第2話 信じられない夜
いつもの私なら、この時間はもう布団の中で眠っているはずだった。
だけど今の私は、なぜかボロボロの箒に跨がり、初対面の男の子と二人で夜空を飛んでいた。
夜風が頬をかすめていく。月明かりが降り注ぎ、私の顔を優しく照らしていた。足元には何もなく、足をぶらぶらさせると、生まれ育った町が眼下に広がっていく。
(……空から見下ろすと、こんな感じなんだ。)
「そういえばさ、なんて名前なの?」
「風祭悠斗」
「へぇ……悠斗くんね」
「なにか文句あるか?」
「別に何でもないよー」
そんなお喋りをしていた矢先、箒が猛烈に傾いた。洗濯機の中みたいに、景色がぐるぐると回り出し、月と地面がひっくり返る!
「きゃあああああ——!?」
「じ、大丈夫だ! 俺に任せろ!」
「——【安定】!」
「——【減速】!」
「——【浮遊】!」
悠斗くんが慌てふためいて魔杖を抜き、呪文を畳みかけて唱える。
私が柄をギュッと固く握りしめると、箒はまるで腹を立てたみたいに、かえって激しく揺れ始めた。
「まずい……先生に魔法を使う時は集中しろって言われてたのに……!」
「ど、どうするのよー!?」
「……魔力、切れた」
「はぁ!?」
「俺たち……もしかして落ちる……?」
「……落ちる」
彼が言い終わるか終わらないかのうちに、私たちはまっさかさまに地面へと突っ込んでいった。
「きゃああああああ——!?」
私はギュッと目を瞑った。こうなると思ってたよ!
——ドォォォン!!
箒が猛烈な音を立てて地面に激突した。
……。
あれ、痛くない?
目を開けると、爪の間に泥が入り込んでいた。顔を上げると、そこは私が幼い頃によく遊んでいた小さな公園で、辺りには虫の鳴き声だけが響いていた。
これ……夢じゃないよね?
「……いつまで乗ってるつもりだ?」
お尻の下から、低くくぐもった声が響いた。
「あ、ごめんなさい!」
私は慌てて跳び起きた。悠斗くんが下から這い出し、服についた泥をぱんぱんと払いながら立ち上がる。
「大丈夫……?」
「ん、まあ……」
「よかった。病院まで担ぎ込まれるかと思ったよ」
「俺、そんなに弱くないから!」
悠斗くんは二つに折れた箒を見つめた。折れた枝のように地面に突き刺さっている。
「魔力も切れたし、修復魔法すら使えねぇ……」
「でも、警察のおじさんに見つかったらどうするの?」
「大丈夫だって」
悠斗くんはローブの内側から二着の外套を取り出した。
「……パジャマ?」
「着れば分かるって」
羽織ってみると、袖口のすべすべした感触が、お兄ちゃんに買ってもらったパジャマに似ていた。
自分の手足を見下ろすと——すっぽりと消えていた!
足をつねったり、手を振ってみたりする。……痛い。
「『透明化の外套』だよ。ほら、早く来い」
「うん……」
浮遊しているように見える数本の指を見つめながら、私は小走りで彼の後を追った。
すると向かいから、巡回中の警察官が二人歩いてきた。
「ひっ……か、隠れて!」
「顔掴むな!!」
私はパニックになって悠斗くんを引っ掴み、電柱の陰へ滑り込んだ。
「……ねぇ」
「ん?」
「私たちって、今……透明なんだよね?」
顔がカッと熱くなり、慌てて悠斗くんから手を離した。警察官が去っていったあと、何事もなかったかのようにフードを脱ぎ、目の前の少年を見つめる。
「痛ぇな……さっき思いっきり顔掴んだろ」
「ご、ごめん……。ところで、その主任さんってどこにいるの?」
「魔法学院の中」
「……ってことは!」
「私たち、魔法世界に行くの!?」
「ああ」
私は足を止めた。城、巨大なドラゴン、そして大勢の魔法使いが集う神秘的な街並みが脳裏を駆け巡る。悠斗くんは溜息をつき、額を押さえた。
「……また主任に怒られるんだろうな」
しばらく歩き、商店街の端にある小汚い路地へと折れ曲がった。
路地の奥に、一軒の古びた時計屋がぽつんと佇んでいた。紙灯籠が仄かな光を放ち、夜道を照らしている。
「時計屋さん?」
「ここだよ」
「魔法世界の入口って、もっとこう……古風な神殿とか、隠された洞窟とかじゃないの?」
「そんなの目立ちすぎるだろ」
コンコンコン。
「悠斗、今日は女の子連れかい?」
奥から、優しそうな女性の声が聞こえてきた。
えっ? 扉を叩いただけで、私がいるって分かったの? もしかして!
