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第1話 刃が袖から落ちる三秒前

刃がヴィルム卿の袖から落ちる三秒前、リシェル・ヴァルハイトは彼の殺意を読んだ。


――今しかない。化け物を殺せ。


十四歳の第一皇女リシェルには、人の心が文字のように見える。笑顔の裏の嫉妬も、忠誠の底の打算も、目を閉じたところで消えてはくれない。


ただし、右に立つ黒髪のヴェラと、左に立つ銀髪のイリスからは、一文字も聞こえなかった。


二人は人間ではない。高密度人工筋肉と金属骨格で造られた、戦闘型アンドロイドの女騎士だ。心がないはずの二人のそばでだけ、リシェルは息をつける。


朝の謁見室では、宰相ギルベルトが連邦との通商条約を読み上げていた。


「リシェル殿下。ご意見を」


「条約は必要です。ただし、帝国技術の接収禁止条項を明記してください。連邦は善意ではなく、契約文だけを信じる国です」


謁見室がざわめく。


――姫まで連邦派か。


――いや、合理的だ。


――あの娘は危険だ。


――今しかない。


その最後の声に、リシェルは反応した。右列三番目。三男爵家の次席、ヴィルム卿。袖の内側に薄い刃。手首に汗。心拍が早い。心の中で、何度も同じ言葉を繰り返している。


――殺せ。化け物を殺せ。そうすれば、ホスロー殿下が拾ってくださる。


その瞬間、リシェルの視界が赤く滲んだ。廷臣たちの心が、一本一本の糸になって見える。恐怖は細く、嫉妬はべたつき、殺意だけが熱を持っていた。引けば止まる。ねじれば跪く。折れば、二度と彼らはリシェルを化け物と呼べない。


ほんの一瞬、そうしたいと思った。全員の膝を床につけさせ、笑顔の裏に隠した悪意を吐かせ、玉座の間を泣き声で満たしたいと思った。自分の中にそんな熱があることが、何より怖かった。


リシェルは目を伏せた。操れば止められる。操れば、この部屋の全員を沈黙させられる。けれど、それをした瞬間、彼らが恐れる化け物は本当に生まれてしまう。だから彼女は、糸を引かなかった。ただ、名前を呼んだ。


「ヴィルム卿」


男の肩が跳ねた。


「その袖のものを、床に置いてください。ゆっくりと」


謁見室が凍った。ヴィルム卿の唇が震える。否定しようとする。だが、心の声が先に崩れていた。


――なぜ分かった。なぜ。なぜ。なぜ。


「早く」


リシェルが静かに言うと、男の膝が折れた。右袖から細い刃が滑り落ち、大理石の床で乾いた音を立てる。次の瞬間、黒い影が爆ぜた。リシェルの右に立っていた女騎士、ヴェラ。黒髪を束ねた美しい女性に見えるが、その身体は高密度人工筋肉と金属骨格で編まれた戦闘型アンドロイドだ。


ヴェラが踏み込んだ床石は、砲撃を受けたように砕けた。百七十二キロの兵器が、音より先に男の横へ到達する。


黒い女騎士は、砲弾のようにヴィルム卿の横へ滑り込む。刃を蹴り飛ばし、男の腕を背中へ回した。骨は折らない。だが、逃げる余地もない。


「確保しました」


ヴェラの声は低く、無機質だった。リシェルには、それが誰よりも優しく聞こえた。左側に立つ銀髪の女騎士、イリスが静かに告げる。


「追加報告。廷臣二名に武装反応。殺意までは検出されませんが、逃走準備あり」


「イリス、逃走経路だけ塞いで」


「了解」


イリスの肩から三つの小型浮遊兵器《オービット》が滑るように浮かび上がった。青白い光を引きながら、謁見室の出口へ展開する。廷臣の一人が悲鳴を上げた。


「兵器を謁見室で!」


「兵器ではありません」


リシェルは即答した。その声は、自分でも驚くほど強かった。


「ヴェラとイリスです」


ヴェラは砕く。正面から受け止め、正面から押し返す。イリスは崩す。敵の視線、逃走経路、恐怖の流れまで読み、戦場そのものの形を変える。二人は同じ仕様で造られたはずなのに、リシェルにはまるで違って見えた。黒い盾と、銀の針。どちらも、彼女の名前を呼んでくれる唯一の静寂だった。


