第19話 暑い日の文化祭
深夜、魔法学院の十三階。
暖炉の炎が幽かな青い光を放っていた。白川はそばのソファに腰を下ろし、手の中の写真立てを見つめていた。
時折、写真に写る人々を指の腹で優しく撫でていた。
コン、コン。
「失礼します」
扉が開き、藤代が部屋へ入ってきた。白川のそばまで歩み寄ると、思わず身体を震わせた。
「院長。夏だからといって、寒木をそんなに燃やさなくてもいいでしょう」
白川は何も答えなかった。写真立てを机へ戻し、暖炉のそばに置かれた枝を何本か拾うと、さらに炎の中へ投げ入れた。
「藤代。こんな時間に来るなんて、何かあったのか?」
「院長」
藤代は軽く頭を下げた。
「今日の午後、生徒たちが南の森で矢野を見つけたそうです」
「……そうか」
白川は目を細め、窓の外へ目を向けた。夜空には、白く澄んだ満月が浮かんでいる。
「何をしていた?」
「話によると……魔法でシマモヨウネズミを生き返らせたそうです」
暖炉の寒木が、パチパチと小さな音を立てて燃えていた。白川は目を閉じ、静かにため息をつく。
「……どうやら、あいつは見つけたようだな」
白川は写真立てを手にして立ち上がり、窓辺へ向かった。
窓から差し込んだ月明かりが、写真立ての中に写る三人を照らした。
その光は、白川の肩にも降り注いでいた。
「晴奈。今の蒼を見たら、君はどう思うんだろうな……」
「晴奈先輩のことですか……?」
白川は答えず、窓の外を見つめたままだった。
「一つの命を取り戻すために払う代償は、いったい何なのだろうな……」
長い時間が過ぎたあと、藤代は暖炉の前へしゃがみ込み、炎に手を近づけた。
「森野さんたちの話によると、術を使う前、矢野は十数枚の黄金樹の葉を手にしていたそうです」
「魔力か……」
屋根の上から、ほんのかすかな物音が聞こえた。しかし、その音はすぐに消えてしまった。
「藤代。近いうちに、もう一度『鏡の世界』へ行ってもらうことになるかもしれない」
藤代は驚いたように顔を上げた。
「鏡の世界へ、ですか?」
「何かあったのですか?」
白川はもう一度写真立てを手に取り、写真の中の人影へ目を落とした。
「たとえ肉体を蘇らせることができても……」
「その魂は、いったいどこへ行くのだろうな」
「まさか……矢野は晴奈先輩の魂を探そうとしているのですか……?」
白川は小さく頷いた。
「あいつなら、必ずもう一度『鏡の世界』に現れる」
静まり返った部屋では、暖炉の炎だけが音もなく燃え続けていた。
◇
ベッドの上で寝返りを打ち、開いたばかりの目を擦った。
そういえば、昨日の夜、誰かが外へ出ていく音を聞いたような……。
身体を起こし、部屋の掛け時計を見る。六時三十八分。隣ではお兄ちゃんがまだ眠っていて、布団が呼吸に合わせてゆっくりと上下していた。
(昨日のは、聞き間違いだったのかな?)
つま先立ちでベッドを下り、めくれた布団をそっとかけ直す。布団にくるまるお兄ちゃんを見て、こっそり笑った。
顔を洗って歯を磨いたあと、玄関へ忍び足で向かい、静かに家の扉を開ける。
「行ってきまーす」
リビングのテーブルには、小さなメモを一枚残しておいた。
(文化祭に行ってきます。ちゃんとご飯も食べるからね!)
