第24話 「流れる」白い鶴
通りでは、街灯が明るい光を放っていた。
空を見上げると、バナナみたいな三日月が、もう高いところまで昇っている。
(あああっ、もっと速く走ってぇぇぇ!)
夜道を駆けながら、何度も腕時計へ目を落とした。
午後八時十五分。
家の前には、一人の人影が立っていた。落ち着かない様子で辺りを見回し、何かを捜している。
その姿が誰なのか分かった瞬間、勢いよく走っていた足が、少しずつ遅くなった。
「お母さん……」
街灯の下に立つお母さんへ向かって、もう一度駆け出す。私の声に気づき、お母さんが振り返った。
「七奈! もう、いったいどこへ行ってたの? こんなに遅くまで――」
最後まで言い終わるより先に。
ぽすっ。
お母さんの胸へ飛び込み、強く抱きついた。
「……七奈?」
「お、お母さん……」
「どうしたの?」
「何でもない……」
そう答えながら、お母さんの胸元へ顔を深く埋めた。
お母さんの腕の中は温かかった。強く鼻をすする。お母さんの服を汚したら大変だ。
お母さんはしばらく何も言わず、優しく髪を撫でてくれた。
「七奈」
「……うん」
「今度から、こんなに遅くまで帰ってこないのよ」
「うん……」
涙声で返事をした。
それから顔を上げ、手で頬を拭って、お母さんへ笑いかけた。
◇
お母さんが電話をかけてからまもなく、お父さんとお兄ちゃんも外から戻ってきた。
どうやら二人で、私を捜しに出ていたらしい。
夕食の席では、お父さんにたっぷり叱られてしまった。
「まったく、こんな時間までどこへ行ってたんだ」
「せめて電話くらいしなさい」
「……はい」
「『はい』じゃない!」
「……分かりました」
食卓を囲み、みんなから次々と小言を言われる。
皿に載った魚へ顔を向けながら、みんなの様子をこっそりと窺った。
耳に届く小言を聞いていると、どうしてだか少し嬉しくなった。
真っ白なご飯の上へ、一滴の雫が静かに落ちる。
慌てて、ご飯をもう一口かき込んだ。
(……今日のご飯、なんだか少しだけしょっぱいな)
◇
夜。
布団の中へ身体をすっぽりと埋め、呪文を唱えて魔杖を呼び出し、胸の前で握った。
鏡の世界で涙を流していたあの男が、また頭の中に浮かんでくる。魔杖へ目を落としたまま、しばらく考え込んだ。
(あの人たちも、ただ家へ帰りたかっただけなのに。水弾の魔法を使ったのは、少しやりすぎだったのかな……)
(もし矢野さんが、ただ晴奈先輩を連れ戻したいだけなら、矢野さんの方が正しいのかな?)
「うぅ……」
魔杖を脇へ放り出し、布団の中で身体を丸めて頭を抱えた。
◇
それから数週間、いつもと変わらない穏やかな毎日を過ごした。
昼間は学校で授業を受け、放課後になると、柚乃先生のところで魔法を習う。
ただ、日に日に暑さが増し、空気までじっとりと湿ってきた。台風でも来るのかな。
◇
今日の放課後も、いつものように魔法学院へやってきた。
「柚乃先生、来ましたー!」
「森野さん、最近はほとんど遅刻しなくなりましたね」
「えへへ。これからも頑張ります!」
「そうですか。先生も期待していますよ」
柚乃先生はそう言って、背中に隠していた一本の瓶を取り出した。中には、オレンジジュースみたいな黄色い飲み物が入っている。
「先生、これは何ですか?」
「アイスクリームの滝の名物です。一本どうぞ」
柚乃先生は瓶を私の手へ押し込んだ。瓶越しでも、中から伝わる冷たさを感じられる。
「えっ? ありがとうございます!」
「この前の授業のご褒美です」
瓶の蓋を開け、口元へ近づけて匂いを嗅いでから、少しだけ口の中へ流し込んだ。
甘くて、飲んだ途端に喉の渇きまで消えてしまった。普通のジュースよりもおいしい!
瓶の中の飲み物へ目を落とす。
いつか私も、アイスクリームの滝へ行って一本持って帰ろう!
