第4話 魔法学院と黒い影
部屋の中には大きな机と本棚が並び、机の上には整然と積み重なった本と一本の羽ペンが置かれていた。
一人の若い男性が机に向かって本を読んでいて、その肩には一羽のフクロウが静かに止まっている。
「わぁ……」
絵本に出てくる魔法使いみたいだ。フクロウは私を見つけると、小さく「ホウ」と鳴いた。男性はフクロウの頭を優しく撫でると、私たちへ視線を向けた。
「しゅ、主任!僕の説明を聞いてください!」
悠斗くんが今日起きた出来事を必死に説明するけれど、主任はその説明を聞きながらも、時折私の方をじっと見つめている。
「つまり、また無断で外へ出たんだね」
「……すみません、藤代先生」
悠斗くんはガックリと肩を落とした。私は隣の悠斗くんを見る。
つまり……彼、あのあんパンと冷たいお茶のためだけにわざわざ学院を抜け出したの!?
「君の名前は?」
「わ、私は森野七奈です」
「森野七奈……」
藤代先生は静かに目を閉じた。何かを思い出そうとしているみたいだ。しばらくしてから、ゆっくりと首を横に振る。
「七奈」
「そのうさぎ、どこで手に入れたんだい?」
私は思わずうさぎさんをギュッと抱きしめた。
「これは……小さい頃、誕生日にお兄ちゃんがくれたプレゼントです…」
「そうか……」
藤代先生は頷いた。両手を机につき、少し身を乗り出して、うさぎさんをじっと見つめる。
「……おかしい」
「ホウ、ホウ」
肩のフクロウが急に鳴き出し、羽を大きく広げた。部屋の隅に置かれた大きな鏡が、ぼんやりと淡い光を放ち始める。
「こんな時に……」
藤代先生は振り返って鏡の前へ歩み寄る。私が探るように覗き込むと、鏡の中は白く霞んでいて何も映っていなかった。
「悠斗」
「はい!」
「七奈を連れて学院の近くで待っていなさい。遠くへは行かないこと」
悠斗くんは先生を見つめ、それから私の腕の中のうさぎさん、そしてもう一度鏡へ視線を向けた。
「分かりました」
返事を聞いた藤代先生の手には、いつの間にか一本の魔杖が握られていた。
彼が鏡に向かって静かに杖を振ると、次の瞬間、まぶしい光が部屋いっぱいに広がった。
私は思わず目を閉じた。しばらくして光が消え、目を開けると、部屋には羽ペンだけが紙の上を走り、文字を書き続けていた。
「……え?」
……本当にいなくなっちゃった。魔法って、こんなことまでできるんだ。これ、宿題も勝手にやってくれたりしないかな!
隣で悠斗くんが大きく息を吐き出す。
「さっき先生、すごくこの子のこと気にしてたよね。何か秘密でもあるのかな?」
悠斗くんは隣に寄り、うさぎさんをじっと覗き込んだ。
「俺にも分からない」
うさぎさんを持ち上げると、いつもの柔らかな毛並みが指先に触れた。
胸の赤い宝石も、シャンデリアの光を受けて普段と変わらず輝いている。
「ところで、先生はどうしてあんなに急いでたの?」
悠斗くんは鏡に近づき、恐る恐る表面を触った。
「授業で少しだけ聞いたことがあるんだ。この鏡ね……別の世界と繋がってるんだって」
「えっ?」
私は一歩後退した。鏡はもう光っておらず、静かにそこに立っている。見た目はうちの全身鏡と変わらないのに、別の世界へ繋がっているなんて……。
「まあいいや! 藤代先生が戻ってくるまで、ここで休もうよ」
悠斗くんはパンと手を叩き、その場に胡坐をかいて座り込んだ。
「えー、学院を案内してくれないの?」
「やだ。どうせ待つだけだし」
私は頬を膨らませた。
「じゃあ帰ったら、みんなに魔法使いがいるって言っちゃうから」
「忘れた? 主任はまだ君の記憶を消してないだけだよ」
