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私、魔法使いを見た!  作者: MorinoNanana
第一部 黄金樹の下の約束
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14/30

第13話 白いシーツ

「行ってきまーす!」


「気をつけてね」


 玄関を出た途端、陽射しが顔に当たってぽかぽかと熱かった。手をかざして眩しい光を遮る。


 強い逆光のせいで、すれ違う人たちの顔は黒い影に沈み、表情まではよく見えなかった。


 革靴の底が地面を叩くたびに軽快な音が響くけれど、小石を踏むと、薄い靴底越しに足の裏まで痛かった。


「おはよう、七奈ちゃん」


「千晴ちゃん、おはよう!」


「今日はずいぶん早いんだね」


「へへっ、目覚まし時計をいくつもセットしたんだから!」


「本当はお兄ちゃんに起こされたんじゃないの?」


「もう、千晴ちゃんのいじわるー」


 千晴ちゃんと並んで歩いていると、鼻先にふわりと桃の香りが漂ってきた。


 絶対、昨日の夜に桃の香りのシャンプーを使ったんだ!


「七奈ちゃん、宿題は終わったの?」


 リュックから一冊のノートを取り出し、千晴ちゃんの顔の前でひらひらと振ってみせた。昨夜、千晴ちゃんと裏山へ行く約束を守るために、早めに終わらせておいたのだ。


 でも書き終わったあとは、もう二度とペン先が紙を擦る感触なんて味わいたくなかった!


