第26話 今度は一緒に
体育用具室の前で足を止め、扉の取っ手を見つめた。表面には、赤茶色の錆が少しだけこびりついている。
目を閉じて深く息を吸い、扉を押し開けた。
用具室の奥で杖を振ると、転移門がゆっくりと広がっていく。光の向こうにある広場へ足を踏み入れた途端、昼間よりも蒸し暑い空気が押し寄せ、着ている服までじっとりと湿ったように感じた。
うさぎさんは鞄の中へ潜り込み、小さな耳だけを覗かせている。
南の森の上空を見上げた。もう夜だというのに、時折、一、二羽の鳥が森の方から飛び出してくる。
(急がなくちゃ。悠斗はきっと、もう着いてる……)
通りを勢いよく駆け抜け、南の森へ向かった。
花の街灯は、明かりを支える茎がいつもより深く垂れ下がり、光を宿した花が頭に触れそうになっていた。
◇
南の森では、悠斗が草むらに身を潜め、少し離れた場所にいる翠狼を見つめていた。
翠狼の前に立ちはだかっているのは、柚乃先生の水の鶴だった。
「……柚乃先生!」
大きな木の根元には、柚乃先生がうずくまっていた。
その前では、水の鶴が大きな両翼を広げ、先生を守るように立っている。
「あれは……具象化の魔法か」
翠狼は目の前の水の鶴を睨み、低い唸り声を上げていた。水の鶴の身体は少しずつ輪郭を失い、透け始めている。
「まずい。このままじゃ、水の鶴が完全に消えちまう……」
悠斗は歯を食いしばり、杖を強く握った。
翠狼が低く唸り、後ろ脚で地面を蹴って空中へ飛び上がった。柚乃先生は杖先にかすかな光を集め、水の鶴へ流し込む。
消えかけていた身体に、少しだけ色と輪郭が戻った。
水の鶴は両翼を大きく羽ばたかせ、巻き起こした風に乗せて、何本もの水の刃を翠狼へ放った。
翠狼は前脚で水の刃を次々と打ち砕き、その勢いのまま地面へ降り立った。
「――【火球】!」
一つの火球が草むらから飛び出し、着地したばかりの翠狼へ命中した。
翠狼は苦しげな声を上げ、前脚を大きく薙ぎ払った。巻き起こった土煙が草むらへ襲いかかる中、悠斗は箒に乗って飛び出した。
直後、背後で大きな音が響く。先ほどまで隠れていた草むらは土煙に呑み込まれ、折れた枝葉をわずかに残すだけになっていた。
「柚乃先生!」
先生のそばへ降り立ち、身体を支えて立ち上がらせる。
「風祭くん、こ、ここは危険です……」
そう言いながらも、柚乃先生の目は翠狼から離れなかった。
水の鶴は翼を羽ばたかせたあと、先ほどよりもさらに透明になっていた。
◇
森へ足を踏み入れると、周囲の景色が少しずつ変わり始めた。
頭上を仰ぐ。まだ木々が色づく季節でもないのに、枝先の葉はすでに緑を失いかけていた。
杖を胸の前で横に構え、辺りを警戒しながら進んでいく。
森の奥へ進むほど、道端に倒れている鳥の数が増えていった。細い道には、シマモヨウネズミまで力なく横たわっている。
その場にしゃがみ込み、一匹のシマモヨウネズミを抱き上げた。手のひらには、まだわずかな温もりが残っている。
小さな胸元へ耳を寄せると、かすかな鼓動と細い息遣いが伝わってきた。
「矢野さん……今度こそ、絶対に止めてみせる!」
シマモヨウネズミを道端の草むらへ寝かせると、少し離れた場所から物音が聞こえた。
音を頼りに駆けていく。目の前の草むらは何かに薙ぎ倒され、地面がむき出しになっていた。
少し先には、一匹の翠狼がいる。その正面には水の鶴が立ち、背後では、一人の少年が女性の身体を支えていた。
「悠斗、柚乃先生……」
翠狼の身体もかすかに透き通り、その内側では暗緑色の魔力が流れている。
(水の鶴は、柚乃先生の具象化魔法だよね。だったら、あの狼も矢野さんが具象化したものに違いない)
周囲を見回したけれど、矢野さんの姿はどこにもなかった。
翠狼は透明になりかけた水の鶴を睨み、身体を低くして突進した。
細い脚へ牙を突き立てる。水の鶴が口から水流を放ち、その身体へ叩きつけても、翠狼は噛みついたまま離れなかった。
背後にいる悠斗と柚乃先生が、少しずつ後ろへ下がっていく。
「どうしよう……」
水の鶴は、今にも消えてしまいそうだった。
強く首を横に振り、目を閉じる。
今は慌てちゃダメ。早く考えて……。
(「魔力そのものには、決まった形がありません。具象化とは、その魔力に一時的な形を与える魔法です」)
目を開くと、柚乃先生の言葉が頭の中に蘇った。鞄から、一枚の金色に輝く葉を取り出す。
