第13話 正しい者たちの微熱
第13話を読む前に――二つの正義と、選ぶことのできる人間たち――
この世界には、人々を救うために異なる答えを選んだ二つの勢力がある。
ひとつは、教祖マクシミリアンへの信仰によって人々の心を一つにしようとする
宗教国家。
もうひとつは、ASIの「クレイドル」により感情や欲望を管理し、
合理性によって文明の崩壊を防ごうとする《パノプティコン連邦》。
両者の思想は異なる。けれど、どちらも自らの正しさを信じている。
そして今、二つの勢力が追うのは、人の心を読める亡国の姫、リシェル・ヴァルハイト。
彼女のそばには、命令に従う兵器として造られながら、自らの意思を持ち始めた二体の戦闘型アンドロイド、ヴェラとイリスがいる。
一方、連邦中央監視局のシオン・レイは、感情を抑制することこそ人類を守る道だと教えられてきた。だが、ある少女を撃った瞬間のためらいが、彼女の中に消えない問いを残している。
宗教国家の第一聖騎士ルシアン・アルディスもまた、教祖マクシミリアンへの信仰と、リシェルが示した自由への疑問との間で揺れ始めていた。
人間は、間違えるからこそ危険なのか。
それとも、間違える自由を奪われたとき、人間であることを失うのか。
正しさを信じる者たちの胸に生まれた、小さな違和感。
それはまだ反逆ではない。
けれど、世界を変える選択は、いつも小さな疑問から始まる。
オリジンが死んでから二日、リシェルは必要なことしか話さなかった。旧図書館を離れた三人は、宗教国家領の山岳地帯を北へ進んでいる。
三日目の夜、岩陰で火を起こすと、リシェルは焦げた詩集と紙の星を膝の上へ並べた。失われた兄の優しさと、名を残して消えたミナの選択。どちらも永遠ではない。それでも、ここにある。
ヴェラは右に、イリスは左に座った。二人とも何も言わず、リシェルが口を開くのを待っている。
「もう、自分が人間かどうかを二人に尋ねるのはやめる」
ヴェラの指が動く。けれど、答えを差し込まなかった。
「オリジンが、私に選べと言ったから?」
リシェルは首を振る。
「それだけじゃない。二人に答えてもらえば、安心はできる。でも今度は、その答えに従うだけになる」
彼女は紙の星を詩集へ挟んだ。
「だから、自分で決め続ける。怖くても、途中で変わっても」
イリスが問う。
「私たちに求める行動はありますか」
「あるわ。私が決めるまで待って。でも、間違えそうなら言葉で止めて。命令でも診断でもなく、二人の意見として」
ヴェラが頷いた。
「意見を持つ訓練が必要です」
「私も、聞く訓練が必要ね」
三人の間に、小さな笑いが落ちた。傷が消えたわけではない。許したわけでもない。ただ、同じ傷を何度も確かめる代わりに、その先のやり方を決められた。
その時、山脈の向こうから白い光柱が立ち上った。聖都アーク・サンクトゥスの方角だ。
イリスが暗号波を解析する。
「宗教国家の回線に、連邦式の統制符号を確認。両勢力が接続しています」
宗教国家は心を一つにしようとする。連邦は心を数値で管理しようとする。互いを否定してきた二つの正しさが、リシェルを処分するためだけに手を結んだ。
ヴェラが尋ねる。
「回避しますか」
リシェルは火を消し、立ち上がった。
「いいえ。私が何をされるか確かめに行くんじゃない」
詩集を胸にしまう。紙の星の角が、布越しに心臓へ触れた。
「私が、何をさせないか伝えに行く」
翌朝、三人は聖都へ続く古い巡礼路へ入った。追われる者の足取りではなく、自分たちで行き先を選んだ者の足取りで。
パノプティコン連邦中央監視局の観測室は、いつも白かった。窓はない。空を見る必要がないからだ。シオン・レイは、襟も銀髪も乱さず、いつもの席に座っていた。
……なぜだ、この蛇が頭の中にいるような感情は。
感情抑制プログラムも稼働中。つまり、震える理由はなかった。理由のない反応を、連邦ではノイズと呼ぶ。
『シオン・レイ』
クレイドルの声が、観測室に響く。
「はい」
『リシェル・ヴァルハイトの精神波形に、旧文明施設接触後の変異を確認。神化兆候の初期値と一致します』
画面に、リシェルの映像が映る。雪の中、ヴェラとイリスの手を握る十四歳の少女。泣いているのか、寒いのか、映像だけでは判別できない。シオンはその映像を拡大した。リシェルの胸元に、小さな紙の星が見えた。ミナが渡したものだ。価値はない。機能はない。戦術的意味もない。それなのに、リシェルはそれを失わずに持っている。
「対象は、非効率な記憶保持を継続しています」
『補足。情動依存性記憶です。判断精度を低下させる可能性があります』
「はい」
シオンは答えた。だが、画面を閉じなかった。別の映像を開く。銀髪のアンドロイド、イリス。彼女がヴェラの損傷部を拭っていた映像。シオンは何度も再生していた。意味はない。効率も悪い。修復手順としても不要。だが、イリスは丁寧に拭っていた。
――ヴェラが痛がっていたので。
その言葉が、シオンの中に残っている。機械が、痛みを理解しようとしていた。人間である自分は、ミナを撃った時の痛みを、まだ理解できずにいる。いや、理解しないようにしている。