学院の鐘が鳴り始めた。柚乃先生は背後にそびえる本館を確認し、学院広場に集まった生徒たちへ向かって手を叩く。
「それでは、皆さん揃ったようですね」
「今日は、前回の授業の続きを行います」
そう言って、柚乃先生は一枚の黄金樹の葉を取り出した。
「今日も前回と同じように、自分の魔力を黄金樹の葉へ注ぎ、その中に蓄えてください」
「それでは皆さん、始めましょう」
「はーい!」
周りの生徒たちを見回してから、小さく頷き、前回受け取った黄金樹の葉を取り出した。
(私も負けていられないよね)
広場のあちこちで、生徒たちが魔杖を掲げ、黄金樹の葉へ魔力を注ぎ始める。
「皆さん、できるだけたくさんの魔力を使ってくださいね」
「この練習を続ければ、一度に操れる魔力の量も少しずつ増えていきますよ」
柚乃先生は広場で練習する生徒たちの間を歩き、時折、魔杖を手の中で器用に回しながら、一人ずつ様子を確認していた。
「七奈」
呼ばれて振り返ると、悠斗がそばへ近づいてきた。
「見てくれよ、俺の黄金樹の葉!」
悠斗は得意そうに、手のひらを私の前へ差し出した。その上には、一枚の黄金樹の葉が載っている。
まだそれほど強い光ではなかったけれど、葉の表面には細かな金色の輝きが浮かんでいた。
「わぁ、すごい……」
「だろ?」
悠斗は両手を腰へ当てた。
「なんたって俺だからな!」
「うっ……」
自分の黄金樹の葉へ目を落とす。
「よし、次は私の番!」
目を閉じ、身体の中にある魔力へ意識を集中させた。
体内の魔力は、ゆっくりと流れる小川みたいだった。けれど今日は、何かがその小川から水を絶えず汲み上げているような感覚がある。
(あれ? まだ魔法を使ってないのに?)
もう一度意識を集中させる。身体の中の魔力が、何かの力に引っ張られているようだった。
遠くから伸びてきた細い糸に、少しずつ引かれていくような感覚だった。
「……変な感じ」
目を開け、手の中の魔杖へ目を落とした。
「どうした?」
悠斗が横から顔を覗き込み、私の顔と魔杖を交互に見る。
私は首を傾げた。
「分からないけど……身体の中の魔力が、少し変なの」
「変?」
「うん。何かに引っ張られてるみたいな感じがして……」
「えっ?」
悠斗も目を閉じた。
しばらくして、もう一度目を開ける。
「俺は何も感じないぞ?」
「えっ……?」
「七奈、どこか具合でも悪いんじゃないか?」
悠斗はそう言いながら、私の周りをぐるぐると回り始めた。
「……何してるの?」
そう言っている間にも、悠斗は反対側へ回り込む。
「そんなにじろじろ見たって、分かるわけないでしょ!?」
「……それもそうだな」
悠斗は拳で手のひらをポンと叩いた。
「柚乃先生ー!」
「ええっ!?」
慌てて悠斗へ顔を向ける。
「わざわざ先生を呼ばなくてもいいよぉ――!」
「どうしましたか、風祭くん?」
呼び声を聞いた柚乃先生が、こちらへ歩いてきた。
「七奈の魔力が、何か変みたいなんです」
「ちょっと、悠斗!」
柚乃先生が私へ顔を向ける。
「どうしたのですか、森野さん?」
「その……身体の中の魔力が、何かに引っ張られてるみたいで……」
「引っ張られている……?」
柚乃先生は私の手を取り、目を閉じた。
「……確かに、少しおかしいですね」
小さな声でそう言って、目を開ける。柚乃先生は手にした魔杖を掲げた。
「――【具象化】」
鮮やかな青い光が、杖先から溢れ出す。
光は空中で集まり、大きな白い鶴へ姿を変えると、広場の中央へ降り立った。
「わぁっ!」
私だけでなく、周りの生徒たちも一斉に歓声を上げる。
鶴の身体は透き通った水色をしていた。その内側では、小川が流れるように、青い魔力がゆっくりと巡っている。
「すごい……」
自分よりもずっと大きな鶴を見上げた。
「柚乃先生、これは何の魔法ですか?」
「皆さん、これは『具象化』と呼ばれる魔法です」
「先生!」
一人の生徒が手を挙げた。
「具象化って何ですか?」
「そうですね……」
柚乃先生は、背後に立つ鶴を指差した。
