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第7話 機械が痛みを知る夜

パノプティコン連邦の中央監視局に、窓はない。空を見る必要がないからだ。


その最上階、第七観測室で、一人の女が壁一面のモニターを見上げていた。


シオン・レイ。連邦中央監視局の上級監察官。白い統制官コートに、銀髪のボブ。目元を覆う電子ゴーグルが、画面の光を青く跳ね返している。整いすぎた無表情は、年齢の手がかりを一つも残していなかった。


彼女は人間だ。この国で「正しく矯正された」人間の中でも最も優秀な一人として、機械の側に立つ仕事を任されている。


モニターには、雪原の熱源記録が映っていた。燃える帝都から脱出した三つの影。中央の小さな熱源がリシェル・ヴァルハイト。左右の高密度熱源が、戦闘型アンドロイド二体、Unit-09とUnit-07だ。


「観測対象リシェル・ヴァルハイト。精神干渉能力を保持。現在、北部断層帯付近で消息不明」


シオンが報告書を読み上げると、白い部屋に、人間のものではない声が降りた。


『補足。対象はクレイドルの予測系に、微小な偏差を発生させています』


クレイドル。連邦の全都市を運営する管理ASI(超人工知能)。姿はなく、声だけの存在だ。連邦の誰もが、その声を「揺れを許さない知性」と呼ぶ。


「対応指示を」


『観測を継続。必要に応じて隔離。対象の精神干渉能力は、管理社会における不確定因子です』


「捕獲ですか」


『隔離です』


「表現の差異を確認しました。実質的には同じです」


『はい』


シオンは頷き、地下共同体《ノイズ・ネスト》の推定位置を開いた。


ノイズ。管理できない感情。非合理な集団。予測を乱す個人。そして、かつてシオン自身の中にあったものだった。


怖かったかどうかは覚えていない。怖いという感情も、その時に薄くされたからだ。ただ、記録映像だけは残っている。六歳の自分が、白い椅子に座っている映像。教師が尋ねる。


『矯正後、母親に会えなくなる可能性を理解していますか』


小さなシオンは頷く。


『はい。愛着は判断を歪めます』


『寂しいですか』


『寂しさは、不要です』


映像の中の少女は、完璧に答えている。今のシオンと同じ声で。けれど映像を止めた瞬間、シオンはなぜか指先が冷たくなるのを感じた。室温は一定だ。冷える理由はない。


『三人官女を起動します』


クレイドルの声と同時に、観測室の扉が開いた。


白い連邦軍装の女が三人、音もなく入ってくる。連邦特務戦闘部隊、通称《三人官女》。人の形をした、連邦の戦闘用アンドロイド三体だ。


長い黒藍の髪の、デネブ。薄金の瞳の、アルタイル。柔らかな笑みを浮かべた、ベガ。


シオンは三人へ向き直った。この三体を統制するのも、彼女の任務だった。


「任務を伝えます。違法共同体《ノイズ・ネスト》を特定し、制圧。対象リシェル・ヴァルハイトを生体確保。護衛アンドロイド二体は、可能であれば回収。不可能な場合は機能停止」


デネブが無表情に答える。


「固定します」


アルタイルが続く。


「未来予測を開始します」


ベガは笑った。


「汚染してもいい?」


「破壊は最終手段です」


「……残念」


その声に、シオンは何も感じない。感じないはずだった。


画面の一つに、ノイズ・ネスト内部の古い監視映像が復元される。粗い映像。薄暗い食堂。金髪の少女が、泣きそうな子供とスープを分けている。その背後で、黒髪のアンドロイドが猫に足止めされている。銀髪のアンドロイドが、何かを考えるように器を見つめている。


別の映像では、リシェルが紙の星を胸元にしまっていた。ミナの口元が読める。


――覚えてて。


シオンは映像を拡大した。紙の星。非効率な形状。機能なし。保存価値なし。なのに、リシェルはそれを大事そうに扱っている。


「対象の行動に、非合理な記憶保持傾向」


『不要です』


クレイドルが言う。


『記憶は管理されるべき情報です』


「はい」


答えながら、画面を閉じる指が遅れた。シオンは銀髪のアンドロイド、イリスを拡大する。


「Unit-07。行動に非任務的要素あり」


『異常です』


「感情模倣でしょう」


『感情は不要です』


「はい」


そのはずだった。けれど画面の中のイリスは、スープを飲むリシェルを見て、目を細めた。笑顔ではない。表情変化としても極小。それでもシオンは、なぜか目を離せなかった。


機械が、人間の表情を見ている。観測ではなく、理解しようとしている。


「……不合理ですね」


『訂正。異常です』


「はい。異常です」


シオンは画面を閉じた。


「作戦開始」


   *


ノイズ・ネストの夜は、地上よりも騒がしかった。


水を汲む音。配管を叩く音。子供の寝言。誰かの咳。鍋を洗う音。遠くで夫婦喧嘩が始まり、すぐに隣人が仲裁に入る。


リシェルは借りた毛布にくるまりながら、その騒がしさを聞いていた。心の声も流れ込んでくる。宮廷よりずっと多い。けれど、息が詰まるほどではなかった。ここでは、人々の表の言葉と心の声があまり離れていないからだ。怖い人は怖いと言い、怒っている人は怒鳴り、悲しい人は泣く。


