第9話 魔法使いとの放課後
教室を出ると、私は思い切り大きく背伸びをして、トントンと足を数回鳴らした。
革靴が床を叩く音が、放課後の廊下に響いた。
「明日、南の森に一緒に行く?」
「いいよ」
「それにしても、今日は災難だったなぁ」
「もうっ、全部悠斗のせいだからね!」
「えぇ? 最初に返事を書いたのは七奈じゃん」
「悠斗が最初に紙を回してこなかったら、こんなことにならなかったでしょ!」
「無視すればよかった話だろ?」
「しらないしらないしらない!」
「俺だってしらない!」
悠斗は腰に手を当てた。その姿を見て、私も大きく息を吸い込み、悠斗の真似をして反対側へそっぽを向いた。
ふん、これくらい私だってできるんだから。
周囲は静まり返り、生徒たちの足音も遠ざかっていく。廊下の向こうでは、移動階段が時折、音もなく宙を横切っていた。
横目でこっそり悠斗の様子を窺う。目が合った瞬間、耐えきれなくなって私から吹き出してしまった。
「バカ悠斗、少しは譲ってくれたっていいじゃん」
「べーっ、やーだね!」
悠斗はくるりと向きを変え、そのまま前へ走り去っていった。その背中を見送りながら思う。
一緒に南の森へ行くって言ったばかりなのに、私を置いて逃げるなんて!
コップに残っていたジュースを慌てて一口飲み、「待ちなさいよー!」と叫びながら悠斗を追いかけた。
手に伝わるずっしりとした重み。見下ろすと、ジュースはどうやらまだ飲み切れていないみたいで……。
悠斗に追いついた頃には、学院の広場まで来ていた。
途中、通りかかる人たちに何度も振り返られ、巡回組の人には「学院内を走ってはいけません! 危ないですよ!」なんて声をかけられてしまった。
膝に手をつき、息を切らせている目の前の少年を睨みながら、私は頬を膨らませた。
「も、もう! 悠斗のせいで巡回の人に怒られちゃったじゃん!」
「七奈の走るのが遅いのが悪いんだろ」
「なっ……!」
「はいはい、俺が悪かったですー」
「ふん、分かればよろしい……」
「で、明日は何時に南の森へ行くの?」
悠斗は急に得意げな顔になると、なにやら奇妙なポーズを決めた。魔杖を高く掲げ、もう片方の手を腰に当てる。まるで……変身シーンみたい。
「任せとけって! 樽キノコなんて俺にかかればあっという間に山ほど集まるから」
……。
肩がプルプルと震え、私は慌てて手で口元を押さえた。顔をそっぽに向けたけれど、肩が震え、押さえた指の隙間から笑い声が漏れた。
「笑うなよ!」
ひとしきり笑ったあと、手に持っていた小さな木樽のようなコップを持ち上げた。
「ねぇ、このコップ、樽キノコっていうんだよね?」
「そうだよ。キノコの精霊が成長するときに脱ぎ捨てる殻なんだ」
「精霊?」
目の前でコップをまじまじと見つめる。見た目はどう見ても、ただの小さな木樽なのに。
本当に、こんな殻を脱ぎ捨てる精霊がいるのかな? ジュースを飲み干し、コップの底を覗き込んでみる。
やっぱり、何の変哲もないように見えるけど……。
「言っても分からないだろうな」
悠斗はコップの縁を指でパキッと折ると、その欠片を口の中へ放り込み、ガリッと噛み砕いた。
「えっ! 悠斗、それ食べられるの!?」
「え……いや……」
悠斗は私を見つめ、もう一口分パキッと割ると、私に向かって差し出してきた。私は両手を振りながら、一歩後ずさった。
「食べてみなって、マジでうまいから」
「う、うん……じゃあ」
私はその木片を受け取り、目をギュッと閉じて一気に噛みついた。想像していた木屑のような味はまったくしない。
外側はサクサクで、中は驚くほど柔らかかった。まるで——とんかつみたい!
