第8話 魔法学院の小さな一日
小さな犬の肉球を少し揉んでから、私は腕時計に目を落とした。十七時十五分。
「あ、あ、あ、あ……っ!」
私は街を全力で駆け出した。電柱や街並みが、次々と後ろへ流れていく。
体育用具室に飛び込み、ドアを勢いよく閉めると、バンッと大きな音が耳の奥に響いた。考える暇もなくポータルを開き、そのまま飛び込んだ。
◇
体育用具室のドアが、そっと数ミリだけ開けられたことにも気づかずに——。
「お嬢ちゃん、今日もずいぶん急いでるねぇ!」
「そこのお嬢さん! 搾りたてのジュース、一杯どうだい!」
広場いっぱいに元気な呼び込みの声が響き渡る。私は自分の靴に視線を落とした。陽の光を浴びてピカピカと光る皮靴。
みんなにとっては、制服を着た女の子が毎日ここを全速力で走り抜けていく姿も、すっかり見慣れた風景なのだろう。
「ううん、おじさん、私……本当に遅刻しちゃうの!」
膝に手をつき、ジュースの屋台の脇で立ち止まった。声のした方を見ると、木製のカップに注がれたジュースは黄金色に輝き、スーパーで売っているオレンジジュースによく似ていた。
「一、一杯……ください……」
「あいよ!」
おじさんは威勢よく返事をすると、大きめの木製カップを取り出し、見たことのない丸い果実を、木桶の中へ次々と放り込んだ。
大きな木桶がクルクルと回転し始める。電気が通っていないのに、どうやって動いているんだろう?
私が木桶の中を覗き込もうとすると、おじさんは投入口を大きな手で隠した。
「それは企業秘密さ」
「はい、お待ちどうさん!」
「ありがとうございます!」
コップを受け取ると、木のぬくもりが指先に伝わってきた。中のジュースは黄色くて、パパが週末の食卓でよく飲んでいるビールみたい。
でも鼻を近づけてみると、ふんわりと甘い果物の香りがした。
私はバッグに手を突っ込み、財布から千円札を一枚取り出しておじさんに差し出した。
でも、手の中の紙幣とおじさんの顔を見比べて、ハッと固まる。
「あの、おじさん……」
「私、これしか持ってなくて……」
「紙幣?」
おじさんはお金を見つめ、それから私の顔をまじまじと見つめた。顎に手を当てながら、ふぅと目を閉じる。
「困ったな……そうだ! 君、魔法学院の生徒さんだろ?」
「うん!」私は何度も大きく頷いた。
「それなら、学院単位で払ってくれてもいいよ」
学院単位……? 私は首を傾げた。学院手帳の内容を必死に思い返してみたけれど、単位をもらった覚えはない。
代わりに浮かんできたのは、教壇で先生が黒板をコンコンと叩く音と、机に突っ伏してそれを聞いていた自分の姿だった。
「おじさん、あのね……。私、たぶん……まだ学院単位を持ってないと思うの」
「まだ持ってないのかい……うーん、参ったな。そうだ」
おじさんは少し考えたあと、口を開いた。
「南の森の入口に生えている樽キノコを、三つほど採ってきてくれないかい?危険な場所じゃないからさ」
「でも……」
「これから授業があるの……」
つま先で地面をなぞる。スカートを握りしめる手が、汗でペタリと生地に張り付いていた。黄金色のジュースには私の顔が映っていて、耳にかけていた髪が数本、頬にかかっていた。
「……明日じゃ、ダメかな?」
明日は土曜日。学校もお休みだし、宿題を急いで終わらせれば……。
「もちろん構わないさ!」
「ありがとう!」
「ほらほら」おじさんは機械を拭きながら笑った。「遅刻するんだろ?」
「あっ!」
「ご、ごちそうさまでした——!」
コップをしっかり握りしめる。汗で湿っていた手のひらは、いつの間にか乾いていた。一口飲むと、オレンジジュースみたいに甘かった。
一度だけ足を止め、甘いジュースをゆっくり味わった。背後からおじさんの楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「まったく、今どきの子は元気だねぇ」
