第25話 破られた約束
家へ帰ってお風呂を済ませたあと、机の前へ腰を下ろし、窓の外に広がる空を見上げた。
「今日は……星が見えないなぁ」
片手で頬杖をつき、ぼんやりと外を眺める。机の天板は、夜風と同じようにひんやりとしていた。
コン、コン。
部屋の扉が叩かれた。
「七奈?」
「ん? どうしたの、お兄ちゃん?」
お兄ちゃんは部屋へ入ると、ベッドと机を順番に見回し、最後に私へ目を向けた。
「今日はどうだった?」
「うーん……」
机へ突っ伏したまま、窓の外を眺めた。吹き込んでくる風で前髪が目元にかかり、少しちくちくする。
「普通だった……かな」
お兄ちゃんは何も言わず、私のそばまで歩いてきた。
大きな手が、頭の上へ優しく載せられる。
「何かあったなら、一人で無理して抱え込まなくてもいいんだよ」
お兄ちゃんはそう言って笑い、窓辺に置かれた小さな植木鉢へ目を向けた。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
少しためらってから、口を開く。
「いつか……お父さんも、お母さんも」
「それから、お兄ちゃんも……私を置いていなくなっちゃうの?」
お兄ちゃんは私の隣へしゃがみ込んだ。髪を撫でる手は、ずっと止まらないままだった。
「七奈。お兄ちゃんにとってはね」
「七奈が毎日、楽しそうに笑っていてくれることが、一番嬉しいんだ」
「きっと、お父さんとお母さんも同じだよ」
お兄ちゃんは小さく笑った。
「だから、元気を出して」
月明かりが、お兄ちゃんの横顔を照らしていた。金色の瞳には、雫のような柔らかな光が揺れている。
「……うん!」
精いっぱい、明るい笑顔を浮かべた。
たとえいつか、みんながいなくなってしまっても、みんなだって、私にいつまでも泣いていてほしくはないよね。
お兄ちゃんが小さく笑う。
「でも、今度また泣いた時は、ちゃんと顔を洗ってから家へ入るんだよ。帰ってきた時に、すぐ分かったから。」
「えっ!?」
それだけ言い残し、お兄ちゃんは部屋から出ていった。
(あの時……本当に顔を洗うのを忘れてたような……)
顔を赤くしながら、遠ざかっていく背中を見て目元を擦った。
「バカ。バカお兄ちゃん」
◇
放課後になると、いつものように体育用具室へ向かった。
黄金樹の下へ着くと、広場の上空では、何人もの魔法使いが箒に乗って旋回していた。
(巡回隊の人たちだ。どうしてこんなところに……)
空を仰ぐと、胸の奥へ重たい不安が広がっていく。
「どうしたんだろう……」
周囲の屋台は普段と変わらず、ジュース屋のおじさんの店には、いつもより多くのお客さんが集まっていた。
空気には、何となくじっとりとした湿り気がある。
(嫌な予感がする……)
「とりあえず、授業へ行こう」
ため息をつき、頭上に広がる黄金樹を見上げてから、学院広場へ向かった。
◇
「七奈ー!」
生徒たちの中で、悠斗が大きく手を振っている。
「悠斗、こんにちは!」
こちらも手を振りながら、そばへ歩いていった。
「昨日の宿題、ちゃんとやってきたか?」
悠斗は得意そうに、黄金樹の葉を取り出した。私も鞄から、金色に輝く葉を取り出す。
手に載せてみると、普通の葉よりも少しだけ重かった。触った感触も葉っぱというより、薄い氷みたいに冷たい。
手の中の葉へ目を落とし、胸元を軽く押さえた。
黄金樹の葉の宿題を終わらせるため、お昼休みにこっそりトイレへこもって魔力を注いでいた。長居しすぎて、先生に見つかりそうになったっけ。
周囲を見回す。
「そういえば、今日は柚乃先生がいないね」
「そう言われてみれば……」
悠斗も辺りを見回した。広場にいるのは、生徒たちばかりだった。
「皆さん、静かにしてください」
一つの声が、広場へ響き渡った。箒に乗った一人の先生が、私たちの前へ降りてくる。
「特別な事情により、柚乃先生はしばらくお休みになります」
「本日の授業は、私が代わりに担当します」
「ええっ!?」
◇
それから数日間、授業へやってくる先生は、ほとんど毎日のように入れ替わった。
ある日、教室へやってきたのは、巡回隊の少年たちだけだった。
「皆さん、学院の先生方は現在、外部との交流研修へ出ています。本日の授業は中止としますので、教室で自習をして、勝手に外へ出ないようにしてください」
先頭の少年はそう告げると、二人の隊員を教室へ残し、ほかの隊員たちを連れて出ていった。
