第27話 約束の時
森の奥深くは、まるで激しい嵐が通り過ぎた直後のように荒れ果てていた。
何本もの大木が幹の途中から無理やりへし折られ、地面を塞ぐように横たわっている。折れた幹の表面には、鋭い爪痕が何本も深く刻み込まれていた。
「もうやめろ、蒼!」
白川学院長の杖が眩い光を放ち、そこからほとばしった一筋の光が、翠狼の頭上から降り注いだ。
「晴奈を連れ戻したくないのか!」
矢野は片手を高く掲げた。
魔法陣の中央に突き立てられた杖。その先端にある赤い宝石から溢れ出した魔力が、何頭もの巨大な翠狼へと凝縮され、白川たちの前に群れを成して立ちはだかっていた。
「矢野……周りを見なさい。これほど多くの罪のない命を犠牲にしてまで、晴奈が本当にそれを望んでいると――」
「どうでもいい」
矢野は目を閉じた。
「誰にも……俺の邪魔はさせない」
ゆっくりと目を開き、掲げていた手を振り下ろす。
「学院長。もう何を言っても無駄です」
そう言うと、藤代先生は杖を構えた。眩い光の中から、一羽の鷹が姿を現す。
「行け」
鷹は大きな両翼を勢いよく広げ、矢野へ向かって一直線に飛んでいった。
「アオオーン――!!」
狼の群れの中で、ひときわ大きな翠狼が低い咆哮を上げた。
一匹の翠狼が勢いよく飛び出し、真正面から鷹へ体当たりする。鷹の鋭い鉤爪が、その身体へ深く食い込んだ。
しかし、翠狼は怒り狂ったように吠え、前脚を力いっぱい振るうと、鷹を地面へ叩き落とした。
「……どうやら、こうするしかないようですね」
白川が杖を振るうと、柔らかな光の中から、一頭の白い鹿が姿を現した。
「アオォ……」
翠狼たちが怯んだように数歩後ずさる。
白い鹿は前脚を高く持ち上げ、蹄を勢いよく大地へ叩きつけた。
流れる光が波紋のように広がり、瞬く間に狼の群れを呑み込んでいく。光に包まれた翠狼たちは苦しげな悲鳴を上げ、次々とその姿を消していった。
その場に残ったのは、わずか数匹の翠狼だけだった。
群れの長が低い咆哮を上げる。全身に荒れ狂う風をまとい、白い鹿へ勢いよく襲いかかった。
「……結局、こうなってしまいましたか」
白川の杖が眩い光に包まれ、細長い剣へ姿を変えていく。白川は目を閉じ、小さくため息をついた。
「あの頃と……同じように」
矢野の手にも、翠色の長剣が形作られていく。
白川は目の前の矢野を見据え、地面を蹴った。
二本の剣が激しくぶつかり合い、甲高い金属音が森全体へ響き渡る。
幾度も交わされる斬撃が木々を切り裂き、舞い上がった落ち葉が空中で激しく渦を巻い
た。
◇
一本の大木の陰から、小さな頭が覗いた。
「学院長先生たち……すさまじい戦いになっていますね」
柚乃先生は木の幹に身を隠し、小さな声で呟いた。
「それじゃあ、私たちはどうやって手伝えばいいんですか?」
柚乃先生の袖を指先でつつき、悠斗と一緒に木の陰から顔を覗かせる。
目の前では、学院長先生と矢野さんの姿すら、ほとんど目で追えなくなっていた。時折、小さな石までこちらへ飛んできて、木の幹へぶつかっている。
「二人とも、中央にある杖を見てください」
【鷹の目】の魔法を唱えると、柚乃先生が指差した場所がはっきりと見えるようになった。
杖の先端にある赤い宝石へ、四方から魔力が次々と流れ込んでいる。まるで、トイレの水を流した時みたいに、ぐるぐると吸い込まれていた。
「先生、あの赤い宝石を壊せば、矢野さんを止められるんじゃないですか?」
悠斗がローブのフードを引っ張った。
柚乃先生は頷き、私たちの方へ振り返る。
「先生は、学院長先生たちを助けに行きます」
「はい!」
私たちの返事を聞くと、柚乃先生は杖を手に、木の陰から駆け出していった。
◇
柚乃先生は、魔法陣の中央へ向かって走っていた。その手に握られた杖の先には、すでに一筋の光が集まっている。
「――【水流】!」
鮮やかな青い光線が、赤い宝石へ向かって真っすぐ放たれた。
けれど、触れる寸前、魔法陣を覆う結界に遮られてしまう。
青い光が弾ける中、柚乃先生は一瞬動きを止め、もう一度杖を掲げた。
その時、群れの長が、少し離れた場所にいる柚乃先生へ目を向けた。その隙を逃さず、白い鹿が横から体当たりする。
群れの長は地面へ突き飛ばされ、苦しげに起き上がると、低い唸り声を漏らした。
