第18話 黄金樹の小さな返事
その名前が、私の口からこぼれ落ちた。隣にいた悠斗も目を細める。
「……あいつだ」
「二人とも、何を話してるの? あの人は誰?」
千晴ちゃんが私の肩に触れ、男の方を見ながら尋ねた。
「前に黄金樹の下で、私を襲った人だよ」
「えっ……」
千晴ちゃんの肩が小さく震え、私の背中へ隠れるように身を寄せた。私は悠斗の袖を軽く引っ張る。
「悠斗、早く戻って藤代先生に知らせよう」
「ああ、行こう」
私たちは息を潜め、草むらの中を少しずつ後ろへ下がった。
枝を踏んじゃダメ。
葉っぱの音も立てちゃダメ。
矢野の姿が完全に見えなくなるまで後ずさりしてから、ようやく背を向け、来た道を戻った。もう一度小川を渡り、森の入り口まで走ったところで、顔を見合わせて息を吐く。
◇
千晴ちゃんは服についた土を払いながら、何度も森の方を振り返っていた。
「七奈ちゃん……あの人が、前に七奈ちゃんを襲った人なの?」
「うん。早くここを離れよう」
頷くと、悠斗はすでに魔杖を取り出していた。
「――【疾行】」
そよ風が私たちの両脚を包み込む。試しに脚を上げてみると、身体がずいぶん軽くなっていた。
私たちは学院へ続く小道を、一気に駆け出した。
◇
商店街へ戻った頃には、空がすっかり赤く染まっていた。道の両側に並ぶ花の街灯は、眠りについたように頭を下げ、橙色の光を咲かせている。
学院の巨木の根元へ辿り着くと、千晴ちゃんは初めてここへ来た時の私と同じように、おそるおそる藤蔓の移動通路へ足を乗せた。
「千晴ちゃん、絶対に手を離しちゃダメだよ」
「う、うん……」
藤蔓が勢いよく空へ昇っていく。千晴ちゃんは眼下に広がる景色を眺めながら、片手を藤蔓の外へ伸ばして風を感じていた。
「わぁっ、速い!」
上の足場へ到着すると、千晴ちゃんの手を引き、そのまま大きな鉄門まで走った。
「七奈ちゃん……い、今の……すっごくスリルがあった……!」
「えっ、千晴ちゃんは怖がると思ってたのに」
「最初はびっくりしたけど……藤蔓にしっかりつかまっていれば、そんなに怖くなかったよ」
千晴ちゃんは私の手を強く握り、楽しそうに笑った。その隣で、悠斗が魔杖を使って鉄門を軽く叩く。
ゴゴゴゴ……。
昼間のような元気な声ではなく、鉄門はまるで居眠りでもしているように、低く唸りながらゆっくりと開いていった。
(そっか……鉄門も、夜になったら眠るんだ)
腕時計へ目を落とす。
――十九時三十分。
「大変!」
「千晴ちゃん、見て!」
慌てて腕を千晴ちゃんの前へ差し出した。
「どうしよう……お父さんとお母さん、すっごく心配してるよ……!」
「本当だ……!」
千晴ちゃんも腕時計を覗き込み、驚いたように目を見開いた。
「急ぐぞ!」
後ろにいた悠斗が声を上げる。
「まずは藤代先生を探そう!」
そう言い残し、私たちを置いて先へ走っていった。
「待ってよー!」
◇
「早く、早く!」
悠斗が先頭を走り、学院の中を駆け抜けていく。私は千晴ちゃんの手を握り、遅れないようにその背中を追った。
千晴ちゃんの手は汗ばんでいる。あとでちゃんと謝らなくちゃ。
やがて学院の本館へ辿り着き、十二階にある一室の前で足を止めた。
悠斗はゴクリと唾を飲み込み、目の前の扉へ手を伸ばす。
コン、コン。
「失礼します」
「入りなさい」
中から低い声が返ってきた。
悠斗が扉を開ける。橙色の灯りが赤い絨毯へ落ち、まるで暖炉の火のように部屋を温かく照らしていた。
絨毯へ目を落としたまま深く息を吸い、千晴ちゃんの手を引いて部屋へ入る。
藤代先生は書架の前に立ち、青い表紙の大きな本を手にしていた。頭の上には一羽のフクロウが乗り、首をくるくると動かしている。
「藤代先生」
先生は本を閉じ、こちらへ顔を向けた。悠斗から私へと目を移し、最後に、隣にいる千晴ちゃんをじっと見る。
私もその視線を追い――ようやく気づいた。
(しまった。千晴ちゃんを学院の中まで連れてきちゃった!)
