第10話 知られざる英雄
太陽が屋根の上まで高く昇り、家の前の電柱には数羽の小鳥がとまって楽しそうに鳴いている。
「七奈、もう少しゆっくり食べなさい」
台所からお母さんの声が聞こえてきた。食卓の中央には焼き立てのトーストが積まれ、香ばしい匂いがふわりと漂っていた。
表面はこんがりと、きれいな狐色に焼けている。焼き立てのトーストにかじりつくと、熱さで舌先がひりひりした。
「そんな急いで食べて、遊びにでも行くの?」
「うん、ちょっとね。千晴と買い物に行く約束をしてるの」
片手でコップを持ち、温かい牛乳を一口飲んだ。湯気の向こうでお兄ちゃんと目が合い、もう片方の手で髪に触れる。
……別に乱れてなんてないのに。
「気をつけろよ。あんまり遅くならないうちに帰ってこい」
「もう、子どもじゃないんだから!」
テーブルの上のトーストをもう一枚ひっつかみ、半分に折って口にくわえた。上に塗られたジャムが口の中で甘く広がった。
走って家を飛び出す背中に、「七奈! そんな行儀の悪い食べ方しちゃダメでしょ!」と声が飛んでくる。
もちろん、またお母さんだ。
「行ってきまーす!」
♪ ♪ ♪
鼻歌を歌いながら、学校の体育用具室へと向かう。道すがら、時折自転車がチリンチリンと軽やかな音を立てて通り過ぎていき、電線の上では、小鳥たちが賑やかに鳴いていた。
前方に見えていたアパートの角を曲がった、その時だった——
「七奈ちゃん!?」
「千晴ちゃん!?」
私はピンと背筋を伸ばし、手をギュッとスカートの生地に押し当てた。指先に残ったジャムのべたつきが気になり、慌てて手を背中へ隠した。
「七奈ちゃんが休みの日にこんなに早起きなんて、珍しいね」
「私……あ、えっと……!」
「あ、あはは……これからちょっと補習があるの!」
「じ、じゃあ私先に行くね! 遅刻しちゃうから!」
慌てて手を振り、そのまま全速力で駆け出した。
「えー? 七奈ちゃん、休みの日はいつもお昼まで寝てるのに……」
「今日はどうしたんだろ?」
千晴はぽつりと呟き、走り去る私の背中を見送っていた。
「まさか……ううん、絶対また『あそこ』に行ってるんだ」
小走りで体育用具室まで辿り着くと、グラウンドからはサッカー部の掛け声がここまでハッキリと聞こえてきた。
体育用具室へ滑り込み、背後に誰もいないことを確かめてから、ようやく息を吐いた。
◇
ポータルを抜けた瞬間、足元に地面がなかった。ほんの一メートルほど下に、悠斗が驚いた顔で立っている。
慌ててポータルを開いたせいで、出口が少し高い位置にずれてしまった。
「きゃああああああ——!!」
次に目を開けた時には、私は地面に激突していた。お尻をさすってみる。
……あれ、痛くない。他の場所も触ってみたけれど、怪我ひとつしていないみたい。
「七奈……」
身体の下から低いうめき声が聞こえ、すぐ脇から一本の手が力なく伸びてきた。
恐る恐る下を覗き込むと、見事に下敷きにした悠斗とバッチリ目が合ってしまった。
「えっ? 悠斗!?」
「あんた、ここで何やってんの!?」
「こっちのセリフだよ……」
「早く退いてくれ……」
「あ、あはは! ごめんごめん!」
「ったく……相変わらず重いな、お前」
悠斗は立ち上がると、服についた砂埃をバサバサと払った。
私はバッグからハンカチを取り出し、悠斗の顔についた灰を優しく拭き取ってあげる。
耳のあたりを拭くとき、こっそり少しだけ強めにつねってみた。
「私、太ってなんてないもん!」
「いたたた……! わかった、俺の負け!」
「ふんっ」
「はいはい。それより早く南の森へ行こうぜ」
悠斗は私の手からハンカチをひょいと取り上げ、残った埃を払ってから押し返してきた。
ハンカチがひらひらと風を受ける様子は、小さな風車みたいだった。ハンカチを鞄にしまおうとすると、両肩を後ろから掴まれ、前へと押し出された。
「ええっ!?」
「自分で歩けるってば!」
南側の街道は、学院へと続く道と同じように花の街灯がずらりと並んでいた。不意に小鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。
路傍の小さな噴水では、水しぶきが陽の光を受け、細かな宝石のように輝いていた。
……でも、今日ってなんだか静かすぎない?
