第5話 初めて魔杖を握った日
「ただいまー」
「おかえり!」
玄関に立ったままリビングを覗くと、お母さんが床を掃除していた。
「お父さん、まだ帰ってないの?」
「もう少し遅くなるみたいよ」
しばらくしてお父さんも帰ってきて、三人で食卓を囲んだ。
「ちゃんと野菜も食べなさい。好き嫌いはダメよ」
お母さんは青菜をつまんで、私のお茶碗に入れてくれた。
「七奈、今日は学校どうだった?」
お父さんは新聞を置いて笑いかける。
「……普通かな」
テレビの音だけが妙に遠く聞こえた。胸の奥に、小さな空白が残っているような気がする。
「七奈、七奈」
「……誰?」
耳元で聞こえたのは、どこか聞き覚えのある声だった。ケーキを買ってきてくれた時の、プレゼントをくれた時の声。
「……ん」
「お兄ちゃん……帰ってきたの?」
目を開けると、私はベッドの上にいた。部屋の中は少し散らかっている。本棚の本が床に落ちていて、入口の近くには大きな鉄鍋まで置かれ、ゆらゆらと熱気が立ち上っていた。
脇に手を伸ばすと、うさぎさんが静かにそこに横たわっていた。
起き上がり、頭を押さえる。さっき起きた出来事が、少しずつ蘇ってきた。
「大丈夫かい、七奈」
藤代先生がベッドの脇に立って私を見ていた。彼の手にはどこか木目調の温もりを感じさせるコップがある。
受け取ると、手のひらに伝わるひんやりとした感触を、確かめるように少し強く握った。
「藤代先生……」
「悠斗くんは?」
「安心しなさい。隣の部屋にいるよ」
私はベッドに手をつき、足を床へ下ろそうとした。その瞬間、藤代先生が手を伸ばして止める。
「悠斗はまだ気を失っているんだ。しっかり休ませる必要があるから、今はそっとしておきなさい」
「そっか……」
「今回は、このうさぎが君たちを守ってくれたおかげだよ」
「うさぎさんが守ってくれたの?」
うさぎさんに目をやると、相変わらず静かにそこに横たわっていたけれど、胸の宝石は以前のようにキラキラとは輝いていなかった。
「このうさぎの中には、かなり強い魔力が込められていたんだ」
「ただ、その防御魔法は一度きりのものだったみたいだね。もう効力は残っていない」
コップを置き、うさぎさんをギュッと抱きしめた。
「そうだったんだ……」
「ところで、これは本当にお兄さんが普通の店で買ったものなのかい?」
「うん。何軒もお店を回って、やっと買ってくれたって言ってた」
「……何者かが魔法道具を外の世界へ持ち出した、ということか」
「七奈、目が覚めたか」
ドアが静かに開き、白いローブを着た男性が入ってきた。
「学院長」
藤代先生が立ち上がり、軽く一礼する。
「あの時の人が……学院長だったんですか?」
目の前の男性を見る。年齢は藤代先生とあまり変わらないくらいで、てっきり白髪で長いひげを生やしたおじいさんだと思っていた。
「魔法の世界は、思っていたものと少し違ったかい?」学院長は私を見て温かい笑みを浮かべた。
私は小さく頷いた。
「それで、そんな世界は面白かったかい?」
私はもう一度頷いた。
「空を飛ぶカボチャの列車、大きな果物の家……」
学院長は満足そうに笑った。
「じゃあ、七奈は魔法使いになりたいかい?」
一瞬頷きかけて——けれど慌てて首を横に振った。
「い、いいえ。ここは綺麗だけど……危なすぎます」
「学院長、なぜ普通の女の子を入学させようとしているんですか」
藤代先生が焦ったように口を挟む。学院長は軽く手で制した。
