第20話 小さな命の芽吹き
数日後の放課後。授業の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、私はいつものように教室を飛び出した。
「七奈ちゃん、熱中症に気をつけてね!」
足を止めると、背後から千晴ちゃんの声が聞こえてきた。私の隣まで歩いてくると、鞄の中からピンク色のハンディファンを取り出した。
「これ、七奈ちゃんにあげる」
「千晴ちゃん……ありがとう!」
笑顔でハンディファンを受け取り、そのまま千晴ちゃんに抱きついた。
廊下を抜ける風を受けて、千晴ちゃんの髪が小さなリボンのようにふわふわと揺れている。
「もう。汗、私にまでついちゃうよ」
「へへっ。それじゃあ千晴ちゃん、また明日ね」
「うん。早く行っておいで」
千晴ちゃんは手を振り、家の方へ歩いていった。
ハンディファンへ目を落とし、スイッチを押す。ブーンという音とともに、ひんやりとした風が吹き出した。
ファンを口元へ近づけ、大きく口を開く。
「ああああ――」
風に当たった声が、たちまち奇妙な響きに変わった。自分の声がおかしくて、くすくす笑いながら体育用具室へ向かった。
◇
体育用具室の転移門をくぐり、町の広場へ出ると、周囲の店先には大きな日除けがいくつも張られていた。
ジュース屋の屋台の前にも、大勢の人が長い列を作っている。
(文化祭が終わった頃から、どのお店も日除けを出すようになった気がする……)
額に手をかざし、空を仰いだ。雲一つない空には、まだ太陽が高く浮かんでいる。
暑いなぁ。鳥たちまで、どこかの木陰に隠れて出てこないみたい。
◇
学院広場へ駆け込むと、学院長先生は生徒たちと一緒に木陰で休んでいた。
「学院長先生、こんにちは!」
「こんにちは、七奈さん」
「今日は何の授業をするんですか?」
杖を手にしたまま辺りを見回した。学院広場には、授業に使いそうなものは何も見当たらない。
「授業が始まれば分かりますよ」
◇
ゴーン、ゴーン、ゴーン――。
学院本館の鐘の音が、校内いっぱいに響き渡った。鐘の音を聞くたび、握っている杖につい力が入る。
鐘の音と魔法って、本当にぴったりだよね!
学院長先生に連れられ、本館の裏手へ向かった。そよ風が吹き抜け、学院広場に立つ大樹が、さらさらと葉を揺らしている。
本館を回り込むと、目の前に透明な建物が現れた。
列の隙間から顔を覗かせ、不思議な建物を眺める。学院長先生は私たちを連れ、正面の扉から中へ入っていった。
入口を通る時、壁を指先で軽く叩いてみた。コンコンと澄んだ音が返ってくる。
まるでガラスみたい。
「皆さん、ここは温室です」
そんな私の様子を見ていた学院長先生が、皆の注意を引くように手を叩いた。
蔓が透明な壁を伝って四方へ伸び、地面には青々とした草が一面に生えている。
温室の中はひんやりとしていて、身体がぶるっと震えた。もう必要なさそうだったので、ハンディファンを鞄にしまう。
「すごい。こんな場所もあったんだ……」
学院長先生に続き、温室の二階へ上がった。
「今日はここで、木の元素について学びます」
二階には、土の入った植木鉢が十数個並べられていた。
植木鉢の土を指先でつついてみる。さっき雨に濡れたばかりのように、しっとりと柔らかかった。
「この土の中には、小さな種が一つ眠っています」
「皆さん、水の魔法を使って、この種に水をあげてみてください」
一人の生徒が手を挙げた。
「でも、水をあげるだけでは、すぐには芽が出ませんよね?」
学院長先生は穏やかに頷いた。
「そのとおりです。水の魔法を使う時に、木の元素も込めてください」
◇
私たちはそれぞれの植木鉢の前へ移動した。学院長先生は一番前に立ち、植木鉢を一つ手に取った。
「それでは、まず私がお手本を見せましょう」
学院長先生が杖を掲げると、植木鉢の上に小さな雨雲がふわりと浮かび、優しい雨を降らせた。
やがて、幼い芽が土を押しのけて顔を出し、二枚の若葉を広げていく。
「それでは、皆さんも始めてください」
「はい!」
目の前の植木鉢に向き直り、学院長先生の動きを思い出す。
これって、どう見ても雨を降らせる魔法だよね。
学院長先生は生徒たちの間を歩きながら、一つ一つの植木鉢を確認していた。
少し離れたところにいる学院長先生をちらりと見てから、杖を強く握る。深く息を吸い、そのまま頭上へ掲げた。
「――【雨】」
植木鉢の上に、小さな雨雲がふわりと現れた。まもなく、土の上へ細かな雨が降り注ぐ。
雨がやんだあと、顔を近づけてみたけれど、土には何の変化もなかった。指先で少しだけ土を掘ってみると、種は今も静かに眠っている。
「えっ? ちゃんと同じようにやったのに……」
「七奈さん」
いつの間にか、学院長先生が隣に来ていた。
「柚乃先生から聞きましたよ。七奈さんは、水の元素を感じ取るのが得意だそうですね」
「えっ?」
慌てて首を横に振る。
「そ、そんなことないです!」
学院長先生は穏やかに笑った。
「私は、先生たちの言葉を信じています。もちろん、七奈さんがこれまで積み重ねてきた努力も」
胸の奥がほんの少し熱くなり、両手で杖を強く握りしめた。
「それでは、もう一度試してみましょう。今度は、水の元素を使うだけではいけません」
「考えてみてください。種はどうやって芽を出すのでしょう。そして、どうやって自分の上にある土を押しのけるのでしょうか」
もう一度、土の中の種へ目を落とした。
(どうやって芽を出すんだろう……?)