「……森野さん。その子は誰ですか?」
「え、えっと……」
肩がびくりと跳ねる。
「わ、私の友達です……」
藤代先生は小さくため息をついた。
「森野さん、学院の校則は覚えていますね?」
「……覚えています」
俯き、足元の革靴へ目を落とす。
「あの、七奈ちゃんは悪くありません!」
千晴ちゃんが一歩前へ出て、私を庇うように立った。小さく拳を握り、藤代先生の顔をまっすぐ見上げる。
「私が無理にお願いして、連れてきてもらったんです!」
「それに……魔法学院のことを知ったのも、私が勝手に七奈ちゃんの後をつけたからで……!」
「それでも――」
「あの、藤代先生」
悠斗の声が先生の言葉を遮った。
「もっと大事な話があります。先に、これを聞いてください」
先生の眉がわずかに上がる。
「風祭くん。学院の規則は――」
「南の森で、矢野を見ました」
部屋が一瞬で静まり返った。
机の上で文字を書いていた羽根ペンまで、ぴたりと動きを止める。
フクロウは藤代先生の頭から飛び下り、その肩へ移った。
「……何を見たんですか?」
悠斗は胸元の徽章を外し、先生へ差し出した。
「これを見てください」
藤代先生は徽章を受け取り、目を落とした。表面を覆っていた赤い光はすでに消え、黒く焦げたような跡だけが残っている。
「……なるほど」
先生は顔を上げた。
「矢野は、南の森で何をしていたんですか?」
私たちは森で目にしたことを、一つ残らず話した。
死んでいたシマモヨウネズミが蘇ったところまで話すと、藤代先生が片手を上げ、話を遮った。
「……待ってください。矢野が、死んだシマモヨウネズミを蘇らせたんですか?」
藤代先生はこめかみを揉んだ。
「見間違いではありませんね?」
「間違いありません! 俺たち三人とも、はっきり見ました」
悠斗が一歩前へ出て、先生の顔を見上げる。
藤代先生は長く息を吐いた。
「……最近、本当に問題続きですね。」
目を閉じると、机の羽根ペンが再び文字を書き始めた。しばらくして、先生が口を開く。
「君たちは先に帰りなさい。私は院長へ報告に行きます」
「えっ、でも千晴のことは――」
悠斗が何か言いかけた瞬間、その腕をつかんだ。
「それじゃあ、失礼します! わ、私たちは帰ります!」
「えっ!? ちょっと――」
千晴ちゃんも慌てて私たちのあとを追ってくる。
悠斗を引っ張ったまま部屋を飛び出し、一度も振り返らずに廊下を駆け抜けた。
扉が勢いよく閉まる。
部屋に残された藤代先生は、肩に乗ったフクロウを軽く撫でた。
「……やることが多すぎますね。何か大事なことを忘れているような気もしますが……」
「……まあ、いいでしょう。今は院長への報告が先です」
小さく呟き、本を机へ置くと、藤代先生も部屋を出ていった。
◇
「ふぅ……危なかった……!」
悠斗の腕をつかんだまま一階まで一気に駆け下り、肩を大きく上下させながら息を整える。
「おい、なんで急に俺を引っ張り出したんだよ?」
「あのまま話してたら、また藤代先生に怒られてたよ!」
「そういえば、そうか……」
悠斗は頭を掻き、照れくさそうに笑った。
「私、藤代先生にお説教されるのは嫌なんだから」
悠斗の腕を指先で軽くつねる。隣では、千晴ちゃんも声を抑えて笑っていた。
「それじゃあ、私たちはもう帰るね」
「これ以上遅くなったら、お父さんとお母さんが心配しちゃうから」
「分かったよ。今日は俺も疲れたしな」
悠斗が片手を軽く振ると、一本の箒がふわりとその手へ降りてきた。
「二人とも、帰り道には気をつけろよ」
「悠斗もね」
笑いながら手を振り返す。
悠斗は箒へ跨がり、夜空へ向かってゆっくりと昇っていった。
