第4話 亡国の姫
「やめて!」
リシェルは走った。ヴェラが止めようとする。リシェルは振り切った。怖い。兄が怖い。黒い声が怖い。それでも、目の前で兄が壊れるのを見たくなかった。
「兄様!」
ホスローの手首から血が一筋流れた。その血が獅子環に触れる。黒い光が弾けた。部屋の床が割れ、赤い衝撃波が広がる。ヴェラがリシェルを抱えようとしたが、間に合わない。リシェルの身体が吹き飛び、台座へ叩きつけられた。息が止まる。手の中から、焦げた帝国詩集が滑り落ちた。ホスローがそれを見た。ほんの一瞬、黒い濁りの下から、昔の兄の顔が戻った。
――まだ、持っていたのか。その心の声だけは、嘘ではなかった。
「兄様」
リシェルは床に手をつき、立ち上がろうとする。
「戻ってきて」
ホスローの唇が震えた。
「戻る場所など、私にはない」
「ある」
「どこに」
「少なくとも、私の中にはある」
ホスローの顔が歪む。泣きそうだった。でも、黒衣の首領が彼の耳元で囁く。
「聞くな。妹はお前の心を奪う」
ホスローの瞳が再び濁った。リシェルは歯を食いしばる。
操らない。
殺させない。
でも、奪われもしない。
「私は兄様を操らない。殺させもしない。でも、兄様の玉座のために差し出される気もない」
リシェルは獅子環へ手を伸ばした。黒い光が指先を焼く。
痛い。でも、手を離さない。イリスが即座に解析する。
「皇族血統認証、姫様に反応。汚染信号を上書き可能です」
「どうすればいいの!」
「握って、名乗ってください」
「それだけ?」
「古い帝国式です。かなり大雑把です」
「うちの国、そういうところあるわね!」
リシェルは獅子環を握りしめた。血がにじむ。黒い光の中に、金色の紋章が浮かび上がった。
「リシェル・ヴァルハイト」
彼女は叫んだ。
「私は、誰かの供物じゃない!」
獅子環が金色に輝いた。黒い紋様が砕ける。黒衣の者たちが悲鳴を上げ、床へ倒れた。ホスローの身体も、糸が切れたように膝をつく。リシェルは駆け寄ろうとした。しかし、ホスローは手で制した。
「来るな」
「兄様」
「その目で見るな」
彼は震えながら立ち上がる。黒衣の残党が彼を支えた。リシェルは分かった。今は届かない。でも、完全に失ったわけではない。ホスローは最後に、床に落ちた帝国詩集を見た。
「そんなもの、捨てろ」
「捨てない」
「私からもらったものだぞ」
「だからよ」
ホスローの表情がまた歪んだ。彼は何かを言いかけ、言わなかった。黒衣の者たちと共に、奥の隠し扉へ消えていく。リシェルは追わなかった。追えなかった。ヴェラがそばに立つ。
「追跡しますか」
リシェルは首を振った。
「今は、みんなを逃がす」
イリスが獅子環を確認する。
「認証具、確保。使用可能です」
リシェルは焦げた帝国詩集を拾った。表紙の端が焼け、ページのいくつかは破れている。でも、まだ読める。胸元に抱くと、痛んだ。
「兄様を助けられなかった」
「まだ終わっていません」
イリスが言った。
「生存しています」
「そうね」
リシェルは深く息を吸った。
泣くのは後だ。今は、進む。
「行こう。礼拝堂へ」
ヴェラとイリスが頷いた。
「はい」
「リシェルと共に」
リシェルは獅子環と焦げた詩集を握りしめ、燃える宮殿の奥へ走り出した。
西翼礼拝堂は、燃えていなかった。壊す必要がないからだ。祈りの場所は、別の祈りで塗り替えればよい。リシェルたちは、祭壇下の地下通路へ向かうはずだった。
祭壇の前に、一人の女騎士が立っていた。淡い金髪をきつく結び、白銀の甲冑と長槍をまとっている。胸元には宗教国家の太陽章。帝国軍が最も警戒していた第一聖騎士、ルシアン・アルディスだった。
リシェルは一目で理解した。この人は刺客ではない。祈りそのものが、剣を持って立っている。
「リシェル・ヴァルハイト殿下」
ルシアンの声は澄んでいた。
「あなたを迎えに来ました」
「迎え?」
リシェルは本を胸に抱いたまま答えた。
「ずいぶん物騒なお迎えね。宮殿を燃やして、街を奪って、人を縛って」
「帝国は病んでいます」
ルシアンは静かに言った。
「その病を取り除くために、浄化が必要です」
「病んでる国を燃やしたら、健康になるの?」
「燃やしているのは罪です」
「人を縛るのも?」
「迷いは人を傷つけます」
「人は迷うものよ」
リシェルの声が少し強くなった。
「迷って、間違えて、それでも誰かに渡すの。さっき、そう教えてもらったわ」
