第29話 夏の旅へ
陽射しが学院本館へ降り注ぎ、ガラス窓を透かして、授業中の教室まで明るく照らしていた。
学院長室では、藤代先生が一枚の図面を手に、学院長先生の隣に立っていた。
「学院長、この辺りはすべて増築する必要があります。それから……」
学院広場では、柚乃先生が生徒たちと一緒に水の魔法を練習している。
透き通った水しぶきが陽射しを浴び、鮮やかな小さな虹をいくつも作っていた。
◇
(あれから、矢野さんはどこへ行ったんだろう。いつか、また……)
「森野さん、この問題に答えてください!」
我に返ると、先生がチョークで黒板を何度か叩いていた。コンコンという硬い音が教室に響く。
「この問題は……」
気づけば、今日はもう午後最後の授業になっていた。
「皆さん、これから夏休みだからといって、勉強を忘れないように。楽しい夏休みを過ごしてください!」
先生が言い終えると、教室から大きな拍手が沸き起こった。
千晴ちゃんと並び、家へ続く道を歩いていく。少し離れたところでは、何羽かの鳥が電線へ飛んでいき、小さな首をくるくると動かしていた。
「千晴ちゃん、夏休みはどこかへ遊びに行くの?」
「まだ決めてないんだ。七奈ちゃんは?」
「うーん、私もまだ決めてない。えへへ」
夏の陽射しを浴びながら、二人の少女は道の向こうへ少しずつ遠ざかっていった。
◇
「ただいまー!」
「おかえり。もう夏休みなの?」
リビングから、いつものようにお母さんの声が聞こえた。
テレビからは、天気予報を読み上げる声が流れている。
『各地を悩ませていた厳しい暑さも、少しずつ和らいできました。夏休みも、過ごしやすい日が続きそうです』
鞄を下ろす。
ソファにはお兄ちゃんが座っていて、その腕の中には、すっかりきれいになったうさぎさんが横たわっていた。
「えっ、これは?」
「前と同じうさぎさんだよ。何針も縫ったんだからね」
お兄ちゃんはそう言って、そばに置いてあった裁縫箱を掲げた。
「悠真、また七奈を甘やかして。新しいものに替えればいいでしょう」
お母さんの言葉を聞きながら、お兄ちゃんからうさぎさんを受け取った。胸元にある赤い宝石は、いつもと変わらず輝いている。
「嫌だ。私はこの子がいいの!」
小さく笑い、うさぎさんを抱えて二階へ駆け上がった。
背後から聞こえるお母さんの「まったく」という声には、笑い声が交じっていた。
うさぎさんを大切にベッドの端へ置き、窓辺へ顔を向ける。
柚乃先生にもらったジュースの瓶が、夕暮れの中でひときわ明るく輝いていた。その隣では、小さな芽の葉が、夕日の方へ向かって伸びをしている。
決めた。前からずっと行ってみたかった、あの場所にしよう!
ベッドから飛び下り、扉を開けた。
◇
「お兄ちゃん、夏休みに友達と魔法世界へ旅行に行きたいの!」
「七奈は、友達と一緒に行きたいの?」
お兄ちゃんは私の頭を撫で、窓の外を眺めながら穏やかな声で続けた。
「でも、先に言っておくけど、魔法世界にも危険な場所はあるからね」
「やっぱり分かっちゃった? 千晴ちゃんと一緒に行きたいの。それに……」
お兄ちゃんの服の裾を軽く引っ張り、しわになった布を指先でつまんだ。
「仕方ないな」
「それじゃあ、お父さんとお母さんには……」
「うーん……俺も一緒に行くって言えばいいよ」
「えへへ。それで決まり! ありがとう、お兄ちゃん!」
お兄ちゃんが額を押さえてため息をつく中、部屋から飛び出した。窓から陽射しが差し込み、外では蝉が鳴いている。
自分の部屋の前まで走り、もう一度お兄ちゃんの部屋を振り返ってから、扉を開けてベッドへ飛び込んだ。
うさぎさんを抱き、もう片方の手でLINEを開く。
(千晴ちゃん、夏休みに一緒に魔法世界へ旅行に行かない?)(既読)
(えっ、本当? 行くー!)
(やったーwww)
(でも、お父さんとお母さんに聞かれたらどうするの?)
