第22話 二つの世界の人々
時計屋へ戻る道を、私は悠斗の手を強く握ったまま歩いていた。
鏡の世界の陽射しは夏の熱を帯びて背中へ降り注いでいるのに、胸の奥は今も冷たいままだった。
一つの角を曲がったところで、その場にしゃがみ込み、両手で何度も頬を拭った。
「……うぅ」
目を開けると、足元では何匹かの蟻が、何事もなかったように忙しそうに行き来している。
悠斗は何も言わず、隣へ静かにしゃがみ込んだ。
「ゆ、悠斗……」
「うん」
返事をする悠斗を見上げ、その胸元へ顔を埋めた。
「わっ……七奈?」
「うぅ……」
「な、泣くなよ。もう泣くなって……」
悠斗は困ったように両手を宙へ浮かせていた。私の背中を叩こうとしては動きを止め、今度は頭の上でどうすればいいのか迷っていた。
「……まったく、仕方ないな」
やがて、悠斗は私の背中を優しく叩いた。
一度、そしてもう一度。
「よしよし。もう泣くな、泣くなって」
「……悠斗のバカ」
「えっ、俺、また何か変なこと言ったか?」
「バカ」
ぽすっ。
「バカ、バカ!」
ぽすっ、ぽすぽすっ。
拳を握り、悠斗の胸を何度も軽く叩いた。
「ちょっと待てよ! なんで俺が叩かれるんだよ!」
どれくらいそうしていたのだろう。ようやく涙が止まり、顔を上げた。
悠斗は困り果てたような顔をしていた。数歩後ろへ下がり、慌てて目尻に残った涙を拭う。
「……少しは落ち着いたか?」
「私、もう子供じゃないもん」
「さっきは……ちょっと取り乱しちゃっただけだから」
「そっか」
悠斗はそれ以上何も言わず、いつものように笑った。
「でも、気にするなよ」
「七奈が家族ともう一度会えて、俺も心から嬉しいんだ。」
鼻の下を指で擦り、晴れやかな笑顔を浮かべる。
「まるで、自分のことみたいにな」
「……ありがとう」
また泣いてしまいそうになり、慌てて顔を伏せた。もう一度、家族と会えるって、こんな気持ちなんだ。
もし矢野さんが晴奈先輩に会えたら、同じように……。
「七奈?」
「……な、何でもないよ」
顔を上げる。
「もう大丈夫!」
「本当に?」
「本当!」
「じゃあ、戻ろう」
悠斗は立ち上がり、私へ手を差し出した。その手をしばらく眺めてから、強く握り返す。
少しおっちょこちょいで、そこまで強いわけでもない。時々、あまり頼りにならないと思うことだってあるけれど……。
悠斗はやっぱり、悠斗なんだ。
「……ありがとう、悠斗」
「ん?」
「何でもない!」
手をつないだまま、もう一度歩き始めた。
◇
見覚えのある公園が少しずつ見えてきた。私たちは、先ほど座っていた長椅子へもう一度腰を下ろす。
空は相変わらず灰色に霞み、時折、何羽かの鳥がその中を横切っていった。
「ねえ、悠斗」
「ん?」
悠斗がこちらへ顔を向ける。私は長椅子へ座ったまま、両脚をぶらぶらと揺らしていた。
「鏡の世界って……」
「もしかしたら、学院長先生が言うほど怖い場所じゃないのかもね」
「そうだな……」
悠斗はそう答えながら、何かを考えるように空を仰ぎ、小さくため息をついた。
「……悠斗?」
「亡くなった家族は……今頃、何をしてるのかなって考えてたんだ」
その横顔には、どこか寂しそうな影が浮かんでいた。
隣に座る悠斗を見る。もしさっき、悠斗が私を止めたままだったら、おじいちゃんとおばあちゃんには会えなかったのかもしれない。
「だったら!今度は悠斗の家を見に行こうよ!」
「えっ?」
悠斗が驚いたように私を見た。
「でも、俺の故郷は、魔法の世界にある田舎の村なんだ。ここからは行けないよ」
がっくりと肩を落とす。
「でも悠斗、ここにも時計屋があるでしょう?」
「もしかしたら……」
最後まで言い終わらないうちに、悠斗は首を横に振った。
「学院長先生が言ってただろ。俺たちは町の中にいなくちゃいけないんだ」
「うぅ……」
顔を伏せ、ぶらぶらと揺れる両脚を見る。
「それなら、学院長先生にお願いしてみようよ!」
悠斗は目をぱちぱちとさせた。
「そんなことしたら、学院長先生に怒られるぞ」
「大丈夫!」
胸を張って答えた。
「学院長先生なら、きっと私たちの気持ちを分かってくれるよ!」
「ほら、早く!」
今度は私が、長椅子に座る悠斗へ両手を差し出した。
「早く行こう!」
悠斗は目の前へ差し出された手を見つめ、頷いた。いつもの笑顔が、その顔に戻った。
「……分かった!」
さっきは、悠斗が私の手を引いてくれた。だから今度は、私が悠斗の手を引く番だよね。
◇
午後になると、空気は昼頃よりも少しだけ涼しくなり、通りを行き交う人の姿も、いつの間にか増えていた。
「鏡の世界の人たちも、やっぱり暑いのは苦手みたいだね」
「そう言われてみれば、確かに涼しくなったな」
悠斗は周囲の店を見回し、それから灰色に霞んだ空を仰いだ。私も同じように顔を上げる。
