第15話 守りたいもの
図書館の淡い黄色の灯りが紙面に落ち、もともと黄ばんでいたページをいっそう古びて見せていた。
目の前の写真から目を離せないまま、本の縁を握る指がかすかに震える。
「七奈、探してた本は見つかったか?」
少し離れた書架の向こうから、悠斗の声が聞こえてきた。本をそっと閉じて背中に隠し、こちらへ歩いてくる悠斗へ顔を向ける。
「み、見つからなかった。これも、私が探してたものじゃなくて……」
悠斗の顔には、いつもと変わらない笑みが浮かんでいた。
このことを知ったら、悠斗まで悩んじゃうよね……。
「じゃあ、そろそろ出ようぜ。一日中いたから、もう疲れたよ」
「うん」
悠斗が背中を向けた隙に、杖で本の裏表紙を軽く叩いた。本はふわりと宙へ浮かび、元の場所へ戻っていった。
◇
夜、ベッドの上で何度も寝返りを打った。写真に写っていた三人の笑顔が、頭から離れてくれない。
あの夜、矢野さんが黄金樹の下にいたのは、晴奈先輩を救うためだったのかな……。
頭をぶんぶんと振り、枕へ顔を埋める。
(早く寝なきゃ。明日の朝、起きられなくなっちゃう!)
翌朝、教室に響く先生の声には、眠くなる魔法でもかかっているみたいだった。何度も頭がこくりと揺れ、瞼が少しずつ下りてくる。
「森野さん!」
「……は、はい!」
身体をびくりと震わせ、慌てて立ち上がった。クラスメイトたちの視線が一斉に集まり、恥ずかしくて顔を上げられない。
「授業中は集中しなさい。昨日、よく眠れなかったんですか?」
「少し寝つけなくて……」
「教室の後ろに立って、目を覚ましなさい」
「はい……」
やがて授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、席へ戻って机に突っ伏した。机は硬くて、家の枕みたいに気持ちよくない。
「七奈ちゃん、どうしたの?」
千晴ちゃんが私の肩をぽんと叩き、軽く揺らした。
「……昨日、よく眠れなかっただけだよぉ」
千晴ちゃんは何も言わず、もう一度私の頭を撫でると、机の上へ何かをコトンと置いた。
顔を上げると、小さな苺チョコレートが一つ置かれている。包みを開けて口へ入れると、甘い味が舌の上に広がった。
食べ終わったあと、周囲に誰もいないことを確かめ、指先についたチョコレートをぺろりと舐めた。
◇
放課後、魔法学院の飛行術の授業で、私は箒に跨がり、クラスメイトたちの列を追っていた。
眼下に広がる景色へ気を取られているうちに、少しずつ列から遅れていく。
「森野さん!」
「飛行術の授業中は集中しなさーい!」
地上では、柚乃先生が両手を腰に当て、声を張り上げていた。我に返って前を見ると、みんなの姿は遥か先まで遠ざかっている。
「はーい! 分かりましたー!」
箒の柄を握り直し、慌てて列を追いかけた。すると、一人の少年が速度を落とし、私の隣へ並んだ。
「七奈!」
「悠斗? どうしたの?」
「今日は元気ないな」
悠斗は箒に乗ったまま、いつもと変わらない笑顔を向けてくる。私もどうにか笑みを返した。
「何でもないよ。ちょっと考え事をしてただけ」
「あの、見つからなかった本の――」
「風祭くん! 森野さん!」
「飛行中の私語は禁止です!」
柚乃先生が杖を振ると、手の中に拡声器のような魔法道具が現れた。
「「すみませーん!」」
「じゃあ、授業が終わってからな」
そう言って、悠斗は箒の柄を握り直し、軽やかに前方へ飛んでいった。
青く澄んだ空の下、少年少女たちを乗せた箒が学院を囲むように飛び、大きな円を描いていく。
もう一度、眼下に広がる学院へ目を向けた。学院の校舎を抱く巨木は、太い根を大地へ深く張り巡らせ、数え切れないほどの枝葉を空へ向かって広げている。
初めてこの学院へ来た日、蔓の昇降台に運ばれながら、目の前の巨木を見上げたことを思い出した。
あの頃は、自分がいつか空を飛ぶようになるなんて、考えもしなかったな……。
箒は一列になって高度を下げ、学院の発着場へ次々と降りていった。
「はい、皆さん。飛行術はずいぶん上達しましたね」
柚乃先生は生徒たちを見回し、満足そうに頷いた。
「風祭くん。飛行中にあちこちよそ見をしないこと。前よりはよくなりましたが、まだ飛行軌道が落書きみたいですよ?」
「分かりました……」