謁見室が、さらに静まる。ヴェラはふとリシェルを見た。イリスの《オービット》も、まるで瞬きをするように、光を揺らした。ギルベルトが咳払いをした。


「暗殺未遂犯を拘束。武器の出所を洗え。謁見は中止する」


衛兵たちが慌てて動き出す。リシェルは立ち上がろうとして、少しふらついた。人の心に触れすぎた。殺意と恐怖と混乱が、まだ耳の奥に残っている。


「姫様」


ヴェラが支える。


「大丈夫」


「大丈夫ではありません。顔色が低下しています」


「顔色は低下するものじゃないわ」


イリスが近づき、無表情で言った。


「精神感応負荷、軽度上昇。糖分摂取を推奨します」


「謁見室で?」


「姫様の枕の下に隠された砂糖菓子を回収済みです」


「えっ、いつの間に!」


「今朝です」


「返して!」


「健康管理上、制限します」


リシェルは泣きそうな顔でイリスを見た。


「イリス。あなた、敵国に買収されたの?」


「健康管理側です」


「最強の敵じゃない」


ヴェラの視線が、ふと窓の外へ動いた。リシェルも振り向く。東の稜線に、細い煙が上がっていた。一本ではない。二本。三本。その奥にも、薄く黒い線が増えていく。イリスの声が低くなる。


「国境第三哨戒線、通信途絶。第四哨戒線も応答ありません」


謁見室のざわめきが、恐怖に変わる。リシェルは胸の奥が冷えるのを感じた。暗殺未遂は、始まりでしかなかった。東の煙は、帝国が燃える合図だった。


その朝、リシェル・ヴァルハイトは暗殺未遂を防いだ。その一時間後、彼女は寝ぐせに負けていた。


「姫様。右側頭部の毛髪が反乱状態です」


イリスが櫛を構え、淡々と告げる。


「反乱じゃないわ。寝ぐせよ」


「規模と角度から見て、局地反乱です」


「髪の毛に政治用語を使わないで」


リシェルは私室の椅子に座らされていた。謁見室から戻り、少し休むはずだった。だが、鏡の前に座った瞬間、イリスの目が鋭くなった。理由は寝ぐせである。金髪の右側だけが、まるで小さな王冠のように立ち上がっていた。十四歳の皇女としては、かなり不名誉な冠だった。


「ヴェラ、助けて」


扉の前に立つ黒髪の女騎士は、真剣な顔でリシェルを見た。


「支援します」


そして一歩近づき、リシェルの口元を指差した。


「口元に糖分残滓を確認」


「そっちじゃない!」


「砂糖菓子です」


「知ってる! でも今は髪!」


イリスが櫛を入れる。引っかかった。


「交渉決裂」


「だから戦争にしないで!」


ヴェラがリシェルの口元についた菓子屑を指先でそっと取る。剣で装甲車を斬る時より慎重な動きだった。


「姫様。会議前の隠し菓子は、ギルベルト様に叱責されます」


「内緒にして。お願い」


「命令なら従います」


「命令じゃなくて、お願い」


ヴェラは一拍黙った。


「……了解しました。私は何も見ていません」


「ありがとう、ヴェラ」


「ただし、イリスは見ています」


「裏切り!」


イリスは無表情で頷く。


「私は正確に見ています。姫様は砂糖菓子を四個摂取済み。枕の下に残り一個」


「その情報、国家機密にして」


「健康管理上、公開可能です」


「公開しないで!」


ヴェラの足元に、小型の黒猫がすり寄った。宮殿の庭から迷い込んだ猫だった。リシェルが拾ってきたわけではない。断じて違う。ただ、昨日の夜に窓辺で震えていたので、少しだけミルクを置いただけだ。猫はヴェラの靴の上に乗った。ヴェラが固まった。


