第17話 森の奥の魔法使い
「大変!遅刻しちゃう!」
学院の広場へ駆け込むと、すでに大勢の生徒たちが並んでいた。
柚乃先生は前に並ぶ生徒たちを見渡そうと、つま先立ちになっている。私は深く息を吸い、こっそりと列の最後尾へ滑り込んだ。
「森野さん、今日は遅刻しませんでしたね?」
「は、はい! これからも頑張ります!」
(へへっ、今日は怒られずに済みそう!)
「それでは、今日の授業を始めますよ」
「皆さん、向こうに並べられた空のコップが見えますか?」
広場の反対側には、何も入っていないコップが一列に並べられていた。
「今日は水の魔法を使って、あのコップをいっぱいにしてもらいます」
先生は私たちを見回し、説明を続ける。
「授業で教えたことは、皆さんまだ覚えていますか?」
「元素魔法を使う時は、まず元素と自分の身体が一つになった感覚を思い出してください。それから魔力を使って、その流れを優しく導いてあげるんです」
「それでは、私がお手本を見せますね」
魔杖の先端から淡い青色の光が放たれ、無数の小さな水滴が先生の周囲へ浮かび上がった。
水滴は見えない糸に引かれるように集まっていき、やがて魔杖の先に、大きく透き通った水球が生まれた。
「――【水球】!」
先生が魔杖を振ると、水球は真っすぐコップへ飛んでいった。バシャッと水しぶきを上げ、空っぽだったコップをゆっくりと満たしていく。
「すごい……!」
みんなの口から、一斉に感嘆の声が上がった。
「はい。それでは、それぞれ練習を始めてください!」
先生が魔杖を下ろすと、生徒たちは散らばり、自分のコップへ向かって歩いていった。
広場のあちこちで魔杖が掲げられ、小さな水滴が次々と宙へ浮かび上がる。
「皆さん、真面目に取り組んでくださいねー」
柚乃先生は満面の笑みを浮かべ、生徒たちの間を歩きながら一人ずつ様子を確認していた。
「七奈、七奈!」
隣から悠斗の弾んだ声が聞こえた。嬉しそうにこちらへ手を振っている。
「見てろよ!」
自信満々に魔杖を掲げると、悠斗の周りにも水滴が現れた。水滴は少しずつ集まって一つの水球になり、真っすぐコップへ飛んでいく。
「風祭くん、なかなか素質がありますね」
通りかかった柚乃先生が頷き、魔杖で悠斗の肩を軽く叩いた。
「当然だろ。俺は大魔法使いになる男だからな!」
悠斗がそう言った途端、周りにいた生徒たちが笑い出した。
悠斗は少し腹を立てたように、さらにいくつもの水球を放ち、次々とコップへ命中させていく。
「はい、皆さん。笑わないでください。風祭くんはよくできていますよ。
でも、大魔法使いになるには、まだまだ遠いですけどね」
柚乃先生の言葉を聞き、生徒たちはまた声を抑えて笑った。
けれど今度の悠斗は、水でいっぱいになったコップの隣で腰に手を当て、得意そうに笑っていた。
もう、悠斗ったら……まあ、いっか。
柚乃先生の動きを真似しながら、私も魔杖を振り始めた。目の前のコップを見ていると、あの日、庭のそばで涼しくなる魔法を使った時のことを思い出す。
その時のことを考えただけで、顔が熱くなってきた。目を閉じ、小さな声で「雨……水球」と唱える。
再び目を開けると、ビー玉くらいの水球が魔杖の前に浮かんでいた。
魔杖を振り、水球をコップの上へ飛ばす。パチンという澄んだ音とともに水球が弾け、小さな雨となって降り注いだ。
いつの間にか隣へ来ていた柚乃先生が、私の前に置かれたコップを見て、魔杖で肩を軽く叩いた。
「初めてでここまでできれば、上出来ですよ、森野さん」
柚乃先生の方へ顔を向けると、優しく笑いかけてくれた。大きく頷き、私もつられて笑った。
学院の広場では、今もあちこちで水しぶきが上がっていた。
◇
柚乃先生が授業の終了を告げる前に、こっそり列の後ろへ移動した。「今日の授業はここまで!」という声が響くと同時に、その場から抜け出す。
「七奈!」
