第16話 秘密を分け合う日
「七奈、起きなさーい」
階段を上がってくる足音と一緒に、お母さんの声が耳へ届いた。寝返りを打ち、布団を耳まで引き上げる。
ガラッ――。
「あら、もう起きてるの?」
お母さんは私の部屋を覗き込んだ。中に誰もいないことに気づくと、今度は隣にあるお兄ちゃんの部屋へ向かう。
「悠真、七奈が……あら?」
扉の向こうでは、私とお兄ちゃんが一枚の布団に並んで眠っていた。
「七奈、またお兄ちゃんの部屋で寝たの?」
「うぅ……昨日はどうしても眠れなかったんだもん……」
布団を頭の上まで引き上げ、身体をすっぽりと隠す。
「まったく。早く起きて、朝ご飯を食べなさい」
お母さんは困ったように笑い、肩をすくめた。
「はーい」
「ふわぁ……七奈、ちゃんと起きろよ。俺は先に歯を磨いてくるからな」
お兄ちゃんは大きなあくびをしながら布団を勢いよくめくり、部屋を出ていった。朝日が差し込む部屋では、カーテンが風を受けて揺れていた。
一階から、お父さんが玄関へ向かう足音が聞こえてきた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
お母さんの優しい声と、玄関の扉が閉まる音が、静かな朝の家に響いた。
(……あと五分だけ寝よう)
◇
「行ってきまーす!」
「気をつけてね」
お母さんの声に送り出され、学校へ向かう道を歩き始めた。
空を仰ぐ。電線の向こうには、どこまでも続く青空が広がっていた。
昼間に箒へ乗って、あの空を飛べたら、きっとすっごく気持ちいいよね。でも、日焼け止めはちゃんと塗っておかなくちゃ。へへっ。
「七奈ちゃーん!」
前方から千晴ちゃんの声が聞こえた。空から目を戻すと、千晴ちゃんがこちらへ大きく手を振っている。
「千晴ちゃん、おはよう! 今日も相変わらず早いね」
「そんなことないよ。朝ご飯を早く食べ終わっただけ」
「ふふっ、それだけ?」
「それだけ!」
顔を見合わせて笑い、他愛のない話をしながら校門をくぐった。
◇
キーンコーンカーンコーン――。
昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴った。私と千晴ちゃんはお弁当箱を抱え、階段の踊り場に並んで腰を下ろす。
「七奈ちゃん、これあげる」
千晴ちゃんは自分のお弁当箱からエビの天ぷらを一つつまみ、私のお弁当箱へ入れてくれた。
「えっ? 千晴ちゃんは食べないの?」
「最近ちょっと食べすぎちゃって。少し控えようかなって」
千晴ちゃんが照れくさそうに笑う。代わりに、私も厚焼き玉子を一つつまみ、千晴ちゃんのお弁当箱へ入れた。
「じゃあ、これあげる」
「ありがとう」
階段の踊り場に、二人の笑い声が柔らかく響いた。
「七奈ちゃん、今日も放課後は魔法学院に行くの?」
「うん。今日も柚乃先生に飛行術を鍛えてもらうんだ」
「柚乃先生って、どんな人なの?」
「魔法を教えてくれる先生だよ。普段はすっごく可愛いのに、授業が始まると急に厳しくなるんだから」
「ふふっ、可愛らしい先生なんだね」
「可愛いけど、すっごく怖いよ……」
箸でお弁当箱のご飯をつつき、そのまま一口分をつまんで口へ運ぶ。
千晴ちゃんは口元を押さえて笑いながら、箸を持っていない方の手で私の肩を軽く叩いた。
「あのね、千晴ちゃん。今度、一緒に魔法の世界を見に行かない?」
「えっ? 先生たちに怒られたりしないの?」
「誰にも迷惑をかけなければ、たぶん大丈夫だよ。へへっ」
「でも、危なくない? この前話してくれた悪い人って、すごく強いんでしょ?」
「学院の近くを見て回るだけなら大丈夫だよ。巡回員さんたちもいるから」
「本当に?」
「本当!」