種を元どおり土に埋め、胸の前で杖を握り直して目を閉じる。
頭に浮かんだのは、理科の授業で先生が見せてくれた、植物が芽を出すまでの映像だった。
種は真っ暗な土の中で、自分の中に蓄えた力を使い、上にのしかかる土を押しのけていく――。
理科の先生の声が、頭の中に蘇った。
自分まで小さな種になったつもりで、周りを包む暗闇と、身体の内側から膨らんでいく力を思い描く。
そして、目を開いた。
「――【雨】!」
小さな雨雲が、もう一度植木鉢の上に浮かび上がった。
優しい雨が降り注ぎ、土の奥深くへ染み込んでいく。
その直後、土の表面がかすかに震えた。杖を握ったまま息を呑む。杖先も、小さく震えていた。
やがて、鮮やかな緑色の芽が、ひょっこりと可愛らしい顔を覗かせた。
「できた……!」
嬉しくなって、その場で何度もぴょんぴょんと跳び上がる。隣にいる学院長先生を見上げると、優しく笑っていた。
周りにいた生徒たちも、私の植木鉢のそばへ集まってくる。
「森野さん、すごい!」
「私にも教えて!」
学院長先生は目を細め、満足そうに頷いた。
「ええ。とてもよくできました」
学院長先生は、土から生まれたばかりの芽へ目を落とし、私の肩を軽く叩いた。
「今日、この子は土の中から顔を出しました。ですが、これで終わりではありません」
「やがて大きく葉を広げ、花を咲かせるでしょう。そして……いつかは枯れていきます」
その言葉を胸の中で何度も繰り返しながら、芽から目を離せずにいた。
学院長先生は柔らかく微笑んだ。
「でも、七奈さんはきっと覚えていてくれるでしょう。自分の手で、この子を目覚めさせた日のことを」
杖を握ったまま、目の前の芽をじっと見つめる。
この子は、私がこの手で芽吹かせた、小さな命なんだ……。
学院長先生は植木鉢を両手で持ち上げ、私の前へ差し出した。
「今日の授業の記念です。家へ持って帰ってください」
「えっ?」
「本当に……いいんですか?」
「もちろんです。この子を目覚めさせたのは、七奈さんですから」
両手で植木鉢を受け取る。思っていたよりも、少しだけ重かった。けれど、その重みがなぜだか嬉しかった。
「ありがとうございます!」
顔いっぱいに笑みが広がった。
◇
授業の終わりを告げる鐘が鳴ると、学院長先生は杖で目の前の机を軽く叩いた。
「今日の授業はここまでです。次の授業は、少し特別ですよ」
「特別……?」
生徒たちが顔を見合わせ、ひそひそと話し始める。
学院長先生は、透明な天井の向こうに広がる空を仰いだ。
「次の授業では、『鏡の世界』へ行きます」
「……鏡の世界?」
――この鏡は……別の世界へ繋がっている。
以前、藤代先生の部屋で聞いた悠斗の言葉が、頭の中に蘇った。
開いた窓から夕方の風が吹き込み、温室の草木を優しく揺らした。
私は植木鉢を胸の前で大事に抱え直す。
若葉の先には、小さな水滴が一粒だけ残っていた。その雫は夕日に照らされ、きらきらと眩しく輝いていた。




