第8話 私が連れて帰る
千晴は宿の部屋へ戻ると、ベッドへ駆け寄り、巻き貝の通話器を手に取った。
「お願い、森野七奈につないで」
千晴の呼びかけに、巻き貝から小さな泡が一つ浮かんできた。
泡には、大きな×が描かれていた。
そばには、七奈の巻き貝が静かに置かれたままだった。
「うう……白川院長につないで」
巻き貝から、小さな泡が次々と浮かんできた。
『白』『川』『院』『長』『は』『い』『ま』『せ』『ん』
(しまった……院長先生の名前、七奈ちゃんに聞いてなかった)
千晴はベッドに座り、巻き貝をぎゅっと抱きしめた。
(どうしよう……どうしよう、どうしよう……頭の中がぐちゃぐちゃだ)
千晴は膝に顔を埋めた。目尻からこぼれた涙が、そっと巻き貝の中へ落ちた。千晴は顔を上げ、巻き貝を脇に置くと、バッグを抱えて、中から文化祭で飾ったあの絵を取り出した。
絵の中では、二人の少女が木の上に座り、楽しそうに寄り添いながら、少し離れたところに浮かぶ月を眺めていた。
「わ、私のせいだ……も、もし……昨日、あんなに早く寝なければ……ぐっすり眠ったりしなければ……私……七奈ちゃん……」
千晴は手元の絵を見つめた。涙が、絵の中の二人の少女の間にぽたりと落ちた。涙は画用紙を濡らし、そのうちの一滴が、いつの間にかショルダーバッグの中へ落ちて、黄金の葉に触れた。
バッグがかすかに揺れた。一本の『絵筆』が中から筆先をのぞかせ、そっと抜け出して、千晴の肩に寄りかかった。
絵筆は千晴を軽くぽんぽんとたたき、それから、そっと反対側へ回った。
千晴は手で押しのけた。まだ、ううっ、ううっ、と泣き声を漏らしていた。しばらくして、千晴は急に顔を上げ、辺りを見た。
一本の絵筆が、ふわりと宙に浮かんでいた。絵筆は千晴の手元へ近づくと、細長い柄をすり寄せた。
「あなた……誰?」
絵筆の先が、千晴の手にそっと『画杖』と書いた。
「画杖……七奈の魔杖だよね。お願い、早くあの子のところへ連れていって……」
画杖は筆先を横に振り、千晴の手をちょんちょんとつついた。それから、ベッド脇の紙に、小さな巻き貝を描いた。
巻き貝の隣には、『悠真』の二文字が書かれていた。
「そうだ。あのとき、列車に乗せてくれたのは七奈のお兄さんだった……よかった!」
千晴は袖で涙を拭くと、画杖を手に取って頬をすり寄せた。
「ありがとう、画杖さん」
◇
「森野悠真につないで」
巻き貝がかすかに震え、ゆっくりと泡をいくつか吐き出した。
「もしもし、どちらさまですか?」
浮かんできた泡から、悠真の声が聞こえてきた。
千晴は胸に手を当てて、深く息を吸った。
(泣いちゃだめ、泣いちゃだめ)
「な、七奈のお兄さんですか。千晴です」
「千晴か。七奈たちと楽しく遊んでる?」
「あの……」
千晴は、昨夜のことを悠真に話した。
「それで、画杖が俺に電話するように教えてくれたんだね?」
泡から、悠真が息を吐く音が聞こえた。
「はい。今、どうすればいいですか? ここで待っていればいいですか?」
「うーん。この子が千晴を選んだんだし、七奈は千晴の大切な友達だろう? 君たち二人なら、きっとできると信じてるよ」
「私を選んだ?」
千晴は手元の画杖を見た。筆先の宝石がきらきら光っていた。
「うん。七奈が千晴を魔法の世界へ遊びに連れてきたときに、選んだんじゃないかな」
(もしかして……あのとき?)