◇
コンビニに立ち寄り、小さなおにぎりを一つ買って鞄の中へ入れた。
校門へ着くと、千晴ちゃんがすでに立っていた。こちらへ手を振る。
「千晴ちゃん、おはよう!」
「七奈ちゃん!」
千晴ちゃんはスマートフォンを持った手を振った。そばまで行くと、画面には私の連絡先が開かれている。
「何かあったのかと思ったよ」
「何もないよ。早く入ろう!」
「うん」
◇
学校の体育館には、先生たちが少しずつ集まり始めていた。舞台の上では、何人もの生徒がマイクを手にしている。
生徒たちがマイクを軽く叩くと、スピーカーからドンドンと低い音が響いた。
「七奈ちゃん、もうリハーサルしてるよ」
「見えてるよ」
私と千晴ちゃんは体育館の入り口から顔を覗かせ、小声で話していた。
「先に美術室を見に行かない? 私たち、昨日は来られなかったから」
千晴ちゃんはそう言いながら、指先で私の腕をつついた。
頷いて千晴ちゃんの手を引き、美術室へ向かう。体育館から聞こえていた音は少しずつ遠ざかり、やがて耳に届かなくなった。
◇
美術室に入ると、中は静まり返っていた。
一番奥まで歩いていくと、一枚の絵が飾られている。そこには金色に輝く大樹と、魔法の杖を手にして少年を追いかける少女の姿が描かれていた。
「ねえ、七奈ちゃん。この絵って、七奈ちゃんと悠斗くん?」
「うん。この時、悠斗が私のことを太ってるって言ったから、いつか絶対に魔杖でコツンって叩いてやるんだから。」
口元を押さえて笑い、もう片方の手で魔杖を握る真似をして、空中を軽く叩いた。
顔を上げ、隣に飾られた絵を見る。
絵の中では、二人の少女が太い木の枝へ並んで腰を下ろしていた。一人の少女が遠くの月を指差し、楽しそうに笑っている。
千晴ちゃんの肩へ自然と身体を寄せた。
(千晴ちゃんったら、何でも絵にしちゃうんだから……)
美術室の外から、いくつもの足音が聞こえてきた。振り返ると、部長が数人の男子生徒と一緒に机を運んでいる。
「七奈、千晴。来てたんだ」
「うん、部長」
私たちも駆け寄り、机の片側を持ち上げた。
「助かるよ」
◇
九時を過ぎる頃には、美術室はたくさんの人でいっぱいになっていた。
みんな机の前で筆を持ち、画用紙へ思い思いの絵を描いている。私と千晴ちゃんは机の下から新しい画用紙を次々と取り出し、前にいるおじさんやおばさんたちへ渡していた。
「ありがとう、お嬢ちゃん」
「どういたしまして。楽しんでくださいね!」
笑いながら画用紙を一枚渡す。長い時間運動したあとみたいに、腕が少しずつだるくなってきた。
それでも、目の前のおばさんの笑顔を見ると、また急いで机の下から新しい画用紙を引っ張り出した。
「私にも一枚ちょうだい」
「はい、どうぞ……」
聞き覚えのある声に、手が止まった。差し出された両手へ画用紙を渡し、ゆっくりと顔を上げる。
「ゆ、柚乃先生!?」
「しーっ。ここではお姉ちゃんって呼んでね」
「えっ、柚乃せ……お姉ちゃん、どうしてここに?」
「週末なんだから、遊びに来てもいいでしょう?」
柚乃先生は画用紙と筆を手にすると、小さなうさぎのように駆けていった。
◇
午後になり、文化祭はようやく終わった。
立ち上がろうとしたけれど、力が入らず、そのまま机へ倒れ込むように突っ伏した。
「疲れたぁ……」
鞄の中へ手を入れる。朝に買ったおにぎりはまだそこに入っていたけれど、すっかり冷たくなっていた。
「七奈ちゃん、お疲れさま」
千晴ちゃんが隣へやってきて、乱れた髪を手で整えてくれた。けれど突然、その指が髪の中へ潜り込み、首筋をくすぐり始める。
「寝・ちゃ・ダ・メ!」