「空を飛べることや、思い通りに物を動かせるのは、とても素敵だと思わないかい?」
「それは……そうですけど」
「でも、私はお兄ちゃんのそばで、普通に暮らしたいです」
抱きしめたうさぎさんを見つめ、顔を上げる。言った瞬間、胸が不意に跳ねた。
「あ……その、家族と一緒にいたいって意味です!」
「七奈、君の選択を尊重しよう」
彼の手にする魔杖が軽く揺れると、柔らかい緑色の光がふわりと浮かび上がった。
「あの、学院長。私……朝ご飯に間に合いますか?」
学院長は思わず吹き出した。その笑い声とともに、魔杖の光も静かに消えていく。
「七奈、ここでの記憶を消したいかい?」
「学院長!」
私は少しうつむいた。脳裏にあの光景が次々と駆け巡る。
空からの落下、不思議な果物の家、奇妙なカボチャの列車、そして最後に……悠斗が「逃げろ」と叫んだ声。
私は首を横に振った。
学院長はしみじみと頷いた。
「なら、その記憶は残しておこう」
「え……?」
「黄金樹と悠斗を救った、君への贈り物だ」
「私が……?」
「君が時間を稼いでくれたから、私たちは間に合った」
「だから、その記憶を持ったまま帰りなさい」
次の瞬間、魔杖が眩しく輝いた。白い光が広がり、世界全体を純白の中へと溶かしていく。
目を開けると、そこは使い慣れた自分の部屋だった。机、カーテン、朝の光、そして隣に静かに横たわるうさぎさん。
「七奈、起きる時間だよ」
「七奈、早く起きろよ! 朝ご飯に遅れるぞ!」
ドアの向こうから、お兄ちゃんの叫ぶ声が聞こえる。
「もう起きてるよ!」
朝の光は、いつも通り部屋の中を温かく照らし出していた。
その日の昼休み。私は千晴と一緒に階段に座り、日向ぼっこをしながらお弁当を食べていた。
「千晴、あのね。私、昨日魔法使いの夢を見たんだ」
「ほんとに?」
千晴は箸でミートボールを挟み、口へ運ぶ。
「うん。男の子と一緒に箒に乗って、空を飛んだの……」
「アニメの見すぎじゃない? ほら、早く食べなよ」
「そうかなぁ……」
私は苦笑いしながら、またお弁当を食べ進めた。
放課後。私は聞き慣れた帰り道をゆっくり歩いていた。夕陽が体をぽかぽかと温めてくれる。横を流れる小川では、清らかな水が静かに流れていた。
少し離れた場所でバシャバシャと激しい水音が聞こえ、走っていってみると、一匹の子猫が川の真ん中で溺れかけていて、今にも沈んでしまいそうだった。
「大変!」
私は川辺へ駆け下り、草むらの脇にあった枝を拾って子猫へ差し伸べた。
けれど枝は子猫まで届かず、泥の上に這いつくばって腕を伸ばしても、あとほんの少しのところで届かない……。
もし……私にも魔法が使えたら。悠斗くんみたいに、手に魔杖があったなら。昨日の悠斗くんが握っていた魔杖が、脳裏に浮かんだ。
草の上に、一本の魔杖がふっと現れた。
「えっ……!?」
枝を投げ出し、その魔杖を握りしめた。昨日のあれは……本当に夢じゃなかったんだ!
私は魔杖を子猫に向けた。
「浮いて……お願い、浮いてよ!」
大声を張り上げるけれど、子猫は流され続けていく。
「どうして……!」
魔杖を見つめる私に、悠斗の言葉が頭の中によみがえった。
『魔法を使う時は、ちゃんと集中するんだ』
私は目を閉じ、集中した。ただ、集中するだけ。
「——浮遊」
その言葉が口から漏れた瞬間、体内から何かがひやりと抜き取られたような感覚が走り、魔杖を握る手が微かに震えた。
すると、あの子猫が本当にゆらゆらと宙へ浮き上がったのだ!