残っていた一匹の翠狼が飛び出し、柚乃先生の前へ降り立った。着地した瞬間、地面が大きく揺れ、私と悠斗はふらつきながら、そばの大木へつかまった。
「柚乃!? 森の外れにいた翠狼は片づけたのですか?」
矢野と戦っていた白川学院長が、少し離れた場所にいる柚乃先生へ目を向けた。
「白川、よそ見をするな」
矢野の長剣が、風を切り裂きながら迫る。
白川学院長は咄嗟に剣を掲げて受け止め、再び激しい接近戦へ戻っていった。
◇
「悠斗、赤い宝石のそばを見て」
悠斗が私の指差す方へ目を向ける。
魔法陣の中央にある杖のそばに、一人の小さな女の子が現れていた。
その身体は少しずつ成長し、やがて写真に写っていた少女と同じ姿になっていく。
「あれはきっと、矢野が学院を破壊するための武器だ。俺たちも手伝いに行こう」
悠斗がそばの大木へ拳を打ちつけると、何枚かの葉が落ちてきた。
遠くにいる少女を見つめる。今も目を閉じたまま、静かに佇んでいた。
あれは、悠斗が言うような魔法兵器じゃない。
写真に写っていた、晴奈先輩だ。
だけど……。
顔を上げると、少女が現れるのに合わせるように、周囲の木々から緑色が失われていた。葉は次々と黄色く変わり、地面へ落ち始めている。
杖を強く握った。
倒れていた動物たちと、異常なほど暑かった今年の夏が、頭の中に浮かんだ。
このまま続けば、魔法の世界だけじゃない。
学校も、千晴ちゃんも、それにお父さんとお母さんまで……。
「悠斗……行こう!」
「うん!」
悠斗が【疾行】を唱え、私たちは魔法陣へ向かって駆け出した。
◇
群れの長が前脚を大きく振るい、白い鹿へ叩きつけた。もともと透き通っていた身体に、深い爪痕が一本刻まれる。
視線の端で、魔法陣へ近づいていく二人の姿を捉えた。
群れの長は口から巨大な赤い球を吐き出し、起き上がろうとしていた白い鹿へ叩きつける。
赤い球が弾け、激しい土煙を巻き起こした。
群れの長は煙の中から高く飛び上がり、魔法陣へ近づく二人へ襲いかかった。
◇
「七奈、危ない!」
遠くから伝わってきた振動とともに、土煙が押し寄せてきた。 巨大な影が、頭上から降り注ぐ月明かりを遮る。
私と悠斗は、それぞれ左右へ転がるように飛び退いた。群れの長が魔法陣の前へ降り立ち、大きな身体を震わせる。
「悠斗、あいつの力も、もうほとんど残ってないみたい」
その身体は、柚乃先生の水の鶴と同じように透き通り始めていた。
「――【火球】!」
私の言葉を聞くと、悠斗は一つの火球を放った。
群れの長は素早く火球をかわし、前脚を振るって一枚の風の刃を放つ。
「――【防護】!」
悠斗へ駆け寄りながら、杖を振るった。
小さな結界が現れ、風の刃に触れた瞬間、音を立てて砕け散る。結界にぶつかって勢いが鈍った隙に、悠斗が素早く私のそばへ飛び退いた。
「七奈、こいつ速すぎる……」
悠斗は目の前の群れの長を睨み、私を背後にかばった。
「それなら、左右から同時に攻撃してみよう」
「分かった」
私と悠斗は、それぞれ左右へ飛び出した。
「――【火球】!」
「――【水弾】!」
群れの長は、飛んでくる攻撃を素早くかわしながら、何枚もの風の刃を放ってくる。
けれど、挟み撃ちにされて狙いが定まらないのか、風の刃を放つ間隔は先ほどよりも長くなっていた。
走りながら何度も水弾を放つ。胸の奥が、少しずつ痛み始めていた。
このままじゃ、私たちの体力が先に尽きちゃう。
どうすればいいの……。
一枚の風の刃が飛んできた。慌てて横へ飛ぶと、風の刃が巻き起こした激しい風が、すぐそばを掠めていく。
地面を何度か転がり、すぐに立ち上がった。
「悠斗! 思いついた!」
「何を?」
悠斗は私を見てから、もう一度杖を振るった。
「――【火球】!」
飛んでいく火球を見ながら、杖を掲げて呪文を唱える。
「――【疾行】!」
火球が風の塊に包まれ、驚くほどの速さで群れの長へ飛んでいった。
かわす間もなく、火球がその頭へ激しく叩きつけられる。
「アオォッ!」
一撃を受けた身体は、今にも消えてしまいそうなほど薄くなっていた。
「七奈、すごいぞ!」
悠斗は息を切らしながら振り返り、親指を立てた。
群れの長の目に、凶暴な光が浮かぶ。
その視線は、目の前にいる悠斗へ向けられていた。
「悠斗、休む暇を与えちゃダメ!」
「うん!」