「遠坂さんは、着地するときにもう少し速度を落としてくださいね」
木の葉が擦れ合う音に混じり、柚乃先生の明るい声が響いていく。
「それでは、今日の授業はここまで!」
「やったー!」
生徒たちは歓声を上げながら、一斉に散っていった。私は箒を抱え、飛行室へ向かって歩き出す。
「森野さん」
背後から足音が近づいてきた。振り返ると、柚乃先生が両手を後ろへ回し、私と並んで歩き始めた。
「今日はどうしたんですか?」
「何でもないです。少し考え事をしてただけで……」
「うーん」
柚乃先生は、横から私の顔を覗き込んだ。
「でも、その顔には『何でもない』とは書いてありませんよ?」
「先生はいつも元気ですね」
「だって、私まだ若いもん!」
柚乃先生は目を閉じて笑い、私の肩を軽く叩いた。
「それより、森野さん。今度、街へ買い物に連れていってくれる約束、忘れていませんよね?」
「えっ、先生……まだ覚えてたんですか?」
「そんな大事なこと、忘れるわけないでしょう?」
柚乃先生は私の前へ回り込み、いたずらっぽく笑った。
「ほら、少しは元気になったでしょう?」
「……ありがとうございます、先生」
「あまり考えすぎないこと。毎日をきちんと楽しまなくちゃダメですよ」
話しているうちに、いつの間にか飛行室へ到着していた。箒を棚へ戻し、柚乃先生に手を振る。
「それじゃあ、森野さん。また明日」
「はい! また明日!」
「遅刻しちゃダメですよ?」
「うっ……」
先生は最後まで笑顔だった。
どうしてあんなに優しい笑顔で、一番恐ろしいことを言えるんだろう……。
◇
飛行室の木製扉を閉め、学院の正門を出た。
少し離れた場所では、一人の少年が太い蔓の陰に身を隠し、門から出てくる生徒たちの顔を一人ずつ窺っていた。
私が蔓の前を通り過ぎると、少年は足音を忍ばせて近づき、右肩を軽く叩いた。すぐさま反対側へ回り込み、今度は左肩へ指を伸ばす。
「えっ?」
右を振り返ったけれど、そこには誰もいない。続いて左肩をつつかれ、眉をひそめた。
「もう、そんな手には引っかからないんだから」
勢いよく振り返り、少年の手首をつかんだ。
「いたたたたっ!」
「ずるいぞ! よく分かったな!」
「やっぱり悠斗だったんだ!」
悠斗は笑いながら私の手を振りほどき、そのまま駆け出した。頬を膨らませ、すぐにその背中を追いかける。
蔓の小道を走り抜け、いつの間にか黄金樹の広場まで辿り着いていた。
「お嬢ちゃん、ずいぶん元気だねぇ」
「悠斗、女の子をいじめちゃダメよ」
広場の人たちが、笑いながら私たちへ声をかけてくる。ジュース屋のおじさんも、屋台を片づけながら楽しそうに笑っていた。
「若いっていいねぇ」
◇
「はぁ……お前、なんでそんなに足が速いんだよ……」
悠斗は片手を黄金樹の幹につき、肩を大きく上下させていた。私も息を切らしながら、額の汗を拭う。
汗が制服の下のシャツへ染み込み、濡れた生地が背中にべったりと張りついて気持ち悪い。
「誰が運動音痴だって?」
「参った! 俺の負け!」
夕日を浴びた黄金樹は、温かな橙色を帯びていた。葉の隙間から、細い光が幾筋もこぼれ落ちている。
私と悠斗は太い根の上へ腰を下ろし、屋台を片づける人や、家へ帰っていく人たちを眺めた。
「七奈」
「少しは元気になったか?」
「だーかーらー、本当に何でもないってば」
「信じない」
黄昏の陽射しはもう眩しくなく、手で遮らなくても、広場にいるおじさんやおばさんたちの笑顔がよく見えた。
家路につく人々を眺めながら、悠斗に尋ねる。
「ねえ、悠斗。この町、好き?」
「当たり前だろ。だから俺は、魔法を学んでるんだ」
悠斗は夕焼け空を仰いだ。私もその視線を追う。
遠くには、学院の校舎を抱く巨木が、赤く染まった空を背にそびえていた。
「俺は、立派な魔法使いになりたい。この町に暮らすみんなを守れるくらい、強くなりたいんだ」
悠斗の横顔へ目を向けた。さっきまで笑っていた瞳の奥で、小さな星がきらきらと輝いているみたいだった。
「……もし」
「もし、悠斗にも守れないものがあったら?」
そよ風が吹き抜け、黄金樹の葉がさらさらと音を立てた。
しばらくして、悠斗が小さく笑う。
「そのときは……きっと、すごく悔しいだろうな。どうしてもっと強くなれなかったんだって、ずっと後悔すると思う」
