第3話 玉座は血で開く
■リシェル・ヴァルハイト
人の心を読む力を持つ十四歳の皇女。
【心を読む力】
リシェルが持つ特殊能力。人の本音や感情が聞こえる。また、複数の相手に感情と思考を伝播できる。
誰の本音も聞こえてしまうため、人に囲まれるほど孤独になる。
【機械仕掛けの女騎士】
ヴェラとイリスは、かつて帝国が開発した戦闘型アンドロイド。身長177cm、体重173kg。外見は人間の女性と変わらないが、内部は高密度人工筋肉と金属骨格で構成されている。リシェルにとっては唯一心の声が聞こえない存在。
▪️ヴェラ
黒髪の女騎士。前線戦闘を担当する重装型。圧倒的な出力と防御力を持ち、敵の攻撃を正面から受け止める「盾」のような存在。不器用だが誠実で、猫に弱い。
▪️イリス
銀髪の女騎士。索敵・分析・支援を担当する戦術型。浮遊兵器を操り、戦況を制御することを得意とする。冷静沈着だが、健康管理には異様に厳しい。
■ギルベルト
ヴァルハイト帝国宰相。現実主義者だが、リシェルの能力と人格を高く評価している。
■ホスロー
リシェルの異母兄。皇位継承権を持つ第一皇子。
【世界背景】
●ヴァルハイト帝国
リシェルの祖国。人類文明の技術を受け継ぐ大国。
●ソル・テオクラシー
強大な信仰によって統治される宗教国家。人々を救済へ導くことを使命としている。
●パノプティコン連邦
合理性と管理を重視する超科学国家。感情や社会までも数値化して管理する。
人の心を読む亡国の姫。
心を読めない二人の機械騎士。
そして、それぞれ異なる「正しさ」を掲げる三つの国家。
これは、自分の居場所を探す少女の物語である。
戦を告げる鐘は、夜になっても鳴りやまなかった。白銀宮殿の回廊には、油と金属と人の汗の匂いが満ちていた。侍従たちは燭台を片づけ、衛兵たちは窓を封鎖し、宮廷医師たちは皇帝の寝所と地下退避路を行き来している。リシェルは、宮殿西翼の退避室へ向かっていた。右にヴェラ。左にイリス。いつもの配置だ。
けれど、いつもの朝とは違った。床を踏むヴェラの足音が、今日は重い。イリスの視線は絶えず天井、窓、曲がり角、衛兵の手元を移動している。
そしてリシェルの頭の中では、宮殿中の心が叫んでいた。
――母を探せ。
――逃げ道はどこだ。
――東門が破られたら終わりだ。
――姫を渡せば、助かるのでは。
その声に、リシェルは胸を押さえた。吐き気がする。
「姫様。歩行速度が低下しています」
イリスが静かに告げる。
リシェルが弱音を吐く。
「ごめん。足が……その、ちょっと休暇を申請してる」
「足に休暇制度はありません」
「却下が早いわね」
リシェルは笑おうとしたが、うまくいかなかった。次の瞬間、イリスの瞳が鋭く細まった。
「停止してください」
リシェルは反射的に足を止める。廊下の先。白い壁に、影が三つ映った。衛兵ではない。黒い外套。胸元に、燃える太陽を模した聖印。ソル・テオクラシー。宗教国家の刺客だった。
「神敵確認」
一人が低く呟いた。その心の声が、リシェルへ流れ込む。
――殺すな。
――傷つけるな。
――聖母を捕らえよ。
聖母。その言葉の意味を考える前に、ヴェラが前に出た。
「姫様の前から退け」
黒衣の刺客たちは答えなかった。代わりに、袖から白い釘のようなものを抜いた。金属ではない。骨のように白く、先端に小さな赤い宝石が埋め込まれている。イリスが即座に分析する。
「精神干渉抑制具。対象は姫様です」
「私用の首輪ってこと?」
「表現は不快ですが、概ね正確です」
「じゃあ、なおさら嫌ね」
刺客たちが動いた。人間の速度ではない。肉体強化を受けている。廊下の壁を蹴り、天井を走り、三方向からリシェルを狙う。だが、ヴェラはそれより速かった。黒い軍装の裾が揺れる。たった一歩。それだけで彼女は刺客の正面にいた。剣が抜かれた音は聞こえなかった。
