第10話 神敵は救済を拒む
■リシェル・ヴァルハイト
人の心を読む力を持つ亡国の皇女。帝国崩壊後は各勢力から追われながらも、自らの意思で生きる道を探している。
■ヴェラ
黒髪の機械仕掛けの女騎士。身長177cm、体重173kg。圧倒的な出力と装甲を誇る近接戦闘型アンドロイド。敵の攻撃を正面から受け止める「黒い盾」。
■イリス
銀髪の機械仕掛けの女騎士。身長177cm、体重173kg。浮遊支援兵器を操る戦術支援型アンドロイド。索敵、分析、護衛を得意とする「銀の針」。
■ルシアン・アルディス
宗教国家ソル・テオクラシーが誇る第一聖騎士。強大な実力と篤い信仰を持ち、教祖の命によってリシェルを追っている。
▪️これまでの話
帝国は滅び、リシェルたちは祖国を失った。
管理社会パノプティコン連邦は、予測不能な力を持つリシェルを危険視している。
一方、宗教国家ソル・テオクラシーは彼女を「聖母」として迎えようとしている。
そして第一聖騎士ルシアンもまた、教義に従いながらリシェルを追い続けている。
どちらの勢力もリシェルを必要としている。だが、リシェル自身が望むのは誰かの象徴になることではない。
聖母でもない。
兵器でもない。
ただの「リシェル」として生きること。
そのための旅は、まだ始まったばかりである。
巡礼市を抜けたのは、日が傾き始めた頃だった。三人は街外れの古い水道橋の下へ身を隠した。遠くではまだ、リシェルを聖母と呼ぶ人々の声が尾を引いている。リシェルは水路の石に腰を下ろし、頭を抱えていた。
「……やってしまったわ」
「はい」
イリスが即答した。
「そこは少し否定して」
「否定すると事実誤認になります」
「優しさは?」
「現在、適切な使用法を検索中です」
ヴェラが周囲を警戒しながら言った。
「姫様は迷子の子供を助けました。そこに誤りはありません」
「その結果、聖母になりかけたのよ。……少しだけ、歓声は気持ちよかったけど」
「なっていません」
「本当に?」
「少なくとも、私の中では」
ヴェラの言葉は短い。けれどリシェルには、それで十分だった。彼女は聖母でも神敵でもない。ただのリシェルだ。少なくとも、この二人の前では。その時、イリスの瞳が鋭くなった。
「接近反応。一名。高速」
リシェルが顔を上げる。水道橋の上に、白い影が立っていた。白銀の長髪。純白の神官軍服。背に折り畳まれた浮遊ユニット。そして、巨大な聖槍。ルシアン・アルディス。彼女は橋の上から、静かに三人を見下ろしていた。
「リシェル・ヴァルハイト殿下」
その声には、責める響きも怒りもなかった。ただ、重い決意だけがあった。
「あなたを捕らえに来ました」
ヴェラが即座に前へ出る。
「来るな」
「退いてください、黒き女騎士」
「ヴェラです」
ルシアンの目が動く。
「名で呼ぶのですね」
「当然でしょう」
リシェルは立ち上がった。
「この人はヴェラ。こっちはイリス。私の騎士よ」
「機械です」
「騎士よ」
リシェルは譲らなかった。ルシアンはしばらく黙った。
「あなたは本当に、伝承の通りなのですね」
「伝承なんて知らない」
「知らずに、民を救ったのですか」
「迷子を母親のところへ連れていっただけよ」
「それを民は奇跡と呼びます」
「迷子案内程度で奇跡扱いされるの、かなり困るわ」
リシェルは皮肉っぽく言ったが、声は震えていた。ルシアンの心は、以前感じた時と同じく澄んでいた。ただし、今はそこに迷いが混じっている。巡礼市でリシェルを聖母と呼んだ人々の報告を受けたのだろう。神敵を捕らえるはずの騎士が、神敵と伝承の聖母の間で揺れている。
「あなたは危険です」
ルシアンは言った。
「民の心は弱い。希望を見つければ、そこへ流れます。あなたが望まなくても、民はあなたを崇める」
「だから捕まえるの?」
「はい」
「あなたの国家のため?」
「世界のためです」
リシェルは少し笑った。
「みんな、それを言うのね。帝国も、宗教国家も、連邦も。世界のため。国のため。未来のため」
彼女は胸に手を当てる。
「私の心は、いつもその「ため」に使われる」
ルシアンの眉が動いた。ヴェラが剣を抜いた。ルシアンも聖槍を構える。
