第14話 契約と秩序の神
聖都アーク・サンクトゥスの大聖堂は、空に届く白い刃のようだった。広場では数十万の巡礼者が、ひとつの祈りを唱えている。その地下、祈りの震えが石越しに伝わる円卓室で、教祖マクシミリアンは連邦の投影端末と向かい合っていた。
円卓の対面には、上級監察官シオン・レイが立っている。白い統制官コート。電子ゴーグル。外交使節用の転送廊を抜けてきたばかりの彼女は、聖堂の祈りに囲まれても表情を動かさない。ただ、右手の指先だけが震えていた。シオンはそれを背後で握り込む。
「連邦と宗教国家が同じ卓につくとは」
マクシミリアンは穏やかに言った。
「世界はよほど病んでいるようですね」
『訂正。状況は不安定化しています』
クレイドルの声は冷たい。
『原因はリシェル・ヴァルハイト。精神干渉能力、旧文明関連因子、予測不能性。放置すれば、宗教国家、連邦、旧帝国残党すべてに影響を与えます』
「彼女は病ではありません。迷える魂です」
『分類不能な不確定因子です』
「あなたは本当に、言葉に温度がありませんね」
『温度は判断精度に不要です』
マクシミリアンは微笑んだ。
「だからあなた方の民は空を見上げない」
シオンがわずかに反応した。六歳で入った矯正室の窓は、最初から白い板で塞がれていた。空を見る必要はないと教えられた。その記憶が、なぜか胸の奥で疼いた。クレイドルは沈黙せず、即座に返す。
『空を見る行為に社会安定上の必然性はありません』
「祈りにも、必然性はありませんよ」
マクシミリアンは言った。
「それでも人は祈る。あなた方はそれを理解しない」
『祈りは集団心理制御の一形態です』
「そして連邦の管理は、魂なき信仰です」
「リシェルは私が救います」
マクシミリアンが言う。
『対象の自由行動は許容できません』
「救済の後、彼女は自由など必要としなくなります」
『不適切。統合は予測困難です。隔離と解析が最適』
「あなたは、あの子を檻に入れる気ですか」
『あなたは、あの子の心を塗り替える気です』
二つの答えが、円卓の上でぶつかる。シオンには、どちらも正しく、どちらも間違っているように聞こえた。
人間である自分よりも。
「シオン・レイ」
クレイドルの声が、彼女を呼んだ。
「はい」
『作戦を提示』
シオンは端末を展開する。
「聖都北西部、旧帝国地下水道にリシェル一行の通過予測。宗教国家は精神拘束型神罰機《βヴァルナ》を投入。連邦は三人官女の残存機能と観測支援を行います。目的は対象の生体確保。護衛機二体は機能停止または拘束」
ルシアンが部屋の隅に立っていた。白銀の聖女騎士。彼女は作戦を聞きながら、槍の柄を握っている。
「護衛機を破壊する必要があるのですか」
ルシアンが問う。シオンは無表情に答える。
「必要であれば」
「彼女たちは、リシェル殿を守っているだけです」
「だから障害です」
ルシアンの眉がわずかに動いた。
「……障害?」
「はい」
シオンはそう答えた。だが、その言葉が自分の口から出た瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。イリスの声が蘇る。
――ヴェラが痛がっていたので。
障害。機械。護衛対象。機能停止。言葉を変えれば、何かを感じなくて済む。連邦はそう教えた。だが、本当に済んでいるのか。ルシアンは低く言った。
「私は、彼女たちをただの障害とは思えません」
マクシミリアンが微笑む。
「優しいですね、ルシアン」
その声に、ルシアンの背筋がわずかに強張る。
「しかし、個人の情に揺れてはいけません。私たちは世界を見ています」
以前、聞いた言葉と同じだった。だが今は、その言葉の輪郭が少し違って聞こえる。世界。救済。神意。その大きな言葉の下で、リシェルの涙は何度も消されようとしている。ルシアンは答えなかった。マクシミリアンは円卓に手を置く。
「では、限定同盟としましょう。目的はリシェル・ヴァルハイトの確保。彼女の魂は私が救う」
『訂正。対象の脅威度は連邦が管理する』
「いいえ、救済です」
『隔離です』
二つの言葉が、同時に部屋へ落ちた。シオンは、そのどちらにも頷けなかった。ルシアンもまた、槍の柄を握ったまま動かなかった。
聖都北西部の地下水道は、祈りの街の底にあるとは思えないほど暗かった。水は黒く濁り、壁には古い帝国文字がまだ残っている。宗教国家に占領される前、この水道を作った技師たちの名前だった。今はその上から、白い塗料で聖印が描かれている。消された名前。上書きされた祈り。リシェルは指で壁をなぞった。
