第2話 聖母を生かして連れてこい
帝国東部国境から、三本目の煙が上がった。
最初の一本は哨戒線の沈黙。二本目は補給拠点の陥落。三本目は、都市が炎に包まれた合図だった。
ヴァルハイト帝国参謀室の窓から、その煙は細い黒線にしか見えない。けれどリシェルには、遠い街の心が押し寄せていた。
――子供が、まだ家に。
――門を開けろ。
――神の軍なら、降伏すれば助かる。
胸の奥がひっくり返る。リシェルは戦況盤へ手をつき、倒れそうな身体を支えた。
参謀室の扉が開き、伝令兵が転がり込んだ。軍服の片側は焼け、握った通信筒から血が滴っている。
――妹を先に逃がせた。それだけでいい。
兵士の膝が折れる。ヴェラが床へ落ちる前に受け止めた。砲弾を掴む腕で、人間の身体だけは壊さない。
「医務室へ!」
リシェルが叫ぶと、参謀の一人が「報告が先です」と遮った。
「生きていなければ、次の報告はできません」
イリスが兵士の通信筒を受け取り、封印を走査する。
「東門は外から破られていません。内側の協力者が開放。現場に、歪んだ冠の印を確認」
リシェルは息を呑んだ。敵は国境の向こうだけにいるのではない。もう帝国の中へ入り、誰かの心に巣を作っている。
右後ろにヴェラ。左後ろにイリス。二人から心の声は聞こえない。その静けさだけが、濁流の中で足場になった。
「第三防衛線、通信途絶」
イリスの瞳に青い文字が走る。
「避難路東側、封鎖まで推定十八分」
「都市を守る兵を、避難路へ回して」
リシェルの声に、将軍たちが振り返った。
――子供が何を言う。
――だが、この姫には悲鳴が聞こえている。
――姫を差し出せば、侵攻は止まるのでは。
最後の声に、指先が冷える。それでも、リシェルは目を伏せなかった。
宰相ギルベルトが戦況盤の青い駒を動かす。
「第三防衛線を放棄。第六、第八連隊は北へ退け。都市ではなく、人を逃がせ」
将軍の一人が机を叩いた。
「東部都市を捨てれば、帝都への道が開きます!」
「都市に残れば、兵も民も焼かれます」
「宗教国家が、民を焼くと?」
ギルベルトは声を落とした。
「彼らは焼いているのではない。救っているつもりだ」
占領地で略奪はしない。負傷者へ薬を与え、飢えた者へパンを配る。そのあとで帝国語の看板を外し、本を集め、教祖の聖印を掲げる。
悪意だけの侵略なら、まだ分かりやすかった。本気の善意だからこそ、拒めば罪人にされる。
軍用受信機が甲高く鳴った。宗教国家の暗号回線を、イリスが強制的に開く。
『対象は金髪、葡萄酒色の瞳、十四歳。女性型護衛二体を伴う』
参謀室の全員が、リシェルを見た。
続く命令は、祈りのように穏やかだった。
『聖母を生かして連れてこい』
ヴェラがリシェルの前へ出る。黒い背中が、集まった視線を遮った。
「該当命令の実行を拒否します」
「当然よ」
「確認しました」
その短いやり取りで、リシェルは呼吸を取り戻した。
その命令が発せられた十数分前、ソル・テオクラシーの聖都では、数十万の民が同じ方向へ膝をついていた。同じ言葉、同じ抑揚、同じ祈り。白い大聖堂の最上階で、教祖マクシミリアンは帝国から奪った通信を聞いていた。
「避難を優先したそうです」
黒衣の司祭が報告する。
「民の苦しみを聞く乙女。金の髪、葡萄酒色の瞳。黒と銀の女騎士」
マクシミリアンは、古い聖母伝承を一行だけ指でなぞった。
「偶然にしては、よく似ています」
「民を導く器となりましょう」
「だからこそ、私たちのもとへ迎えねばなりません」
彼の憐れみは本物だった。人の悪意を聞き続ける少女を、心から救いたいと思っている。同時に、その少女へ祈りが移ることを許せなかった。
扉が開き、白銀の女騎士が入室する。淡い金髪を結び、純白の神官軍服と長槍をまとう第一聖騎士、ルシアン・アルディス。
「お呼びでしょうか、教祖様」
「帝国へ向かってください。リシェル・ヴァルハイトを連れてくるのです」
「抵抗した場合は」
「殺してはなりません。彼女は救済されるべき魂です」
ルシアンは頭を下げた。命令に迷いはない。それでも、十四歳の少女を本人の意思も聞かずに救うという言葉が、胸に棘を残した。
「個人の涙に心を奪われてはいけません」
教祖は優しく告げる。
「私たちは、世界の救済を見ているのです」
「……御心のままに」
ルシアンは立ち上がった。光の間を出る足音が、一歩目だけ遅れた。
帝国参謀室では、四本目の煙が上がっていた。
扉が乱暴に開き、ホスロー皇子が入ってくる。リシェルの腹違いの兄。金に近い茶髪を撫でつけ、戦場には不似合いなほど豪奢な軍服を着ていた。
「宰相。東部都市を放棄するなど、帝国の誇りを捨てる気か」
ギルベルトは表情を変えない。
「誇りで橋は守れません」
「言葉に気をつけろ。私は次期皇帝だぞ」
ホスローの心が、リシェルへ流れ込む。
――見るな。
――私が口にする前に、卑しさを暴くな。
リシェルは、心を閉じることができない。兄の嫉妬も劣等感も、玉座への欲望も聞こえてしまう。
「リシェル。お前はどう思う」
ホスローが戦況盤を指した。
「帝国の第一皇女として、敵に背を向けることを是とするのか」
――失言しろ。皆の前で幼さを晒せ。
リシェルは息を吸う。
「民が死ぬよりは、都市を捨てるべきです」
「臆病だな」
「はい。私は臆病です」
参謀室が静まった。
「人が死ぬのは怖い。燃える街の心を聞くのも怖い。だから、怖いまま決めます。都市より、人を逃がしてください」
ホスローの唇が歪む。
――また私より正しい顔をする。
――お前さえいなければ。
その奥に、兄のものではない声が混じった。
――玉座は血で開く。
――妹を捧げよ。
リシェルの背筋が凍る。
「兄様。誰と会っているの」
ホスローの心が激しく波立った。
――どこまで見た。
「何を言っている」
「兄様の心に、知らない声がある」
兄の顔から血の気が引いた。
「化け物め」
かすれた声だった。
「お前は、本当に気味が悪い」
ホスローは逃げるように参謀室を出た。追いかけたい。けれど戦を告げる鐘が鳴り、遠い避難民の悲鳴が頭を満たす。
リシェルはヴェラとイリスを見た。
「命令じゃないわ。お願い。二人とも、これから何があっても生きて」
「姫様の生存が最優先です」
「知ってる。でも、私だけ残っても嫌なの」
イリスの瞳に、新しい進軍経路が映った。赤い光点の一部が東部都市を外れ、帝都へ一直線に向かっている。
「敵先遣隊、民間拠点を通過。目的地を白銀宮殿へ変更」
彼らは国を奪うだけではない。
リシェルを迎えに来る。
ヴェラが剣の柄へ手を置いた。
「私たちは、姫様と共に生きます」
窓の外で、東の空が赤く燃えた。