「退かないなら、制圧します」
「こちらも同じです」
二人が同時に動いた。黒い重さと、白い速さがぶつかる。ヴェラの踏み込みで地面が割れ、水道橋の石柱が震える。ルシアンは槍を斜めに滑らせ、その力を受け流した。金属音が谷に響く。リシェルは息を呑む。ヴェラは、人類の兵士では相手にならないはずだった。けれどルシアンは違う。彼女は機械ではない。人間だ。
それでも、戦えている。神経接続型重装甲が背で開き、白銀の光が翼のように広がる。ヴェラが正面から押し込む。ルシアンは受け流す。力ではヴェラ。
技ではルシアン。戦い方が違うのに、二人はどこか似ていた。どちらも、何かを守るために立っている。イリスがリシェルの前で防壁を展開する。肩から放たれた三機の《オービット》が、青白い光を引きながら防御円を描いた。
「姫様、後退を」
「ヴェラが」
「ヴェラは戦闘中です。信じてください」
信じてください。ノイズ・ネストを出てから、イリスはその言葉を使うようになった。リシェルは拳を握る。
「うん」
信じる。ただ守られるのではなく、任せる。ヴェラの剣がルシアンの槍と噛み合う。至近距離で、二人が睨み合った。
「あなたはなぜ戦う」
ルシアンが問う。
「姫様を守るためです」
「命令だから?」
ヴェラの瞳が、細くなる。
「最初は、そうでした」
リシェルの胸が熱くなる。ヴェラは続けた。
「今は違います」
ルシアンの心が揺れた。
――機械が。
――命令ではなく。
ヴェラが剣を押し込む。
「姫様が、姫様のまま生きるために戦っています」
ルシアンは一歩退いた。その言葉は、彼女の信仰に小さな穴を開けた。神のためでも、国のためでも、世界のためでもなく。ただ、一人の少女がそのまま生きるため。そんな戦い方を、ルシアンは教えられていなかった。彼女の脳裏に、幼い日の記憶がよぎる。燃える村。救ってくれた教祖の手。その手にすがった自分。
自分は確かに救われた。だから、その救いを疑うことは、自分の人生を疑うことと同じだった。けれど目の前の少女は、救われたくないと言っている。
消えたくないと言っている。イリスが煙幕を展開した。白い水蒸気が水道橋の下を満たす。
「撤退します」
イリスがリシェルの手を取る。ルシアンが槍を振るい、煙を裂いた。だが、追わなかった。追えなかった。リシェルは煙の向こうで一度だけ振り返る。
「ルシアン」
白銀の騎士が顔を上げる。
「私は、あなたの救済で消えたくない」
ルシアンは答えられなかった。三人の姿が水路の暗がりへ消える。残されたルシアンは、聖槍を下ろした。胸の奥で、教祖の言葉が響く。個人の涙に心を奪われてはいけない。だが彼女の目に残っているのは、世界ではなかった。震えながらも、消えたくないと言った十四歳の少女の顔だった。
エル・サライの北に、旧帝国領の学術都市オルフェンがあった。かつては帝国屈指の研究都市であり、学者、技師、医師、学生が集まる場所だったという。だが今、その門にはソル・テオクラシーの聖印が掲げられている。帝国語の看板は外され、広場の中央には教祖マクシミリアンの巨大な肖像が立っていた。子供たちは白い服を着せられ、同じ祈りの言葉を唱えている。
――個は争いを生む。
――自由は罪を招く。
――ひとつの心へ還れ。
リシェルは耳を塞ぎたくなった。声が、そろっている。子供の心まで、そろえられようとしている。
「ここ、帝国だったのよね」
リシェルが呟く。
「記録上は、帝国東北学術管区オルフェン市です」
イリスが答える。
「現在は宗教国家管理下。名称は《浄化都市オルフェン》へ変更されています」
「浄化って言葉、嫌いになりそう」
「私もです」
その返答に、リシェルはイリスを見た。イリスは無表情だった。でも、嫌いと言った。彼女が少しずつ、合理だけではない言葉を持ち始めている。それが嬉しくて、同時に怖かった。街の中央図書館には、長い列ができていた。人々が本を持って並んでいる。帝国の歴史書。技術書。医学書。詩集。子供向けの絵本。それらが検査台に置かれ、司祭が一冊ずつ仕分ける。
「保存」
「修正」
「焼却」
