第5話 お姫様でもお腹は鳴る
雪が降っていた。帝国北部国境、ラグナ断層帯。崩れた高架橋の下で、リシェルは膝を抱えていた。火はない。食料も残り少ない。帝国は燃えた。
ギルベルトはあの隔壁の向こうで本当に逃げ延びたのか。ホスローはどこへ消えたのか。分からないことばかりだった。けれど、人の心が流れ込んでこない雪原は、あまりに静かだった。静かすぎて、失ったものの輪郭がかえってはっきりする。
「……ギルベルトなら」
リシェルはぽつりと呟いた。
「こういう時、絶対に文句を言ってたわね」
ヴェラは高架橋の支柱の陰に立ち、周囲を警戒している。黒い軍装の上に雪が積もっていたが、払おうともしない。イリスは折れた通信端末を膝に置き、細い指で何度も回線を探っている。銀灰色の髪が雪の色に溶けて、時々そこにいることを忘れそうになる。
「ギルベルト様の文句は、情報整理に分類されます」
イリスが言った。
「そうね。あの人、文句を言いながら必ず正しい道を選ぶもの」
「現在、正しい道は不明です」
「……分かってる」
リシェルは膝に額を乗せた。目を閉じると、隔壁が閉じる音が蘇る。銃声。爆発音。ギルベルトの途切れた声。
――どうか、ご無事で。
皇帝である父を除けば、ギルベルトは宮廷で数少ない理解者だった。生きていてほしい。リシェルは、そう思いたかった。
宮廷の誰もが、彼女をただの少女として扱わなかった。帝国の切り札。宗教国家が恐れる聖母。連邦が観測する異常値。兄が憎む化け物。
そして今、そばにいるのは人間ではない女騎士二人だけ。その事実が、妙におかしかった。
「姫様」
ヴェラが振り返る。
「体温低下を確認。保温措置を提案します」
「いい。大丈夫」
「大丈夫ではありません」
「大丈夫って言ったら、少しだけ大丈夫になるの」
イリスが顔を上げた。
「発言による体温上昇は確認できません」
「気分の問題よ」
「気分は生存率を上げません」
「下げることはあるでしょう?」
イリスは一拍置いた。
「あります」
「じゃあ大事」
リシェルはそう言って、笑った。笑うと唇がひび割れて痛かった。ヴェラが自分の外套を外そうとする。
「待って。あなたの装備でしょ」
「私には寒冷感覚はありません」
「でも、雪が積もってる」
「清掃可能です」
「そういう問題じゃないわ」
ヴェラは無言で外套をリシェルの肩にかけた。重い。布ではなく、何か小さな城壁を背負わされたような重さだった。
「……重い」
「防弾層入りです」
「知りたくなかった」
だが暖かかった。金属と人工筋肉の匂いがする。宮殿の香水や燭台の匂いではない。けれど、リシェルにとってはずっと安心できる匂いだった。
そのとき、腹が鳴った。「きゅるるーるる」。雪原に、たいへん正直な音が響いた。リシェルは固まる。ヴェラが即座に言う。
「姫様。腹部から異音を確認、爆発物では?」
「言わなくていい! 調べなくていい!」
イリスが端末から目を離す。
「空腹音です。緊急度は中程度」
「分類しないで!」
リシェルは頬を赤くした。
「仕方ないでしょう。昨日からほとんど食べてないんだから」
「携行栄養剤があります」
ヴェラが腰の収納部から銀色の小さな包みを出した。リシェルはそれを見た。
「それ、あなたたち用よね?」
「はい。人工筋肉の補助燃料です」
「人間が食べたら?」
「推奨しません」
イリスが即答した。
「姫様の消化器官では処理不能です。最悪の場合、救命処置が必要になります」
「……ん……ん……最悪すぎるわ」
リシェルは小さくため息をつく。その瞬間、ヴェラが剣の柄に手をかけた。
「接近反応」
雪の向こうから、数人の人影が現れた。軍服ではない。宗教国家の法衣でもない。ぼろぼろの防寒布をまとい、旧式の銃や刃物を持っている。痩せていた。飢えているように見えた。けれど、その目だけはやけに強い。先頭に立つのは、リシェルより少し年上の少女だった。短く切った栗色の髪。頬に傷。
首元に、何かを抉り取ったような古い痕がある。少女はリシェルの金髪を見て、少し目を細めた。
「……その髪。二人の護衛、帝国の姫、だよね」
ヴェラが銃口を向ける。
「所属を述べてください」
少女は肩をすくめた。
「そんな立派なもんじゃない」
「武装解除を」
「そっちの黒いお姉さんが剣を下ろしたら考える」
