第6話 数字にできない温度
帝国崩壊後、リシェルはヴェラ、イリスと共に祖国を脱出した。
心が読める力を持つ彼女は、宗教国家ソル・テオクラシーからは「聖母」として求められ、管理国家パノプティコン連邦からは危険な不確定要素として監視されている。
亡国の姫となったリシェルが望むのは、聖母でも兵器でもなく、自分自身として生きること。
雪に閉ざされた北の大地で、三人は新たな出会いを迎える。
ノイズ・ネストは、街というには小さく、隠れ家というには大きかった。金属板の家、湯気を漏らす配管、不揃いの照明。効率的ではないが、確かに誰かが暮らしていた。
リシェルが足を踏み入れた瞬間、心の声が一斉に流れ込んできた。
――誰だ、あの金髪。
――帝国の姫?
――機械が二体もいるぞ。
――護衛?危ないんじゃないか。
――でも、きれい。
――腹減った。
――ミナ、また面倒を拾ってきた。
リシェルは少しふらついた。静かな雪原から、急に人間の中へ戻ったせいだ。ヴェラが即座に支える。
「姫様」
「大丈夫。これは……嫌じゃない」
嫌ではなかった。怖い声もある。疑う声もある。欲や打算も混じっている。でも宮廷の声とは違った。ここにある声は、むき出しだった。きれいではないけれど、仮面が薄い。誰も高貴な礼節で心を隠す余裕がないのだ。リシェルには、それが少しだけ楽だった。
「へへ、すごいでしょ」
ミナが言った。
「違法共同体。連邦の地図には存在しない街」
「見つかったら?」
「うん。確実に消される。あいつら、容赦ないからね」
あまりにあっさり言うので、リシェルは返事に詰まった。ミナは肩をすくめる。
「だから、できるだけ見つからないように生きてる。見つかったら、走る。走れなかったら、祈る。宗教国家みたいにじゃなく、自分の足が速いことをね」
「それ、祈りなの?」
「たぶん」
ミナは笑った。その笑い声を聞いて、子供たちが集まってきた。彼らはヴェラとイリスを遠巻きに見ている。怖がっているが、好奇心の方が少しだけ勝っていた。一人の男の子が、ヴェラの足元を見た。
「お姉さん、なんで床がへこんでるの?」
ヴェラは足元を見下ろす。
「重量によるものです」
「何食べたらそうなるの? 石?」
「石ではありません」
「じゃあ筋トレ?」
「構造です」
男の子は難しい顔をした。
「こうぞう、食べたの?」
リシェルは思わず吹き出した。ヴェラは真剣に答える。
「食べていません」
「ヴェラ、そこは笑うところ」
「笑うべきでしたか」
イリスが横から言った。
「冗談判定は微妙です」
「イリスまで真面目に判定しないで」
子供たちは笑った。その笑い声に、リシェルは胸を押さえる。帝国が燃えてから、初めて聞いた気がした。誰かが普通に笑う声。街の奥に案内される途中、リシェルは壁際で小さな端末を見つけた。そこには、今日の予定が手書きで貼られている。水汲み。配線修理。食事当番。感情申告、禁止。最後の文字に、リシェルは目を止めた。
「感情申告、禁止?」
ミナが振り返る。
「連邦にいた頃の癖で、みんな自分の気分を数値で言おうとするんだ」
『今日は悲しみが六十七です』とか、『怒りが許容値を超えました』とか。
「それを禁止しているの?」
「うん。ここでは、悲しいなら悲しいって言う。腹が立つなら腹が立つ。好きなら好き。数値にしない」
リシェルは小さく頷いた。数値にすると、扱いやすくなる。扱いやすくなると、管理される。帝国では自分がそうだった。外交価値。軍事的象徴性。精神干渉能力。誰かが自分を計算できるものとして見ていた。だからミナの言葉は、リシェルの胸にまっすぐ刺さった。共同食堂は、旧貨物倉庫を改造した空間だった。
中央に大きな鍋があり、湯気が立っている。人々は金属の椅子に座り、欠けた器でスープを飲んでいた。リシェルに一杯が渡される。薄い。具も少ない。
でも、温かかった。
「……おいしい」
