第13話 白いシーツ
「行ってきまーす!」
「気をつけてね」
玄関を出た途端、陽射しが顔に当たってぽかぽかと熱かった。手をかざして眩しい光を遮る。
強い逆光のせいで、すれ違う人たちの顔は黒い影に沈み、表情まではよく見えなかった。
革靴の底が地面を叩くたびに軽快な音が響くけれど、小石を踏むと、薄い靴底越しに足の裏まで痛かった。
「おはよう、七奈ちゃん」
「千晴ちゃん、おはよう!」
「今日はずいぶん早いんだね」
「へへっ、目覚まし時計をいくつもセットしたんだから!」
「本当はお兄ちゃんに起こされたんじゃないの?」
「もう、千晴ちゃんのいじわるー」
千晴ちゃんと並んで歩いていると、鼻先にふわりと桃の香りが漂ってきた。
絶対、昨日の夜に桃の香りのシャンプーを使ったんだ!
「七奈ちゃん、宿題は終わったの?」
リュックから一冊のノートを取り出し、千晴ちゃんの顔の前でひらひらと振ってみせた。昨夜、千晴ちゃんと裏山へ行く約束を守るために、早めに終わらせておいたのだ。
でも書き終わったあとは、もう二度とペン先が紙を擦る感触なんて味わいたくなかった!
手にしたハンディファンがブーンと音を立てている。道沿いの庭では、一匹の犬が犬小屋の陰にうずくまり、舌を出してハァハァと息をしていた。
私は口を大きく開け、ハンディファンの風を口の中へ直接送り込んだ。
「あーーー……夏なんて、早く過ぎちゃえばいいのに」
「七奈ちゃんったら。夏になると冬が好きだって言うのに、冬になると夏がいいって言うんだから」
「だって、それはそれだもん……」
肩をすくめて頬を膨らませると、千晴ちゃんは笑いをこらえるように口元を押さえた。
小さな庭の前を通りかかった時、一人のおじさんが鍬を手に、汗だくになりながら何かの苗を植えていた。
「千晴ちゃん、千晴ちゃん」
「なに?」
「小声で。あのおじさんを見て」
二人で門柱の陰から顔を覗かせ、庭の中を窺った。おじさんの額には、たくさんの汗の粒が浮かんでいる。
身を寄せた千晴ちゃんの髪がさらりと垂れ、桃の香りが少しだけ濃くなった。やっぱり私の勘は当たっていた。
「こんなに暑いのに外で野菜を植えてるなんて、絶対大変だよね……」
「周りが少しでも涼しくなればいいのにね……」
その言葉を聞いて、私は慌てて頭を引っ込めた。周囲に人がいないことを確かめ、深く息を吸い込む。
心の中で【召喚】と唱えると、魔杖が手の中に現れた。千晴ちゃんは振り返るなり、周囲から隠すように私の前へ立ってくれた。
「七奈ちゃん、何してるの?」
「まあ、見てて!」
「えっ?」
魔杖を構え、庭にいるおじさんへ向ける。
――涼しくなれ。
強く念じると、魔杖の先から淡い青色の光がこぼれた。庭の上にだけ薄い雲が広がり、霧のような細かな雨が降り始める。
陽射しに焼かれていた腕の熱も、クーラーの効いた部屋へ入ったみたいにすっと引いていった。
「七奈ちゃんの魔法、すごーい!」
「まあね。これくらい、お手の物だよ……!」
照れくさくなって頭をかく。庭のおじさんは額の汗を拭い、不思議そうに空を見上げた。私と千晴ちゃんは慌てて門柱の陰へ頭を引っ込める。
「おかしいな。どうして急に、ここだけ涼しくなったんだ?」
庭から聞こえてきた声に顔を見合わせ、二人で口元を押さえながら小走りで逃げ出した。
◇
昼休み、私たちは並んでお弁当を食べていた。千晴ちゃんが横から箸を伸ばし、私のお弁当箱から玉子焼きを一つさらっていく。
負けじと箸を構え、今度は千晴ちゃんのお弁当箱に入っているエビフライを狙った。
「七奈ちゃん、ダメー」
「やだ、私だって食べたいもん!」
「あはは、はいはい。あげるよ」
箸と箸がカチカチとぶつかり、軽快な音を立てる。結局、千晴ちゃんはエビフライを譲ってくれた。私はそれを丸ごと口へ放り込む。
サクサクとした衣の中から、油の旨味がじゅわっと広がった。
耳元に「七奈ちゃん、ゆっくり食べなよ」という声が届いた頃には、もう全部飲み込んでしまっていた。
「ねえ、聞いた? 今日の朝……」
近くの席から、玉子焼きの甘い香りに混じって話し声が聞こえてきた。私は身体を少し傾け、千晴ちゃんに「しーっ」と指を立てる。
「えっ、あの家の周りだけ雨が降ったの?」
「宇宙人の仕業じゃない?」
「そんなわけないじゃん。絶対、魔法使いだよ」
ゴクリと唾を飲み込み、千晴ちゃんの方へ顔を戻す。目が合った瞬間、こらえきれずに先に吹き出したのは私だった。
どうやら、ちょっとだけ失敗しちゃったみたい……
◇
帰りのホームルームが終わると、私と千晴ちゃんは鞄を持って教室を出た。
校門まで歩いていくと、お兄ちゃんが門の前に立ち、通りかかる生徒たちの顔を時折窺っていた。
傍らにいる警備員さんは電話に手をかけたまま、怪しそうにお兄ちゃんを見ている。
「お兄ちゃん、ここー!」
「七奈」