「……ねえ、先生たちはいったいどこへ行ったんだろう?」
悠斗は腕を組み、考え込んだ。
「先生たちの部屋を見に行ってみようよ」
「うん!」
◇
十二階の廊下、その一番奥。
コン、コン。
「失礼します……」
扉を少しだけ開き、二人揃って中を覗き込んだ。
「あれ? 藤代先生もいないね」
机の上には、一本の羽根ペンだけが残されていた。
悠斗はそれを手に取る。
「先生、ずいぶん前に出ていったみたいだな」
「どうして分かるの?」
「ほら。インクがすっかり乾いてる」
「うん。それに、フクロウの止まり木のそばにも餌がないよ」
つま先立ちになり、そばに置かれた止まり木を覗き込んだ。
◇
学院長室、職員室、いくつもの教室……どこへ行っても、先生たちの姿は見つからなかった。
最後には学院の大広間までやってきて、二人で床へ座り込んだ。
「みんな、いったいどこへ行っちゃったんだろう……」
悠斗は額の汗を拭い、片手で服の襟元を引っ張って風を送っていた。
「最後に柚乃先生を見たのって、いつだったっけ?」
「えっと……柚乃先生が急いでどこかへ行った、あの日じゃないかな」
(……あっ!)
「悠斗! 思い出した!」
「ん?」
「少し前に、身体の中の魔力がおかしいって話したでしょう?」
「うん」
「柚乃先生が私の魔力を調べたあと、あの日の授業はすぐに終わったの」
「それに、あの日、具象化された白い鶴の中から、一部の魔力がずっと南へ流れていた!」
悠斗は眉をひそめ、目を閉じた。
「……矢野の仕業か」
「えっ?」
「矢野が何らかの方法で、大量の魔力を集めているんじゃないか?」
悠斗の言葉を聞き、写真に写っていた黄金樹の葉と……晴奈先輩のことを思い出した。
「学院長先生たちに、きっと何かあったんだ。」
悠斗が立ち上がると、魔杖がその手の中へ現れた。
「行こう」
「えっ?」
「悠斗!」
慌てて立ち上がる。
「私たちが行っても、何の役にも立てないかもしれないよ?」
悠斗は足を止めた。魔杖を握る手が、かすかに震えている。
「……それでも、ここで何もせず待っているよりはましだ」
そう言って、学院の正門へ向かって歩き始めた。
その背中を黙って見つめる。
(『七奈が家族ともう一度会えたこと、俺も心から嬉しいんだ』)
(『俺が七奈を無事に家まで連れて帰るから』)
(『俺だって、本当はすごいんだからな!』)
(……もう)
(いつも無理ばかりするんだから)
(この大バカ)
「……悠斗! 私も行く!」
悠斗は振り返り、驚いたように目を見開いた。やがて、いつもの明るい笑顔を浮かべる。
「それじゃあ今夜、七奈の部屋の窓まで迎えに行くよ」
「約束だよ」
「うん」
◇
夜。
早めに身支度を済ませ、自分の部屋へ戻った。
「七奈、おやすみ」
「お兄ちゃん、おやすみ!」
扉を閉め、ベッドへ勢いよく倒れ込む。そのまま、ぼんやりと天井を眺めていた。
どれくらい時間が過ぎたのだろう。
カサカサ……。
窓の外から、枝がガラスを擦る音が聞こえた。
「……!」
ベッドから飛び下りて窓を開けると、夜風が優しく部屋へ吹き込んできた。
明るい月の下、窓辺には一人の少年が立っていた。初めて出会ったあの日と、まったく同じように。
「悠斗!」
「七奈、準備できたか?」
「うん!」
ベッドの下へ向かい、そこに隠してある箒を取り出そうとした。
「――【束縛】」
背後にいる少年が、小さな声で呪文を唱えた。
光を放つ縄が現れ、私の身体へ巻きつく。
「何するの、悠斗!」
振り返り、窓辺にいる少年を見る。月明かりが背後から差し込み、その表情はよく見えなかった。
「ごめん、七奈……」
「もう、前みたいに七奈を危険な目に遭わせるわけにはいかないんだ……」
床へ座り込んだまま必死にもがいた。縄は身体をきつく締めつけ、足首が少し痛かった。
「でも、私たち友達でしょ? 友達なのに……」
「友達だからこそ、七奈を危険な目には遭わせられない」
悠斗は拳を強く握り、まっすぐ私の目を見た。
「ごめん」
悠斗は身を翻し、夜空の彼方へ飛び去っていった。
◇
床へ座り込んだまま腕を強く捻り、縄から抜け出そうともがいた。
鼻先へ、かすかな血の匂いが届く。
肩を少し動かすと、腕に鋭い痛みが走った。さっき力を入れすぎて、皮膚が擦り切れてしまったらしい。
バカ悠斗。バカ悠斗。
一緒に行くって……一緒に行くって約束したのに!