(私とお兄ちゃんも一緒に旅行へ行くって言えばいいよ)
(いい考え! それじゃあ、あとでお父さんとお母さんに話してみるね)
(うんうん)
千晴ちゃんからのメッセージを読み、スマホの画面を消した。
目を閉じてうさぎさんを少しだけ強く抱きしめると、自然と口元が緩んだ。
◇
「悠真、七奈! ご飯よー!」
「はーい!」
お母さんの声が、いつものように階下からゆったりと届いた。
「はいはい、熱いから気をつけて。最後の一皿だぞ」
家族で食卓を囲む中、お父さんが台所から最後の一皿を運び、テーブルの中央へ置いた。
皿の上では、じゃがいもが小さな火山みたいに湯気を立てている。箸でつついてみると、ふんわりと柔らかかった。
「七奈、箸でつついちゃダメよ」
「分かってるよ」
お母さんは私の箸を見ると、手を伸ばして叩くような仕草をした。椅子の上で身体を後ろへ反らし、慌てて手を引っ込める。
「「「「いただきます!」」」」
食器の触れ合う音と、テレビから流れるニュースの声が部屋の中に響いていた。家の明かりは窓を通して、少しずつ外へ滲み出している。
じゃがいもを食べながら顔を上げ、お兄ちゃんを見た。ちょうどお兄ちゃんも、こちらを見ていた。
目が合うと、お兄ちゃんが小さく頷く。
私も頷き返し、お父さんとお母さんへ顔を向けた。
「お父さん、お母さん。夏休みに旅行へ行きたいの」
「七奈はまだ小さいでしょう。一人で出かけるのは危ないから、ダメよ」
お父さんとお母さんの箸が止まり、二人がこちらを見た。
お母さんの声はいつもよりずっと大きく、部屋の中ではニュースの音まで怖いくらいに響いていた。
「夏休みなら、俺が七奈と一緒に行けばいいよ」
「まったく、お前たち兄妹は仕方ないな」
お父さんはそばに置いてあった新聞を広げ、読み始めた。
「ありがとう、お父さん!」
「あなた」
「いいじゃないか。悠真も一緒なんだろう? 子どもたちが出かけたいなら、行かせてあげよう」
目の前の茶碗を持ち上げ、肉を一枚口へ運ぶと、そのまま急いで残りのご飯を食べ進めた。
お母さんの「女の子がそんなに急いで食べちゃダメ」という声が聞こえていたけれど、あっという間に食べ終わり、お兄ちゃんと一緒に二階へ向かった。
お父さんのそばを通る時、小さな声が聞こえた。
「道中、気をつけるんだぞ。何かあったら、家に電話しなさい」
新聞を手にしたお父さんを見る。
その背中は、今までと変わらず大きかった。
◇
部屋へ入ると、お兄ちゃんは杖を呼び出し、床を軽く叩いた。
部屋全体が暗くなり、周囲の景色が星空のように変わっていく。その中央には、一枚の地図がはっきりと浮かんでいた。
「お兄ちゃん、これは何の魔法?」
「教えない。これからは、ちゃんと授業を聞きなさい」
「うぅ……」
お兄ちゃんに手を引かれ、地図のそばまで歩いていく。
目の前で地図が大きくなり、小さな山脈や町が次々と浮かび上がった。
地図の中央近くには、町の黄金樹と、大樹そのものを校舎にした魔法学院が、それぞれ静かに佇んでいる。
魔法学院へ手を伸ばした。
「これ……魔法世界の地図なの? すっごく大きいね」
「七奈、どこへ行きたいか見てみて」
「うーん、考えてみる」
顎へ手を当てる。地図に浮かんだ町々の景色が、次々と頭の中をよぎった。
お兄ちゃんの手の中に、一つの水晶玉が現れる。
杖で水晶玉を軽く叩くと、部屋に広がっていた星空と地図が、そのまま中へ吸い込まれていった。
「ほら、先にお風呂へ入っておいで。あとで杖を使って水晶玉を叩けば、続きを見られるから」
「分かった!」
◇
お風呂を済ませ、早めに布団へ潜り込んだ。
部屋の扉を閉める前、お兄ちゃんは「明日はちゃんと起きるんだよ」と言っていた。
布団を両脚で挟みながら、スマホでLINEを開く。
(千晴ちゃん、お父さんとお母さんには話したよ。千晴ちゃんの方はどうだった?)