(黄金樹の葉が魔力を蓄えられるなら、中にある魔力を水の鶴へ渡すことだってできるはず)
「お願い!」
杖を掲げ、消えかけている水の鶴へ向けた。
「――【伝送】!」
黄金樹の葉から金色の輝きがみるみる失われ、縁から少しずつ枯れ葉のような茶色へ変わっていく。
一筋の光が、水の鶴を包み込んだ。
その身体に、透き通った水晶のような眩い輝きが戻り始める。水の鶴はひと声高く鳴き、口から海のように青い光線を放った。
翠狼は避ける間もなく光線を受け、その身体がさらに透け始める。
「これは……どうなってるんだ?」
悠斗が、輝きを取り戻した水の鶴を見つめていた。
「悠斗! 伝送の魔法で、黄金樹の葉にある魔力を水の鶴へ渡して!」
悠斗が声のした方を振り向く。
「七奈!?」
「ぼんやりしてないで、早く!」
「……うん!」
悠斗はローブの内側から、黄金樹の葉を取り出した。
「――【伝送】!」
葉の金色の輝きが薄れ、縁から少しずつ枯れていく。
水の鶴は再び力強い輪郭を取り戻し、その内側では、魔力が川の流れのように勢いよく巡り始めた。
翠狼はすでに遠くまで退き、水の鶴へ向かって低く唸っている。やがて背中を向け、森の奥へ逃げ出した。
「水の鶴!」
柚乃先生が杖を振るった。
眩い光線が逃げていく翠狼に追いつき、その身体を貫いた。
翠狼は無数の暗緑色の光となって弾け、森の中へ消えていく。大きな音が響いたあと、辺りは再び静まり返った。
◇
少し離れたところにいる悠斗と柚乃先生へ駆け寄った。
「七奈、どうしてここに……」
悠斗が言い終えるより先に、右手を振り上げ、その頬を叩いた。
パァン――。
静かな森に、その音だけが大きく響いた。叩いた手のひらが、じんじんと熱い。
「どうして……一緒に行くって約束したのに」
顔を伏せ、腕で目元を擦った。
「俺は、ただ……」
「私だって、みんなが傷つくところなんて見たくない! だって、みんな友達でしょう!」
両手で顔を覆い、悠斗と柚乃先生を見上げることができなかった。涙が手のひらへ流れ込み、頬に残った雫がくすぐったい。
しばらくして、悠斗が小さな声で口を開いた。
「七奈……ごめん」
「……風祭くん、森野さん」
柚乃先生は私たちの間へ入り、二人の肩を抱くようにそばへ引き寄せた。
ハンカチを取り出し、顔を覆っていた私の手を優しく外すと、頬に残った涙を少しずつ拭ってくれた。
「ゆ、柚乃先生……私、ただ……みんなと一緒にいたくて……」
悠斗は俯き、杖を握った手を背中へ隠した。
「うんうん。先生には、ちゃんと分かっていますよ」
顔を上げる。柚乃先生の顔は土埃にまみれ、腕には浅い傷が一本残っていた。
「森野さんは、みんなと一緒に危険へ立ち向かいたかった。風祭くんは、友達が傷つくところを見たくなかった。二人とも、お互いのことを心配していたのですよね」
柚乃先生は、私と悠斗の顔を交互に見た。
「ですが、友達だからこそ、きちんと話し合わなくてはいけないこともあります。それでも森野さんがここまで来たのは、自分がどうしたいのか、もう心の中に答えがあったからなのでしょう?」
嗚咽を漏らしたまま、何も答えずに大きく頷いた。手のひらには、乾きかけた涙がまだ少しべたついている。
「七奈、ごめん……」
悠斗は小さな声でそう言った。
「……私も、叩いちゃってごめんね」
「じゃあ、今度は一緒に、森のみんなを守ろう」
照れくさそうに笑う悠斗を見ながら、腕で鼻を拭う。
「うん!」
◇
「ここへ来る途中、二人も見たでしょう? 鳥や小さな動物、それに木々まで……少しずつ生命力を失っています」
柚乃先生は先頭を歩きながら話していた。私と悠斗は顔を見合わせ、揃って頷く。
「おそらく矢野は何らかの魔法陣を張り、この森にある魔力と生命力を大量に吸い上げているのでしょう」
柚乃先生は小さくため息をついた。
「いったい何を企んでいるのか……私にもまったく分かりません」
下唇を強く噛んだ。
「わ、私……」
言葉の続きは喉まで出かかっていた。それでも、最後まで話すことはできなかった。
「森野さん?」
柚乃先生が不思議そうにこちらを見る。
「……な、何でもないです」
「たった一匹の翠狼でさえ、あれほど手強かったのです。学院長たちが相手にしているものは、さらに危険なはずです」
足を止め、地面へ目を落とした。
そこには、何匹もの蟻が力尽き、動かなくなっていた。
杖をもう一度強く握りしめる。
「……それなら、もっと急いで行きましょう」