顔を伏せると、鼻先から涙が一滴ずつ床へ落ちていった。
もし……もし悠斗まで、晴奈先輩みたいになったら……。
縄へ顔を近づけ、歯で強く噛みついた。麻縄のようにざらざらとしていて、噛むたびに歯が痛くなる。
しばらくして、力を失ったようにベッドのそばへ座り込んだ。
風に揺れるカーテンを眺める。
月は今も、夜空の高いところに浮かんでいた。
◇
「七奈は、行きたいの?」
背後から、聞き慣れた声が届いた。扉を開けて入ってきた人へ顔を上げる。
「お、お兄ちゃん?」
お兄ちゃんは金色の魔杖を掲げ、縄へ向かって一筋の光を放った。
光が縄へ触れた瞬間、縄は小さな唸り声のような音を立てた。
やがて、身体を縛っていた縄は跡形もなく消えてしまった。
「まったく。今の魔法学院では、こんなことすら教えないのか」
お兄ちゃんは私のそばへ来てしゃがみ込み、腕を持ち上げると、魔杖の先で軽く触れた。
腕にできていた傷が、一瞬で消えていく。
「お兄ちゃん、どうやったの?」
「縄のこと? 強い魔力同士がぶつかると、爆発が起きるんだよ」
首を横へ振り、目の前にいるお兄ちゃんを見た。
本当に、いつものお兄ちゃんなのかな……。
「そうじゃなくて……これは、どういうことなの?」
少し後ろへ下がり、お兄ちゃんが手にしている魔杖を指差した。その魔杖は、まるで黄金樹の枝のようだった。
お兄ちゃんはこちらへ手を差し出した。伸ばされた手を見て、ベッドの方へ少しだけ後ずさる。それでも、お兄ちゃんは手を引かず、優しく笑っていた。
「魔法使いなのは、七奈だけじゃないんだよ」
「えっ?」
顔を伏せ、藤代先生と学院長先生が話していたことを思い出した。
振り返ると、ウサギさんがベッドの上へ静かに横たわっている。
「お、お兄ちゃん!」
「うんうん」
「私、悠斗を捜しに行きたい! 矢野さんを止めたいの!」
顔を上げると、お兄ちゃんはずっと私を見ていた。
目が合っても、驚いた様子は見せなかった。
「うん。お兄ちゃんは七奈を応援するよ」
お兄ちゃんが手を伸ばすと、ベッドの上にいたウサギさんがふわりと浮かび、その手の中へ収まった。
「今回も、ウサギさんに一緒に行ってもらおう」
「お兄ちゃん、全部知ってたんだ……」
両手で握った魔杖へ目を落とす。
「あの少年が初めてこの部屋へ忍び込んできた時から、知ってたよ」
「ごめんなさい……ずっと黙ってて」
お兄ちゃんは顔を近づけ、いつものように頭を撫でてくれた。
「ほら。早く行かないと、間に合わなくなるよ」
鼻をすすり、小さく頷いた。
「お兄ちゃんは、一緒に来ないの?」
「俺は……。ウサギさんが一緒なら、きっと大丈夫だよ」
もう一度鼻をすすり、頷いた。
夜空を、一人の少女が箒に乗って遠ざかっていく。
その傍らには、ウサギのぬいぐるみがふわふわと浮かんでいた。