「それなら、七奈ちゃんが迷子にならないように、私がちゃんとついていかなくちゃね」
「もう、千晴ちゃんの方こそ、私から離れちゃダメなんだから」
お弁当箱を膝の上へ置き、千晴ちゃんの方へ身を寄せる。そのまま脇腹へ手を伸ばし、指先でくすぐった。
「あははっ! 七奈ちゃん、やめて! お弁当がこぼれちゃう!」
◇
あっという間に土曜日がやってきた。
朝早く家を出て、今ではほとんど使われていない古い体育用具室へ向かう。到着した頃には、千晴ちゃんがすでに扉の前で待っていた。
顔を見合わせて笑い、一緒に体育用具室の中へ入る。
魔杖を取り出し、空中に四角い門の形を描いた。
――【転移門】。
心の中で唱えると、淡い光をまとった扉が目の前に現れた。
千晴ちゃんへ顔を向ける。彼女は片手を胸元へ置き、一歩だけ後ずさっていた。
「千晴ちゃん、大丈夫?」
「だ、大丈夫。でも、こんなに近くで見ると、やっぱりちょっと怖いかも……」
「平気だよ。私の手につかまって」
首を傾げて笑い、手を差し出した。
千晴ちゃんは私の顔と手を交互に見たあと、一歩前へ出て、そっと握り返してくれた。その手はぽかぽかと温かい。
手をつないだまま、二人で転移門の中へ足を踏み入れた。
◇
「千晴ちゃん、もう着いたよ」
呼びかけても、千晴ちゃんはまだ私の手を強く握っていた。やがて、おそるおそる片目を開く。
「わぁ……! 本当に果物でできた家がある……!」
目を大きく見開き、周囲に並ぶ不思議な建物を見回している。
「あれは普通の家だよ。ほら、あっちにあるのが、この町の街灯」
道の両側に咲く、花の形をした街灯を指差した。
「夜になるとね、花が眠るみたいに頭を下げて、優しい光を放つんだよ」
「すごい……本当に童話の絵本の中みたい」
千晴ちゃんを連れて広場を歩く。目を輝かせながら辺りを見回す姿がおかしくて、小さく笑った。
初めてここへ来た時の私も、千晴ちゃんと同じような顔をしてたのかな。
歩いているうちに、いつの間にかジュース屋の前まで来ていた。
◇
「おじさん、おはよう!」
「おお、お嬢ちゃん。また来たのか。おや、隣のお友達は?」
ジュース屋のおじさんは、千晴ちゃんを見るなり目を丸くした。
「私の親友の千晴ちゃん!」
「おじさん、私、このあと授業があるの。戻ってくるまで、千晴ちゃんをここで待たせてもらってもいい?」
胸元で両手を合わせ、目を大きく開いておじさんを見上げる。おじさんは私と千晴ちゃんを交互に見た。
「うーん。前にあれだけたくさんのキノコ樽を運んでもらったからな。あの時のお礼ってことにしておくか」
おじさんは悪戯っぽく片目をつむり、人差し指を左右に振った。
「ただし、店が忙しくなったら面倒を見てやれないからな!」
「大丈夫です。七奈ちゃんは授業に行ってきて。私、ここでおじさんのお店を手伝えるから」
「千晴ちゃん……ありがとう!」
「ほらほら、遅刻しないうちに行った方がいいぞ」
「それじゃあ、行ってくるね! 千晴ちゃん、またあとで! おじさんも、またあとで!」
学院へ向かって駆け出す。
「行ってきまーす!」
振り返ると、おじさんと千晴ちゃんが笑顔で大きく手を振ってくれていた。
私が学院へ走り去ったあと、千晴ちゃんは遠くにそびえる巨木を仰いだ。
「あの、向こうに見える大きな木そのものが、魔法学院なんですか?」
おじさんも学院を仰ぎ、両手を腰に当てた。
「ああ。あの大樹そのものが魔法学院だ。ここへ植えられてから、もう数え切れないほどの歳月が流れている」
「そうなんですね……」
千晴ちゃんはもう一度学院を見上げ、小さく息を吐いた。
「……あっ、そういえば、まだ自己紹介してませんでしたね。私は――」
その先の言葉は、学院へ向かって走る私の耳には、もう届かなかった。