ルシアンの瞳が揺れた。リシェルはそれを読んだ。彼女の心は、驚くほど澄んでいた。そこに私欲はない。出世欲もない。リシェルを利用したいという思いもない。あるのは、ただ一つ。世界を平和にしたい。それだけだった。
「あなたは、私を殺しに来たの?」
「いいえ」
ルシアンは即答した。
「あなたを救済の場へ連れて行くために来ました」
「救済って、教祖様のところ?」
「はい」
「その教祖様は私をどうしたいわけ?」
ルシアンは沈黙した。
「孤独は終わります」
その言葉は、優しかった。優しい鎖の音がした。
「人の心が読めるあなたは、誰より苦しいはずです。悪意、恐怖、嫉妬、憎悪。そんなものを聞き続けて、普通でいられるはずがない」
「普通じゃないわ」
リシェルは言った。
「それは分かってる」
「ならば」
「でも、私の孤独は、あなたに預けるものじゃない」
ヴェラが前に出た。
「姫様の進路を妨害するなら、排除します」
ルシアンはヴェラを見た。
「機械か。こちら側の機体認識番号は確か、Unit-09」
「ヴェラです」
短く答えたのは、リシェルだった。
「名前を?」
「当たり前でしょう」
「兵器に名を与えるのですか」
「あなたは、自分の槍に名前をつけないの?」
ルシアンは答えなかった。その沈黙の奥に、リシェルは小さな戸惑いを感じた。ヴェラが剣を抜く。ルシアンも聖槍を構えた。次の瞬間、二人が消えた。いや、消えたように見えただけだ。ヴェラは重さで踏み込み、床を砕く。ルシアンは軽さで滑り、槍先で軌道をそらす。剣と槍がぶつかった瞬間、礼拝堂の窓が震えた。
ヴェラが力で押す。ルシアンは受け流す。聖槍が弧を描き、ヴェラの肩を掠めた。黒い軍装が裂け、その下の人工皮膚と装甲が火花を散らす。
「ヴェラ!」
「軽微損傷です」
ヴェラは即座に踏み込む。拳。直撃すれば人間の身体など原形を留めない。だがルシアンは、背部ユニットを展開した。白銀の光が翼のように広がり、彼女の身体が空中へ跳ぶ。槍が上から落ちる。イリスの防壁が展開し、ぎりぎりで受け止めた。《オービット》が三機、円を描き、聖槍の軌道を削るように撃つ。光と火花が礼拝堂に散った。
ステンドグラスが割れ、色のついた破片が雨のように降る。ヴェラの黒い装甲に赤や青の光が映り、ルシアンの白銀の鎧が火花の中で翼のように広がる。まるで神話と兵器が、同じ祭壇で殴り合っていた。
「あなたは、命令で動いているのではないのですか」
ルシアンが問う。ヴェラは剣で槍を押し返した。
「最初は、そうでした」
リシェルの胸が止まりかけた。ヴェラは続ける。
「今は、違います」
礼拝堂が静まった。ルシアンの心に、小さな亀裂が入る。その瞬間、奥で爆発が起きた。ギルベルトの声が通信機から飛び込む。
『殿下、聞こえますか。礼拝堂奥、祭壇下に緊急昇降路があります。急いでください』
ヴェラがリシェルを抱え上げ、祭壇へ走る。イリスが防壁を展開し、ルシアンの槍を受け止める。
「イリス!」
「軽微損傷です。ヴェラと同じ表現を採用します」
「そういう冗談、今じゃない!」
「冗談として成立しましたか」
ヴェラが祭壇を蹴り壊す。石床が割れ、地下へ続く昇降路が現れた。ルシアンが追おうとする。だが、リシェルは最後に振り返った。
「ルシアン」
名前を呼ばれ、聖騎士が止まる。
「私は、神様になりたくない」
ルシアンの瞳が揺れた。
「聖母にも、神敵にもなりたくない。ただのリシェルでいたい」
扉が閉じる寸前、ルシアンの心が届いた。
――もし、あれが怪物なら。
――なぜ、あんな顔をする。
昇降路が暗闇へ落ちていく。祈りは優しい。けれど、誰かの心を縛るなら、それは鎖になる。リシェルはその夜、初めてそれを知った。
地下昇降路の底には、古い鉄の匂いがした。白銀宮殿の地下に広がる緊急避難路は、帝国がまだ強国だった時代に造られたものだという。壁には古い配管が走り、天井の灯りは半分以上が消えている。通信機が鳴った。
『殿下』
「ギルベルト!」
リシェルは通信機を握りしめた。
『無事ですね』
「そっちは?」
『質問の優先順位が逆です』
「答えて」
通信の向こうで、短い沈黙があった。
『帝都防衛線は崩壊しました。皇帝陛下は西地下宮へ移送中。私は第三隔壁で合流します』
「お父様は無事なの?」
『……生きておられます』