リシェルは呟いた。イリスが器を覗き込む。
「栄養価は低いです。塩分も不足。タンパク質は推奨量を下回っています」
「そういうことじゃないの」
「では、どういうことですか」
リシェルは少し考えた。
「誰かが私のために、温かいものをよそってくれた。だから、おいしい」
イリスは黙った。その沈黙を、ミナが見て笑う。
「機械のお姉さん、難しい顔してる」
「私は顔の難易度を変更していません」
「そういうとこ」
食堂の端で、ヴェラが子供に囲まれていた。男の子がヴェラの手袋を触ろうとしている。
「駄目です。危険です」
「なんで?」
「握力制御に失敗すると、骨折させます」
「こっせつって何?」
「痛いです」
「ひっ……じゃあやめる」
子供は素直に手を引っ込めた。その時、食堂の隅から小さな黒猫が現れた。宮殿にいた猫とは違い、片耳が欠け、痩せている。猫はヴェラの靴先で立ち止まった。
ヴェラは固まらなかった。剣を持つ側の手を背へ回し、空いた手を床近くまで下げる。力を抜くため、一つずつ指を開いた。
「ヴェラ?」
「前回の記録を参照しています」
猫は手袋の匂いを嗅ぎ、その手に額を押しつけた。ヴェラは、砲弾を受け止める時より慎重に指を曲げた。
「握力、〇・〇二パーセント。接触を維持します」
イリスが言う。
「小動物対応が改善しています」
「猫に訓練されてるのね」
リシェルが笑うと、ヴェラは猫を撫でたまま答えた。
「壊さずに触れる方法を、学習中です」
さっき手を伸ばしかけた男の子が、今度は猫の背に触れた。ヴェラは危険な指を遠ざけ、子供と猫の間に手のひらだけを置く。
ミナが目を細めた。
「強いだけじゃ、守れないもんね」
ヴェラは否定しなかった。リシェルは笑いかけて、食堂の奥にいる小さな女の子へ気づいた。スープの器を前にしているのに、手をつけていない。心の声が聞こえる。
――お母さん。
――昨日までいたのに。
リシェルは女の子の隣に座った。
「食べないの?」
女の子は首を振る。
「食べたら、泣きそうになる」
「どうして?」
「……お母さんが、……お母さんが、温かいうちに食べなさいって言ってたから」
リシェルは何も言えなかった。心を読めるのに、こういう時に正しい言葉が分からない。宮廷では、相手の心を読めば勝てた。でも悲しんでいる子供の前では、心を読んでも何もできない。リシェルは器を見た。
「私も、今日スープを飲んで泣きそうになった」
女の子がリシェルを見る。
「お姉ちゃんも?」
「うん。温かかったから」
「温かいと、泣くの?」
「たぶん、人間はそういう温かさを思い出すと寂しさ感じて涙するの」
女の子は少しだけ考えた。
「寂しいの?」
「私も、あなたも、たぶん少しだけ」
「直る?」
「分からない。でも、一緒に食べたら、少しだけましになるかも」
リシェルは自分の器を持ち上げた。
「半分こする?」
「それ、お姉ちゃんの」
「私は皇女だから、分けるのが仕事なの」
「皇女って、スープ分ける人?」
「今日はそう」
女の子は、初めて少し笑った。それだけで、リシェルは救われた気がした。遠くでミナがこちらを見ている。その心には、驚きがあった。
――聖母でも化け物でもないんだ。
――ただの子供じゃん。
リシェルは少しだけむっとした。
「ただの子供ではないわ。寝ぐせは直したもの」
ミナが目を丸くする。
「え、今の聞こえた?」
「少しだけ」
「化け物じゃないでしょ、そこはせめて、ガラスの可憐な少女って言って!」
ミナは笑った。
「ガラスの少女? 自分のこと、良く言いすぎ!」
食堂に、また笑い声が広がる。リシェルはスープを飲んだ。薄くて、ぬるくて、少し焦げた味がする。それでも、帝国の晩餐よりおいしかった。
その夜、ミナはリシェルを街の端へ連れていった。そこはノイズ・ネストの中でもいちばん天井が高い区画だった。崩れかけた搬入口の隙間から、細い夜空が見える。地上からは雪が舞い込み、地下の暖気に触れてすぐ溶けた。