私と千晴ちゃんが駆け寄ると、お兄ちゃんの顔には汗の粒が浮かび、手には少しだけ灰がついていた。
ハンカチを取り出し、背伸びをしてその汗を拭ってあげる。
「お兄ちゃん、今日はどうして迎えに来てくれたの?」
「母さんが今日の午後、買い物中に倒れたんだ。今は病院にいる」
「えっ!?」
手がぴたりと止まった。薄いハンカチが、急に分厚い本みたいに重くなった気がした。
「おばさん、大丈夫なんですか……?」
「今は病院で休んでる。七奈は千晴ちゃんと先に帰っててくれ」
そう言って病院へ戻ろうとするお兄ちゃんの背中に向かって、私は声を上げた。
「私も行く!」
お兄ちゃんは足を止めて振り返り、私の頭をぽんぽんと撫でたあと、ハンカチを返してくれた。
受け取ったハンカチは、汗でしっとりと湿っていた。
「分かったよ。でも、今夜はカップ麺になっちゃうからな」
「うん!」
◇
ドアの小窓越しに覗くと、お母さんがベッドに横たわり、手には点滴の管がつながれていた。お兄ちゃんがドアを開けて私の手を取り、一緒に病室へ入る。
中はひんやりとしていて、冷蔵庫の中に入ったみたいだった。
「悠真、七奈。どうして来たの?」
「心配だから来たんだよ。七奈も、どうしても母さんに会いたいって聞かなくてさ」
「お母さんは大丈夫よ。ちょっと熱中症になっちゃっただけだから」
そう言って、お母さんはベッドの上で少しだけ体を起こそうとした。お兄ちゃんは慌てて駆け寄り、お母さんの肩を優しく押さえた。
「母さん、今は無理して起きちゃダメだろ」
「でも、あなたたちの今夜のご飯はどうするの……」
「俺に任せとけって」
お兄ちゃんは胸を軽く叩き、お母さんをベッドへ寝かせ直した。
「迷惑をかけちゃって、ごめんね……」
「お母さん、そんなこと言わないでよ……」
ベッドの脇へ寄り、お母さんの手を握る。ひんやりと冷たい手の甲にはガーゼが貼られ、そのざらつきが指先に伝わってきた。
「お母さん、私、お手洗いに行ってくるね」
病室のトイレへ入り、ドアの陰に身を隠す。その直後、お兄ちゃんも「電話に出てくる」と言って病室を出ていった。
魔杖を召喚し、両手で強く握りしめる。粗い木目の感触が指先へ食い込んだ。ゴクリと唾を飲み込み、ドアの隙間から魔杖の先だけを覗かせる。
――【治癒】。
心の中で唱えると、二筋の淡い緑色の光が病室を走り、吸い込まれるようにお母さんの身体へ流れ込んだ。
水を流してからトイレのドアを開ける。ちょうどお兄ちゃんも病室へ戻ってきたところだった。目が合い、二人でお母さんのベッドへ戻る。
お母さんは目を閉じていたけれど、やがて深く息を吐き、ゆっくりと目を開いた。私は落ち着かず、靴底で床を軽く擦った。
「すごく楽になったわ。悠真、七奈。あなたたちは先に帰って、ご飯にしなさい」
「お父さんには、もう大丈夫だって伝えてね」
「うん」
お兄ちゃんに手を引かれ、病室を出た。手のひらから、お兄ちゃんの体温が伝わってくる。
静かな病院の中では、たくさんのおじさんやおばさんが抑えた声で何かを話していた。
スマートフォンを強く握りしめている人もいれば、両手で顔を覆っている人もいる。
廊下の向こうから、一人の看護師さんがストレッチャーを押してきた。その上には、頭まですっぽりと白いシーツを掛けられた人が横たわっている。
お兄ちゃんは私を自分の背中へ引き寄せ、隠すように前へ立った。
ストレッチャーが目の前を通り過ぎる。身体の陰に隠していた魔杖の先が、いつの間にか少しだけ覗いていた。
昔、おばあちゃんが病院で亡くなった時も、同じ白いシーツを掛けられていたっけ……。
お兄ちゃんの背中に隠れたまま、魔杖をストレッチャーへ向ける。
「通ります。道を空けてください」
看護師さんの声が廊下に響く中、もう一度、強く念じた。
――【治癒】。
ごく淡い緑色の光が手元を離れ、白いシーツの上へ落ちていく。
私の手を握っていたお兄ちゃんの指が、びくりと震えた。
顔を上げてお兄ちゃんを窺う。幸い、こちらを見てはいなかった。
けれど、白いシーツは何事もなかったかのように、静かに横たわったままだった。
どうして……?
首を傾げる。手のひらに滲んだ汗が、魔杖の木目を伝って落ちていった。
ストレッチャーがエレベーターの中へ消えていくまで、何一つ変わることはなかった。
◇
夜、私たち三人は食卓を囲み、テーブルに並んだ三つのカップ麺を見つめていた。
やっぱり、お兄ちゃんの料理の腕は相変わらずだなあ。
香ばしい海鮮の匂いが湯気と一緒に立ち上ってくる。箸で麺をすくい上げて口へ運んだけれど、小さなエビはやっぱり数粒しか入っていなかった……。
眠る前、もう一度魔杖を召喚した。
目の前に浮かぶ魔杖を眺めていると、昼間に見た白いシーツが頭の中へ浮かんでくる。
治らなかったのは、私の魔法がまだ未熟だからなのかな?
魔杖に向かって小さく頷く。
今度、絶対に学院長先生に聞きに行こう。