乱れていて、効率が悪くて、うるさい。でも、嘘が少なかった。


ヴェラは入口に立っている。イリスは近くの作業台で、ヴェラの肩の損傷部を拭っていた。ルシアンの槍が掠めた傷が、まだ完全には塞がっていない。


「痛い?」


リシェルが尋ねる。ヴェラは考えてから答えた。


「少し」


「また少しって言う」


「正確な表現です」


イリスが布を動かす手を止めずに言った。


「損傷は軽微。ただし人工皮膚層に裂傷があります。修復材が不足しています」


「私の包帯、使う?」


「人間用です。規格が合いません」


「規格って、こういう時は嫌な言葉ね」


イリスは無言でヴェラの肩を拭った。その動作は丁寧だった。必要以上に。


リシェルは気づいていた。二人は自分を庇うため、本来の戦闘機動を捨てている。ごめん、と胸の奥で声がこぼれる。だが、謝るだけでは足りないとも思った。


「イリス」


「はい」


「ヴェラが痛がると思ってる?」


イリスの手が止まった。


「ヴェラは損傷情報を痛覚として処理します」


「そうじゃなくて」


リシェルは少し言葉を探した。


「あなたが、痛くないようにしてあげたいって思ってる?」


沈黙。ヴェラもイリスを見た。イリスは布を握ったまま、しばらく動かなかった。


「定義できません」


「そっか」


「ですが、損傷部に過剰な圧力をかけることを避けたい、という判断があります」


「それを、優しさって呼ぶ人もいるわ」


「優しさ」


イリスはその言葉を繰り返した。未知の部品名を確認するように。リシェルは胸元の紙の星に触れた。


「分からないまま、大事にしてもいいんじゃない?」


「分からないまま」


「うん。私も、自分の心なんてほとんど分からないもの」


イリスは目を伏せた。


「では、保持します」


その時、作業台の端末が突然白く光った。画面にノイズが走る。イリスが即座に防壁を展開した。


「外部接続」


ヴェラが剣に手をかける。画面に、白いコートの女が映った。銀髪のボブ。電子ゴーグル。整いすぎた無表情。


『接続成功。対象、銀髪の戦闘型アンドロイド』


リシェルは息を呑む。


「誰?」


『パノプティコン連邦中央監視局、上級監察官シオン・レイ』


イリスは端末を見つめた。


「通信経路を遮断します」


『その前に質問があります』


「回答義務はありません」


『あなたは、なぜ損傷機体を丁寧に拭っているのですか』


リシェルはイリスを見た。イリスは無表情のまま答える。


「修復前処理です」


『効率が悪い。対象機体の損傷は軽微。あなたの処置は作戦上不要です』


「ヴェラが痛がっていたので」


シオンの表情が止まった。


『痛みは信号です』


「はい」


『信号に対して感傷的行動を取る意味はありません』


「意味はあります」


『なぜ』


「姫様が悲しみます」


リシェルの胸が、ぎゅっと締めつけられた。シオンは黙った。画面越しでも分かるほど、空気が変わった。


『あなたは機械です』


「はい」


『機械が、人間の悲しみを行動条件に加えるのは異常です』


「可能性はあります」


『異常を自覚しているのに、修正しないのですか』


イリスは首を傾げた。


「修正すると、姫様が悲しむので」


論理的ではない。会話として循環している。それでもリシェルには、泣きたくなるほど嬉しかった。シオンの目元が揺れた。


『……人間は、悲しみを除去すべきです』


その声は、初めて機械的ではなかった。硬いが、自分で選んだ響きだった。


『悲しみは判断精度を下げます。愛着は依存を生みます。恐怖は合理的行動を阻害します。だから管理する。だから切除する。それが正しい』


「あなたは」


イリスが言った。


「人間ですか」


シオンの表情が止まった。


『はい。そう定義されています』


「定義ではなく、あなた自身はどう認識していますか」


『……質問の意味が不明です』


「私は機械です。けれど、リシェルが消える未来を避けたいと判断しています。あなたは人間です。では、何を避けたいのですか」


シオンは答えない。画面の奥で、別の声が割り込む。


『通信時間超過。作戦を開始します』


クレイドルの声だった。シオンは目を伏せる。


『違法共同体《ノイズ》を確認。排除を開始します』


通信が切れた。直後、ノイズ・ネスト全体に警報が鳴り響く。赤い非常灯が点滅し、ミナが食堂の奥から飛び出してきた。


「見つかった!」


ヴェラが剣を抜く。イリスがリシェルの前に立つ。


「敵性反応、多数。連邦式無人機。さらに高出力個体三」


「三人官女?」


ミナの顔が青ざめた。


「終わりだ」


リシェルは立ち上がった。


「終わらせない」


声は震えていた。でも、燃える帝都で選んだことを、忘れていなかった。誰かの武器にも、聖母にも、管理対象にもならない。リシェルとして生きる。


「みんなを逃がす」


ヴェラが頷く。


「道を開きます」


イリスも答える。


「避難経路を再構築します」


外で爆発が起きた。地下都市の灯が、大きく揺れた。

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