第23話 約束の代償
「――矢野!」
悠斗は屋根の上にいる男を見て、一歩前へ出ると、私を背後にかばった。
矢野さんは魔杖を手にしたまま、風の塊に抉られた地面へ視線を落としていた。
その姿を見上げているうちに、自然と俯いてしまった。矢野さんは何も答えず、私たちの胸元へ目を向けた。
「……そういうことか」
「今の魔法学院は、こんなに幼い生徒まで鏡の世界へ入れているのか」
矢野さんは小さく息を吐いた。
「白川のやつ、ずいぶん甘くなったものだな」
「お前、いったい何をしに来たんだ?」
悠斗は声を低くして問い詰めた。魔杖を握る手の甲には、青筋が浮かんでいる。
矢野さんは私たちの向こう側に広がる空へ目を向け、小さく舌打ちした。
「……面倒だな」
手にした魔杖を静かに掲げる。次の瞬間、その姿が淡い煙のように揺らぎ、何の痕跡も残さず消えてしまった。
「……悠斗」
悠斗のローブを軽く引っ張った。
「なんだ?」
周囲を見回すと、先ほど風に吹き飛ばされた人々が、再びゆっくりと起き上がり、こちらへ歩き始めていた。
「――上がってきなさい」
聞き覚えのある声が空から降ってきた。
顔を上げると、灰色に霞んだ空に、星模様の刺繍が施された赤い絨毯が浮かんでいる。
シュルッ。
一本の長い縄が、絨毯の縁から垂れ下がってきた。
「しっかりつかまりなさい」
目の前の縄を見て、悠斗と顔を見合わせる。
「……どうする?」
「つかまるしかないだろ!」
二人同時に縄へ飛びついた。
(つかまらなかったら、今度こそ本当におしまいだよぉ!)
縄をつかんだ瞬間、それは勢いよく張り詰め、驚くほどの速さで上へ巻き上げられていった。
「えっ!?」
「ちょ、ちょっと待って! 速い、速い、速すぎるぅぅぅ!」
「手を離さないように」
絨毯が風を切る音に混じり、男の声が耳へ届いた。
◇
どうにか空飛ぶ絨毯の上へよじ登り、ようやく声の主が誰なのか分かった。
「……藤代先生!」
藤代先生は私たちに背を向け、空飛ぶ絨毯を操っていた。
その肩にとまっていたフクロウが、くるりと頭を回してこちらを見る。
「ホウ」
その姿を見た途端、張り詰めていた気持ちが少しだけ和らいだ。
「藤代先生、本当にありがとうございます!」
悠斗は絨毯の上へ座り込み、肩で大きく息をしていた。
「また先生に助けられちゃった……」
照れくさくなって頭をかき、乾いた笑いをこぼす。
「これは教師として当然の務めです」
「ですが――」
「……えっ?」
藤代先生は振り返って眼鏡を押し上げると、私と悠斗へまっすぐ目を向けた。
「どうして、あなたたち二人がここにいるのですか?」
私と悠斗は示し合わせたように顔を逸らした。
「えっと……その……学院長先生の授業なんです!」
慌てて答える。
「鏡の世界で一日過ごすようにって言われて……」
「学院長が?」
藤代先生は、しばらく黙り込んだ。
「まったく。今の鏡の世界が物騒だと分かっているはずなのに……」
その時、箒に乗った数人の巡回員が、空飛ぶ絨毯のそばまで飛んできた。そのうちの一人が、今も点滅している私たちの胸元の徽章へ目を向ける。
「私たちは巡回隊です。先ほどの警報は、あなたたちの緊急用の徽章によるものですか?」
先頭にいた少年が、藤代先生へ顔を向けた。
「藤代先生、何があったのですか?」
藤代先生は、背後にいる私たちをちらりと見た。
「途中で危険な目に遭っている二人を見かけたので、連れ出しただけです」
「そうでしたか。お手数をおかけしました」
先頭の少年が安堵したように息を吐く。後ろにいた巡回員たちも、魔杖を握っていた手から力を抜いた。
「教師として当然のことです。この二人は私が送り届けます」
「よろしくお願いします」
少年たちは箒に乗ったまま、空飛ぶ絨毯の周りで小さな円を描いた。
やがて、その姿は遠くへ飛び去り、見えなくなった。
◇
帰り道、私たちは眼下に広がる町を眺めていた。
藤代先生の肩にとまっているフクロウが、時折くるくると頭を動かしている。
少しだけ顔を近づけ、フクロウの鳴き声を真似してみた。
「……ホウ?」
フクロウは、くるりと頭をこちらへ向ける。
「ホウ」
ぱたぱた。
軽く翼を動かす姿が可愛らしくて、笑い声がこぼれた。
「可愛い……」
「ホウ」
「ねえねえ」
「……ホウ?」
「さっきから、ずっと何を見てたの?」
「ホウ」
可愛らしい姿を眺めているうちに、一つ気になることを思い出した。
「そういえば、藤代先生はどうして鏡の世界にいたんですか?」
「それは……」
藤代先生は前を向いたまま答えた。
「今はまだ、あなたたちが知る必要はありません」
(えぇ……またそれなの!?)