悠斗がもう一度火球を放ち、同時に私も疾行の魔法を唱えた。群れの長は防御を諦めたように、前脚を高く振り上げる。
火球が放たれるのと同時に、その前脚から一枚の風の刃が放たれた。
「危ない!」
火球が直撃した瞬間、群れの長は長い咆哮を上げ、無数の光の粒子となって消えていく。
けれど、すでに放たれていた風の刃は消えず、そのまま悠斗へ襲いかかった。
悠斗は直撃こそ避けたものの、巻き起こった衝撃に吹き飛ばされ、地面へ倒れ込んだ。
「悠斗!」
そばへ駆け寄り、倒れている悠斗を抱き起こす。
「お、俺は大丈夫……。は、早く……行って……」
最後まで言い終わらないうちに、悠斗は意識を失ってしまった。少し離れた場所にある魔法陣へ目を向け、悠斗を地面へ寝かせる。
悠斗がここまで頑張ってくれたんだ。
絶対に、無駄にはできない。
魔法陣の縁まで歩いていく。遠くでは、群れの長の咆哮に気づいた矢野さんが、魔法陣の方を振り返っていた。
「くそっ!」
「蒼。お前の相手は、こちらだ」
白川の剣が、矢野の顔すれすれを掠める。
矢野は数歩後ずさり、震える手で剣を握り直した。長剣を掲げると、赤い宝石の周囲を流れていた魔力が、少しずつその身体へ集まっていく。
「させません」
白川は剣を構え、そのまま矢野へ突進した。
◇
後ろを振り返る。
矢野さんの周囲で荒れ狂う魔力が弾け、学院長先生と先生たちは爆風に吹き飛ばされ、地面へ倒れ込んでいた。
もう一度、目の前の魔法陣へ向き直る。
今度は、私の番だ。
結界の中へ足を踏み入れた瞬間、全身を何本もの針で刺されたような痛みが走った。
「痛い……」
私、注射が嫌いなのに……。
歯を食いしばり、遠くにある杖を見つめる。
そのそばに立つ少女は、すでに目を開けていた。周囲を見回し、最後に私へ目を向ける。
ほとんど動かなくなった脚を両手で支え、一歩ずつ前へ押し出していく。
鞄の中にいるうさぎさんが眩い光を放ち、私の身体を包み込んだ。顔を伏せ、小さく息を吐く。
地面に、赤い雫が何滴か落ちていった。
もう一度顔を上げ、杖へ向かって歩き続ける。
矢野さんにとって、私はとても悪い人なのかもしれない。だけど、私にも、そばにいたい家族と友達がいる。
手を伸ばし、杖から赤い宝石を取り外した。すぐそばでは、あの少女が不思議そうに首を傾げ、私を見ていた。
「宝石を戻せ!」
背後から、矢野さんの声が聞こえた。
振り返ると、学院長先生と先生たちが、地面へ倒れていた。
「だ、ダメ……!」
赤い宝石を胸元へ抱き寄せる。矢野さんは真っ赤になった目で私を見つめ、震える手で長剣を握っていた。
「……蒼?」
そばにいる少女が、目の前の矢野さんを見た。
「晴奈、心配するな……もうすぐ、本当に生き返れるんだ!」
そう言って、矢野さんは長剣を手に、私へ向かってくる。
鞄の中で、うさぎさんの赤い宝石が眩い光を放った。あの剣は、もうほんの数メートル先まで迫っていた。
手の中にある赤い宝石へ目を落とす。
矢野さんに、これ以上間違いを犯させちゃいけない。
でも、どうすれば……。
(「縄のこと? 強い魔力をぶつければ、術式は耐えきれずに内側から弾けるんだよ」)
お兄ちゃんの言葉が頭の中に響いた。
鞄からうさぎさんを取り出す。その胸元にある赤い宝石は、目が痛くなるほど強い光を放っていた。
この二つの魔力をぶつければ、魔法陣を壊せるかもしれない。
だけど、こんなに近くにいたら、私まで爆発に巻き込まれちゃうよね。
爆発……きっと、すごく痛いよね。
顔を上げ、すでに枯れてしまった木々と、星一つ見えない夜空を見た。
(「俺は……うさぎさんが一緒なら、きっと大丈夫だよ。だから、七奈は絶対に無事に帰ってくるんだよ」)
お兄ちゃん、明日の朝ご飯は、食べられないかもしれない。
(「だからね、七奈ちゃん……絶対に、無事でいてね」)
(ごめんね、千晴ちゃん)
お父さんとお母さんには、絶対に言わないでね。私のことは……遠いところへ旅に出たって、そう言って……。
涙が次々と、手の中の赤い宝石へ落ちていく。
二つの赤い宝石を左右の手で強く握り、全身の力を込めて勢いよくぶつけ合わせた。
二つの宝石から、真っ白な光が溢れ出す。
耳の奥で、キーンという音が鳴り響いた。
森の奥深くを、凄まじい衝撃波が一気に駆け抜けていった。