「それに、本当に話したところで……誰も信じないと思う」
「うぅ……」
「分かったよ、少しだけなら案内してあげる」
悠斗くんは苦笑しながら立ち上がり、私の手を引いた。部屋を出て学院を抜け、私たちはまたあの広場に戻ってきた。
花の街灯が頭上で優しく光り、甘い花の香りが鼻をくすぐる。ベンチで休む人たちを見ていると、近所の公園を思い出す。
「ねえ、悠斗くん」
並んで歩きながら尋ねる。
「魔法使いって、普段も普通の人みたいに暮らしてるの?」
「うん、学校にも行くし、仕事もするよ」
「へえ、魔法使いもバイトしてお金を稼ぐんだ」
「そりゃね」
悠斗くんが手を伸ばし、「召喚」と呟くと、袖から一本の魔杖が飛び出し、彼の手に収まった。
「それに、誰でも魔法を使えるわけじゃない。黄金樹に認められた人だけが、魔法を学べるんだ」
「黄金樹?」
「ほら」彼が指さしたのは、広場の真ん中に立つあの大きな木。金色の葉を揺らす巨木は、傘のように広場の半分以上を覆っていた。
いったい樹齢何百年なんだろう。こんなに大きな木は見たことがない。
「ずっと昔、最初の魔法使いが植えた木なんだって。今みんなが使ってる杖も、この木から生まれるんだよ」
「そうなんだ……」
私はゆっくり黄金樹へ近づき、幹の前で立ち止まって見上げた。ふわりと優しい風が吹き、葉がサラサラと音を立てる。
「おかしいな。この辺りは風が吹かないはずなのに」
彼は頭をかきながら木を見上げる。「もっと真面目に授業を聞いとけばよかった……」
私はそっと手を伸ばし、黄金樹の幹に触れた。ゴツゴツしているけれど、不思議と手に馴染んだ。
「そろそろ戻ろうか。藤代先生、帰ってきてるかもしれないし」
「うん」
木から手を離した。その時、ぽつりと冷たい水滴が頭の上に落ちてきた。ひんやりとした感触に思わず頭を触る。触れたのは少し湿った髪だけ。
「どうした?」
「なんでもない、水滴が落ちてきただけ」
私達は歩き出した。靴底がコツコツと音を立てる。
悠斗くんの後を歩きながら、考える。(もしこの出来事を全部忘れてしまったら、また昨日までの平穏な毎日に戻るのかな?)
黄金樹の周囲はしんと静まり返り、虫の鳴き声すら聞こえない。
その時、学院の方角から黒い影が夜空を疾走し、私たちの横を通り過ぎていった。振り返ると、そこには一人の男が静かに立っていた。
「ここにも人がいたか……」
男の視線が私と悠斗に注がれる。
「お前たち、『この部屋で待っていなさい』と言われたはずなのに、こんなところまで出てくるとはな。まあ、大した邪魔にはならんが」
男が黄金樹に向き直ると、その手に深い緑色の魔杖が現れた。そしてもう片方の手には、一つの赤い宝石が握られている。
(あの宝石……どこかで見たような……)
「【吸収】」
彼の魔杖が翠緑の光を放つと、金色の光が、黄金樹から吸い出されるように男の手元へ集まっていく。
黄金樹の葉はみるみるうちに金色から褐色へと変わり、枯れ果てていくかのようだ。
「そこまでだ!学院巡回隊!」
箒に乗った数人の魔法使いたちが空から飛び降り、男を取り囲んだ。火球や水弾が樹下の男へと放たれる。
「身の程知らずが」
男が魔杖を振ると、周囲の空気が激しく歪み、風の球体が葉や砕石を巻き込んで巡回隊へと襲いかかった。
火球や水弾は触れた瞬間に打ち消されていく。
風球が炸裂し、激しい煙塵が舞い上がった。ゴホゴホと咳き込む。
煙が晴れると、巡回隊の人々は地面に倒れ伏し、手にした魔杖も飛び散っていた。
「邪魔者ばかりだな」
悠斗くんが魔杖を構え、向き直った男へ「【火球】!」と叫んだ。魔杖の先から放たれた火球が男へ飛んでいく。
