第14話 黄金樹の下の三人
「七奈、起きなさい」
ドアを叩く音と一緒に、お兄ちゃんの声が聞こえてきた。朝の陽射しがカーテンの隙間を抜け、ベッドの上へ柔らかな光を落としている。
「うぅ……今日はお休みなんだから、もう少し寝かせてよぉ……」
「朝ご飯はテーブルに置いてあるからな。起きたらちゃんと食べろよ」
「はーい……」
お休みの日なんて、お昼まで寝るためにあるようなものじゃん。学校だってお休みなんだし……。
――あ。
しまった!今日は学院の補習があるんだった!!布団を跳ねのけて飛び起き、壁に掛けられた時計へ顔を向ける。
午前七時三十分。
(よかった。まだ間に合う……)
ほっと息を吐き、目元をこすった。カーテンの隙間から差し込む朝日が目にしみる。
顔を洗って一階へ下りると、お兄ちゃんがテーブルに座り、片手にトーストを持ったままスマートフォンを眺めていた。
数日前に退院したお母さんも、お兄ちゃんの向かいに座って卵を食べている。
「おいおい、今日は西から太陽でも昇ったのか? こんなに早起きして」
お兄ちゃんは、珍しい動物でも見るような目で私を見た。
「私が勤勉になったとは思わないの!?」
「その可能性は低いな……」
「お兄ちゃん!」
足を踏み鳴らしながら隣へ行き、テーブルの上にあるトーストをひっつかんで口へ押し込む。
「熱でもあるのか?」
不思議そうに首を傾げたお兄ちゃんが、私の額へ手を当てた。
「バカ! 今日は、その……急に朝から走りたくなっただけ!」
「本当に俺の知ってる、あのぐうたらな妹か?」
「バカお兄ちゃん! 失礼しちゃう!」
「ははは。走るなら、転ばないように気をつけろよ」
「もう子どもじゃないんだから!」
最後の一口を牛乳で流し込み、鞄をつかんで玄関へ駆け出した。
◇
「学院長、おはようございます!」
「おはよう、七奈」
教室を見回す。普段は賑やかな教室も、今日はがらんとして静まり返り、教壇の前には白川学院長だけが立っていた。
「学院長、今日は私一人だけなんですか?」
「そうですよ。途中から編入してきた七奈には、日曜日にこうして個別の補習を受けてもらうことになっていますから」
「はーい」
窓際に近い前列の席へ腰を下ろし、何気なく外へ目を向けた。学院の広場には生徒が数人いるだけで、窓辺まで伸びた枝が、時折ガラスをかすかに擦っている。
「七奈」
「は、はい!」
「授業に集中してくださいね。今日は、元素魔法の具体的な使い方について説明します」
学院長が魔杖を軽く振る。
教壇の上で、ぱちぱちと音を立てる小さな火花がいくつも弾けた。次の瞬間、それらは透き通った水へと姿を変え、空中を優雅に巡り始める。
「元素魔法で最も重要なのは、魔力そのものではありません。術者自身の意志と集中力です」
学院長は、宙を流れる水へ魔杖を向けた。
「どれほど強い魔力を持っていても、自分が何を守りたいのか分からなければ、魔法は応えてくれません」
その言葉を聞き、顔を上げる。学院長の魔杖からこぼれる光を眺めているうちに、あの日の治癒魔法が頭の中へ浮かんできた。
あの日は、いったい何が起きていたんだろう……。
「七奈」
「何か考え事をしていますね」
机に頬をつけ、指先で木目をなぞる。
「うぅ……何でもないです、学院長」
「それなら、授業をきちんと聞いてくださいね」
「はーい……」
◇
「それでは、今日の授業はここまでにしましょう」
「ありがとうございました、学院長」
学院長は魔杖を収め、教室を出ようとした。
席に座ったまま、落ち着かずに指先を絡ませる。千晴ちゃんの家にいた、もう帰ってこないあの犬と、病院の廊下で見た白いシーツが、頭の中で重なった。
深く息を吸い込み、立ち上がる。
「学院長」
すでに教室の入口まで歩いていた背中へ、声をかけた。
「この世界には……死んでしまった動物を、生き返らせる魔法はあるんですか?」
学院長の足が、扉の前で止まった。握られた魔杖へ少しずつ力が込められ、指の関節が白くなっていく。
教室には、時計の針が進む音だけが響いていた。
長い沈黙のあと、学院長は小さく息を吐いた。
「七奈、魔法は万能ではありません」
「すみません。今日は、これ以上答えることができません」
学院長は扉を開け、そのまま教室を出ていった。私は席の脇に立ったまま、開け放たれた扉を見つめていた。
やがて、廊下を遠ざかっていく足音も聞こえなくなった。
◇
教室を出て、俯いたまま学院の広場を歩く。足元に転がっていた小石を、つま先で軽く蹴った。本当に、生き返らせる魔法はないのかな。
それとも、今の私にはまだ――。
「七奈!」
顔を上げて声の方を見ると、悠斗が側棟から走ってきた。
「悠斗、こんにちは」
「七奈、週末なのに授業を受けに来たのか?」
「途中から入学したから、補習があるんだよ。そういう悠斗は、今日はどうしてここにいるの?」
「次の魔法の授業で試験があるから、図書館で勉強してたんだ……」
「図書館……。もしかして、いろんな魔法のことが書かれてるの?」
「たぶんな。俺も全部読んだことがあるわけじゃないけど」
