第28話 黄金樹の下の記憶
(返して、返して!)
目の前では、数人の男の子が、ぼろぼろの服を着た一人の男の子を取り囲んでいた。
(これは俺のものだ!)
男の子は必死に立ち上がり、そのうちの一人へ飛びかかった。相手の服をつかみ、そのまま殴り合いになる。
(お前なんか、ゴミ拾いのくせに! 俺たちに逆らうつもりかよ!)
私、もうこの世にはいないのかな。それとも、鏡の世界にいるの……?
男の子たちは、倒れた彼を何度も蹴りつけた。
男の子はそばにいた一人の脚をつかんで引き倒し、奪われた木馬を取り返すと、胸元へ大切そうに抱え込んだ。
(やめて!)
声のした方へ目を向ける。
一人の女の子が、スカートの裾を持ち上げながら駆けてきた。
そのスカートは冬の雪みたいに真っ白で、きらきらと輝く宝石のボタンがいくつもついていた。
(晴奈ちゃん、これはお前には関係ないだろ! 俺たちは、このゴミ拾いを懲らしめてやるんだ!)
晴奈先輩……?
(これ以上この子をいじめたら、先生に言いつけるからね!)
女の子は両手を強く握りしめ、男の子たちへ向かって声を張り上げた。
その隙に、倒れていた男の子は地面から起き上がり、女の子の背後へ隠れた。
(分かったよ。覚えてろ!)
一人の男の子が、女の子の後ろに隠れた少年を睨みつけ、勢いよく走り去っていった。
女の子は振り返ってしゃがみ込むと、目の前にいる男の子の服についた土を払い、乱れた裾を整えた。
(蒼、どうしてまたあの子たちと喧嘩したの?)
これは……矢野さん?
(あいつら、晴奈ちゃんがくれた木馬を奪おうとしたんだ……)
(でも、ほら)
男の子は涙を拭い、握りしめていた手を開いた。手のひらには、小さな木馬が一つ載っている。
(バカね。なくしたら、また一つあげればいいでしょう)
(ダメだよ。これは晴奈ちゃんがくれたものだから……なくせない)
(やっぱりバカだね。あははっ)
女の子は笑いながら鞄から飴を一つ取り出し、男の子の口元へ差し出した。
「子どもの頃、蒼はいつもあの子たちにいじめられていたんだよ」
背後から、ため息交じりの声が聞こえた。振り返り、その姿を見る。
「晴奈先輩!?」
もう一度、先ほどの女の子へ目を向けた。
女の子は男の子を連れて黄金樹の下へ向かい、二人で並んで座りながら、夜空の星を眺めている。
「あれは、昔の記憶だよ……」
晴奈先輩は両手を背中へ回し、首を傾げながら幼い頃の自分を見つめていた。
その身体も少しずつ、あの女の子と同じ姿へ変わっていく。
「どうして……私に先輩の記憶が見えるんですか?」
晴奈先輩はつま先で地面を軽く蹴りながら、しばらく考えるように黙っていた。
やがて、私の目を見つめる。
「だって、今の私たちは一緒になっているから」
「一緒って……どういう意味ですか?」
顔を伏せ、自分の両手を見つめながら拳を握った。
「爆発した瞬間、私の身体とあなたの身体が重なったの」
晴奈先輩は目を閉じ、微笑みを浮かべた。
「それじゃあ、私……もう家族には会えないんですか……?」
晴奈先輩は首を横へ振り、私のそばまで歩いてきた。
「自分の魔力で、あなたの身体を包み込んだの」
「えっ?」
晴奈先輩は私の横を通り過ぎ、幼い女の子のそばへ歩いていくと、木の下に座る男の子の頭を撫でた。
「鏡の世界で、蒼は一度も私に会いに来なかったんだ」
「もしかしたら……」
隣にいる幼い頃の自分と同じように、夜空に浮かぶ丸い月を見上げる。
「こんな姿になった私とは、会いたくなかったのかもしれないね」
晴奈先輩は小さくため息をつき、自分の両手へ目を落とした。
「あなたの名前は知らないけど、昔の蒼なら、きっとあなたを背後にかばったと思う」
晴奈先輩が振り返る。その目尻には、涙が浮かんでいた。
身体はすでに、そばにいる女の子と同じくらい幼くなっている。
「だから、蒼を恨まないでくれる……?」
私の目尻からも涙がこぼれた。
何かを答えようとしたけれど、喉の奥が詰まったように苦しくて、声が出なかった。
小さく頷き、精いっぱい笑顔を浮かべる。
「そうだ。蒼に伝えてほしいことがあるんだけど、お願いしてもいい?」
「……先輩、言ってください」
「蒼と出会えたことが、私にとって一番幸せなことだったよ。ちゃんと生きて、いつまでも私のことで悲しんだりしちゃダメだからね」
黄金樹の葉から、一滴の露が手のひらへ落ちた。
◇
赤い宝石が砕けた瞬間、一つの人影が黄金樹の下から飛び出し、凄まじい速さで南の森へ向かった。