焼却と告げられた本は、広場の端に積み上げられていた。煙が上がっている。リシェルの胸の奥に、兄がくれた焦げた詩集の感触が蘇る。あの夜、兄はもう戻れなかった。だが、あの本を渡してくれた優しさだけは、まだ焼け残っている。ここでは渡される前に燃やされている。白い服の教師が、子供の手から古い絵本を取り上げた。
「これは旧帝国語の本ですね」
「おばあちゃんが読んでくれたの」
「その言葉は、もう使いません」
「でも」
「新しく正しい祈りを覚えましょう」
子供の心が泣いた。リシェルは前へ出そうになった。ヴェラが手で制す。
「姫様」
「分かってる。でも」
その時、別の場所で騒ぎが起きた。老人が本を胸に抱え、司祭に抵抗している。
「これは研究記録ではない! 娘の日記だ!」
「旧帝国文字による個人記録は、未承認思想の温床となります」
「娘は死んだんだ! これしか残っていない!」
司祭は静かに手を上げた。兵士が老人を押さえる。リシェルの中で、何かが切れかけた。心を伸ばせば、兵士を止められる。老人を助けられる。でも、巡礼市の時と同じだ。ここで力を使えば、人々はまたリシェルを見る。聖母か、神敵か、どちらかの名前を与えようとする。
「リシェル」
イリスが小さく呼んだ。敬称がない。その声で、リシェルは止まる。
「あなたが全部を背負う必要はありません」
「でも、誰かが」
「はい。誰かが必要です」
イリスは袖の中から小型記録端末を取り出した。
「だから、私がやります」
「イリス?」
「直接介入は危険です。ですが、記録はできます」
イリスの《オービット》が、群衆の上を音もなく飛んだ。焼却される本、奪われる日記、禁じられた帝国語、泣く子供。すべてを記録していく。
「何のために」
リシェルが問う。イリスは答えた。
「この街が、こうなる前に存在したことを、後で証明するためです」
その言葉に、リシェルは息を止めた。
「あなたの国は、存在しました」
イリスは続ける。
「誰かが消したとしても、私が記録しています」
リシェルは視界が滲むのを感じた。
「帝国の市井映像。祭礼。市場。言語資料。教育記録。宮廷行事。幼少期の姫様の映像も含まれます」
「私の?」
「はい。運命の騎士ごっこの写真、誕生日ケーキ爆破写真、赤の女王伝説の写真など複数」
「なっ、それは黒歴史だから消して!」
「帝国文化資料として重要です」
「絶対に違うわ!」
「……泣きそうになる」
「では、記録継続の効果はあります」
ヴェラが老人の方を見た。
「姫様。直接救出は危険です。しかし、私の歩行経路上に偶然、兵士がいる可能性があります」
「それ、偶然じゃないわ」
「偶然です」
ヴェラは前へ歩き出した。兵士の一人がその進路を塞ごうとした瞬間、ヴェラの肩が触れた。兵士が吹き飛んだ。人々がざわめく。老人はその隙に本を抱えて逃げた。リシェルは小さく呟いた。
「ありがとう」
「私は歩いていただけです」
ヴェラは平然と言った。イリスが補足する。
「偶然にしては衝撃量が大きすぎます」
「イリス」
「失礼しました。偶然です」
リシェルは笑いかけて、すぐに涙をこらえた。この街を救うことはできない。失われた本も、言葉も、日記も、すべてを取り戻すことはできない。でも、何かは残せる。誰かが覚えていれば、燃えたことにはならない。兄がくれた詩集の重みが胸の中で灯る。その時、イリスの表情が変わった。
「地下から旧式信号」
「敵?」
「不明。ただし、送信先が私たちです」
ヴェラが振り返る。
「私たち?」
「はい」
イリスの声が低くなった。
「信号内に、私たちの旧識別名が含まれています」
リシェルは首を傾げた。
「旧識別名?」
イリスは答えなかった。ヴェラも黙った。それが、リシェルにはかえって不気味だった。
「二人とも?」
ヴェラは短く言う。
「安全確認を行います。姫様はここで待機を」
「私も行く」
「危険です」
「今さらよ」
イリスがリシェルを見た。
「この信号は、姫様に見せるべきものではない可能性があります」
リシェルは息を呑んだ。
「私に、隠すの?」
二人は答えなかった。沈黙。その沈黙が、何よりの答えだった。