「こ、これ……っ!」私は思わずもう一口大きくかじりついた。「すごく美味しい!」
「七奈ってさ、食べ物のことになると本当に幸せそうな顔するよな」
「だって美味しいんだもん」
「じゃあ、明日の朝十時に広場で集合な」
「ん〜む」
(……これ、たくさん採って家に持ち帰ったら、いつでも食べられるんじゃないかな? へへへ……)
「……七奈、また食べる事考えてるだろ」
「な、なんで分かったの!?
えぇぇっ!?」
黄金樹の下まで歩いて戻ってきた。夕日を受けた黄金樹は、赤みを帯びた金色に輝いていた。
そよ風が吹き抜けるたび、金色の葉がさらさらと音を立てた。
「じゃあ、また明日な」
「うん!」
私は深く息を吸い込み、魔杖でポータルを呼び出して中へと飛び込んだ。
積み上げられたマット、床に転がるサッカーボール、少し色あせた跳び箱……体育用具室は相変わらずの景色だった。
でも、あれ? 用具室のドアが少し開いている。私、うっかり開けっ放しにして行っちゃったのかな?
まあいっか、川の近くに飛ばされて足が滑ってびしょ濡れで帰るよりは全然マシだし。私は外に出て、体育用具室のドアを静かに閉めた。
夕日はまだ空の端に残っている。これなら夕飯の時間にも十分間に合いそうだ。
「七奈!」
突然、木陰から誰かが飛び出してきた。
「きゃあっ!」
「千、千晴!?」
「びっくりしたぁ……もう、突然驚かさないでよ」
「それはこっちのセリフだよ! 最近ずっと『急用がある』って言ってここに走ってきてさ」
「あ、えっと……」
そう言いながら、千晴は私の横を通り過ぎて体育用具室の中を覗き込もうとした。私は本能的に千晴を遮るように立ち、振り返って中を確認した。
体育用具室の中には誰もいない。ただいつも通りのマットや器具が転がっているだけだ。
「……やっぱり誰もいないじゃん。七奈、最近ここで一体何してるの?」
「あはは……最近はね、なんていうか……一人で静かに考え事をしたい日が多くて。だから、ここでぼーっと座ってたの。ほんとだよ!」
「ほんとにー?」
「ほんとほんと!」
千晴は私の周りをくるりと一巡りして、じっと私を見つめたあと、小さくため息をついてそっと私の肩に手を置いた。
「七奈、何か悩みがあるなら、一人で抱え込んじゃダメだよ」
「だって、私たちは親友なんだから。」
私は顔を上げて目の前の千晴を見つめた。夕日の逆光で千晴の顔が少し眩しかったけれど、目を細めて微笑む彼女の表情を見て、私は深く頷き、ぎゅっと抱きついた。
千晴の体温は、いつもと変わらず温かかった。
家に帰ると、お兄ちゃんがいつものようにソファに座っていた。
リビングを通り抜けようとすると、お兄ちゃんはソファの後ろからうさぎさんを取り出し、私に差し出してきた。
うさぎさんを受け取り、鼻を近づけてみると、ふんわりと石鹸の優しい香りが漂ってきた。
胸元の赤い宝石も、買ったばかりの頃のように輝いていた。
「今日、お前の部屋の窓を開けに行ったとき、少し汚れてたから洗っておいたよ。嫌じゃなかったか?」
「えっ? お兄ちゃん、ありがとう!」
夜、潜り込んだばかりの布団はひんやりしていたけれど、すぐに体温で温かくなった。
昼間は魔法学院、夜は家族と過ごす時間。まるで二つの異なる世界を行き来しているみたい。
こんな毎日も、案外悪くないかも。
明日は土曜日。森には小さなうさぎさんがいるかな? リスもいるかな? それとも……
そこまで考えたところで、私はいつの間にか眠っていた。