悠斗が生徒たちの間をかき分け、私の前へ飛び出してきた。
「このあと、広場で遊ばないか?」
「私も遊びたいけど、今日は友達と南の森を散歩する約束をしてるんだ」
「ええっ!? 向こうの世界の友達を連れてきたのか?」
「うん、そうだよ」
「おいおい……藤代先生に見つかったら、本当に大変なことになるぞ?」
悠斗はそう言いながら、手で首の前を横切る大げさな仕草をした。
「分かってるよ」
声を潜め、人差し指を唇へ当てる。
「だから、秘密にしてね?」
「じゃあ、俺も連れていけよ」
「交渉成立!」
◇
ジュース屋の屋台へ戻ると、千晴ちゃんは奥に置かれた椅子へ腰を下ろし、夢中になって本を読んでいた。
袖を肘までまくり上げ、額にはいくつもの汗の粒が浮かんでいる。汗の粒が陽射しを受け、きらきらと輝いていた。
夕日の柔らかな光が、本のページを照らしている。
(千晴ちゃんって、本当に勉強熱心だなぁ……)
「千晴ちゃん! ただいま!」
声をかけると、千晴ちゃんは顔を上げ、本を閉じた。
「七奈ちゃん、おかえり!」
その視線が、私の隣に立つ少年へ向けられる。
「……あっ、こちらは?」
「悠斗だよ。前に話した、あの男の子」
「あっ!」
何かを思い出したように目を見開き、私の耳元へ顔を寄せて小声で囁いた。
「七奈ちゃんの部屋に忍び込んできたっていう……?」
「ちょっと!」
顔が一気に熱くなる。
「そんな言い方したら、誤解されちゃうよ!」
「あ、あの、俺は悠斗。よろしく」
「初めまして、千晴です。よろしくね」
夕日が私たちの影を長く伸ばす中、私と千晴ちゃん、悠斗は並んで南の森へ向かった。
◇
南の森へ入り、以前にも通った分かれ道で足を止めた。
「七奈ちゃん、すごく大きな木だね。画用紙を持ってくればよかったなぁ……」
千晴ちゃんは両手を身体の前へ掲げ、小さなインスタントカメラのような形を作った。その姿がおかしくて、口元を押さえながら小さく笑う。
「でも、本当に大丈夫かな……学院からかなり離れてるみたいだけど」
「大丈夫、大丈夫」
笑いながら手を振る。悠斗も胸を叩き、魔杖を身体の前へ掲げた。
「俺だって強いんだからな」
「ちょっと待って、悠斗」
「前に探索へ来た時、真っ先に川へ落ちたのは誰だったっけ?」
「そういう七奈だって、一緒に落ちただろ!」
「あははっ!」
私たちの笑い声が森へ響く中、木漏れ日の差す小道を歩き、柔らかな土を靴底で踏みしめているうちに、いつの間にか森の奥まで来ていた。
「ここの木の根も、すごく大きいね……」
千晴ちゃんは目の前に盛り上がった巨大な木の根を見上げ、木の根の上端へ手をかけようと何度も跳び上がった。私と悠斗が千晴ちゃんを押し上げ、そのあとに続いて木の根へ登る。
「はぁ、はぁ……だから、ちゃんと私についてきてね。迷子になっちゃダメだよ」
千晴ちゃんが頷いた。私は木の根へ腰を下ろし、川の向こう側に広がる草むらを眺める。
「今日はシマモヨウネズミに会えるかな」
「それにしても、今日は森の中も暑いな」
悠斗は手で顔を扇ぎながら、周囲に立ち並ぶ木々を見回した。
「夏なんだから、暑いのは普通じゃない……?」
悠斗の視線を追って周囲を見る。木々は今も青々としていたけれど、枝先には黄色くなった葉が数枚だけ混じっていた。
「そうかもな」
悠斗は額の汗を拭い、立ち上がった。少し休んだあと、私たちはさらに森の奥へ向かって歩き始めた。
◇
しばらくして、以前にも訪れた小川へ辿り着いた。私と悠斗は同時に魔杖を振る。
「「――【バブル】!」」
ポンッ。
二つの大きな泡が、ふわりと目の前へ現れた。
「わぁ、綺麗……!」
「千晴ちゃん」
泡の上へ腰を下ろし、手を差し出す。
「この泡に乗るから、私にしっかりつかまっててね」
「うん!」
千晴ちゃんは少し緊張していたけれど、私の手を強く握り返してくれた。二つの泡が、ゆっくりと水面へ降り立った。