空の色は変わらないままなのに、町は少しずつ賑やかになっていた。
甘い香りがふわりと鼻先をかすめ足を止めて、鼻をひくひくと動かした。
隣には、小さなお菓子屋さんがあった。ショーウィンドウの向こうには、色とりどりのケーキやアイスクリームが並べられている。
「ねえねえ、悠斗」
「ん?」
「ここのアイスクリームとケーキって……」
ショーウィンドウから目を離せないまま尋ねる。
「私たちが食べても大丈夫なのかな?」
悠斗は私を見て、呆れたように首を横へ振った。
「どう考えてもダメだろ」
「えーっ。でも、すっごく美味しそうだよ?」
「ダメなものはダメ」
「うぅ……」
「ほら、行くぞ」
「えっ、待って!」
悠斗に手を引かれ、お菓子屋さんから離れていく。悠斗に引っ張られながらも、最後までショーウィンドウの苺ケーキから目を離せなかった。
「ちょっと待ってよー!」
◇
人通りが増えていく道を歩いていると、すれ違う人々が、時折こちらへ不思議そうな視線を向けてきた。
「そこのおじいさん、おばあさん」
突然、道端から声をかけられた。
「そんなに急いで、どちらへ行くんですか?」
(私たちが、おじいさんとおばあさん……?)
何か言おうとしたけれど、悠斗はそのまま私の手を引いて歩き続ける。
少し先から、別の人たちが話す声も聞こえてきた。
「あのおじいさんとおばあさん、ずいぶん元気そうだな」
「まあ、もうすぐ『終焉』を迎えるんだからな……」
「……終焉?」
顔を伏せ、悠斗の耳元へ口を近づけた。
「悠斗、『終焉』ってどういう意味?」
「この世界では、すべてが逆なんだ。だから、この世界の人たちは子供の姿にまで若返ると、この世界から完全に消えてしまうんだよ」
「えっ!?」
「おじいさん、おばあさん」
今度は、身体の大きな男が私たちの前へ立ちはだかった。
「おや、ずいぶんお急ぎのようですね?」
男は人のよさそうな笑顔を浮かべている。
「よろしければ、車でお送りしましょうか?」
「だ、大丈夫です!」
慌てて首を横へ振った。
「そんなに遠慮しなくても構いませんよ」
男は笑いながら、通りへ向かって手を挙げる。
「行き先を教えてくだされば――」
スッ。
一台のタクシーが滑るようにやってきて、男の隣へ停まった。
「……えっ?」
目をぱちぱちとさせた。
車は確かに目の前へ停まっている。けれど、運転席には誰も乗っていなかった。
「……悠斗」
「あまり中を見るな」
悠斗は半歩前へ出て、私を背中へかばった。
「俺たちが向かう場所には、車では入れません。お気遣いありがとうございます」
「そうですか?」
男は残念そうに頭をかいた。
「それなら、道中お気をつけて」
「はい」
悠斗は私の手をもう一度強く握った。低く短い声が、耳元へ届く。
「行こう」
「……うん」
私たちは男のそばを足早に通り過ぎた。
ゴオオッ――!!
突然、背後で大きな轟音が鳴り響いた。
無人のタクシーが猛然と走り出し、激しい風圧を巻き起こす。
車体は唸り声を上げながら通りを駆け抜け、あっという間に遠ざかっていった。
その瞬間、巻き起こった風が私たちのローブを激しくはためかせた。
私と悠斗のフードがふわりと持ち上がり、頭から滑り落ちた。
通りから、すべての音が消えた。話し声も、足音も、何も聞こえない。
店先のスピーカーから流れる、果物の特売を知らせる声だけが響いていた。
胸元では、緊急用の徽章が赤い光を放っている。
◇
「……悠斗」
「ああ……」
悠斗の声が、わずかに強張っていた。
一人。
また一人。
周囲にいるすべての人々の視線が、一斉に私たちへ集まった。
「……お前たち、生きてるんだろ?」
「……えっ?」
一歩後ずさる。立ち止まった人々が、少しずつ私たちの周りへ集まり始めた。
「生きてる……」
「本当に?」
「この気配……」
「間違いない」
つい先ほどまで通りを歩いていた人も、店先で話していた人も、荷物を運んでいた人も、全員が私たちを見ていた。
「……いいなぁ」
人混みの中から、いくつもの声が聞こえた。
「お前たち……」
「帰れるのか……?」
「元の世界へ?」
「家族のもとへ……?」
人々が、私たちへ両手を伸ばした。悠斗に手を引かれ、何歩か後ろへ下がる。
「悠斗……」
「七奈」
悠斗が私の手を強く握った。
「走れ!」
その声と同時に、私たちは一斉に駆け出した。背後から追いかけてくる声は、目覚まし時計みたいに、どうしても止まってくれなかった。
「待って!」
「俺のことも待ってくれ!」
「行かないで!」
「私も一緒に連れていって!」
「わ、私も家族に会いたい!」
足音が、どんどん近づいてくる。
「きゃああああ!」
悲鳴を上げ、悠斗の手を強く握ったまま必死に走った。
(このバカフード!どうしてこんな大事な時に外れちゃうのぉぉぉ!!)
