができる。強く干渉すれば、恐怖を一時的に押さえ込める。命令すれば、皆を整然と動かせる。でも、それは連邦と何が違うのだろう。恐怖を消すことと、心を奪うことの境界はどこにあるのだろう。リシェルは震える手を握った。


「聞いて!」


叫んだ。精神干渉ではない。ただの声で。


「怖いのは分かる。でも、前を見て。隣の人の手を離さないで。走れない人を置いていかないで。私は、あなたたちを操らない。だから、自分で動いて!」


一瞬、通路が静まった。人々の心はまだ恐怖でいっぱいだった。でも、誰かが隣の手を握った。老人に肩を貸す者がいた。子供を抱き上げる者がいた。ミナがリシェルを見た。


「今の、力を使った?」


「使ってない」


「じゃあ、ただ叫んだだけ?」


「うん」


「お姫様なのに?」


「お姫様でも叫ぶわ」


ミナは笑った。目に涙を浮かべながら。


「変なお姫様」


「今日それ三回目」


「四回目だよ」


「数えないで」


ミナは、ふと自分の胸元に手をやった。


「あ、そうだ。紙の星、ちゃんと持ってる?」


「持ってる」


「なくさないでよ」


「うん」


「リオのことも」


「覚えてる」


「泣き虫で?」


「紙の星が下手で」


「スープにパンを沈めた」


「うん」


ミナは満足そうに笑った。


「ならいい」


その時、上層で大きな爆発が起きた。天井の配管が破裂し、熱い蒸気が噴き出す。通路の奥から、白い光が迫った。シオンだった。白い統制官コート。白銀の女士官。その背後に、無人機の群れ。


「違法共同体《ノイズ》構成員を確認」


シオンは告げた。


「投降してください。感情矯正後、再社会化プログラムへ移行します」


ミナがリシェルの前に立った。


「二度と戻らない」


「戻るのではありません。修正です」


「それが嫌だって言ってる!」


ミナは旧式銃を構えた。シオンの目は動かない。


「あなたの情動反応は過剰です。判断能力低下を確認」


「うるさい!」


ミナが撃った。弾丸はシオンの前で停止した。見えない防壁。シオンは表情を変えない。


「無効です」


リシェルはミナの心を読んだ。恐怖。怒り。そして、覚悟。ミナはリシェルへ小さな端末を押しつけた。


「東ルートの先、白墓回廊へ抜けられる。そこから宗教国家側へ行ける」


「宗教国家側?」


「連邦よりはマシ」


「本気で言ってるの?」


「どっちも地獄だよ。でも、地獄にも風向きがある」


ミナは笑った。


「行って。あんたは、まだ捕まっちゃ駄目だ」


「ミナも一緒に」


「無理」


「無理って言わないで!」


「リシェル様……」


ミナは初めて、リシェルのことをそう呼んだ。茶化しではなく。


「わたしたちを数字にさせないでくれて、ありがと」


次の瞬間、シオンが手を上げた。白い光が走る。ミナの身体が弾かれ、壁に叩きつけられた。血は見えなかった。けれど、心の声が途切れた。リシェルの中で、何かが割れた。


「ミナ!」


駆け寄ろうとしたリシェルの前に、ヴェラが飛び込んできた。損傷だらけだった。黒い軍装は裂け、片腕の装甲が欠けている。それでも、立っている。


「姫様、退避を」


「ミナが、ミナが、」


「退避を」


「嫌!」


リシェルは叫んだ。怒りが広がる。心を伸ばせば、この場にいる人間の恐怖を支配できる。シオンにも届くかもしれない。彼女は人間だ。機械ではない。シオンの心へ触れようとした。その瞬間。冷たい白い壁にぶつかった。感情が薄い。痛みも恐怖も、深いところに封じ込められている。でも、完全ではない。ほんの小さな亀裂があった。


――なぜ、撃った瞬間に苦しい。


シオンの心だった。リシェルは息を呑む。シオンも、目を見開いた。


「あなた」


リシェルは震える声で言った。


「本当は、苦しかったの?」


シオンの表情が固まる。


「感情読取を確認。対象リシェル、脅威度上昇」


「答えて!」


「回答不要」


シオンの声は平坦だった。だが、その奥で何かが揺れている。イリスが戻ってきた。銀灰色の髪が乱れ、頬の人工皮膚が裂けている。背後からベガの赤いノイズが追ってくる。


「姫様、今は退避です」


「でも」


「信じてください」


また、その言葉。リシェルは歯を食いしばる。ミナの端末を握った。逃げる。また逃げる。でも、今度はただ守られるためではない。ミナが渡した道を、無駄にしないために。


「行く」


リシェルは言った。ヴェラがリシェルを抱え、イリスが防壁を張る。シオンが手を伸ばす。


「逃走を許可しません」


リシェルはシオンを見た。


「許可はいらない」


その言葉に、シオンの目がまた揺れた。


「私は、私の意思で逃げる」


東ルートの隔壁が閉じる。白い光が遮られる。最後に見えたのは、シオンが倒れたミナを見下ろす姿だった。その顔は、無表情だった。でもリシェルには聞こえた。


――なぜ、手が震える。


ノイズ・ネストの灯が、背後で消えていく。リシェルは歯を食いしばった。泣くのは後だ。今は、走らなければならない。


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