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私、魔法使いを見た!  作者: MorinoNanana
第一部 黄金樹の下の約束
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19/30

第18話 黄金樹の小さな返事

 その名前が、私の口からこぼれ落ちた。隣にいた悠斗も目を細める。


「……あいつだ」


「二人とも、何を話してるの? あの人は誰?」


 千晴ちゃんが私の肩に触れ、男の方を見ながら尋ねた。


「前に黄金樹の下で、私を襲った人だよ」


「えっ……」


 千晴ちゃんの肩が小さく震え、私の背中へ隠れるように身を寄せた。私は悠斗の袖を軽く引っ張る。


「悠斗、早く戻って藤代先生に知らせよう」


「ああ、行こう」


 私たちは息を潜め、草むらの中を少しずつ後ろへ下がった。


 枝を踏んじゃダメ。


 葉っぱの音も立てちゃダメ。


 矢野の姿が完全に見えなくなるまで後ずさりしてから、ようやく背を向け、来た道を戻った。もう一度小川を渡り、森の入り口まで走ったところで、顔を見合わせて息を吐く。


 ◇


 千晴ちゃんは服についた土を払いながら、何度も森の方を振り返っていた。


「七奈ちゃん……あの人が、前に七奈ちゃんを襲った人なの?」


「うん。早くここを離れよう」


 頷くと、悠斗はすでに魔杖を取り出していた。


「――【疾行スピード】」


 そよ風が私たちの両脚を包み込む。試しに脚を上げてみると、身体がずいぶん軽くなっていた。


 私たちは学院へ続く小道を、一気に駆け出した。


 ◇


 商店街へ戻った頃には、空がすっかり赤く染まっていた。道の両側に並ぶ花の街灯は、眠りについたように頭を下げ、橙色の光を咲かせている。


 学院の巨木の根元へ辿り着くと、千晴ちゃんは初めてここへ来た時の私と同じように、おそるおそる藤蔓の移動通路へ足を乗せた。


「千晴ちゃん、絶対に手を離しちゃダメだよ」


「う、うん……」


 藤蔓が勢いよく空へ昇っていく。千晴ちゃんは眼下に広がる景色を眺めながら、片手を藤蔓の外へ伸ばして風を感じていた。


「わぁっ、速い!」


 上の足場へ到着すると、千晴ちゃんの手を引き、そのまま大きな鉄門まで走った。


「七奈ちゃん……い、今の……すっごくスリルがあった……!」


「えっ、千晴ちゃんは怖がると思ってたのに」


「最初はびっくりしたけど……藤蔓にしっかりつかまっていれば、そんなに怖くなかったよ」


 千晴ちゃんは私の手を強く握り、楽しそうに笑った。その隣で、悠斗が魔杖を使って鉄門を軽く叩く。


 ゴゴゴゴ……。


 昼間のような元気な声ではなく、鉄門はまるで居眠りでもしているように、低く唸りながらゆっくりと開いていった。


(そっか……鉄門も、夜になったら眠るんだ)


 腕時計へ目を落とす。


 ――十九時三十分。


「大変!」


「千晴ちゃん、見て!」


 慌てて腕を千晴ちゃんの前へ差し出した。


「どうしよう……お父さんとお母さん、すっごく心配してるよ……!」


「本当だ……!」


 千晴ちゃんも腕時計を覗き込み、驚いたように目を見開いた。


「急ぐぞ!」


 後ろにいた悠斗が声を上げる。


「まずは藤代先生を探そう!」


 そう言い残し、私たちを置いて先へ走っていった。


「待ってよー!」


 ◇


「早く、早く!」


 悠斗が先頭を走り、学院の中を駆け抜けていく。私は千晴ちゃんの手を握り、遅れないようにその背中を追った。


 千晴ちゃんの手は汗ばんでいる。あとでちゃんと謝らなくちゃ。


 やがて学院の本館へ辿り着き、十二階にある一室の前で足を止めた。


 悠斗はゴクリと唾を飲み込み、目の前の扉へ手を伸ばす。


 コン、コン。


「失礼します」


「入りなさい」


 中から低い声が返ってきた。


 悠斗が扉を開ける。橙色の灯りが赤い絨毯へ落ち、まるで暖炉の火のように部屋を温かく照らしていた。


 絨毯へ目を落としたまま深く息を吸い、千晴ちゃんの手を引いて部屋へ入る。


 藤代先生は書架の前に立ち、青い表紙の大きな本を手にしていた。頭の上には一羽のフクロウが乗り、首をくるくると動かしている。


「藤代先生」


 先生は本を閉じ、こちらへ顔を向けた。悠斗から私へと目を移し、最後に、隣にいる千晴ちゃんをじっと見る。


 私もその視線を追い――ようやく気づいた。


(しまった。千晴ちゃんを学院の中まで連れてきちゃった!)