 手にしたハンディファンがブーンと音を立てている。道沿いの庭では、一匹の犬が犬小屋の陰にうずくまり、舌を出してハァハァと息をしていた。


 私は口を大きく開け、ハンディファンの風を口の中へ直接送り込んだ。


「あーーー……夏なんて、早く過ぎちゃえばいいのに」


「七奈ちゃんったら。夏になると冬が好きだって言うのに、冬になると夏がいいって言うんだから」


「だって、それはそれだもん……」


 肩をすくめて頬を膨らませると、千晴ちゃんは笑いをこらえるように口元を押さえた。


 小さな庭の前を通りかかった時、一人のおじさんが鍬を手に、汗だくになりながら何かの苗を植えていた。


「千晴ちゃん、千晴ちゃん」


「なに?」


「小声で。あのおじさんを見て」


 二人で門柱の陰から顔を覗かせ、庭の中を窺った。おじさんの額には、たくさんの汗の粒が浮かんでいる。


 身を寄せた千晴ちゃんの髪がさらりと垂れ、桃の香りが少しだけ濃くなった。やっぱり私の勘は当たっていた。


「こんなに暑いのに外で野菜を植えてるなんて、絶対大変だよね……」


「周りが少しでも涼しくなればいいのにね……」


 その言葉を聞いて、私は慌てて頭を引っ込めた。周囲に人がいないことを確かめ、深く息を吸い込む。


 心の中で【召喚サモン】と唱えると、魔杖が手の中に現れた。千晴ちゃんは振り返るなり、周囲から隠すように私の前へ立ってくれた。


「七奈ちゃん、何してるの?」


「まあ、見てて!」


「えっ?」


 魔杖を構え、庭にいるおじさんへ向ける。


 ――涼しくなれ。


 強く念じると、魔杖の先から淡い青色の光がこぼれた。庭の上にだけ薄い雲が広がり、霧のような細かな雨が降り始める。


 陽射しに焼かれていた腕の熱も、クーラーの効いた部屋へ入ったみたいにすっと引いていった。


「七奈ちゃんの魔法、すごーい!」


「まあね。これくらい、お手の物だよ……!」


 照れくさくなって頭をかく。庭のおじさんは額の汗を拭い、不思議そうに空を見上げた。私と千晴ちゃんは慌てて門柱の陰へ頭を引っ込める。


「おかしいな。どうして急に、ここだけ涼しくなったんだ?」


 庭から聞こえてきた声に顔を見合わせ、二人で口元を押さえながら小走りで逃げ出した。


 ◇


 昼休み、私たちは並んでお弁当を食べていた。千晴ちゃんが横から箸を伸ばし、私のお弁当箱から玉子焼きを一つさらっていく。


 負けじと箸を構え、今度は千晴ちゃんのお弁当箱に入っているエビフライを狙った。


「七奈ちゃん、ダメー」


「やだ、私だって食べたいもん!」


「あはは、はいはい。あげるよ」


 箸と箸がカチカチとぶつかり、軽快な音を立てる。結局、千晴ちゃんはエビフライを譲ってくれた。私はそれを丸ごと口へ放り込む。


 サクサクとした衣の中から、油の旨味がじゅわっと広がった。


 耳元に「七奈ちゃん、ゆっくり食べなよ」という声が届いた頃には、もう全部飲み込んでしまっていた。


「ねえ、聞いた? 今日の朝……」


 近くの席から、玉子焼きの甘い香りに混じって話し声が聞こえてきた。私は身体を少し傾け、千晴ちゃんに「しーっ」と指を立てる。


「えっ、あの家の周りだけ雨が降ったの?」


「宇宙人の仕業じゃない?」


「そんなわけないじゃん。絶対、魔法使いだよ」


 ゴクリと唾を飲み込み、千晴ちゃんの方へ顔を戻す。目が合った瞬間、こらえきれずに先に吹き出したのは私だった。


 どうやら、ちょっとだけ失敗しちゃったみたい……


 ◇


 帰りのホームルームが終わると、私と千晴ちゃんは鞄を持って教室を出た。


 校門まで歩いていくと、お兄ちゃんが門の前に立ち、通りかかる生徒たちの顔を時折窺っていた。

 傍らにいる警備員さんは電話に手をかけたまま、怪しそうにお兄ちゃんを見ている。


「お兄ちゃん、ここー!」


「七奈」


 私と千晴ちゃんが駆け寄ると、お兄ちゃんの顔には汗の粒が浮かび、手には少しだけ灰がついていた。


 ハンカチを取り出し、背伸びをしてその汗を拭ってあげる。


「お兄ちゃん、今日はどうして迎えに来てくれたの?」


「母さんが今日の午後、買い物中に倒れたんだ。今は病院にいる」


「えっ!?」


 手がぴたりと止まった。薄いハンカチが、急に分厚い本みたいに重くなった気がした。


「おばさん、大丈夫なんですか……?」


「今は病院で休んでる。七奈は千晴ちゃんと先に帰っててくれ」


 そう言って病院へ戻ろうとするお兄ちゃんの背中に向かって、私は声を上げた。


「私も行く!」


 お兄ちゃんは足を止めて振り返り、私の頭をぽんぽんと撫でたあと、ハンカチを返してくれた。


 受け取ったハンカチは、汗でしっとりと湿っていた。


「分かったよ。でも、今夜はカップ麺になっちゃうからな」


「うん!」


 ◇


 ドアの小窓越しに覗くと、お母さんがベッドに横たわり、手には点滴の管がつながれていた。お兄ちゃんがドアを開けて私の手を取り、一緒に病室へ入る。


 中はひんやりとしていて、冷蔵庫の中に入ったみたいだった。


「悠真、七奈。どうして来たの?」


「心配だから来たんだよ。七奈も、どうしても母さんに会いたいって聞かなくてさ」


「お母さんは大丈夫よ。ちょっと熱中症になっちゃっただけだから」


 そう言って、お母さんはベッドの上で少しだけ体を起こそうとした。お兄ちゃんは慌てて駆け寄り、お母さんの肩を優しく押さえた。


「母さん、今は無理して起きちゃダメだろ」


「でも、あなたたちの今夜のご飯はどうするの……」


「俺に任せとけって」


 お兄ちゃんは胸を軽く叩き、お母さんをベッドへ寝かせ直した。


「迷惑をかけちゃって、ごめんね……」


「お母さん、そんなこと言わないでよ……」


 ベッドの脇へ寄り、お母さんの手を握る。ひんやりと冷たい手の甲にはガーゼが貼られ、そのざらつきが指先に伝わってきた。


「お母さん、私、お手洗いに行ってくるね」


 病室のトイレへ入り、ドアの陰に身を隠す。その直後、お兄ちゃんも「電話に出てくる」と言って病室を出ていった。


 魔杖を召喚し、両手で強く握りしめる。粗い木目の感触が指先へ食い込んだ。ゴクリと唾を飲み込み、ドアの隙間から魔杖の先だけを覗かせる。


 ――【治癒ヒール】。


 心の中で唱えると、二筋の淡い緑色の光が病室を走り、吸い込まれるようにお母さんの身体へ流れ込んだ。


 水を流してからトイレのドアを開ける。ちょうどお兄ちゃんも病室へ戻ってきたところだった。目が合い、二人でお母さんのベッドへ戻る。


 お母さんは目を閉じていたけれど、やがて深く息を吐き、ゆっくりと目を開いた。私は落ち着かず、靴底で床を軽く擦った。


「すごく楽になったわ。悠真、七奈。あなたたちは先に帰って、ご飯にしなさい」


「お父さんには、もう大丈夫だって伝えてね」


「うん」


 お兄ちゃんに手を引かれ、病室を出た。手のひらから、お兄ちゃんの体温が伝わってくる。


 静かな病院の中では、たくさんのおじさんやおばさんが抑えた声で何かを話していた。


 スマートフォンを強く握りしめている人もいれば、両手で顔を覆っている人もいる。


 廊下の向こうから、一人の看護師さんがストレッチャーを押してきた。その上には、頭まですっぽりと白いシーツを掛けられた人が横たわっている。


 お兄ちゃんは私を自分の背中へ引き寄せ、隠すように前へ立った。


 ストレッチャーが目の前を通り過ぎる。身体の陰に隠していた魔杖の先が、いつの間にか少しだけ覗いていた。


 昔、おばあちゃんが病院で亡くなった時も、同じ白いシーツを掛けられていたっけ……。


 お兄ちゃんの背中に隠れたまま、魔杖をストレッチャーへ向ける。


「通ります。道を空けてください」


 看護師さんの声が廊下に響く中、もう一度、強く念じた。


 ――【治癒ヒール】。


 ごく淡い緑色の光が手元を離れ、白いシーツの上へ落ちていく。


 私の手を握っていたお兄ちゃんの指が、びくりと震えた。


 顔を上げてお兄ちゃんを窺う。幸い、こちらを見てはいなかった。


 けれど、白いシーツは何事もなかったかのように、静かに横たわったままだった。


 どうして……?


 首を傾げる。手のひらに滲んだ汗が、魔杖の木目を伝って落ちていった。


 ストレッチャーがエレベーターの中へ消えていくまで、何一つ変わることはなかった。


 ◇


 夜、私たち三人は食卓を囲み、テーブルに並んだ三つのカップ麺を見つめていた。


 やっぱり、お兄ちゃんの料理の腕は相変わらずだなあ。


 香ばしい海鮮の匂いが湯気と一緒に立ち上ってくる。箸で麺をすくい上げて口へ運んだけれど、小さなエビはやっぱり数粒しか入っていなかった……。


 眠る前、もう一度魔杖を召喚した。


 目の前に浮かぶ魔杖を眺めていると、昼間に見た白いシーツが頭の中へ浮かんでくる。


 治らなかったのは、私の魔法がまだ未熟だからなのかな?


 魔杖に向かって小さく頷く。


 今度、絶対に学院長先生に聞きに行こう。

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