生きている。その言葉に安堵するより先に、リシェルは気づいた。ギルベルトは、無事とは言わなかった。リシェルの前に、イリスが立つ。
「姫様。今の優先順位は、生存です」
分かっている。分かっているけれど、胸が痛かった。第三隔壁に着くと、ギルベルトが待っていた。黒い宰相服は破れ、額には血が滲んでいる。手には軍用拳銃。腰には、似合わないほど古い剣。
「殿下」
「ギルベルト!」
リシェルは駆け寄ろうとして、途中で止まった。彼の心が聞こえたからだ。
――ここまでだ。
――私はここで残る。
「嫌」
リシェルは言った。ギルベルトは苦笑した。
「まだ何も言っていません」
「聞こえた」
「便利ですね。その力は」
「便利じゃない!」
「この隔壁を閉じなければ、追手は地下鉄道まで来ます」
「ヴェラがやる」
「ヴェラ殿は殿下を守るために必要です」
「イリスが」
「同じです」
「じゃあ、私が――」
「それが一番あり得ません!」
ギルベルトの声が、初めて強くなった。
「私を外交の手札にするんじゃなかったの」
「ええ」
「なら、逃がすより使えばいいじゃない。ここで私が敵を止めれば」
「殿下」
ギルベルトは、初めて真正面からリシェルを見た。その目に、恐怖はなかった。覚悟だけがあった。
「私はあなたの力を、何度も政治の道具として数えました。そのたびに、自分を嫌悪しました。それでも、帝国を守るためなら使うつもりでした」
彼の心は、痛いほど清潔だった。
「ですが、今だけは違います」
ギルベルトは膝をついた。
「リシェル殿下。どうか、生きてください。帝国のためではありません。政治のためでもありません」
彼は続けた。
「あなた自身のために」
リシェルの目に涙が浮かぶ。
「そんなの、ずるい」
「政治家なので」
「今、冗談言うところじゃない」
「申し訳ありません。慣れていません」
隔壁が動き始めた。リシェルは離れない。ヴェラが後ろからリシェルを抱えた。
「嫌! ヴェラ、離して!」
「できません」
「命令よ!」
ヴェラの腕が震えた。
「申し訳ありません」
初めてだった。ヴェラが、リシェルの命令に逆らった。
「姫様に生きていただきます」
隔壁の向こうで、ギルベルトが立ち上がる。
「ヴェラ殿。感謝します」
「感謝は不要です」
「では、命令です」
ギルベルトは笑った。
「殿下を頼みます」
隔壁が閉じる直前、彼はリシェルに言った。
「殿下。……どうかご無事で」
リシェルは声を上げて泣いた。隔壁が閉じた。銃声。爆発音。通信が乱れる。地下鉄道の古い車両が動き出す。宮殿から離れていく。帝都から離れていく。リシェルの国から離れていく。車窓の向こうに、白銀宮殿が見えた。燃えていた。金色の謁見室も、寝ぐせを直された部屋も、砂糖菓子を分けた朝も、すべてが炎の中へ沈んでいく。リシェルは胸に焦げた詩集を抱きしめた。
「私は、戻らない」
ヴェラとイリスが、同時にリシェルを見た。リシェルは燃える帝都を見つめたまま続ける。
「今戻れば、私は帝国の切り札になる。宗教国家に捕まれば、聖母にされる。兄様に渡れば、玉座の道具にされる。誰かの正しさのために、私の心が使われる」
声は震えていた。でも、途切れなかった。
「私は、聖母にも神敵にもならない。帝国の武器にもならない。私は、リシェルとして生きる」
それは逃亡ではなかった。初めて、自分で選んだ逃走だった。ヴェラは静かに膝をついた。
「姫様の選択を守ります」
イリスも頷いた。
「新規目標を登録。リシェル・ヴァルハイトの人格的自立の保護」
「言い方が硬い」
「修正します」
イリスは少し考えた。
「姫様を、リシェル様のまま守ります」
リシェルは泣きながら笑った。
「うん。それがいい」
遠い空の彼方。雲の上を、冷たい観測衛星が通過していく。燃える帝都。逃げ延びる三つの熱源。その映像は、まだ誰にも知られない場所へ送られた。記録には、ただ一行だけが残る。
――観測対象、リシェル・ヴァルハイト。異常値を確認。
だが今のリシェルは、そんなことを知らない。ただ、燃える故郷を見つめながら、二人の手を握っていた。ヴェラの手は硬く、重かった。イリスの手は冷たく、静かだった。それでも確かに、そこにあった。
「行こう」
リシェルはかすれた声で言った。ヴェラとイリスが答える。
「はい」
「リシェル様と共に」
車両は夜の地下を抜け、雪の降る北へ向かって走っていく。亡国の姫の逃避行が、始まった。