白い閃光が走り、刺客の持っていた聖釘が空中で砕け散る。続けてヴェラの拳が男の腹に沈んだ。肉を潰す音はしなかった。代わりに、壁が爆ぜた。
刺客の身体が廊下の反対側へ叩きつけられ、白い大理石に蜘蛛の巣状のひびが広がる。燭台が一斉に跳ね、火の粉が夜の空気に散った。リシェルは息を呑んだ。ヴェラは人を殺さなかった。殺せたはずだ。簡単に。でも、そうしなかった。
「非致死制圧完了……死者ゼロ」
ヴェラは低く言う。
「姫様が悲しむためです」
「まだ何も言ってないわ」
「事前対応です」
残る二人が、ヴェラを迂回してリシェルへ飛びかかる。イリスが右手を上げた。空中に薄青い防壁が展開する。防壁にぶつかった刺客の身体が弾かれ、その瞬間、イリスの肩から三機の《オービット》が飛び出した。青白い光が、廊下を縫う。手首。膝。肩。刺客の運動機能だけを奪い、命は奪わない。
「制圧完了」
イリスが淡々と言う。
「なお、ヴェラの床面損傷額は後日算出します」
「今それ必要?」
「必要ではありませんが、ギルベルト様が嘆く可能性が高いです」
その名前を聞いた瞬間、リシェルの胸が痛んだ。廊下の奥から、さらに足音が近づいてくる。一人や二人ではない。イリスが告げた。
「敵性反応、二十四。後方にも八。挟撃です」
「逃げ道は?」
「三つあります。最も安全なのは東側地下通路。最も危険なのは正面突破」
ヴェラが即座に言う。
「正面突破を推奨します」
「でしょうね」
リシェルは苦笑した。敵兵たちの心が近づいてくる。
――聖母を捕らえよ。
――神敵を膝まずかせよ。
――教祖様のもとへ。
殺意ではなく信仰。それが一番怖かった。
「やめて」
リシェルは小さく呟いた。誰にも届かないはずの声だった。けれど、心が反応した。廊下の先から走ってきた兵士たちが、足を止める。リシェルの意識が、彼らの心に触れたのだ。その瞬間、恐怖が流れ込んできた。祈り。陶酔。任務への高揚。そしてその奥にある、死にたくないという小さな叫び。リシェルの膝が揺れる。
「姫様!」
イリスが支えた。
「……大丈夫。少し、触っただけ」
「危険です。複数人への干渉は、姫様の精神境界を損傷します」
「でも、止められた」
「一秒だけです」
「一秒あれば、ヴェラが動ける」
ヴェラが剣を構えた。
「十分です」
黒い女騎士が床を蹴る。大理石が砕け、衝撃波が燭台を吹き飛ばした。ヴェラの一撃が敵の隊列を割り、イリスの防壁が後方の射撃を遮断する。《オービット》の光が青い軌跡を描き、赤い火の粉の中を駆ける。その中で、ヴェラの肩装甲が弾け飛んだ。宗教国家の聖弾が、黒い軍装を裂き、人工皮膚の下の金属を露出させる。
火花が散る。だがヴェラは止まらない。むしろ一歩踏み込み、盾を構えた兵士ごと回廊の柱へ叩きつけた。柱が割れる。天井から石片が降る。
それでも、リシェルの前には一発も届かない。
「ヴェラ!」
「軽微損傷です」
「絶対、軽微じゃない!」
「姫様が無事なら軽微です」
リシェルは泣きそうになった。だが、今は泣く時間ではない。
「行こう!」
ヴェラが戻ってくる。
「道を開けました」
「うん」
リシェルは頷いた。廊下の窓の外で、白銀宮殿の東塔が炎を上げた。白かった帝国の夜が、赤く染まり始めていた。
白銀宮殿の皇族区画は、まだ燃えていなかった。
ただし、無事ではない。壁に掛けられた歴代皇帝の肖像画は爆風で傾き、赤い絨毯には硝子片が散っている。天井灯は半分ほど落ち、白い大理石の床には、外から吹き込んだ煤が薄く積もっていた。リシェルはその回廊を走っていた。右にヴェラ。左にイリス。背後ではまだ銃声が響いている。宗教国家の刺客たちは、宮殿の構造を知っているかのように退避路を塞いでいた。