「じゃあ、午後から図書館に付き合ってくれない?」
「えぇ? 俺、今出てきたばっかりなんだけど!」
「でも試験があるなら、もう少し勉強した方がいいんじゃない?」
「まったく……勘弁してくれよ」
悠斗は目を閉じ、困ったように頭をかいた。その様子がおかしくて、私は口元を押さえながら小さく笑った。
◇
悠斗に連れられて側棟へ入り、扉を開ける。入口のカウンターには一匹の猫が座り、自分の前脚をぺろぺろと舐めていた。
毛は茶色と白のまだら模様。どう見ても茶トラ猫だけれど、この子はそれほど丸々とは太っていない。
悠斗はカウンターの前へ行き、自分の魔杖を差し出した。茶トラ猫が前脚で魔杖に触れ、「にゃあ」と一声鳴く。
悠斗はそのまま奥へ進み、振り返って私に片目をつむってみせた。
私も真似をして、茶トラ猫の前へ魔杖を差し出す。猫は前脚を魔杖の上へ置き、顔を上げて私を見た。
「生徒さん、図書館に来るのは初めてかにゃ?」
「うん。私、まだ入学したばかりなの」
「ま、待って!あなた、喋れるの!?」
「何をそんなに驚いているのかにゃ?」
茶トラ猫は魔杖を私の方へ押し戻した。魔杖を受け取り、「ありがとう」と頭を下げる。振り返ってみると、猫は不思議そうに前脚で頭をかいていた。
「七奈、早く行こうぜ」
「うん。ところで、あの猫って図書館の人が飼ってるの?」
「ははは。あいつが図書館の司書だよ」
「えぇっ!?」
◇
悠斗と一緒にもう一枚の扉を抜け、ようやく図書区画へ辿り着いた。
見渡す限り、整然と並んだ書架がどこまでも続いている。近くの書架へ寄って上を仰いだけれど、一番上がまったく見えない。
つま先立ちになり、腕を伸ばして一冊の本を取ろうとした。けれど、書架は静かに立ったまま。想像していたように、勝手に低くなってはくれなかった。
「七奈、何してるんだ?」
「上にある本を取れるか試してるの」
悠斗が私の指先を辿るように見上げる。そこには、『魔法使いの恋物語』という本が収められていた。
「これが読みたいのか?」
「うん」
「分かった……」
悠斗が魔杖で書架を軽く叩くと、目の前の床から小さな検索台が現れた。中央には、一冊の分厚い本が置かれている。悠斗はその本を開き、魔杖の先で『魔法使いの恋物語』の文字に触れた。
すると、書架の上にあった本が小鳥のように飛び立ち、悠斗の手の中へ降りてきた。差し出された本を受け取り、改めて題名を見る。
急に顔が熱くなり、慌てて俯いた。
「そ、それ、どうやったの?」
本を背中へ隠し、顔を逸らして別の書架を見る。
「図書館に入る時、司書が七奈の魔杖に触っただろ? あれで検索用の印がついたんだ」
「じゃあ、私にもできるの?」
「ああ。本を戻す時は、魔杖で裏表紙を一回叩けばいい」
悠斗は私を見ながら、気まずそうに頭をかいた。
「その……俺は別の場所で本を探してくるから。邪魔しない方がいいだろ?」
「ち、違うの! 悠斗が考えてるようなことじゃないから!」
小声で言い訳している間に、悠斗は足早に別の書架へ向かってしまった。魔杖で書架を叩きながらも、時折こちらを窺っている。
手の中の本へ目を落とした。あああ、こんなことなら別の本で試せばよかった!
◇
魔杖で検索台や書架を叩き、本を探し続けているうちに、いつの間にか午後が過ぎていた。
書架にもたれて床へ座り込み、汗ばんだ手首を揉む。いくら探しても、死者を生き返らせる魔法なんて、どこにも見つからなかった。
身体をひねり、背後の書架から一冊の本を抜き取る。革張りの表紙は、不思議なくらい滑らかな手触りをしていた。題名は『世界の歴史』。
そうだ、あの英雄たちの彫像!
蘇生魔法が見つからないなら、あの彫像について調べてみよう。本を開く。書頁の縁は毛羽立ち、何度も繰り返し読まれてきたことが分かった。頁をめくっていく。
黄金樹の誕生。
最も偉大な魔法使いの失踪。
わたあめ城盗難事件。
いくつかの題名に目を通したところで、顔を上げて目を閉じ、そのまま書架へ背中を預けた。しばらく休んでから、もう一度目を開いて目次を眺める。
『巨大隕石群襲撃事件』。
その文字が目に留まり、後ろに記された頁数を頼りに本をめくった。辿り着いた頁は、ほかの頁よりもひどく皺になっていた。
黄ばんだ紙の上には、乾いた水滴の跡がいくつも残っている。
一枚の写真の下に、短い記録が印刷されていた。
――巨大隕石群、学院を襲撃。教師の指揮の下、学生たちは隕石群の破壊に成功。一名の学生が命を落とした。
写真に目を向ける。黄金樹の下では、数人の魔法使いが前列に立ち、その後ろに大勢の人々が並んでいた。
写真の左端には、学院長と矢野さんが肩を並べている。矢野さんの隣には一人の若い女性が立ち、二人の肩がわずかに触れ合っていた。
次の頁をめくる。
そこには、学院長と矢野さん、そしてあの女性だけが写った写真があった。写真の下には、三人の名前が並んでいる。
【白川 凌】
【矢野 蒼】
【山崎 晴奈】
写真の中の三人は、今も変わらず幸せそうに笑っていた。
あの日の笑顔だけが時を止めたまま、永遠にそこへ残されていた。




