第7話 小さな魔法使いの始まり
廊下に足を踏み入れると、赤い絨毯がまっすぐ先まで伸び、窓から差し込む陽の光が静かな廊下を優しく照らしていた。
床の上で、背の高い影と小さな影がゆっくりと伸びていく。
「教室は六階だ。階段、一人で使えそうかい?」
「まだあんまり自信がなくて……」
「階段も魔法と同じさ。行きたい階を強く思い描けば、ちゃんとそこへ連れて行ってくれる」
私は頷き、階段の前で一度息を呑むと、手すりに手を添えた。
(六階——)
ゴゴゴ……と、足元の階段が静かに動き始める。
「わっ!」
私は魔杖を握りしめたまま、もう片方の手で咄嗟に学院長のローブの裾を掴んだ。
「最初はみんなそんなものだよ」
学院長が楽しそうに笑うのを見て、私もつられて小さく笑った。六階に着くと、学院長はそのまま廊下を進んでいく。
天井のシャンデリアが足元の赤い絨毯を柔らかく照らし、耳に届くのは私たち二人の足音だけだった。
しばらく歩くと、学院長がひとつの扉の前で立ち止まった。
「着いたよ」
扉がゆっくりと開き、私は後ろからそっと覗き込んだ。教室は想像していたよりもずっと広い。
大きな教卓の前には机が整然と並び、後ろへ行くほど座席が高くなっていて、まるでテレビで見た大学の講義室のようだった。
「おいで」
「は、はい!」
教卓に立った学院長が手招きする。私は恐る恐る足を進めた。中へ入り、前方の席をひとつ選んで腰掛けた。
「今日はまず、ポータル魔法からやろうか」
「ポータル……?」
思わず身を乗り出す。それって、どこへでも行ける魔法の扉のこと……!? もし使えたら、海でも雪山でも海外でもどこへでも行けちゃう。
それに……朝寝坊しても遅刻しなくて済む!
「七奈?」
ポン、と学院長が魔杖で教卓を軽く叩いた。びくっと肩を跳ねさせ、仰ぎ見る。
「は、はい!」
「まずは魔杖を呼び出してみよう。頭の中で形をイメージして、最後に——」
「——召喚」
学院長が軽く左手を掲げると、その言葉とともにあの巨大な魔杖がふわりと姿を現した。
「しまう時は、その逆だ。消えていく様子を思い描きながら——」
「——散」
魔杖は光の粒子となって——
「さあ、七奈もやってごらん」
「はい!」
私は両手で魔杖を握りしめ、目を閉じた。頭の中で、さっきの学院長の手つきを思い浮かべる。
「……散」
手の中には、まだ魔杖の重みが残っている。片目を少し開けてみると、魔杖は相変わらずそこにあった。
「あれっ、どうして……」
「焦っちゃダメだ。魔法は焦れば焦るほど失敗するものだよ」
「はい……!」
大きく深呼吸をし、魔杖が少しずつ光の粒になって消えていく光景を脳裏に描く。
「……散」
一秒、二秒。手の中の重みがすうっと消えていった。目を開けると、掌には何も残っていない。私は思わず席から跳ね起きた。
「学院長、できました!」
「うん、上出来だ」
学院長は袖の中から一枚の金色の葉を取り出した。あの日、黄金樹の下で見かけたのと同じ葉っぱだ。光を受けてきらきらと輝いている。
「この葉には強い魔力が宿っている。その魔力を使ってポータルを開くんだ。その前に、もう一度魔杖を出してごらん」
「はい!」
目を閉じ、魔杖の形を思い描く。……せっかくなら、昨日のようなシンプルなものじゃなくて、もっと可愛いのがいいな。魔法少女の変身ステッキみたいな……そう、ムーンステッキみたいな感じ!
「——召喚!」
手の中に柔らかい光が集まってくる。目を開けると、思い描いた通りのステッキが収まっていた。先端には小さな月がちょこんとあしらわれている。
「わあっ、本当にそのまま描いた通りだ!」
「これはまた、随分と可愛らしい魔杖だね」
「学院長、どうしてこんな形になるんですか?」
「君の魔力が『水滴』だからさ。水は、器に合わせて形を変えるものだからね。君の魔杖も、君自身の心を映しているんだよ。」
「すごーい!」
「よし、七奈。ポータル魔法の練習に入ろう」
「はい!」
学院長が教卓から歩み寄り、金色の葉を私の手の中に握らせてくれた。ほんのりと温かく、黄金樹の下にあった枯れ葉よりもずっと柔らかい。
「行きたい場所を細部まで頭に思い描くんだ。そして魔杖を振り、『ポータル』と唱えれば開く」
私は頷き、静かに目を閉じた。行きたい場所……海? 雪山? 海外? いやいや、そんなところに行ったら絶対お兄ちゃんに怒られる!