しかし男は振り返りもせず、片手で火球を握り潰すと、魔杖を軽く一閃させた。風球が悠斗くんのすぐ脇で爆発する。
「悠斗!」
舞い上がる土煙の中へ駆け寄ると、少年は顔をしかめ、地面にうずくまり、片手で肩を押さえていた。魔杖も傍らに転がっている。
「七奈、逃げろ……!」
私は悠斗の魔杖を拾い上げた。埃でざらついた感触。私は悠斗を見つめ、それから樹下の男へ視線を向ける。
片手に魔杖を握ったまま、もう片方の手で悠斗の腕を引いた。男は私たちを見つめ、男は自分の前に、再び風の球を作り出した。させた。
「終わりだ」
風球が炸裂する直前、隣にいた悠斗くんが力を振り絞って私を突き飛ばした。私は地面へ倒れ込み、手のひらを激しく擦りむいた。
痛っ……。目を開けた時には、悠斗くんが倒れていた。
男の視線が悠斗に止まった。魔杖を握る手がほんの微かに震えた。だがすぐに、再び風球が彼の上に現れる。
私は地面に手をつき、震える足で立ち上がった。一歩、また一歩と、悠斗くんのもとへ向かう。風球が迫る。私は魔杖を掲げ、強く目を瞑った。
もう……信じるしかない。
「キュアップ・ラパパ!」
周囲はしん……と静まり返り、目の前には暗闇と、迫り来る風球の重い風切り音だけが響いていた。
大きくなっていく。
風の音が、どんどん近づいてくる。
——ドォン!!
猛烈な衝撃とともに、私は尻餅をついた。周囲が昼間のように眩しく光り輝く。
薄目を開けると、うさぎさんの胸に嵌め込まれた赤い宝石が、凄まじい防壁の光を放っていた。
「……あり得ない!」
男は魔杖を構えた姿勢のまま叫び、信じられない様子で再び杖を振った。周囲の砕石が宙に浮き上がる。
その時、後方から一筋の風の刃が疾走し、男の魔杖の前へと叩きつけられた!
「そこまでにしときな、矢野」
低く落ち着いた声が聞こえ、私は気を失った悠斗を抱きしめたまま振り返った。
そこには魔杖を手にした一人の男性が立っており、魔杖の周囲を数枚の緑の葉が舞っていた。
「白川……」
白川が一言も発さず魔杖を地面に強く突くと、何重もの厚い土壁が大地から立ち上り、巨大な檻のように矢野を閉じ込めた。矢野が魔杖を振ると、土壁は一瞬で粉砕される。
天地を覆う土煙の中、白川は迷いなく突き進んでいった。土煙の向こうに見えるのは、煙の中で閃く白い閃光のみ。
煙塵が晴れると、白川の手から魔杖は消え、代わりに一本の長剣が握られていた。
「相変わらずだな、白川」
「お前もな」
「院長先生、遅くなりました!」
空から聞き覚えのある声が響く。見上げると、藤代先生が赤い魔法の絨毯に乗って舞い降りてきた。
「……思ったより戻るのが早かったな」
矢野は肩をすくめた。
「今日はこの辺にしておこう」
彼の身体は砂時計の砂のように、ゆっくりと地面へ沈んでいく。藤代先生が魔杖を手に飛び出そうとした。
「藤代、追う必要はない。もう追いつかん」
藤代先生は地面に残った砂を見つめ、深く息を吐いた。
「先生……最初から捕まえるつもりはなかったんですね」
白川院長は答えず、私の前まで歩いてくると腰を落とした。私を見ているのか、それともうさぎさんを見ているのか。
私は悠斗を抱きしめる。彼の穏やかな寝息が伝わってくる。黄金樹から、一枚の金色の葉がひらひらと舞い落ちてきた。
私たち……助かったんだよね。
「藤代先生……」
私が呟いた瞬間、視界がゆっくりと漆黒に包まれていった。遠くで誰かが焦ったように私の名前を呼んでいる気がする。
けれど——その声も次第に遠ざかり、闇の中へと消えていった。