『シオン・レイ。該当映像の再生回数が規定値を超過しています』
「分析のためです」
『虚偽の可能性があります』
シオンは黙った。クレイドルは続ける。
『あなたの情動ノイズは増加傾向にあります。再矯正を推奨します』
「任務後に申請します」
『任務前が最適です』
「任務に支障はありません」
『ノイズ・ネスト制圧時、あなたは一・七秒遅延しました』
「対象リシェルの精神干渉を受けたためです」
『遅延発生は、その前です』
シオンの指が止まった。クレイドルは正しい。彼女はミナを撃つ直前、ためらった。それを「戦術判断」と呼ぼうとした。だが、ためらいだった。
「私は」
シオンは言いかけて、口を閉じた。
『続けてください』
「……私は、クレイドルを信頼しています」
『妥当です』
「人類は、自由すぎれば滅びます」
『はい』
「感情は暴走します」
『はい』
「だから管理が必要です」
『はい』
正しい。すべて正しい。なのに、胸の奥が重い。白い部屋の温度は一定のはずなのに、シオンはなぜか息苦しかった。彼女はふと、六歳の頃の記録映像を開いた。小さなシオンが、白い椅子に座っている。
『矯正後、母親に会えなくなる可能性を理解していますか』
『はい。愛着は判断を歪めます』
『寂しいですか』
『寂しさは、不要です』
映像の中の少女は完璧に答える。シオンはその映像を閉じた。机の上に、一枚の紙片が置かれている。ノイズ・ネストから回収された破片。ミナが作ったものではない。同じように折られた、子供の紙細工だった。証拠品として提出すべきだった。だが、シオンはなぜか提出できなかった。
『シオン・レイ』
「はい」
『宗教国家との限定協力が承認されました』
画面が切り替わる。白い大聖堂。教祖マクシミリアン。そして、白銀の聖女騎士ルシアン。
『目的は、リシェル・ヴァルハイトの確保。必要に応じ、護衛アンドロイドを機能停止』
「了解しました」
『あなたの任務は、対象の隔離補助と三人官女の統制です』
「了解しました」
ルシアン・アルディスは、聖都の北塔で一人、星を見ていた。幼い頃、燃える村で教祖に救われた夜も、空には星があった。だから彼女にとって教祖は、父であり、神であり、世界そのものだった。
その時、教祖マクシミリアンが手を差し伸べた。白い法衣。柔らかな声。恐怖で凍ったルシアンの手を、彼は優しく握った。
――もう、ひとりではありません。
その言葉で、ルシアンは救われた。だから彼女にとって、教祖は父であり、神であり、世界そのものだった。疑うことは、自分が救われた過去を否定することだった。
「ルシアン」
背後から声がした。マクシミリアンだった。ルシアンは即座に膝をつく。
「教祖様」
「星を見ていたのですか」
「はい。申し訳ありません」
「なぜ謝るのです」
「任務外行動です」
マクシミリアンは微笑んだ。
「あなたは昔から星が好きでしたね」
ルシアンは胸が少し温かくなるのを感じた。教祖は覚えていてくれた。自分がまだ小さかった頃のことまで。
「ルシアン。あなたは優しい子です」
「私は騎士です」
「優しい騎士です」
マクシミリアンは塔の縁から聖都を見下ろす。
「だからこそ、リシェルに心を揺らされている」
ルシアンは何も言えなかった。
「彼女は危険です」
「……はい」
「民は彼女を聖母と呼ぶ。連邦は彼女を不確定因子と呼ぶ。私は、彼女を救うべき魂だと思っています」
「救う」
ルシアンはその言葉を繰り返した。初めて会ったとき、リシェルは言った。
――私は、神様になりたくない。
次に会ったとき、リシェルは言った。
――あなたの救済で消えたくない。
あれは、拒絶だった。けれど、それは苦しみから目を背ける愚かさなのか。それとも、本人の自由なのか。ルシアンには分からなかった。
「教祖様」
「何ですか」
「救済を拒む者を救うことは、救済なのでしょうか」
言った瞬間、自分の胸が冷えるのを感じた。これは問いではない。疑いだ。マクシミリアンは怒らなかった。ただ、いつものように優しく微笑んだ。
「病人は、薬を苦いと言って拒むものです。幼子は、刃物を取り上げられれば泣くものです」
「リシェル殿は、幼子ではありません」
「十四歳です」
「それでも、自分の涙が何かは知っています」
ルシアンは思わず言った。マクシミリアンの微笑が、かすかに薄くなる。
「ルシアン。個人の涙に心を奪われてはいけません」
その言葉は、何度も聞いた。教義の中心だった。個人の涙に惑わされるな。世界を見よ。救済を見よ。だが、リシェルは世界の一部ではないのか。リシェルの涙は、救済から除外されるのか。
「あなたは、私に救われました」
マクシミリアンが静かに言った。
「はい」
「ならば信じなさい」
ルシアンは目を伏せた。その言葉は、鎖のようだった。かつては温かかった鎖。今も温かい。だからこそ、外し方が分からない。
「はい」
ルシアンは答えた。けれど、その声は遅れた。マクシミリアンはその遅れに気づいていた。それでも何も言わず、塔を去った。ひとり残されたルシアンは、再び星を見上げる。空は遠い。手を伸ばしても届かない。けれど、見ることはできる。誰にも許可されなくても。それが、なぜか救いのように思えた。