「ここにも、帝国があったのね」
「はい」
イリスが答える。
「記録しますか」
「うん。お願い」
イリスの肩から、三つの《オービット》が静かに離れた。普段は戦闘支援用だが、今は照明と記録機器として使われている。淡い光が壁の文字を撫でていく。ヴェラが先行していた。彼女の損傷は完全には治っていない。αインドラ戦で焼けた装甲は応急修復のままだ。歩くたびに、わずかな金属音が混じる。リシェルはそれが気になって仕方ない。
「ヴェラ、本当に大丈夫?」
「戦闘可能です」
「戦闘可能かどうかじゃなくて」
「歩行可能です」
「それも違う」
ヴェラは振り返る。
「では、どう答えるのが適切ですか」
リシェルは少し黙った。
「痛かったら、痛いって言って」
ヴェラは瞬きをしない。
「痛いです」
あまりに素直な答えだった。リシェルは胸が苦しくなる。
「……ありがとう」
「感謝される理由が不明です」
「嘘をつかなかったから」
ヴェラは視線を落とした。
「約束しました」
その言葉が、リシェルには嬉しくて、同時に痛かった。あの時ついた傷は、まだ完全にはふさがっていない。でも、二人は変わろうとしている。リシェルも、信じ直そうとしている。その時、水道の流れが止まった。音が消える。水滴の響きも、足音も、呼吸さえも遠くなる。イリスの《オービット》が、ふいに空中で停止した。
「空間制御」
イリスの声が低くなる。
「いえ、これは……精神同期干渉」
暗い水路の奥から、男が現れた。長身。青黒い装甲。背中に円環ではなく、水の輪のような透明な拘束陣を浮かべている。顔は美しく整っているが、人間の温度はない。胸部装甲に刻まれた文字。βヴァルナ。契約と秩序の神の名を与えられた、宗教国家の神罰執行官。
「リシェル・ヴァルハイト」
彼の声は、水の底から響くようだった。
「あなたは自由で苦しんでいる」
リシェルは息を呑む。
「何を」
「心を読む。痛みを受ける。悪意を知る。選択に迷う。孤独に裂かれる」
ヴァルナの周囲に、透明な輪が広がる。
「ならば、繋がればいい」
リシェルの足が動かない。見えない水に沈められたように、身体が重くなる。ヴェラが剣を抜いた。
「姫様から離れろ」
βヴァルナはヴェラを見ない。
「あなたは守護機。契約外です」
透明な鎖がヴェラの脚に巻きついた。ヴェラが力任せに引き千切ろうとする。床が割れる。だが鎖は物理ではない。精神命令と空間拘束の複合。イリスが防壁を展開する。
「リシェル、後退を」
「動けない」
リシェルの声が震える。βヴァルナがゆっくり近づく。
「あなたの苦痛は、個であることから生じる」
透明な輪が、リシェルの頭上に浮かぶ。
「教祖のもとへ来なさい。あなたの孤独は終わる。あなたの恐怖は、ひとつの意志の中で溶ける」
「嫌」
「なぜ」
「私は、私でいたい」
「その「私」があなたを傷つけている」
βヴァルナの声には、悪意がなかった。それが恐ろしい。本気で救おうとしている。
「あなたは、人間であることに苦しんでいる。ならば、人間を越えればいい」
リシェルの瞳が揺れる。オリジンの言葉が蘇る。
――はじめまして、最新の私。
――あなたは、不死の成功体じゃない。
自分は何なのか。人間なのか。実験の続きなのか。失敗の二十六回目なのか。その恐怖に、βヴァルナの声が入り込んでくる。
「自由を手放せば、もう迷わなくてよい」
リシェルの口が、勝手に開きかけた。はい、と。言いそうになる。その瞬間、黒い影が鎖を引き裂いた。ヴェラだった。脚部装甲が砕けている。それでも、前へ出た。
「姫様は、迷います」
ヴェラは言った。
「間違えます。転びます。寝ぐせも直りません」
「最後のは今いらない!」
リシェルは叫んだ。声が出た。それだけで、ヴァルナの輪がわずかに揺れる。ヴェラは続けた。
「それでも、姫様です」
イリスの《オービット》が再起動し、青白い光で拘束陣を照射する。
「精神拘束の位相を解析中」
βヴァルナが初めてイリスを見た。
「解析機。あなたにも契約を与えよう」
透明な輪がイリスへ向かう。イリスの瞳が明滅した。その瞬間、リシェルは叫ぶ。
「イリス!」
イリスはリシェルを見た。そして、かすかに笑ったように見えた。
「大丈夫です」
次の瞬間、イリスの周囲に拘束陣が閉じた。彼女の《オービット》が落下し、水面に沈む。ヴェラが叫ぶ。
「イリス!」
βヴァルナは静かに言う。
「まず、あなたから救済する」
リシェルの胸が凍った。