ドアが静かに開き、和やかな雰囲気のおばさんが顔を出した。
「夕真さん、今日買い物に行った時にさ、その……」
「まったく、相変わらずの慌てん坊ねぇ」
そう言うと、おばさんは手をひょいと振った。布団をめくるように、私たちの透明化の外套がはらりと脱げ落ちた。
「お入りなさい」
「えぇ!? なんで私たちが見えてるの!?」
「お嬢ちゃん、魔力は隠せないものなのよ」
「そうなんだ……」
魔法って、本当複雑。
「あら?」
夕真おばさんの視線が私の腕に留まった。抱きしめていた『うさぎさん』を優しく撫でる。
その瞬間、彼女の手がほんのわずかに止まった気がした。けれどすぐに元通りの笑顔に戻り、うさぎさんの小さな手をキュッと握った。
「可愛いわね」
私はうさぎさんをギュッと抱き直した。奥へ進むと、廊下の壁には油絵がたくさん飾られていた。城、森林、海岸——どれも息を呑むほど精巧だ。
けれどその中に、一幅だけ特別な絵があった。空を覆うほどの巨木。枝には、まるで果実のような家々が鈴なりにぶら下がっていた。
「七奈」
「ん?」
「手を掴め」
悠斗くんが指先で空中に複雑な紋様を描くと、次の瞬間、私の身体がフワリと宙に浮かび上がった。
「きゃっ!?」
周囲の景色がぐにゃりと歪む。掃除機に吸い込まれるみたいに絵の中へと引っ張られていく中、夕真おばさんの声が遠くから聞こえた。
「まったく……また手数を増やして……」
◇
次の瞬間、私たちは絵の中から放り出され、地面へ豪快に叩きつけられた。
「きゃあああああ——!?」
「痛たたたた……」
「ご、ごめん……」
腰をさすりながら立ち上がる。幸い、落ちたのはそれほど高い場所からではなかった。
悠斗くんも帽子を斜めに歪ませながら起き上がってきた。
「なんでまた落ちてくるのよー!?」
「まあ……着いたんだから成功だろ」
「大失敗でしょ!?」
この人、絶対また失敗したじゃん!
周りを見渡すと、見たこともない奇妙な小さな木がたくさん植えられていた。
背伸びをして手を伸ばしてみる。私の三、四倍くらいの高さかな。
木々には赤、青、黄、紫のカラフルな果実が実っていた。でも……これ、大きすぎじゃない!?
果実は木の幹よりも大きかった。
枝が重さに耐えかねて地面近くまでたわみ、まるで巨大な提灯みたいに下がっている。
「悠斗くん」
「ん?」
「魔法使いって、普段こんな巨大なフルーツ育ててるの……?」
隣にあった大きな果実の側面から、ガチャリとドアが横にスライドして開いた。買い物袋を持ったおばさんが中から出てきて、ゴミ袋を隣の提灯のような容器へ投げ入れた。
不快な臭いが鼻をつく。……ゴミ箱だったんだ。
おばさんは手をポンポンと払うと、再び果実の中へ戻り、ドアが「パタン」と閉まった。
「今……フルーツの中から人が出てきた……!?」
「家だよ、あれ」
(私の思い描いていたお城は!? 巨大なドラゴンは!? 中世風のレトロな街並みは!? 想像してた魔法世界と全ッ然違うんだけどー!!)
「おかしいな。今回は住宅街に直接転移しちゃったのか」
「『今回』って言った!?」
「……えっ、いや、なんでもない」
私は頬を膨らませて少年を睨みつけた。絶対に嘘だ。魔法すら上手く使えないくせに!
「ほ、ほら、あっち見ろよ!」
悠斗くんが慌てて私の背後を指差した。振り返ると——そこには空を突くような巨木が聳え立っていた。
幹は山のように太く、枝は雲の彼方まで伸びている。果実のような家々が鈴なりに下がり、藤蔓と枝が複雑に絡み合って、まるで空に浮かぶ天空の城のようだ。
「……あれは?」
「魔法学院だよ」
「行こう、まずは主任のところへ」
「やだ、ここで少し見て回る!」
悠斗くんの「だめだって!」という制止を振り切り、住宅街の小道をずんずん進んだ。
道の両脇には細長い茎の植物が立ち並び、てっぺんに咲いた巨大な花が柔らかな光を放って夜道を明るく照らしていた。
「これ、街灯なのかな? すごく綺麗……」
「ああ」
魔法世界って、果実とお花に包まれた世界なんだなぁ。
広場に出ると、中央には金色の光を放つ大木が立っていた。散歩する親子、屋台を引く商人、ベンチでお喋りする人たち。賑やかな声が夜風に乗って届いてくる。
魔法使いの世界なのに、私が住んでいる町と驚くほど似ている。魔法使いたちも、私たちと同じように暮らしているんだ。
足元に転がってきたボールを拾い上げ、屈んで小さな男の子に手渡して頭を撫でてあげる。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
「どういたしまして!」
「ほら、行くぞ」
ついに、私たちはあの巨木の足元に辿り着いた。見上げると、思わず息を呑んだ。生い茂った枝葉が空の半分を覆い尽くし、太い藤蔓が橋のように枝々を繋いでいる。
何人もの生徒が箒に乗って飛び交っていた。
あまりにも巨大で、雲の上に丸ごとひとつの街を作ってしまったみたいだ。
「ここが魔法学院……」
「どうやって登るの?」
「見てろって」
悠斗くんはニヤリと笑うと魔杖を取り出し、巨木の幹をコツコツと二回叩いた。
——ドン。
上空から、一本の太い藤蔓が蛇のようにゆっくりと降りてきた。私たちの足元まで届くと、大きな葉っぱが重なり合い、天然のグリーンエレベーターのように広がる。
「すごーい……!」
悠斗くんが先に乗り、私に向かって手を差し伸べた。葉擦れの音が風に揺れている。
「魔法学院へようこそ、七奈」
ゴクリと唾を飲み込み、彼の手を握って葉の上に足を踏み入れた。足裏から伝わる柔らかい感触。ゆっくりと上昇が始まる。
見上げると、藤蔓は雲の彼方までどこまでも続いていた。
「あのさ……」
「今さら『家に帰りたい』って言ったら……」
「だーめ」
悠斗くんの言葉と同時に、地面が恐ろしいスピードで遠ざかっていく!
「きゃああああああ——!?」
私の悲鳴を乗せて、藤蔓エレベーターは夜空の果てへと駆け上がっていった。