「……森野さん。その子は誰ですか?」


「え、えっと……」


 肩がびくりと跳ねる。


「わ、私の友達です……」


 藤代先生は小さくため息をついた。


「森野さん、学院の校則は覚えていますね?」


「……覚えています」


 俯き、足元の革靴へ目を落とす。


「あの、七奈ちゃんは悪くありません!」


 千晴ちゃんが一歩前へ出て、私を庇うように立った。小さく拳を握り、藤代先生の顔をまっすぐ見上げる。


「私が無理にお願いして、連れてきてもらったんです!」


「それに……魔法学院のことを知ったのも、私が勝手に七奈ちゃんの後をつけたからで……!」


「それでも――」


「あの、藤代先生」


 悠斗の声が先生の言葉を遮った。


「もっと大事な話があります。先に、これを聞いてください」


 先生の眉がわずかに上がる。


「風祭くん。学院の規則は――」


「南の森で、矢野を見ました」


 部屋が一瞬で静まり返った。


 机の上で文字を書いていた羽根ペンまで、ぴたりと動きを止める。


 フクロウは藤代先生の頭から飛び下り、その肩へ移った。


「……何を見たんですか?」


 悠斗は胸元の徽章を外し、先生へ差し出した。


「これを見てください」


 藤代先生は徽章を受け取り、目を落とした。表面を覆っていた赤い光はすでに消え、黒く焦げたような跡だけが残っている。


「……なるほど」


 先生は顔を上げた。


「矢野は、南の森で何をしていたんですか?」


 私たちは森で目にしたことを、一つ残らず話した。


 死んでいたシマモヨウネズミが蘇ったところまで話すと、藤代先生が片手を上げ、話を遮った。


「……待ってください。矢野が、死んだシマモヨウネズミを蘇らせたんですか?」


 藤代先生はこめかみを揉んだ。


「見間違いではありませんね?」


「間違いありません! 俺たち三人とも、はっきり見ました」


 悠斗が一歩前へ出て、先生の顔を見上げる。


 藤代先生は長く息を吐いた。


「……最近、本当に問題続きですね。」


 目を閉じると、机の羽根ペンが再び文字を書き始めた。しばらくして、先生が口を開く。


「君たちは先に帰りなさい。私は院長へ報告に行きます」


「えっ、でも千晴のことは――」


 悠斗が何か言いかけた瞬間、その腕をつかんだ。


「それじゃあ、失礼します! わ、私たちは帰ります!」


「えっ!? ちょっと――」


 千晴ちゃんも慌てて私たちのあとを追ってくる。


 悠斗を引っ張ったまま部屋を飛び出し、一度も振り返らずに廊下を駆け抜けた。


 扉が勢いよく閉まる。


 部屋に残された藤代先生は、肩に乗ったフクロウを軽く撫でた。


「……やることが多すぎますね。何か大事なことを忘れているような気もしますが……」


「……まあ、いいでしょう。今は院長への報告が先です」


 小さく呟き、本を机へ置くと、藤代先生も部屋を出ていった。


 ◇


「ふぅ……危なかった……!」


 悠斗の腕をつかんだまま一階まで一気に駆け下り、肩を大きく上下させながら息を整える。


「おい、なんで急に俺を引っ張り出したんだよ?」


「あのまま話してたら、また藤代先生に怒られてたよ!」


「そういえば、そうか……」


 悠斗は頭を掻き、照れくさそうに笑った。


「私、藤代先生にお説教されるのは嫌なんだから」


 悠斗の腕を指先で軽くつねる。隣では、千晴ちゃんも声を抑えて笑っていた。


「それじゃあ、私たちはもう帰るね」


「これ以上遅くなったら、お父さんとお母さんが心配しちゃうから」


「分かったよ。今日は俺も疲れたしな」


 悠斗が片手を軽く振ると、一本の箒がふわりとその手へ降りてきた。


「二人とも、帰り道には気をつけろよ」


「悠斗もね」


 笑いながら手を振り返す。


 悠斗は箒へ跨がり、夜空へ向かってゆっくりと昇っていった。


 やがてその姿は暗い夜の中へ溶け込み、見えなくなった。