慌ててフードを深くかぶり直す。
「あそこだ!」
「待ってくれ!」
「逃がすな!」
「生きた人間だ!」
悠斗が私の腕をつかみ、勢いよく角を曲がった。
「七奈、こっちだ!」
「わっ!」
目の前に広がる見覚えのある道を見て、悠斗の腕を引いた。
「悠斗、私たち、もうおしまいだよ……」
「どうして?」
「たしか、この先は行き止まりだよ」
振り返ると、路地の入り口には、追いかけてきた人々が集まり始めていた。
「見つけた……」
「待ってくれ……」
「置いていかないで……」
震える声が、次々と人混みの中から聞こえてくる。目の前の人々を見ていると、魔杖を握る手から、少しずつ力が抜けていった。
「どうして……」
「どうして俺だけが、こんな場所に来なくちゃいけなかったんだ……?」
「帰りたい……」
「家族に会いたい……」
「もう一度だけでいいから……」
「もう一度……」
「どうして、お前たちは……」
誰かの声が、激しく震えていた。
「どうして、お前たちだけが帰れるんだ!」
「そうだ、どうしてだ」
「どうして!」
目の前の人々が、声を張り上げた。私は顔を伏せ、手の中の魔杖を見た。
もし私もこの世界に取り残されて、二度とお父さんやお母さん、お兄ちゃんに会えなくなったら。
私も、この人たちと同じようになってしまうのかな……。
「七奈!」
我に返り、隣にいる悠斗を見る。悠斗は私へ手を伸ばしていた。
「頼むよ……」
一人の男の目から、涙がこぼれ落ちている。
「俺も……俺も一緒に連れていってくれ……!」
その手が私の腕へ触れようとした瞬間、魔杖を掲げた。
「――【水弾】!」
放たれた水の塊が弾け、男を後方へ押し戻した。
「魔法……」
「もしかしたら……」
「あいつらを捕まえれば、俺たちも帰れるかもしれない!」
「七奈、下がれ!」
悠斗が私の前へ立った。私たちは魔杖を構えたまま、一歩ずつ後ろへ下がっていく。
やがて、背中が冷たい壁へぶつかった。
「悠斗」
「分かってる」
悠斗は魔杖を壁へ向けた。
「――【透過】!」
「七奈、先に行け!」
「でも――」
「早く!」
悠斗に背中を押され、壁の向こうへ飛び出した。
「待て!」
「逃がすな!」
「悠斗!」
「すぐに行く!」
透過の魔法が切れる直前、悠斗も壁の向こうへ飛び込んできた。私たちは肩で大きく息をしながら、顔を見合わせる。
「た、助かったのかな……?」
「たぶん……」
その時、前方の曲がり角へ目を向けた。
「……悠斗」
「ん?」
「私たち、完全に囲まれちゃったみたい」
「……えっ?」
こちら側にも、数え切れないほどの人々が集まっていた。
背後の塀の上へよじ登ってきた人たちも、高さなど気にすることなく、そのまま地面へ飛び下りてくる。
「嘘だろ……」
悠斗と背中合わせになり、魔杖を強く握った。
「悠斗、どうするの?」
「……俺に聞くなよ」
人々が、また一歩近づいた。
魔杖を握る手が、小さく震えていた。
◇
一人の男が、空を横切った。
眼下では、騒ぎ立てる人々が、一組の少年少女を取り囲んでいる。
男は屋根の上へ降り立ち、少年が少女を背後にかばいながら、一歩ずつ壁際へ下がっていく姿を見ていた。
魔杖を握る手に力が入り、指の関節が白くなった。男は眼下の少年へ目を向け、魔杖を掲げた。
「行け」
◇
遠くから、一つの風の塊が空気を引き裂きながら飛んできた。風の塊がすぐそばを掠め、耳元で激しい風切り音が鳴り響く。
「きゃっ!」
腕で顔を覆うと、目の前にいた人々が次々と後ろへ押し戻された。
「七奈!」
「わ、私は大丈夫!」
やがて、吹き荒れていた風が、少しずつ収まっていった。
顔を上げると、屋根の上に一人の男が立ち、静かに私たちを見下ろしていた。