(七奈ちゃんの家族と一緒に写生旅行へ行くって言ったら、お父さんとお母さんもいいって)
(それじゃあ、何日かしたら出発しようw)
(そんなに早いの? 先に荷物をまとめておくね。おやすみ、七奈ちゃん)
メッセージを読み終え、スマホの画面を消して枕元へ置いた。
隣にいるうさぎさんを見ていると、数週間前に起きたことが、もう一度頭の中に浮かんでくる。
月明かりがベッドのそばへ差し込み、辺りは静まり返っていた。
待って。
私、まだ荷物をまとめてないよぉぉぉ!
◇
翌日、魔法学院へ授業を受けに行った時、旅行の話を悠斗にした。
こいつは最初、どうでもよさそうな顔をしていた。それなのに授業が終わると、私の手を引っ張りながら、自分も一緒に行くと言い出した。
仕方ないなぁ。
だって、私たちは友達だもんね。
◇
一週間後の朝、私とお兄ちゃんは家の前に立っていた。
お母さんが私たちを見ながら、もう一度服の襟元を整えてくれる。
「道中、気をつけるのよ。悠真、七奈の面倒をちゃんと見てね」
「分かってる」
「それじゃあ、早く行こう。遅くなったら地下鉄が混んじゃうよ」
「うん。お母さん、行ってきます!」
◇
千晴ちゃんの家へ着くと、千晴ちゃんとお母さんが玄関の前で待っていた。
出発する前、千晴ちゃんのお母さんはお兄ちゃんを呼び止め、少し離れた場所で何かを話していた。
きっと、千晴ちゃんのことが心配なんだよね。
「千晴ちゃん、何を持ってきたの?」
「カメラと画用紙とクレヨン、それから……」
「えっ、そんなに持ってきたの? すごい」
千晴ちゃんは背負ったリュックを揺らしながら、何度かぴょんぴょんと跳びはねた。
「大丈夫だよ」
千晴ちゃんは胸を張って笑った。
お兄ちゃんも千晴ちゃんのお母さんと話し終え、こちらへ歩いてくる。
「それじゃあ、魔法学院へ行こう」
「うん!」
◇
転移門を通り、黄金樹の下へやってきた。
悠斗はすでに木の下で待っていて、手には何かを持っていた。
「悠斗、来たよ!」
「七奈、千晴!」
悠斗は駆け寄り、手にしていた学生用の徽章を私たちへ差し出した。
「えっ、私の分もあるの?」
千晴ちゃんは手の中の徽章を見てから、顔を上げて悠斗を見た。
「あ、あの……学院長先生に、持っていくように頼まれたんだよ」
お兄ちゃんと顔を見合わせ、小さく笑った。
お兄ちゃんの顔は、今までと何も変わらない。でも、これからしばらく離れるんだから、きっと私に会いたくなるよね……。
そうだ!
「お兄ちゃん、これ、預かってて」
鞄からうさぎさんを取り出し、お兄ちゃんの手へ渡した。
今までと変わらず、真っ黒な身体には、明るく輝く赤い宝石がついている。
「……七奈は連れていかないの?」
「うん……私が旅行に行って、お兄ちゃんのそばにいない間は、うさぎさんに私の代わりにお兄ちゃんを見ていてもらうの」
目を閉じ、首を傾げて笑った。
お兄ちゃんも笑いながら、私を抱きしめる。
「分かった。大切に預かるよ」
「それじゃあ、そろそろ駅へ行こう」
悠斗が振り返り、手を振りながら私たちを呼んでいた。
本当にせっかちなんだから……。でも、ようやくカボチャの列車へ乗れるんだ。悪くないかも。えへへ。
悠斗のあとを追いかけながら、もう一度黄金樹の方を振り返った。
「待って、悠斗!」
「どうした?」
悠斗が振り返り、不思議そうな顔をした。
「黄金樹の下で、写真を一枚撮ろう!」
「いい提案だな」
悠斗が笑いながら戻ってくる。
千晴ちゃんが鞄からカメラを取り出して悠斗へ渡すと、悠斗はそれをそのままお兄ちゃんへ差し出した。
「えっ、結局俺が撮るの?」
「お兄ちゃーん」
その手を握り、何度も揺らした。
「分かった、分かった」
黄金樹の下で、三人一緒に並んだ。
「撮るよ」
「うん!」
「三、二、一!」
「「「チーズ!」」」
黄金樹の葉の上で、一滴の露が朝の淡い光を反射していた。
第一巻 完