「秘密基地の中の秘密基地?」
リシェルが尋ねる。
「だいたいそんな感じ」
ミナは古い配線箱の上に座った。
「ここだけ、星が見えるんだ」
リシェルは見上げた。見えるのは、小さな空だった。高い壁に切り取られた、ほんの細い夜。そこに、星が二つだけ瞬いている。
「連邦の街ではね」
ミナが言った。
「空を見る時間も、推奨されてなかった。必要な情報は端末に出る。天候、気温、外出適性。だから空そのものを見る意味はないって」
「ひどい……」
「ひどいって思うのも、ここに来てから覚えた」
ミナは懐から小さなものを取り出した。紙で折った、歪な星だった。何度も開いて折り直したのか、角は擦り切れている。
「リオが作ったの」
「弟さん?」
「うん。矯正前の」
ミナの心がまた揺れる。リシェルは、今度は読まないようにした。完全には遮断できない。けれど、深く覗き込まないことはできる。人の心は、見えてしまうからといって、全部見ていいものではない。それを、ノイズ・ネストに来てから少しずつ学んでいた。
「折り方、めちゃくちゃ下手でしょ」
ミナが笑った。
「ううん。かわいい」
「下手って言っていいよ。本人も笑ってたし」
「じゃあ、下手でかわいい」
「それならよし」
ミナは紙の星をリシェルへ渡した。
「持ってて」
「え?」
「お守り。お姫様って、そういうの好きそう」
「偏見がすごいわ」
「違う?」
「……嫌いじゃない」
リシェルは紙の星を両手で受け取った。軽い。驚くほど軽い。けれど、そこに込められた記憶は重かった。
「どうして私に?」
ミナは空を見た。
「さっき、あんた、あの子とスープ分けてたでしょ」
「うん」
「管理社会では、食事は栄養補給。数字で決まる。でも、あれは違った」
ミナは少し笑った。
「リオがまだ泣けた頃、スープに星型のパンを浮かべてくれたことがあったんだ。変な形で、すぐ沈んだけど。あんた見てたら、それ思い出した」
リシェルは紙の星を握った。
「ごめん。私、弟さんを助けられない」
「知ってる」
「連邦を今すぐ変えることもできない」
「……それも知ってる」
「じゃあ、私は何ができるの?」
ミナはリシェルを見た。
「忘れないこと」
その言葉は、ホスローがかつてくれた詩集の頁と同じ重さで胸に残った。痛みと一緒に、小さな灯がともる。
「数字にされるとね、忘れやすくなるんだ」
ミナは続けた。
「死亡者数、矯正者数、幸福指数。そう言われると、誰がどう泣いたか消える。でも、あんたは心が読めるんでしょ」
「うん」
「じゃあ、覚えてて。リオって名前の子がいたこと。泣き虫で、紙の星が下手で、スープにパンを沈めたこと」
リシェルは頷いた。
「覚えてる」
「約束?」
「約束」
ミナは笑った。
「お姫様の約束なら、高そう」
「今は無一文よ」
「んー、じゃあ出世払いで!」
「帝国、燃えちゃったんだけど」
「じゃあ、亡国払い?」
「何それ」
「あんたの騎士たち、変だね」
「うん」
リシェルは頷く。
「でも、そこが好き」
ミナは驚いた顔をした。それから、羨ましそうに笑った。
「そっか。好きって、言えるんだ」
リシェルは答えに迷った。好き。その言葉は、人間の心を読める彼女にとって、簡単ではない。好きの奥には、欲望も依存も恐怖もある。でも今、ヴェラとイリスを見ていると、その言葉を使ってもいい気がした。
「うん」
リシェルは言った。
「好きよ。すごく」
その瞬間、少し離れた場所でイリスの肩が動いた。聞こえていたらしい。ヴェラは玩具の車輪を直す手を止めた。
「聞こえてるの?」
リシェルが言う。イリスは振り返らず答えた。
「聴覚センサーは正常です」
「忘れて」
「記録済みです」
「消して!」
「思い出として分類します」
リシェルは顔を赤くして、紙の星を握った。いつか、すべてを失っても。今日のこの星だけは、忘れないと思った。