「あ、あははっ!もう勘弁してよ!」
私の声を聞き、千晴ちゃんは手を止めた。そのまま顔を机へ近づけてくる。
「七奈ちゃん、大丈夫?」
机に突っ伏したまま、わざと鼻をすすった。けれど、口元はどうしても緩んでしまう。
へへっ、引っかかった。
勢いよく顔を上げ、今度は私が千晴ちゃんの脇腹をくすぐった。
◇
校門へ着き、千晴ちゃんと一緒に帰ろうとしていると、少し離れた場所から一人の女の子が手を振っていた。
「柚乃先生?」
小声で呟くと、千晴ちゃんが私の方へ少し身を寄せた。
「あの人が柚乃先生?」
「うん」
「可愛い女の子みたいだね」
「見た目に騙されちゃダメだよ。授業ではすっごく怖いんだから」
「じゃあ、私は先に帰るね。七奈ちゃんも気をつけて」
「うん。千晴ちゃんもね」
千晴ちゃんは私に手を振り、家の方向へ歩いていった。私は小走りで柚乃先生のそばへ向かう。
「柚乃先生、どうしたんですか?」
「お姉ちゃんって呼んでって言ったでしょう?」
「えっ……柚乃お姉ちゃん?」
「うんうん」
柚乃先生は満足そうに頷き、私の手を握った。
「えっ?」
「森野さん、忘れちゃったの? 街へ買い物に連れていってくれるって約束したでしょう?」
柚乃先生の瞳は、陽射しを受けてきらきらと輝いていた。
(あの時、簡単に買い物へ連れていくなんて約束しなければよかったよぉ!)
◇
商店街に着くと、柚乃先生は気になる服を片っ端から試着して、そのくせ一着も買わずに店を出ていった。
「すみません、お邪魔しました!」
店員さんへ深々と頭を下げる。耳元では、服屋の宣伝放送がまだ流れていた。
「気にしなくていいのよ。妹さん、とっても可愛いわね」
「この人は私のせん……お姉ちゃんです!」
「えっ、全然そうは見えないわね」
さらに次の店まで見て回った頃には、足が鉛のように重くなっていた。柚乃先生の後ろを、ゆっくりついていくことしかできない。
若い人の方が元気だって、みんな言ってるのに。どうして……。
前を歩く柚乃先生を見ながら、花壇の縁へ腰を下ろした。片手で顔を扇ぎ、空を仰ぐ。
「今年の夏、本当に暑いなぁ……」
そう呟くと、柚乃先生がこちらへ駆け寄り、花壇へ手をついて隣に腰を下ろした。
「こっちもこんなに暑いなんて、思わなかったなぁ」
「えっ、魔法の世界も暑いの?」
「うん。どうしてか分からないけど、いつもの年よりずっと暑いの」
柚乃先生は小さな球を取り出し、私へ手渡した。
玩具屋さんでよく見かける水晶玉みたいだけれど、中には少し黄色くなった小さな草が入っている。
「ほら、魔力草まで少し黄色くなってるでしょう?」
「魔力草って何?」
「周りの魔力を吸収して、自分の生命力に変える草だよ」
柚乃先生はそう言いながら、指先で私の頭を軽く叩いた。
「だから、座学もちゃんと聞くこと。森野さん」
「うぅ、分かりました……」
◇
午後、柚乃先生を連れて時計屋の前までやってきた。
夕真おばさんは木製の揺り椅子へ腰を下ろし、本を読みながらひまわりの種をかじっている。
「夕真、ここは涼しいね」
柚乃先生はそう言って、店先に置かれた小さな腰掛けに座った。
夕真おばさんが店の中を指差す。二台のエアコンが、ゴォーッと音を立てながら冷たい風を送り出していた。
「今日は楽しかったよ、森野さん」
「私も楽しかったです、柚乃お姉ちゃん!」
「柚乃お姉ちゃん?」
夕真おばさんは本から顔を上げ、私と柚乃先生を交互に見た。
「そ、それじゃあ先生、また明日!」
後ろも振り返らず、その場から一目散に逃げ出した。
細い路地には、夕真おばさんの楽しそうな笑い声がいつまでも響いていた。




