第1話 夜空からの訪問者
「日直の仕事がこんなに長引いて、文化祭の買い出しまであるなんて……はあ、早く帰りたいなあ」
文房具屋のおじさんが店の奥から画用紙の束を運び、カウンターに置いた。
「七奈ちゃん、今日はたくさん買ったねぇ」
「もうすぐ文化祭なので……」
「なるほどねぇ。帰り道、気をつけるんだよ」
「おじさん、ありがとうございます!」
抱えた画用紙の束が、ずっしりと腕に食い込む。腕時計を見ると、十七時三十分だった。
(しまった……早く帰らないと、お兄ちゃんが心配しちゃう)
店の脇の路地へ入り、つま先立ちになって、すうっと息を吸い込んだ。
小さい頃、お兄ちゃんと遅くまで遊んだ帰りは、いつもこの道を通った。ここへ来るたび、ほのかな青草の匂いがした。
お兄ちゃんはよく、『足音を立てないようにな。眠ってる妖怪を起こしちゃうから』なんて言っていたっけ。
でも、そんなの怖くないもん。ふん。
◇
道沿いには小さな稲荷神社があり、鳥居のそばにはたくさんの絵馬が掛けられていた。
そよ風が吹くたび、絵馬同士が触れ合ってカラカラと音を立てる。まるで木でできた風鈴みたいだ。
足を止め、頭上でゆらゆらと揺れる絵馬を見上げた。
せっかくだし、お願い事をしてから帰ろうかな……。
目を閉じる。
(どうか、これからも――)
「危ない――っ!!」
頭上から慌てた叫び声が響き、反射的に目を開けた。抱えていた束をとっさに掲げ、頭をかばう。
紙の隙間から見えたのは、夕暮れの空からまっすぐに落ちてくる、一筋の白い光だった。
ドォォォン――!!
地面が激しく揺れ、鳥居に止まっていた小鳥たちが一斉に飛び立った。絵馬も大きく揺れて互いにぶつかり合い、「カタカタカタッ!」と悲鳴のような音を立てた。
画用紙が辺り一面に散らばり、もうもうとした土煙が立ち込めた。
「ケホッ、ゲホゲホッ!」
鼻を押さえて二歩後ずさった。土煙が少しずつ晴れていくと、参道にはクレーターのような大穴が開いていた。恐る恐る近づいて覗き込むと、穴の底に一人の少年が横たわっている。
二つに折れた箒が地面に突き刺さり、ローブの裾は少し焦げていた。頭には絵馬が数枚引っかかっている。
「だ、大丈夫……!?」
「あ、ありがとう……」
しゃがみ込むと、少年は私の手をつかみ、ふらふらと立ち上がった。少年の手は、私と同じように温かかった。顔には土埃がついている。
(……待って。さっき、この人……空から落ちてきたよね!?)
少年とばっちり目が合った。絵馬はまだ、カラカラと音を立てている。
(逃げなきゃ――――っ!!)
くるりと向きを変え、商店街へ向かって全速力で逃げ出した。
空から人が落ちてくるなんて、怪しすぎるでしょ!
◇
「待ってくれよ――!」
背後から少年の声が追いかけてくる。振り返ると、変な木の棒を握った少年が、すぐ後ろまで迫っていた。
「私、何も見てませ――――ん!!」
万が一、邪悪な魔法使いに捕まったら――
【第一段階:目撃者を拘束する】
【第二段階:地下牢へ閉じ込める】
【第三段階:……まだ思いつかない!】
「待てって! 俺、本当に怪しい奴じゃないから――!」
「怪しい人はみんなそう言うの――!」
叫びながら脇の路地へ駆け込んだ。商店街の明かりが見えると、スーパーへ滑り込み、商品棚の陰で足を止める。
膝に手をつき、胸を押さえた。心臓がドクドクと激しく脈打っている。しばらくして入口を覗くと、通りを行き交う人たちは、みんな普通の服を着ていた。
「……まいた、よね?」
ほっと息をつき、腕時計を見る。
十八時三分。
「うわあああ!」
お父さんとお母さんに怒られる――!