「えっ……!?」
(本当に……魔法が使えたんだ)
「——瞬間移動」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえ、子猫が一瞬で岸の上へと移動し、そのまま脇の草むらへ駆け込んでいった。
声のした方へ振り向くと、そこには見知った姿が立っていた。
「学院長……!?」
慌てて魔杖を背中に隠した。
「もう全部見えていたよ」
夕日の中。私は学院長と並んで土手の階段に腰を下ろしていた。
「学院長……どうして私の手元に魔杖があるんですか?」
手の中の魔杖を見下ろす。夕日に照らされ、杖の木目が優しく、繊細に浮かび上がっていた。
「黄金樹の下で起きたことを思い出してごらん」
「えっと……風が吹いてきて……それから……」
「まさか……あの水滴!?」
「そうだよ。君を療養室へ運んだ時、すでに君の体内でかすかな魔力が芽生えていることに気づいていたんだ。それは、黄金樹が君に与えた、君だけの魔杖」
「だから……あの時、あんな質問をしたんですね」
「魔法学院の生徒を選ぶのは、黄金樹だけじゃないんだよ」
「七奈、魔法学院へ来る気はないかい?」
「私……私……」
彼は夕日に黄金色へと染まった小川に目を向けた。
「七奈は、その力を何に使いたい?」
「うーん……」
私はうつむいたまま、手に持った魔杖で地面に円を描いていた。
「心が決まったら、また声をかけておくれ」
学院長は私の背中をポンと叩いた。彼が身にまとっていた白いローブが、次第に華やかで優雅な魔導礼服へと変化していく。
彼は杖を一度軽く振ると、光の粒子となって私の目の前から姿を消した。
◇
「ただいまー」
ドアを開けると、リビングは真っ暗だった。
台所からは、いつもなら聞こえてくるはずの調理の音が一切消え失せ、家の中は静まり返っている。
私は靴を脱ぎ、リビングの電気をつけた。
(お兄ちゃんとパパはまだ外かな。お母さんはどこだろう?)
「七奈、コホコホッ……帰ってきたの?」
奥の部屋、お母さんの寝室から聞き覚えのある声がした。
ドアを開けると、お母さんがベッドに横たわっていて、おでこには冷却シートが貼られていた。 お母さんの顔色は少し青白かったけれど、私の姿を見ると、それでも無理をして微笑んでくれた。
「お母さん、大丈夫?」
「平気よ、もうお薬も飲んだからね」
私はベッド脇まで行き、お母さんのおでこに触れた。熱い。
「いつも私には、風邪に気をつけなさいって言うのに」
その言葉が自分の口から出た瞬間、いつもより少し声が大きくなってしまったことに気づいた。
私はお母さんの様子を確認してから部屋を出て、静かにドアを閉めた。
台所へ向かい、ガスコンロの前に立った。お母さんのいつもの様子を思い出しながら、料理を作り始める。
鍋に入れたお味噌を見つめていると、立ち上る湯気が、まるで小さな渦巻きのように揺れていた。
夜、私はベッドの上でウサギのぬいぐるみを抱きしめていた。その胸にある宝石は、以前よりもくすんで見えたけれど、触り心地は昔と変わらなかった。
私は起き上がり、カバンから例の杖を取り出した。
ベッドの上に膝立ちになり、じっとその杖を見つめる。
どれくらいの時間が経ったか分からないけれど、私は意を決して、一度頷いた……。
翌日の午後、終業のチャイムが鳴り響くと同時に、私はカバンを持って教室を飛び出した。でも、今回向かったのは家ではなく、商店街の方角だった。
商店街の路地裏の突き当たり、その時計屋の前で、私はゴクリと唾を飲み込んだ。
ノックをしようとしたその時、夕真おばさんがドアを開け、私を見て微笑んだ。
「あら、お嬢ちゃん。こんにちは。まさか、本当にこうして来ることになるなんてね。」
夕真おばさんは笑いながら身を引いた。部屋の奥では、学院長がテーブルにつき、ドアの前にいる私を見つめていた。
「えっ?」
「どうだい、七奈。決心はついたかい?」
私はカバンから魔杖を取り出し、しばらく沈黙した。
「私、決めました!」
学院長は立ち上がり、私のそばに歩み寄ると、優しく頭を撫でてくれた。
「どうやら、七奈の答えは、もう決まったようだね」
学院長が杖を取り出し、床を軽くコツンと叩いた。周囲の景色が水面のように揺らぎ始め、世界全体が光に包まれていく。
次に目を開けると――私たちは、またあの黄金樹の下に立っていた。