「悠斗、悠斗、なんで街に全然人がいないの?」
「みんな買い出しにでも行ったんじゃないか?」
周りを見渡してみるけれど、果物屋さんの果物の表面には小虫一匹すら留まっていない。
果物屋の窓に近寄り、顔をガラスに張り付けて中を覗き込んでみる。
「おいおいおい、そういうのダメだって!」
悠斗が走ってきて私を引き剥がした。部屋の中の家具は、まるで果物の中から生えてきたみたいな形をしている。
でも、本当に誰もいないみたい。
「むぅ、分かってるよ……」
「でもさ、買い物ならこの街にもお店はいっぱいあるじゃん」
「あっちの世界のスーパーだよ」
「私たちの……あっちの!?」
買い物するとき、もし向こうの世界のお金しか持っていなかったら、レジでどうするんだろう。
学院ポイントなんて出したら、店員さんもびっくりするよね……。
待って、大事なのはそこじゃなくて、魔法使いたちって普段から私たちのすぐ隣に潜伏してるってこと!?
「悠……悠斗」
「 学院って、外に出るのを禁止してるんじゃないの?」
「今日は土曜日だからな」
「それにしても、俺も最近あっちの世界に行ってないな……」
「えぇ!? 勝手に行っていいの?」
「買い物くらいなら別に問題ないさ」
「土曜日になると、みんな転移魔法陣を通って夕真さんの店に行くんだ」
「あの時計屋さん?」
「そう。向こうで服を着替えて、そのまま街を歩いたりする」
「なるほど……」
今度、買い物をしている魔法使いを見つけたらこっそり驚かせてやろう。ヘヘッ。
「待って」
「じゃあ、あんたがこの前こっそり向こうの世界に行ってアンパン買ってたのは?」
「っ……」
「そ、それは買い忘れたものがあったからで……!」
「本当は買い置きを全部食べちゃったからでしょ!」
「違うって!」
私は前を走りながら、振り返って悠斗を見た。顔を真っ赤にして、必死に追いかけてくる。絶対当たってるじゃん。
そう思っていた矢先、私は目の前の建物に頭から激突した。おでこがジンジンと脈打つように痛み、そっと手で押さえた。
「大丈夫か、七奈!?」
悠斗が駆け寄ってくると、しゃがみ込んで私の手を押しのけ、おでこに息をふーふーと吹きかけてきた。
頭がひんやりとして、彼が魔杖でちょんと私に触れ、治癒魔法を使ってくれたのが分かった。
たんこぶがみるみる小さくなっていき、本気で心配している悠斗の顔を見ていると、痛いはずなのに少しだけ笑ってしまった。
私を現実へ引き戻したのは、手のひらに伝わる温もりだった。
「バカ、もう平気だってば」
「……平気でもダメだ」
「あははっ」
私は振り返り、目の前に聳え立つ建築物を見上げた。それは、見上げるほど巨大な彫像だった。
手にひさしを作って日差しを遮る。眩しい光を少しだけ和らげ、目を細めて彫像の顔を見つめた。
「悠斗……これ、なぁに?」
「じいちゃん達から聞いた話だけど、昔の英雄たちを刻んだ記念碑らしいよ」
「英雄?悪者を倒すような?」
「詳しいことは俺もよく知らないけどな」
悠斗は私の隣に立ち、真似をするように彫像を見上げていた。
彫像の上部に並ぶいくつかの顔は、見覚えのあるお兄ちゃんと同じくらいの年齢に見えた。
こんなに若くして、もう英雄だったのかな……。
その一段下へ目を移した瞬間、思わず数歩後ずさった。
中央に刻まれたその顔は——
どう見ても学院長の顔だった。