『殿下、聞こえますか』
通信機からギルベルトの声が入る。雑音がひどい。
「聞こえる!」
『西翼礼拝堂へ向かってください。祭壇下に緊急昇降路があります』
「分かった」
『ただし、古い皇族認証が必要です。皇族区画の《王冠の間》に、獅子環が保管されています』
「獅子環?」
『血統認証具です。殿下なら起動できます』
「私が取りに行けってことね」
『危険です。ですが、それがなければ礼拝堂の地下扉は開きません』
ギルベルトの心は遠すぎて読めない。けれど、声だけで分かった。彼は、行くなと言いたいのだ。でも、行けと言わなければならない。
「行くわ」
リシェルは即答した。
ヴェラが顔を向ける。
「姫様。敵勢力が集中している可能性があります」
「でも、取らなきゃ逃げられない」
「私が壁を破壊します」
「たぶん、帝国の古い地下扉はあなたでも無理よ。無理だった時、ギルベルトが化けて出るわ」
イリスが淡々と言う。
「ギルベルト様の幽霊は説教時間が長いと推定されます」
「絶対長いわね」
「回避を推奨します」
「じゃあ、行くしかない」
リシェルは走った。怖い。足は震えている。心の奥では、今すぐヴェラの腕の中に隠れてしまいたい自分がいる。それでも、選んだ。自分の足で。《王冠の間》は、皇族だけが入れる小さな儀礼室だった。リシェルは幼い頃、この部屋が嫌いだった。壁には戴冠式の記録画が並び、中央には、歴代皇帝が一時的に冠を置いたという白石の台座がある。子供の頃のリシェルには、そのすべてが
「いつか誰かを失う場所」に見えた。
扉の前で、イリスが停止する。
「内部に生命反応。八名」
「敵?」
「宗教国家の反応ではありません。熱源が不規則です」
ヴェラが剣を構えた。
「突入します」
「待って」
リシェルは扉に手を当てた。心の声が漏れてくる。知っている声があった。湿っていて、熱くて、傷ついていて、なのに傲慢な声。
――あの娘さえいなければ。
リシェルの胸が痛んだ。
「兄様がいる」
ヴェラの目が細くなる。
「ホスロー殿下を確認?」
「うん。でも、他にもいる。知らない声が混じってる」
黒い声。
宗教国家の祈りではない。もっと暗く、腹の底に沈むような声。
――玉座は血で開く。
――選ばれぬ王よ。
――妹を捧げよ。
リシェルは唇を噛んだ。
「開けるわ」
「姫様」
「大丈夫。操らない。殺させない。でも、逃げない」
ヴェラとイリスは何も言わなかった。
ただ、リシェルの左右に立った。
扉が開く。《王冠の間》の中には、黒い布をまとった者たちがいた。
宗教国家の法衣ではない。聖印もない。顔の半分を黒い仮面で覆い、胸元には、血で描いたような歪んだ冠の紋章がある。その中央に、ホスローが立っていた。
リシェルの腹違いの兄。豪奢な軍服は煤で汚れ、金に近い茶髪は乱れている。だが、手には古い金色の環を握っていた。獅子環。そして、もう片方の手に、小さな本を持っていた。リシェルは息を止めた。それは、古い帝国詩集だった。幼い頃、眠れない夜にホスローがくれた本。
――嘘のないものなら、怖くないだろう。そう言って渡してくれた、たった一つの優しさ。表紙の端は、火で焦げていた。
七歳の冬、リシェルは眠れずに廊下へ逃げ出した。扉の向こうから聞こえる侍女たちの悪意が怖くて、耳を塞いでいた。見つけたホスローは理由を尋ねなかった。ただ隣に座り、詩集をひどく下手な調子で読んだ。
『詩はいい。書いてあることしか言わない』
あの夜だけは、兄の心にも言葉にも、同じ優しさがあった。リシェルはそれを忘れられなかった。だから、目の前の男を黒い声だけの人間にはしたくなかった。
「兄様」
リシェルが呼ぶと、ホスローは笑った。笑顔なのに、泣いているような顔だった。
「来ると思ったよ、リシェル」
「その人たちは誰?」