「ハァ……ハァ……」
学院の正門前に立ち、心の中で【召喚】と唱える。小さな星の飾りがついた、シンプルで可愛らしいステッキが手に現れた。
魔杖を握ったまま、手首で額の汗をぬぐう。思わず口元がゆるんだ。
(先生に見せたら、褒めてもらえるかな。ヘヘッ)
ゴーン、ゴーン、ゴーン——。
重厚な鐘の音が学院全体に響き渡る。
完全に遅刻だ。
足音を忍ばせ、教室の前で立ち止まった。中から先生の声が聞こえてくる。息を深く吸い込み、ドアノブへ手を伸ばした。
コンコン。
「入りなさい」
「失礼します……」
扉を開け、俯いたまま入口で立ち尽くす。磨き上げられた床に、汗だくの私の姿がぼんやりと映っていた。
「森野さん」
「……はい」
「二つの世界を行き来している事情は承知しています。ですが、次からは時間に余裕を持ちなさい」
柚乃先生は静かな声で言った。柚乃先生は、何度見ても教師とは思えないほど小柄だ。
初めて会った時なんて、てっきり普通の下級生だと思って『今度ショッピングモールに連れて行ってあげようか!』なんて言っちゃったんだから!
そのあと彼女がそのまま教壇に上がった時、私は手帳で必死に顔を隠したけれど、手帳を持つ手は震えていた。
目を閉じると、今でも手帳の向こうから聞こえてきた、柚乃先生の忍び笑いまで思い出してしまう。
「柚乃先生、私……」
「森野さん」
柚乃先生が、私の右手にある木製コップへ目を向けた。私は慌ててそれを背中に隠した。
「次からは気をつけなさい。席につきなさい」
「はい……」
身を小さくしながら、小走りで自分の席に向かう。……やっぱり、こっちの学校でも遅刻した時のクラスメイトの視線はすごく恐怖だ。
「失礼します……」
「では、授業を続けます」
柚乃先生が再び黒板に向き直ると、教室に静寂が戻った。
「魔法は、大きく二つの系統に分かれます。一つは『通常魔法』。もう一つは『元素魔法』です」
柚乃先生はチョークを手に取り、黒板に二つの大きな円を描いた。片方の円からは六本の線が伸びていた。
「元素魔法はさらに、金、木……」
耳に届く先生の声が少しずつ霞んでいく。目をこすりながら、数学の授業と同じような黒板の円を見つめ、私は小さなあくびを噛み殺した。
小さく折りたたまれた紙切れが、私のデスクの上に滑ってきた。そっと横を見ると、
悠斗が手を振って紙切れを指差していた。紙を開くと、薄い用紙に小さな文字が書かれていた。
『七奈、さっきジュース買ってたの?』
私は魔杖をこっそりデスクの下へ向け、かすかに魔力を流す。
『うん』
『まだ学院に来て間もないのに、もう単位持ってるの!? すげー!』
『ううん、持ってないよ。だから明日、南の森へ採集に行かなきゃいけなくて。はぁ、だるい……』
しばらく待っても、紙切れに悠斗からの返事は浮かばなかった。悠斗にそっと腕をつつかれ、小さな咳払いを聞くまでは。
「森野さん」
「風祭くん」
腕を組んだ柚乃先生が、私たちの目の前に立っていた。私と悠斗は同時に背筋を伸ばした。
「「す、すみません!」」
「教室の後ろへ。授業が終わるまで立っていなさい」
「はい……」
肩を落として二人で後ろへ向かう。周りから忍び笑いが漏れてきた。
「静かに」
先生が一言そう言っただけで、教室は一瞬で静まり返る。……やっぱり、あんなにちっちゃいのに迫力は凄まじい。
私は顔を上げ、痺れ始めた脚に力を入れ、どうにか背筋を伸ばした。どれくらいの時間が経っただろう、ようやく先生が本を閉じた。
「今日の授業はここまで」
私は痺れた脚をさすりながら、深く息を吐いた。私たちは一緒に教室を出た。
「明日、南の森……俺も一緒に行っていい?」