悠斗はもう一度、遠くにそびえる学院を見上げた。
「だから、そんな日が来ないように、今の俺にできることを全部やっておきたいんだ。俺は……絶対に悔いを残したくないから」
そう言って、悠斗は立ち上がった。
太い根に腰かけたまま、夕日を背に立つその姿を見上げる。
「……うん」
自然と笑みがこぼれた。
「頑張ってね、悠斗」
◇
「ただいまー!」
「おかえりなさい」
ブオーンと響く掃除機の音に混じり、リビングからお母さんの声が聞こえてきた。
「えっ、お兄ちゃんは?」
いつもならこの時間、ソファに座ってテレビを見ているはずなのに、今日は姿が見当たらない。誰も座っていない広いソファだけが、ぽつんと置かれていた。
「悠真なら、お父さんと一緒にスーパーへ買い物に行ったわよ」
「そっか。お母さんは行かなかったんだね」
掃除機をかけているお母さんの隣へ行き、手を差し出す。
「お母さん、それ貸して」
「ありがとう」
お母さんは笑顔で掃除機を渡すと、ダイニングテーブルの椅子へ腰を下ろし、水をひと口飲んだ。
代わりに掃除機を押し、リビングの隅まで丁寧に掃除していく。
「七奈も、すっかり気の利く子になったのね」
「へへっ」
照れくさくなって笑いながら、もう一度掃除機を押した。夕方の風が窓から吹き込み、カーテンを軽く揺らしていた。
◇
夜、家族四人で食卓を囲んだ。
今日の夕飯は、とんかつだ。少し顔を近づけると、揚げたての衣から香ばしい匂いが漂ってくる。
「いただきます!」
四人の声が重なり、みんなで一斉に箸を動かした。
「んんー!」
口へ運んだとんかつは衣がさくさくしていて、甘辛いソースともよく合っていた。
やっぱり、お母さんの作るとんかつは世界一だ!
味噌汁を飲んでいたお兄ちゃんが、私の顔を見て笑い出す。
「そんなに幸せそうな顔しなくても、誰も七奈の分を取ったりしないって」
「分かってるもん」
大切な宝物を守るように、両手でお皿を囲い込んだ。その姿を見て、お父さんとお母さんまで声を上げて笑った。
◇
自分の部屋のベッドに横になり、うさぎさんを強く抱きしめた。
「うぅ……眠れない」
うさぎさんを抱えたままベッドを下り、ドアを開けて廊下へ出る。
昔からの約束で、お兄ちゃんの部屋のドアは、いつも少しだけ開けてあった。私がいつでも入れるようにしておくためだ。
小さい頃、怖い夢を見た夜には、泣きながら何度もお兄ちゃんの部屋へ駆け込んだ。
足音を忍ばせて部屋へ入り、ベッドへ上がって、そのまま布団の中に潜り込む。
「七奈? どうしたんだ?」
「眠れないから、一緒に寝る」
「まったく……俺の布団を取るなよ?」
「と、取らないもん!」
お兄ちゃんの腕を軽く叩いた。静かな部屋には、扇風機が規則正しく首を振る音だけが響いていた。
「……お、お兄ちゃん」
「ん?」
「何でもない。へへっ……」
しばらくして、今度は足先でお兄ちゃんの脚を軽く蹴った。
「お兄ちゃん」
「今度はなんだ?」
「もし……もしも、いつか私に何かあったら、お兄ちゃんは助けに来てくれる?」
短い沈黙が落ちた。
「急に何を言い出すんだよ。縁起でもないこと言うな」
「もしもの話だもん」
笑いながら答え、背中合わせになる。薄いパジャマ越しに、お兄ちゃんの体温が伝わってきた。
「……そんなの、絶対に助けに行くに決まってるだろ」
身体の向きを変え、お兄ちゃんの背中を見つめる。
「へへっ……じゃあ、間に合わなかったら?」
お兄ちゃんも寝返りを打ち、私と向き合った。暗闇の中でも、その視線がまっすぐこちらへ向けられているのが分かる。
「そんな未来、絶対に起こさせない」
目をわずかに見開いた。
お兄ちゃんは再び背中を向けた。しばらくの沈黙のあと、低い声が聞こえてくる。
「……でも、もし本当にそんな日が来たら、七奈が前に話してた願いは、全部俺が代わりに叶える」
「七奈がこの世界に残したものは、誰にも消させない」
「……そっか」
「だから、もう寝ろ。明日は学校だぞ」
「えぇっ!?」
思い切り目を見開いた。
「すっかり忘れてた!」
「ははは。早く寝ろよ。明日は寝坊するな」
「うぅ……」
布団の中で縮こまり、うさぎさんを胸元へ強く抱き寄せた。
窓の外では、夏の夜風がカーテンを優しく揺らしていた。