「不可」
「じゃあ無理」
少女は笑った。怖がっていない。いや、違う。リシェルには分かった。少女は怖がっている。でも、怖がりながら立っている。リシェルは一歩前へ出ようとした。ヴェラが制止する。
「姫様」
「大丈夫」
「根拠は」
「……お腹が鳴った人間を、いきなり撃つ人には見えない」
「根拠として不十分です」
その直後、またリシェルの腹が鳴った。「きゅるるーるる」今度はさっきより大きかった。沈黙。少女が吹き出した。
「なるほど。お姫様でも腹は鳴るんだ」
「忘れて!」
「無理。今のは結構いい音だった」
リシェルは顔を覆った。
「姫様の威厳が二十七パーセント低下しました」イリスが冷静に言う。
「数値化しないで!」
少女は笑いながら、背負い袋から硬そうなパンを取り出した。
「食料、欲しいでしょ」
ヴェラの銃口は下がらない。
「目的は」
「取引。あんたたち、宗教国家に追われてる。連邦にも見つかりたくない。違う?」
リシェルは少女の心を読もうとした。だが、読み切れなかった。少女の心には、恐怖と飢えと疲れがあった。けれど、その奥に硬い壁のようなものがある。隠しているのではない。隠す訓練を受けている。いや、隠さなければ生きられなかったのだ。
「あなたは?」
リシェルが尋ねる。少女は自分の首元の傷を指で叩いた。
「ミナ。元パノプティコン連邦市民。今は違法存在」
「違法存在?」
「パノプティコン連邦の管理チップを抜いた人間は、皆そう呼ばれる」
ミナはパンを放った。ヴェラが空中で掴み、毒物検査を開始する。
「毒性反応なし」
「疑り深いね」
「姫様の安全のためです」
「おっいいじゃん。姫さん大事にされてるねー」
ミナの声には、ほんの少しだけ羨望が混じっていた。リシェルはそれを読んでしまい、胸が痛んだ。
「私たちは《ノイズ》」
ミナは言った。
「管理されることを拒んだ人間たち。連邦から見ればバグ。宗教国家から見れば迷える罪人。帝国から見れば……たぶん、面倒な難民」
「どうして私たちを助けるの」
「助けるってほど優しくない。ただ、敵の敵は今だけ客ってこと」
ミナは高架橋の奥を指した。
「来なよ。地下に街がある。火もある。スープもある。寝床は硬いけど、雪の上よりマシでしょ」
リシェルはヴェラとイリスを見た。ヴェラは首を振る。
「危険です」
イリスも言った。
「罠の可能性を排除できません」
「でも、ここにいても死ぬわ」
「それは事実です」
「ではどうするのが最適?」
イリスは黙った。リシェルはミナを見る。人の心は嘘をつく。嘘をつくし、裏切るし、怖がる。けれど、それでも。パンを差し出した手の温度まで、嘘とは思いたくなかった。
「行くわ」
ヴェラがリシェルを見た。
「姫様」
「命令じゃない。お願い。私と一緒に、信じてみて」
ヴェラは答えなかった。ただ、銃口を少しだけ下げた。イリスはミナを観察しながら言う。
「警戒しながら同行します」
「それで十分、心配ないさー!」
ミナはにやりと笑った。
「歓迎するよ、お姫様と、やたら重そうな騎士様たち」
「重そうではありません」
ヴェラが低く言った。
「実際に重いです」
イリスが補足した。
「そこ補足しなくていい」
リシェルはパンを受け取り、小さくかじった。硬い。味も薄い。けれど、泣きそうになるほどおいしかった。雪はまだ降っていた。その白い世界の奥に、リシェルの知らない灯がある。帝国でも、宗教国家でも、連邦でもない。管理されることを拒んだ人々の、小さな灯が。
地下への入口は、崩れた高架橋の支柱の中に隠されていた。ミナが錆びた金属板を外すと、そこには人一人がようやく通れるほどの穴が開いていた。奥から、湿った空気と油の匂いが流れてくる。
「狭いから、順番に」
ミナが言った。リシェルは入口を覗き込む。暗い。かなり暗い。
「……ここに入るの?」
「そう」
「人間用?」
「たぶん」
「たぶん?」
「昔の点検路を勝手に使ってるから、正確には知らない」
リシェルはヴェラを見上げた。
「ヴェラ、通れる?」
「装備を一部解除すれば可能です」
「もし途中で詰まったら?」
「壁を破壊します」
「やめて。隠し通路が隠し通路じゃなくなる」
イリスが先に屈み、入口を走査した。
「爆発物なし。毒性ガスなし。ただし、通路幅はヴェラの肩幅に対して余裕二・八センチです」