◇
「ただいま……」
声を潜め、玄関のドアをそっと閉めた。家の中からはニュース番組の音と、鍋がぐつぐつと煮える音が聞こえてくる。
「おかえり」
リビングからお兄ちゃんがひょいと顔を出した。
「わっ!?」
(なんで聞こえたの!? 今の、すっごく小さい声だったのに!?)
「こんな遅くまで、どこに行ってたんだ?」
「えっと、文房具屋さんで画用紙を買ってたの……文化祭の準備で……」
お兄ちゃんは私の顔をじっと見てから、視線を下げ、全身を見た。自分の制服を見下ろすと、泥や埃がついていた。
お兄ちゃんは何も言わず、私の頭に手を伸ばし、髪に引っかかっていた葉っぱを一枚つまみ取った。
「ずいぶん楽しんできたみたいだな。で、買った画用紙は?」
「違っ、遊んでなんかないもん!」
「はいはい。早く手を洗っておいで」
「はーい……」
洗面所へ入り、鏡の前で頬を力いっぱいつねってみた。
「いたたた……」
(画用紙もなくしちゃったし、最悪! でも、あの人……まさかここまで追いかけてきたりしないよね……)
◇
夜。
お風呂から上がり、自分の部屋に戻って机に向かった。教科書を開いてみたけれど、びっしりと並んだ文字が、アリの群れみたいにうようよ動いて見える。
机に突っ伏して目を閉じると、頭がくらくらした。
黒いローブ、折れた箒、空から落ちてきた少年。まさか、魔法使い……?
(そんなわけない。いるはずないよ)
ベッドへ行き、お兄ちゃんからもらったうさぎさんをぎゅっと抱きしめた。
扇風機がぶうんと低い音を立てて回っている。怖いときは、いつもこうしてうさぎさんを抱きしめる。
(一晩眠れば、きっと全部忘れてるよね……)
コン、コン、コン。
(……木の枝?)
窓の外から、枝がガラスを叩くような音が聞こえてきた。でも、うちの庭には、二階の窓まで枝が届くほど高い木なんてなかったはずだ。
窓辺へ近づき、押し開けた。
月明かりの下、あの少年が木の棒で窓を軽く叩いていた。目が合った瞬間、彼はにかっと笑った。
「よかった、やっと見つけた!」
窓枠をつかむ手に力を込め、そのまま力任せに閉めようとした。けれど、少年の方が一歩早かった。
「待って!」
彼は身軽に部屋の中へ飛び込んできた。フローリングの上を一度転がり、鈍い音を立ててたんすにぶつかった。
私は背中を壁に押しつけ、部屋の隅まで後ずさる。
「お兄ちゃ――!」
「――【静音】!」
杖に一筋の光が走った。大きく口を開けて叫んでいるのに、部屋には扇風機が回る低い音しか響かない。
喉に手を当て、何度も口を開け閉めした。少年から目を離せないまま後ずさりし、そのまま本棚に頭をぶつける。
(いたたた……こ、これ、夢じゃない!)