やがてその姿は暗い夜の中へ溶け込み、見えなくなった。
「じゃあ、私たちも帰ろう」
「うん!」
◇
夜風に吹かれながら、千晴ちゃんと黄金樹の広場へ向かった。
「千晴ちゃん」
申し訳なさそうに笑いかけた。
「今日は本当にごめんね」
「ちゃんと町を案内するつもりだったのに、こんなことに巻き込んじゃって……」
千晴ちゃんは首を横に振った。
「そんなことないよ」
「私のせいで、七奈ちゃんたちまで先生に怒られそうになったし……」
少しだけ俯いたあと、千晴ちゃんは笑みを浮かべた。
「それに、今日は本当に楽しかったよ」
「えっ、本当?」
足を止めると、千晴ちゃんは私の顔を見て、大きく頷いた。
「うん。また来たいな」
自然と笑みがこぼれる。
「もちろん! 今度また一緒に遊びに来ようね!」
「うん!」
笑い合いながら黄金樹の前まで歩いた。
夜の黄金樹は昼間よりもずっと静かだった。それでも灯台のように、この町を見守り続けている。
足を止め、空へ広がる豊かな枝葉を仰いだ。
一枚の黄金色の葉が、ふわりと私の肩へ舞い降りる。
続いて、もう一枚。
今度は千晴ちゃんの頭の上へ落ちた。
千晴ちゃんは頭に乗った葉を手に取り、鞄の中へしまった。
「帰ろう」
「うん」
転移門を開き、千晴ちゃんの手を引いて、一緒に光の中へ足を踏み入れた。
◇
「ただいまー!」
玄関の扉を開けると、お母さんがすぐに顔を覗かせた。
「おかえり。今日はずいぶん遅かったのね」
「千晴ちゃんと、ちょっと寄り道してたの」
「まったく……暗くなる前に帰ってきなさい」
お母さんが小さくため息をつくと、リビングからお父さんの声が聞こえてきた。
「まあまあ。もう中学生なんだし、たまには少しくらい寄り道してもいいだろう」
「あなたは七奈を甘やかしすぎなの!」
「えへへ……」
気まずくなって笑い、その隙に洗面所へ逃げ込んだ。
◇
夜更け、自分のベッドに横になり、真っ暗な天井を眺めていた。
どれくらい時間が過ぎたのだろう。寝返りを打ち、うさぎのぬいぐるみを抱えて、お兄ちゃんの部屋へ忍び込んだ。
「お、お兄ちゃん」
「今日も一緒に寝ていい?」
「またかよ。今度はどうしたんだ?」
うさぎのぬいぐるみを抱えたまま、お兄ちゃんのベッドのそばへ腰を下ろす。
「昨日……怖い夢を見たの」
「どうせ、また怪物に追いかけられる夢だろ?」
「違うもん!」
お兄ちゃんの腕を軽く叩いた。
「はいはい。俺の負けだよ」
お兄ちゃんが布団の端を持ち上げる。ベッドへ上がり、その隙間から中へ潜り込んだ。
静かな部屋では、扇風機が規則正しく首を振る音だけが響いている。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「昨日……シマモヨウネズミが生き返る夢を見たの」
「シマモヨウネズミ? なんだ、それ」
「ち、違う! 縞模様のネズミだよ!」
慌てて言い直すと、お兄ちゃんが笑った。
「お兄ちゃん」
「今度はなんだ?」
少しだけ迷ってから、口を開く。
「本当に……動物を生き返らせる魔法って、あると思う?」
お兄ちゃんの身体がわずかに強張り、掛け布団も一緒に小さく揺れた。
「さあな」
「でも、早く寝ないと明日も寝坊するぞ」
「うぇぇ……いつもそればっかり」
うさぎのぬいぐるみを抱きしめ、身体の向きを変えた。瞼が少しずつ重くなっていく。
いつの間にか、意識がうとうとと沈み始めていた。まどろみの中で、部屋のドアが開く音を聞いた。
薄く目を開ける。
「お兄ちゃん?」
返事はなかった。
もう一度目を閉じようとした、その時。
パタン。
静まり返った部屋に、ドアが閉まる音だけが響いた。