じゃあ自分の部屋? ……ダメ、帰った瞬間に扉を開けられたら一発でアウトだ。
神社? ちょっと遠いかな。公園? 家まで歩くのが大変そう。
そうだ、学校の……体育用具室!
放課後なら誰もいないし、家からも近い。ここなら絶対大丈夫!
積み上がった跳び箱のマット、壁際に並んだサッカーボール、鉄棒、それから少し埃っぽい匂い……。
深く息を吸い込み、手の中の魔杖をひと振りする。光が空中を一筋の線となって描き、やがてドアの形へと凝縮されていく。
空間がゆらりと揺れ、その中心に夜空のように深い青色の光が広がった。
「これが……ポータル!」
学院長は頷き、目の前の光の扉にそっと触れた。
「初めてでここまでできれば十分だよ。閉じる時は魔杖で軽く触れ、心の中で『閉鎖』と唱えればいい」
学院長は金色の葉を私の掌に戻してくれた。さっきまで輝いていた葉は、少しだけ色あせて見えた。
「ポータル魔法は膨大な魔力を消耗する。扉を開く時だけでなく、開いている間もずっと魔力を使い続けるんだ」
私は葉っぱをギュッと握りしめた。
「だからその葉は、君だけの『鍵』なんだよ」
私は大きく頷いた。学院長は左手首の時計をちらりと確認した。
「今日はここまでにしようか」
手首の時計を見ると、十八時三十三分。大変、急いで帰らなきゃ!
「学院長、今日は本当にありがとうございました!」
「また明日ね」
「はい!」
返事をしながらポータルの中へ飛び込んだ。視界が揺れ、次の瞬間には見慣れた体育用具室に立っていた。床のサッカーボール、隅のマット、全部記憶のままだ。
「ふぅ、よかった……」
そっとドアを少しだけ開け、廊下を伺う。誰もいない。胸を撫でおろし、校門を飛び出して夕焼け色の帰り道を駆け抜けた。
それからの日々は、まるで何事もなかったかのように穏やかに過ぎていった。朝は学校へ行き、放課後になると体育用具室へ滑り込む。
そんな日常が少しずつ当たり前になっていた。
ある日の放課後、終業のチャイムが校内に響き渡る。スクールバッグを肩にかけ、教室を出ようとした時、後ろから肩をポンポンと叩かれた。
「七奈ちゃん!」
振り返ると、千晴が笑顔で立っていた。
「今日、一緒に帰らない?」
「あっ……私、今日はちょっと急ぎの用事があって」
「えー、七奈ちゃん最近ずっと忙しそうだよね」
「えへへ、今度絶対一緒に帰ろうね!」
「そっか、気をつけて帰ってね」
「うん!」
教室を出た私は、学校近くの細い道を、少し遠回りして歩いた。路地裏を通りかかった時、ゴミ箱の脇から小さく低い唸り声が聞こえてきた。足を止め、下を覗き込んでみる。
そこには痩せこけた小さな犬が、片足を痛そうに曲げたまま身をすくめていた。
「あれ、ちょっと怖そう……でもケガしてるみたい」
「怖くないよー、怖くないよ。怪しい者じゃないからね」
手をひらひらさせながら、ゆっくり近づく。ゴミ箱の匂いと小さな犬の湿った毛の匂いが混ざって鼻をついた。
「うわ、結構ひどそう……」
屈み込み、痛む足を見つめる。一昨日に先生から治癒魔法を教わったばかりだし、もしかしたら試せるかも。
あたりを見回してみるけれど、聞こえるのは遠くで子供たちが遊ぶ声だけ。
……でも、なんだか誰かにこっそり見られているような気がする。
(気のせい……かな)
心の中で念じると、手の中に魔杖が現れた。小さな犬の前足を持ち上げると、犬が歯を見せ、私の手に噛みつきそうになったが、そのまま「うぅ……」と小さく鳴いて動きを止めた。
「大丈夫大丈夫、ワンちゃん、すぐ痛いの飛んでくからね」
魔杖を掲げ、「治癒」と呟く。緑色の光が魔杖の先から溢れ出し、傷ついた足がゆっくりと塞がっていく。抜け落ちていた毛も、みるみる生え揃っていった。
——電柱の影から、誰かがスマートフォンのカメラを少女と小さな犬へ静かに向けていた。