「ヴェラ?」


「移動不能です」


「えっ、故障?」


「猫がいます」


イリスが補足する。


「ヴェラは小動物接触時、優先順位が乱れます」


「初耳よ」


「記録上、過去にも三件あります」


「なんで教えてくれなかったの」


「姫様が笑いすぎる可能性があったためです」


「今、笑ってるわ」


リシェルは笑った。暗殺未遂。東の煙。廷臣の恐怖。全部がまだ胸の中に残っている。けれど、この部屋だけは少し違った。ヴェラとイリスからは、心の声が聞こえない。だから、彼女たちの言葉はそのまま届く。嘘も、裏も、値札もない。リシェルは枕の下から最後の砂糖菓子を取り出した。


「三人で分けましょう」


「私は食物摂取を必要としません」


イリスが言う。


「知ってる。でも、分けるの」


「栄養上の意味はありません」


「意味はあるわ。三人で食べたことになるもの」


ヴェラは猫を足に乗せたまま、リシェルの手元を見た。


「では、微量で」


「ヴェラ、本当に食べるの?」


「姫様が望むなら」


「無理しないでね。前に激辛スープを毒見して、無表情で全部飲んだでしょう」


「毒ではありませんでした」


「味覚は死んでたわよ」


イリスが小さく言う。


「その記録は思い出として保存されています」


「消して!」


「消去不可。姫様が笑っていました」


ヴェラは、皿の上の砂糖菓子を剣の柄で割ろうとした。皿が真っ二つになった。リシェルは悲鳴を上げ、イリスは破片の飛散角を即座に記録した。「ヴェラ、菓子は制圧対象じゃない!」


「申し訳ありません。脆弱でした」


「皿がね!」イリスは破片を拾いながら言った。「ヴェラは力の減算が苦手です。私は味の加算が苦手です」


「二人とも、日常が下手すぎるわ」リシェルは笑った。下手でもよかった。彼女たちが隣で失敗してくれるだけで、この部屋は三人の居場所になった。


その言葉に、リシェルは足を止めた。思い出。イリスが、そう言った。リシェルは砂糖菓子を三つに割った。不均等だった。自分の分が少し大きい。イリスが即座に見抜く。


「姫様の分が四十二パーセントです」


「誤差!」


「大きめの誤差です」


ヴェラが一番小さな欠片を取った。


「私はこれで」


イリスも薄い欠片を受け取る。


「味覚記録を行います」


「おいしい?」


イリスはしばらく黙った。


「……甘いです」


「それだけ?」


「口内で溶解。香料は花蜜系。糖分過多。健康管理上は非推奨」


「おいしいかどうか聞いてるの」


イリスはまた黙った。


「おいしい、に最も近いと思われます」


リシェルは笑った。


「そっか」


その時、遠くで鐘が鳴った。朝を告げる鐘ではない。戦を告げる鐘。ヴェラの表情が変わる。イリスの《オービット》が、無音で肩の周囲へ展開する。リシェルは砂糖菓子の残りを口に入れ、立ち上がった。


「行こう」


「姫様、寝ぐせが未鎮圧です」


「戦争が先!」


「寝ぐせのまま出撃しますか」


「……やっぱり三秒で直して!」


イリスの櫛が電光石火で走った。ヴェラは猫をそっと床に下ろす。黒猫は不満そうに鳴いた。


「ごめんね」


リシェルは猫に小さく手を振った。


「また戻ってくるから」


その言葉を、誰も否定しなかった。否定しないでくれたことが、怖かった。


その時、宮殿中の通信端末が一斉に白く点灯した。


『ソル・テオクラシー全軍に告ぐ。第一皇女リシェル・ヴァルハイトを傷つけてはなりません』


知らない男の声だった。穏やかで、祈りのように優しい。だからこそ、リシェルの背筋は凍った。


『聖母は、生きたまま神の座へお連れしなさい』


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