◇
しばらくして、赤い空飛ぶ絨毯は時計屋の前へゆっくりと着地した。
両足が硬い地面に触れると、その確かな感触が靴底から伝わってきた。
やっぱり、地面に立っているのが一番安心する!
店先では、学院長先生が静かに立っていた。
「学院長先生!」
学院長先生がこちらを向く。
「藤代。矢野の件はどうだった?」
藤代先生へ向けられていた視線が、その背後に立つ私と悠斗へ移った。
「七奈さんと悠斗も一緒だったのですか?」
「途中で少々厄介なことがありまして。ついでに連れて戻りました」
学院長先生の姿を見た途端、私と悠斗は同時に背筋を伸ばした。
(ま、また怒られるのかな? 藤代先生、学院長先生に告げ口したりしないよね!?)
おそるおそる藤代先生の様子を窺う。
「それよりも――」
藤代先生は眼鏡を押し上げ、懐から何枚かの写真を取り出した。
「矢野の件です。こちらをご覧ください」
「……写真?」
好奇心を抑えきれず、悠斗の腕を引いて、横からこっそり顔を覗かせる。
どの写真も構図が斜めに傾いていて、まるで誰かが隠れて撮ったみたいだった。
「これ……いったい何が写ってるんだ?」
悠斗が首を傾げる。
どうにか見分けられたのは、魔杖を手にして何かをしている一人の男だった。その足元には、大量の黄金樹の葉が散らばっている。
「この葉っぱ、全部枯れてるんですか?」
写真へ顔を近づけて尋ねた。写っている葉はどれも落ち葉のような茶色に変わっている。
学院長先生は落ち着いた声で答えた。
「どうやら、黄金樹の葉に蓄えられていた魔力は、すべて使い果たされたようですね」
学院長先生は、写真に写る光を失った黄金樹の葉を黙って眺めていた。しばらくして、深く息を吐く。
「藤代。この二人を学院へ送り届けてください」
「承知しました」
藤代先生が魔杖を掲げると、何もない空間に一枚の鏡が浮かび上がった。
「行きましょう」
「はい」
藤代先生が先に鏡の中へ足を踏み入れる。
後ろを振り返ると、学院長先生は写真を手にしたまま、何かを考えていた。
悠斗に手を引かれ、鏡の中へ踏み込んだその瞬間、背後から学院長先生のかすかな呟きが耳へ届いた。
「……たった一匹のシマモヨウネズミを生き返らせるだけで、これほど膨大な魔力が必要になるのか……」
「……えっ?」
尋ねる間もなく、鏡から溢れた光が私たちを包み込んだ。
◇
鏡の世界。
誰もいない屋根の上に、一人の男の姿が再び現れた。
男は、風の塊に抉られた地面を見下ろしたまま、長い間動かなかった。
崩れた地面のそばには、いつの間にか『工事中』と書かれた看板が立てられている。
「……もし」
拳を強く握りしめた。
「もし、あの時……」
「俺にも十分な力があったなら……」
「……晴奈」
男はその名前を小さく呼んだ。
「もう少しだけ、待っていてくれ」