千晴の思いは、七奈と黄金樹の下に立っていた、あの夕暮れへ戻った。あの黄金の葉も、今と同じように、そっと千晴のそばへ舞い降りたのだった。
「千晴、千晴、聞いてる?」
「はい。それで、どうやって使えばいいんですか?」
「千晴は『神筆馬良』のお話を聞いたことがある? あの魔法の筆と、同じことができるんだよ」
「神筆馬良……わかりました!」
「うん、うん。それから、追跡魔法のほうは……ちょっと待ってね」
悠真の声が、突然聞こえなくなった。千晴は手元の巻き貝を見た。
「えっ……壊れちゃった?」
千晴が巻き貝を揺すると、中から突然、手が出てきた。その手には、金色の魔杖が握られていた。
「えええっ!?」
「追跡!」
一筋の光が、ベッド脇の棚にあるウサギの髪留めを、ぴたりと照らした。髪留めは、アニメに出てくる小さなおもちゃみたいに動き出した。
手は巻き貝の中へ引っ込み、あとから泡だけがいくつか浮かんできた。
「よし、千晴。七奈を見つけて、連れて帰っておいで」
「うん……うん!」
部屋の中で、少女はウサギの髪留めをそっと手のひらに載せ、ドアを押し開けた。
◇
どこかの薄暗い地下室で、一人の少年が、魔杖で頭上の戸をたたいていた。
「悠斗、少し休んで」
私は魔杖を両手でぎゅっと握りながら、はしごの上の悠斗を見た。
「くそっ、なんでこんなに頑丈なんだ」
悠斗は飛び下りると、両手で魔杖を持ち上げ、地下室の入口へ向けた。
「火球!」
火の玉が、地下室の戸に激しくぶつかった。けれど、予想していた爆発音は聞こえず、障壁が波打っただけだった。
悠斗は床にへたり込み、目を閉じてつぶやいた。
「はあ……はあ……あいつ、どこで魔法石を手に入れたんだ。こんなに長く結界を保てるなんて」
部屋の中が、また静かになった。しばらくすると、二人のお腹が、そろってぐうっと鳴った。
「あ、お腹ぺこぺこだ……」
私はお腹をさすりながらつぶやいて、悠斗のそばまで這っていった。
「悠斗……私たち、ずっとここから出られないのかな」
「そんなことないよ。もう少ししたら、またやってみるから」
悠斗はふらふらしながら、また立ち上がろうとした。私は手を伸ばして引き止めた。
「悠斗、無理しないで」
私はバッグから、小さな食パンのかけらをそっと取り出した。昨夜、悠斗と食パンを分けたあと、こっそり少しだけちぎって、バッグにしまっておいたのだ。
「食パン、少し残してあるんだ。悠斗が食べて」
そう言っていると、悠斗も小さな食パンのかけらを取り出した。悠斗はそれを見て、唾を飲み込んだ。
「あの、七奈……俺はまだお腹が空いてないから、七奈が食べて」
目の前の少年を見る。こんなときまで強がって……。私よりたくさん魔力を使ってるのに。
私は少し笑って、悠斗の手から食パンを受け取った。
「ありがとう、悠斗」
「どういたし――」
悠斗が言い終わらないうちに、私は二つのかけらを、その口に押し込んだ。
「むぐっ……俺……」
「悠斗の唾がついちゃったから、私……はあ……もう食べない」
悠斗は私を見て、それから二つの小さなかけらを飲み込んだ。
「それで……いいんだよ」
私は目を閉じて、悠斗の膝に頭を載せた。悠斗の膝は暖かいけど、枕みたいに柔らかくはない……。でも、悠斗、すごく汗をかいてる。お風呂に入らないと……。
こうしてたら、少しはお腹が空かなくなるかも……。
「七奈ちゃん、悠斗」
「悠斗……気のせいかな?」
悠斗は返事をしなかった。部屋の中は、しんと静まり返っていた。
「七奈ちゃん、悠斗」
「七奈、千晴の声だ」
千晴ちゃんの声が、また外から聞こえてきた。私は何とか体を起こした。悠斗は地下室の入口へ駆け寄り、戸を手でたたいた。
「千晴、俺たちは下にいる!」
「悠斗?」
「そう!」
「じゃあ、入口から離れてて」
「離れる? わかった――!」
悠斗ははしごから飛び下り、後ろへ下がった。
◇
千晴は地下室の戸を手でたたいた。木の板が、こんこんこんと音を立てた。
(よし、あれにしよう)
千晴は画杖を取り出し、空中に大きなハンマーの輪郭を描いた。
最後のひと筆を描き終えると、ピンク色のハンマーが千晴の手に落ちてきた。
「よし、いくよ!」
◇
ドォン――
激しい爆発音とともに、濃い煙が地下室の入口から流れ込んできた。
「けほっ……けほっ」
入口の上から、一筋の光が差し込んできた。煙が晴れると、千晴が顔をのぞかせ、地下室の中を見た。そのそばには、ピンク色の大きなハンマーもあった。
「悠斗、七奈ちゃん!」
千晴ちゃんの手からウサギの髪留めが飛び下り、私の手の上まで走ってきた。
「千晴ちゃん、ウサギさん……」
「七奈ちゃん! 七奈ちゃん!」
千晴は飛び下りて、私の前へ駆け寄ると、そのまま抱き上げた。
千晴は、やっぱりいい匂いがした。桃の匂い。好き。
「七奈ちゃん、もう寝すぎないから。もう寝すぎないから」
「千晴ちゃん……大丈夫だよ……私が……私が、千晴ちゃんを置いていったんだもん」
「さ、まずは戻ろう」
千晴は私をおんぶした。その腕は、まだ少し震えていた。背中に寄りかかると、桃の香りがもっとはっきりした。
「千晴ちゃん……」
「どうしたの、どうしたの?」
「いちごのケーキが食べたい……」
そう言うと、私は目を閉じて眠ってしまった。
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注:『神筆馬良』は中国の物語。馬良の持つ魔法の筆には、描いたものを現実のものにする力がある。