「友だ」
嘘だった。心が叫んでいる。
――友ではない。
――だが、私を選んだ。
――父も廷臣も、妹の力を恐れながら頼った。誰も私を選ばなかった。こいつらだけが、私を王と呼んだ。
リシェルは一歩踏み出した。ヴェラが無言でついてくる。ホスローはその動きに顔を歪めた。
「止まれ、化け物の人形」
「ヴェラとイリスは人形じゃない」
「では何だ。友達か? 家族か? 機械を家族と呼ぶのか」
「呼ぶわ」
リシェルは即答した。ホスローの心が、鋭く裂けた。
――なぜだ。
――なぜ、機械にはそう言える。
――私には、そんな目を向けたことがないくせに。
リシェルは息を詰める。
「兄様」
「その声で呼ぶな」
ホスローの手が震えた。
「お前は、私の嘘を奪った」
「奪ってない」
「奪った!」
ホスローが叫んだ。
「兄として笑うことも、皇子として誇ることも、臣下の前で堂々と立つことも、全部その目で暴いた。お前の前では、私はいつも丸裸だった。嫉妬も、恐怖も、卑しさも、全部!」
リシェルは何も言えなかった。心を読めることは、リシェルにとって呪いだった。でも、読まれる側にも傷があったのだと、今さら思い知らされる。
「私は兄様の心を読みたかったんじゃない」
「詩集を読んでくれた夜みたいに、言葉で話したかったの」
ホスローの瞳が揺れた。古い記憶が、黒い声の底から浮かび上がる。
――あの子は、あの時だけ笑った。
兄の指が、詩集の焦げた表紙を強く押さえた。
リシェルは小さく言った。
「普通に、兄様って呼びたかっただけ」
ホスローの表情が崩れかけた。だが、黒衣の男が彼の肩に手を置く。
「惑わされてはなりません、選ばれぬ王よ」
その声が、空気を汚した。
「玉座は血で開く。読心の妹を捧げれば、帝国の冠はあなたのものとなる」
リシェルの心に、冷たいものが走る。ヴェラの剣が半分抜かれた。
「姫様への殺害意図を確認。排除します」
「駄目」
「しかし」
「駄目」
リシェルはヴェラを見た。
「兄様を殺さないで」
「黒衣の者は」
「殺さない。止めて」
ヴェラは短く黙り、頷いた。
「非致死制圧に変更」
イリスの肩から、三機の《オービット》が浮かび上がる。
「ホスロー殿下の精神反応に、第三者由来の暗示を検出。宗教国家式ではありません」
「やっぱり」
「解除しますか」
「私が?」
「可能です。強制干渉であれば、短時間で」
リシェルはホスローを見た。兄の心は黒い声に絡まれている。操れば、止められる。今ならできる。簡単だ。兄の恐怖を押さえ、嫉妬を眠らせ、短剣を床に置かせることもできる。でも、それをしたら。自分は本当に、兄の心を奪う化け物になる。
「しない」
リシェルは言った。
「私は兄様を操らない」
ホスローが目を見開く。
「哀れみか」
「違う」
「では何だ!」
「私が、そうしないと決めたの」
黒衣の者たちが動いた。袖から曲がった短剣を抜き、獅子環とリシェルを同時に狙う。ヴェラが前へ出た。重い一歩。床が割れる。黒衣の一人が刃を振るう前に、ヴェラの拳がその胸へ沈んだ。骨を砕かない角度。だが身体は真横へ吹き飛び、壁の肖像画ごと砕け散る。イリスの《オービット》が青白い光を引く。
短剣を持つ手だけを撃ち抜き、膝の腱を焼き、床に釘付けにする。悲鳴が上がる。だが誰も死なない。
黒衣の首領が笑った。
「甘いな、姫よ」
彼は自分の腕を切った。黒い血が床に落ちる。その血が、歪んだ冠の紋様を描いた。部屋の壁が震える。リシェルの頭の中に、声が流れ込んだ。
――玉座は血で開く。
――玉座は血で開く。
――玉座は血で開く。ホスローの目が濁る。獅子環が黒い光を帯びた。
イリスが叫ぶ。
「精神汚染、増大。ホスロー殿下が自傷行動へ移行します」
ホスローが短剣を自分の手首へ当てた。