「魔力そのものには、決まった形がありません。具象化とは、その魔力に一時的な形を与える魔法です」
「へえー!」
「それじゃあ、先生は鶴が好きってことですか?」
「私も鶴って可愛いと思う!」
広場のあちこちから、楽しそうな声が上がった。
「こほん。形は、術者が思い描いたものによって変わります」
そう言って、柚乃先生は鶴へ目を戻した。透き通った身体の中を、青い魔力が静かに巡っている。
「……あれ?」
目を凝らすと、青い魔力から細い光の筋が一本だけ分かれ、鶴の身体を抜けて南へ流れていた。
「……南?」
小さな声がこぼれる。
「南へ……流れてる?」
私の声を聞き、柚乃先生がこちらを向いた。
「……先生?」
柚乃先生はすぐに鶴へ目を戻し、わずかに眉をひそめた。
(柚乃先生がこんな顔をするの、初めてかも……)
「皆さん、今日の授業はここまでにします」
「えっ?」
柚乃先生が魔杖を軽く振ると、大きな鶴はゆっくりと両翼を広げた。やがて無数の青い光へ変わり、空中へ消えていく。
「今日使った黄金樹の葉は、宿題として持ち帰ってください」
「それでは、今日はこれで終わりです」
「やったー!」
「今日、終わるの早い!」
「ありがとうございましたー!」
何人かの生徒たちが、嬉しそうにその場で飛び跳ねた。柚乃先生は足早に学院本館へ向かっていく。その背中を見送った。
「七奈」
「……ん?」
悠斗が隣へやってきた。
「何を見てるんだ?」
「うーん……なんだか、何かが起こりそうな気がする」
「考えすぎだって」
「それより、今日はせっかく早く終わったんだし、どこか遊びに行かないか?」
「えぇー」
少しだけ迷ったけれど、この前、帰りが遅くなった時のことを思い出した。
「……やっぱりやめておく。また帰るのが遅くなったら、この前みたいにものすごく怒られちゃうもん」
「そっか……」
悠斗は少し残念そうに肩を落とした。
「それなら、広場まで送っていくよ」
悠斗は少し寂しそうに笑った。私は小さく頷く。
◇
悠斗と並んで道を歩きながら、足元の小石を蹴った。
「悠斗?」
「ん?」
顔を上げ、片手で陽射しを少し遮る。夕方になっても、陽射しはまだ熱かった。
「ねえ、願いを叶えるために頑張るのって、正しいことなのかな?」
「どうしたんだよ、急に」
「わ、私……鏡の世界にいた人たちのことを、また思い出しちゃって」
足を止め、靴先へ目を落とした。
「願いを叶えるために頑張るのは、もちろん正しいだろ。七奈だって同じじゃないか?」
「えっ?」
顔を上げ、目の前の少年を見る。
悠斗はいつもと変わらず、頭をかきながら照れくさそうに笑った。
「七奈の願いが何なのかは知らないけど……」
「あの日、黄金樹の下で魔杖を持って俺の前に立っていた七奈のこと、俺、実はちゃんと見てたんだ」
顔が一気に熱くなり、身体がわずかに震えた。
「七奈にも、俺と同じように守りたい人がいるんだろ?」
悠斗は俯き、固く握りしめた拳へ目を落としていた。
「だから、願いを叶えるために頑張るのは、もちろん正しいんだ!」
「あ、ありがとう、悠斗……」
「でも、誰かの命を奪わなきゃ強くなれないなら、俺は絶対にそんなことはしない」
悠斗はそう言って、空を仰いだ。
「じいちゃんたちみたいにはならない。俺は自分の力で、強い魔法使いになるんだ」
「うん! 悠斗、頑張って!」
悠斗の影が、夕日に照らされて長く伸びていた。
夕日を背負った悠斗の表情は、眩しい光に隠れてよく見えなかった。
◇
南の森の奥深く。
一本の魔杖が、地面へ突き立てられていた。
その周囲の地面には、奇妙な模様がびっしりと描かれている。
目には見えない魔力が、絶え間なくそこへ集まっていた。
一匹のシマモヨウネズミが小さな顔を覗かせ、魔杖についた赤い宝石を興味津々に眺める。
しばらくすると、その小さな身体が地面へ倒れた。
淡い光が身体の中から抜け出し、赤い宝石へ流れ込んでいく。
滑らかな宝石の表面に、一人の男の顔が映った。
「……あと少しだ」