「だ、大丈夫!?」
少年が近づいてくると、部屋の隅でうさぎさんを抱きかかえ、小さく縮こまった。
「ち、違うんだ! 俺、本当に怪しい奴じゃないんだよ!」
少年は慌てて杖を背中に隠し、おずおずと一歩踏み出した。縮こまった私を見て、少年はもう一度杖を振った。
「【解除】」
「お兄ちゃん――――!!」
「待って待って待って!!」
少年が慌てて飛びつき、私の口を両手で塞いだ。
「むぐっ――!」
コンコン。
「七奈、どうした? スイカ切ったぞ」
ドアの向こうからお兄ちゃんの声が聞こえてきた。少年の目が、ドアと私の間をせわしなく行き来する。
口を塞いでいた手を離すと、震える手で杖を抜き、こちらへ向けた。
ぎゅっと目を閉じる。けれど、覚悟していた痛みはやってこなかった。代わりに、一本の木の棒が手の中へ押し込まれる。
「これ、渡すから」
「え……?」
少年はゆっくりと窓辺まで下がり、両手を高く挙げた。月明かりの下、少年の腕は私と同じくらい細く見えた。
「俺、何もしないし、逃げもしない。もし危ないと思ったら、その杖で俺を止めてくれ」
コンコン。
「七奈ー?」
もう一度、ドアの向こうからお兄ちゃんの声がした。
手の中の杖と、窓辺で固まっている少年を交互に見た。
(……私に悪いことをするようには見えない、かも)
「もう、大きな虫がいたの! 追い出したら寝るから、スイカは全部お兄ちゃんが食べていいよ」
「そうか。あんまり無理するなよ」
「うん」
「何かあったら呼べよ」
◇
お兄ちゃんの足音が完全に聞こえなくなると、少年はようやく大きく息を吐き、その場にへたり込んだ。
首を傾げ、渡された杖を握り直した。木の枝のような手触りで、手によくなじむ。
杖先で少年の肩をちょんちょんとつついた。
「それで?」
「え?」
「自己紹介、しないの?」
少年はハッと我に返ると、慌てて立ち上がり、胸を張った。帽子が斜めにずれていることにも気づいていない。
「俺は風祭悠斗。魔法世界から来た……」
「邪悪な魔法使い?」
「違う!! 魔法使い! 普通の魔法使いだ!」
「でも、神社壊したじゃん」
「あれは不可抗力だろ!」
悠斗くんの顔が真っ赤になり、声まで裏返った。
私は口元を押さえ、ぷっと吹き出した。
「そういえば、魔法使いって普通の人に見つかっちゃいけないんじゃないの?」
「俺、まだ魔法学院の一年生だからさ。魔法をうまく扱えなくて……」
「へぇ~、魔法使いなのに魔法が下手なんだ!」
「下手じゃない!」
「と、とにかく、君は魔法の存在を知っちゃったから、本当なら記憶を消さなきゃいけないんだ」
「それで、どうするの?」
「藤代先生のところへ行く。俺たちの学年主任なんだ」
「危なくないの?」
「危なくない、危なくない。信じてくれよ」
悠斗くんを横目で見た。さっきあんなに大失敗したくせに、今は両手を腰に当てて、「俺に任せろ」とでも言いたげなポーズを決めている。
(悪い人なら、さっき杖を渡したりしないよね。魔法学院も……たぶん大丈夫かな)
杖を返し、深く息を吸った。悠斗くんの目をまっすぐ見て、指を一本立てる。
「いいよ。でも、条件が一つある」
「条件?」
「明日の朝までに、絶対に家まで送り届けること。朝ご飯を食べなきゃいけないんだから」
「約束する!」
悠斗くんは窓辺へ行き、杖を高く掲げた。
「――【浮遊】!」
折れた箒がふわふわと宙に浮かび上がった。悠斗くんはそれを得意げに見つめている。
机に向かって手紙を書いていると、悠斗くんが横から顔を寄せてきた。
「……何してるの?」
「手紙を書いてるの」
「手紙?」
「万が一、明日の朝までに帰ってこられなかったときのため」
(『お兄ちゃんへ』)
(待って……うーん、遺書みたい)
ビリッ。
(『お兄ちゃん。もし明日の朝、私がいなかったら――』)
(こっちの方がもっとダメじゃん! 絶対、警察を呼ばれちゃう!)
ビリッ。
「行く場所は、そんなに危険じゃないから!」
「ほんとに?」
「ほんとだって!」
「信じない」
「ひどい!」
出発する前、うさぎさんをぎゅっと抱きしめた。
『夜、怖くなったときは、こいつを抱いて寝な。きっとお前を守ってくれるから』
お兄ちゃんがうさぎさんをくれたときの言葉を思い出し、腕に力を込めた。
今夜は、やっぱり少しだけ怖い。
だから――
うさぎさん、お願いね。