ぽよん。
ぽよん。
水面を跳ねる風船のように、小川をゆっくりと渡っていった。夕焼けに赤く染まった水面へ、小さな波紋が幾重にも広がっていく。
太陽が西の山へ沈みかけた頃、ようやく対岸へ辿り着いた。
「ふぅ……」
千晴ちゃんが長く息を吐いた。
「今日は本当に楽しかった!」
「うん」
私も嬉しくなって笑った。
「今度、絶対にまた連れてきてあげるね」
「約束だよ?」
「うん、約束!」
「――待って」
突然、悠斗が足を止めた。
振り返ると、悠斗は人差し指を唇へ当て、私たちに静かにするよう合図していた。もう片方の手は胸元の徽章を指している。徽章は激しく赤い光を放っていた。
「どうしたの……?」
声を潜めて尋ねる。悠斗は辺りを見回し、低い声で答えた。
「これは緊急用の徽章なんだ。こいつが反応してるってことは、この近くに異常な魔力を持つ何かがいる」
「えっ……」
千晴ちゃんの表情が強張った。
「まさか……本当に怪物がいるの?」
「いや」
悠斗は首を横に振った。
「怪物の魔力じゃない」
悠斗がローブについた徽章へ触れると、赤い光が森の奥を指し示した。
「……人だ。誰かがあそこにいる」
「どうするの?」
「ここから様子を見よう」
悠斗は魔杖の先端で、私たち三人の額を順番に軽く叩いた。
「――【鷹の目】」
突然、視界が大きく開けた。遠くにある木の葉の葉脈まで、はっきりと見える。その上には、毛虫みたいな小さな虫まで乗っていた。
「あそこだ」
悠斗が前方を指差す。私たちは身を屈めて草むらへ隠れ、葉の隙間から向こう側を覗き込んだ。
そこにいたのは、一人の男だった。
男は私たちに背を向け、手の中で何かを強く握りしめている。草を少しだけ掻き分け、目を凝らす。夕日を浴びた男の手には、十数枚もの黄金樹の葉が握られていた。
千晴ちゃんが息を呑み、私のすぐそばへ身を寄せる。
「あれは何……?」
「あれ……院長先生が私たちにくれた葉っぱと同じみたい」
「あの葉っぱは、何に使うものなの?」
「院長先生が、一枚一枚にたくさんの魔力が込められてるって言ってたよ。私が転移門を呼び出す時にも、魔力が必要なのと同じ」
男が懐へ手を入れた。そこから取り出したのは、一匹の小さなシマモヨウネズミだった。
けれど、その小さな身体は地面に横たわったまま、少しも動かなかった。
身体の周囲には灰色の光が浮かんでいる。隣に立つ男へ目を移すと、こちらは緑色の光に包まれていた。
「悠斗……あれは……」
「シマモヨウネズミだ。でも、もう死んでるみたいだ」
「えっ!?」
男が魔杖を掲げ、その先端を動かないシマモヨウネズミへ向けた。
やがて空気が激しく震え、森全体が低く唸り声を上げた。男の周囲にある木々の緑の葉も、次々と黄色く変わっていく。濃密な魔力が一瞬で辺りを満たし、悠斗の徽章は星のように激しく明滅していた。
同時に、男が握っていた黄金樹の葉が、目に見える速さで黒く焦げていく。乾いた音を立てながら、次々と砕け散った。
「見て……!」
悠斗が手を目元へかざす。私たちは目を大きく見開いた。
死んでいたはずのシマモヨウネズミが、ゆっくりと目を開いた。小さな身体を震わせながら立ち上がり、目の前の男を一瞬だけ見つめる。
次の瞬間、ひどく怯えたように森の奥へ駆け去っていった。男は逃げていくシマモヨウネズミを見送り、その場から動かなかった。
やがて男は肩を小さく震わせながらも、遠ざかっていく小さな背中をいつまでも見つめ続けていた。
どれほど時間が過ぎたのだろう。
男は枯れ果てた黄金樹の葉を地面へ落とし、背を向けて立ち去ろうとした。その顔が見えた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
歴史書の写真に写っていた男と、あの夜、黄金樹の下で見た人影が、一つに重なる。
「……矢野さん」