「本当にぎりぎりね」
ヴェラは無言で肩の装甲を外した。ミナがその様子を見て、目を丸くする。
「へっ? それ、服じゃないんだ」
「装甲です」
「人間っぽいのに?」
「人間ではありません」
ヴェラは淡々と言った。リシェルは眉を寄せる。
「でも、名前はヴェラよ」
ミナがリシェルを見る。
「それ、違いある?」
「あるわ」
「どんな?」
リシェルは一瞬、答えに迷った。どんな違いか。うまく説明できない。けれど、答えられないからといって、違いがないことにはならない。
「私が、そう呼びたいの」
リシェルは言った。ミナは黙り、やがて笑った。
「変なお姫様」
「よく言われる」
「言われるんだ」
「主にイリスに」
「事実の指摘です」
イリスが真顔で答えた。地下通路は冷たかった。狭く、暗く、壁には古いケーブルが無数に這っている。どこかで水が滴り、遠くで低い機械音が鳴っていた。ミナたちは慣れた足取りで進む。彼らの首元には、全員同じような傷があった。チップを抜いた痕。リシェルはそれを見ないようにしようとして、結局見てしまう。
痛かっただろう。怖かっただろう。でも、それ以上に、彼らは何かから逃れたかったのだ。
「気になる?」
前を歩くミナが言った。
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ。目立つし」
「それ、痛かった?」
「すごく……すごく」
ミナは軽く答えた。
「麻酔なんて貴重品ないからね。三人がかりで押さえられて、古い手術機で切った。死ぬかと思った」
「どうしてそこまでして」
「静かすぎたから」
「静か?」
リシェルは思わず聞き返した。静けさは、リシェルにとって救いだった。ヴェラとイリスのそばだけが静かだから、息ができる。ミナは暗い通路の先を見つめた。
「連邦の街はきれいだよ。道にゴミは落ちてない。犯罪も少ない。子供は決まった時間に寝て、老人は決まった施設で死ぬ。朝起きたら感情指数を申告する。悲しみが多ければ調整される。怒りが強ければ面談。愛着が過剰なら矯正」
彼女の声は淡々としていた。だが心の奥で、何かが震えている。
「静かなんだ。誰も叫ばない。誰も殴らない。誰も泣かない」
「それは……いいことじゃないの?」
「そう思うでしょ」
ミナは立ち止まった。首元の傷を指でなぞる。
「でもね、お姫様。誰も泣かない街では、誰かがいなくなっても、世界は少しも乱れないんだ。
誰も笑わない、愛さない、全ての感情の起伏は、誤差として処理されるの……」
リシェルは何も言えなかった。ミナはまた歩き出す。
「わたしの弟、リオっていうんだけど」
その名前を口にした瞬間、ミナの心が大きく揺れた。悲しみ。怒り。それから、消せなかった愛情。
「六歳で、愛着傾向が強すぎるって判定された。母さんから離れられなかっただけなのに。矯正の後、弟は泣かなくなった。母さんが死んだ日も、泣かなかった」
「リオは、今」
「連邦にいる」
ミナは短く答えた。
「……生きてる。たぶん健康。たぶん安全。たぶん幸せって記録されてる」
「たぶん?」
「だって、もう何を感じてるのか分からないんだもん」
ミナは笑った。けれど、その笑顔は痛かった。
「それが正しい社会なら、わたしは間違いでいい」
通路の奥に、小さな光が見えた。
「だから、私は私の意志で《ノイズ》になった」
リシェルは胸の奥を押さえた。宗教国家は、孤独を終わらせると言った。連邦は、悲しみを調整するという。どちらも、苦しみを消そうとしている。でも、苦しみを消した後に残るものは何なのだろう。
「姫様」
ヴェラが低く呼んだ。
「心拍が上昇しています」
「うん」
「戻りますか」
「戻る場所がないわ」
リシェルは、暗い通路の先の光を見た。
「だから、進む」
その光は小さかった。でも、確かに人の気配がした。泣く声も、笑う声も、怒鳴る声も、鍋の煮える匂いも。静かではない。雑音だらけの灯。ミナが金属扉を叩く。
「開けて。《ノイズ》帰還。客あり」
内側から、誰かが言った。
「客? また拾ったのか」
「今度はお姫様」
「は? なんだそりゃ」
扉が開いた。暖かい空気が流れ出す。リシェルは思わず目を細めた。そこには、地下に隠れた小さな街があった。