「じゃあ、私たちも帰ろう」


「うん!」


 ◇


 夜風に吹かれながら、千晴ちゃんと黄金樹の広場へ向かった。


「千晴ちゃん」


 申し訳なさそうに笑いかけた。


「今日は本当にごめんね」


「ちゃんと町を案内するつもりだったのに、こんなことに巻き込んじゃって……」


 千晴ちゃんは首を横に振った。


「そんなことないよ」


「私のせいで、七奈ちゃんたちまで先生に怒られそうになったし……」


 少しだけ俯いたあと、千晴ちゃんは笑みを浮かべた。


「それに、今日は本当に楽しかったよ」


「えっ、本当?」


 足を止めると、千晴ちゃんは私の顔を見て、大きく頷いた。


「うん。また来たいな」


 自然と笑みがこぼれる。


「もちろん! 今度また一緒に遊びに来ようね!」


「うん!」


 笑い合いながら黄金樹の前まで歩いた。


 夜の黄金樹は昼間よりもずっと静かだった。それでも灯台のように、この町を見守り続けている。


 足を止め、空へ広がる豊かな枝葉を仰いだ。


 一枚の黄金色の葉が、ふわりと私の肩へ舞い降りる。


 続いて、もう一枚。


 今度は千晴ちゃんの頭の上へ落ちた。


 千晴ちゃんは頭に乗った葉を手に取り、鞄の中へしまった。


「帰ろう」


「うん」


 転移門を開き、千晴ちゃんの手を引いて、一緒に光の中へ足を踏み入れた。


 ◇


「ただいまー!」


 玄関の扉を開けると、お母さんがすぐに顔を覗かせた。


「おかえり。今日はずいぶん遅かったのね」


「千晴ちゃんと、ちょっと寄り道してたの」


「まったく……暗くなる前に帰ってきなさい」


 お母さんが小さくため息をつくと、リビングからお父さんの声が聞こえてきた。


「まあまあ。もう中学生なんだし、たまには少しくらい寄り道してもいいだろう」


「あなたは七奈を甘やかしすぎなの!」


「えへへ……」


 気まずくなって笑い、その隙に洗面所へ逃げ込んだ。


 ◇


 夜更け、自分のベッドに横になり、真っ暗な天井を眺めていた。


 どれくらい時間が過ぎたのだろう。寝返りを打ち、うさぎのぬいぐるみを抱えて、お兄ちゃんの部屋へ忍び込んだ。


「お、お兄ちゃん」


「今日も一緒に寝ていい?」


「またかよ。今度はどうしたんだ?」


 うさぎのぬいぐるみを抱えたまま、お兄ちゃんのベッドのそばへ腰を下ろす。


「昨日……怖い夢を見たの」


「どうせ、また怪物に追いかけられる夢だろ?」


「違うもん!」


 お兄ちゃんの腕を軽く叩いた。


「はいはい。俺の負けだよ」


 お兄ちゃんが布団の端を持ち上げる。ベッドへ上がり、その隙間から中へ潜り込んだ。


 静かな部屋では、扇風機が規則正しく首を振る音だけが響いている。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「昨日……シマモヨウネズミが生き返る夢を見たの」


「シマモヨウネズミ? なんだ、それ」


「ち、違う! 縞模様のネズミだよ!」


 慌てて言い直すと、お兄ちゃんが笑った。


「お兄ちゃん」


「今度はなんだ?」


 少しだけ迷ってから、口を開く。


「本当に……動物を生き返らせる魔法って、あると思う?」


 お兄ちゃんの身体がわずかに強張り、掛け布団も一緒に小さく揺れた。


「さあな」


「でも、早く寝ないと明日も寝坊するぞ」


「うぇぇ……いつもそればっかり」


 うさぎのぬいぐるみを抱きしめ、身体の向きを変えた。瞼が少しずつ重くなっていく。


 いつの間にか、意識がうとうとと沈み始めていた。まどろみの中で、部屋のドアが開く音を聞いた。


 薄く目を開ける。


「お兄ちゃん?」


 返事はなかった。


 もう一度目を閉じようとした、その時。


 パタン。


 静まり返った部屋に、ドアが閉まる音だけが響いた。


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