魔法陣の前では、白川がふらつきながら立ち上がっていた。
矢野のそばへ瞬間移動すると、その身体をつかみ、魔法陣の縁まで引き戻す。
柚乃と藤代も悠斗を抱え、白川のそばへ駆け寄った。
「ダメだ! 晴奈がまだあそこにいる!」
矢野は白い光へ手を伸ばしたけれど、白川に強く引き戻された。
森に残っていた数羽の鳥が、衝撃に驚いて空へ飛び立つ。遠くにそびえる学院本館の大時計も、かすかな音を響かせた。
やがて白い光が消えると、魔法陣の中央には巨大な穴が残されていた。赤い宝石が砕けたことで、それまで蓄えられていた膨大な魔力が森全体へ広がっていく。
周囲の黄ばんでいた枝葉が、少しずつ緑を取り戻し始めた。少し離れた場所では、地面に倒れていた何匹かの蟻が起き上がり、警戒するように辺りを見回している。
白川たちは巨大な穴の縁へ集まり、中を覗き込んだ。
そこにいたのは、地面に倒れている一人の少女と、そのすぐそばに横たわる幼い女の子だけだった。
◇
「七奈!」
目を閉じたまま、誰かが慌ててそばへ駆け寄ってくる足音を聞いた。身体を抱き起こされると、周りが急にぽかぽかと温かくなった。
目を開き、何度かまばたきをする。やがて、目の前にいる少年の顔が少しずつ見えるようになった。
「悠斗……」
「よかった……本当によかった……」
悠斗は私の頭を抱き寄せ、自分の胸元へ埋めた。
「こ、これじゃ……く、苦しいよ、バカ……」
「ごめん、ごめん!」
悠斗が慌てて顔を上げる。その目尻には、まだ涙が残っていた。
少し離れた場所から風を切る音が聞こえ、一つの人影がすぐそばへ降り立った。
「お兄ちゃん……?」
「お兄ちゃんはここにいるよ」
お兄ちゃんはそう言って、金色の杖を掲げた。
「――【治癒】」
呪文を唱えた途端、周囲の空が暗くなり始めた。大木の枝が激しい風に吹かれ、ざわざわと音を立てる。
柔らかな光が身体を包み込み、苦しかった呼吸が少しずつ楽になっていった。
「お兄ちゃん、お願いがあるの」
私の身体から離れ、そばに横たわっている晴奈先輩へ顔を向けた。その姿は、先ほどよりもずっと幼くなっている。
「先に、あのお姉さんを助けてくれない? あの人が、私を助けてくれたの……」
「あの人がいなかったら、七奈はどうなって――」
「お兄ちゃん!」
言葉を遮り、杖をつかんで、まっすぐその目を見た。
お兄ちゃんはため息をつき、そばにいる晴奈先輩へ顔を向けた。
「治療したとしても、鏡の世界へ送り返すことしかできないよ」
「うん」
お兄ちゃんの顔を見ながら、家にいる時と同じように笑った。
お兄ちゃんは杖を掲げたまま、何かを小さな声で唱え始める。晴奈先輩の身体が、少しずつ写真に写っていた頃の姿へ戻っていった。
空から何本もの稲妻が落ち、巨大な穴の周囲へ突き刺さる。
「――【帰還】!」
お兄ちゃんが杖を振るうと、一枚の鏡が現れ、晴奈先輩の身体を中へ吸い込んだ。魔法を使い終えると、お兄ちゃんは慌てて杖を収めた。
荒れ狂っていた風と雷は、しばらく咆哮を続けたあと、少しずつ静まっていく。顔を上げ、穴の縁を見た。
学院長先生が、何も言わずにお兄ちゃんを見下ろしていた。
◇
学院長先生は穴の中へ飛び下りると、私たちを一人ずつ穴の外まで運んでくれた。
そばでは、矢野さんが穴の縁にひざまずき、晴奈先輩が消えた場所を見つめていた。
「矢野さん……」
お兄ちゃんの腕から身体を起こし、矢野さんのそばまで歩いていく。晴奈先輩の真似をして、その隣へしゃがみ込んだ。
「矢野さん……晴奈先輩が、伝えてほしいことがあるって」
「な、何だ? 何なんだ? 早く……早く教えてくれ!」
矢野さんは縋るように、私の両肩をつかんだ。
その耳元へ顔を近づけ、晴奈先輩から預かった言葉を小さな声で伝える。
話を聞き終えた矢野さんは、まるで石像になったように、その場から動かなくなった。
晴奈先輩の真似をして手を伸ばし、その頭を撫でる。手のひらから一滴の露が滲み出し、矢野さんの頭へ落ちた……。
「蒼……私たちと一緒に学院へ戻りましょう」
学院長先生は矢野さんのそばまで歩み寄り、手を差し出した。
矢野さんは顔を上げ、差し出された手を見つめながら立ち上がる。
「……すまない」
けれど、その手を取ることはなかった。
手にしていた杖を地面へ投げ捨て、そのまま森の奥へ向かって歩き始める。やがて、矢野さんのかすかな声が風に乗り、私の耳へ届いた。
「俺はまだ諦められない……晴奈が望む方法を、必ず見つけてみせる」




