第12話 月明かりの裏山
夕暮れの陽射しが私たちの足元に長い影を落とし、千晴ちゃんの影がすうっと私の靴先まで伸びていた。
「魔法少女って、何のこと……? 私、全然分かんないよ!」
「ここでちょっと休んでただけだし……!」
慌てて右手を背中に隠し、壁際まで後ずさる。千晴ちゃんは小首を傾げ、微笑みながら歩み寄ってきた。
ごくりと唾を飲み込む。背中に隠した指先へ、壁のざらざらとした感触が伝わってきた。
(うわぁぁ、行き止まりだ……!)
「七奈ちゃん、本当に嘘が下手だね」
千晴ちゃんが、手にしたスマートフォンをひらひらと振ってみせた。
片手で顔を覆い、指の隙間から画面を覗き込む。そこには、杖からあふれた光が小さな犬の傷を包み、赤く腫れた前脚が少しずつ元へ戻っていく様子が映っていた。
「……はぁ。やっぱり、千晴ちゃんには隠せないか……」
がっくりと肩を落とし、背中に隠していた杖を差し出した。手を離した瞬間、手のひらが汗でびっしょり濡れていることに気づく。
千晴ちゃんは両手で杖を受け取ると、壊れ物に触れるように大切に持ち、杖にあしらわれた四つ葉のクローバーの飾りをじっと見つめた。
「じゃあ……本当に魔法少女なんだ?」
「ちーがーうーの!」
「魔法使い、ね!」
「魔法使い……」
千晴ちゃんの瞳が、ぱっと輝いた。
「魔法使い! じゃあ七奈ちゃん、魔法が使えるの!?」
「まあ……一応ね」
「でも、このことは絶対に誰にも言わないでね! もし学院に知られたら、私、本当に怒られちゃうから……!」
藤代先生と、その肩にいるフクロウが、揃ってじーっと私を見つめている光景が頭に浮かぶ。
みんなの前で恥をかくより、百倍怖い!
「ふふっ、魔法の世界にも学校があるんだね」
「うん……」
「じゃあ七奈ちゃん、すごく大変なんだ。昼間は普通の学校で勉強して、放課後になったら今度は魔法のお勉強でしょ?」
千晴ちゃんは私の手を取ると、杖をそっと握らせてくれた。
顔を上げると、千晴ちゃんと目が合った。深い青色の瞳を見つめていると、不思議と胸が落ち着いていく。
手の中へ戻ってきた杖には、まだ千晴ちゃんの手のひらの温もりが残っていた。
「安心して。誰にも言わないよ。約束する」
「千晴ちゃん……」
「だって、私たち親友だもん」
「うんっ!」
胸の奥につかえていたものが、ふっと軽くなった。
千晴ちゃんに抱きつき、熱くなった目元を隠すように顔を伏せる。ぎゅっと閉じた目は、しばらく開けられなかった。
千晴ちゃんの胸元から、どくん、どくんと鼓動が伝わってくる。
「でもね」
「えっ?」
「ひとつだけ、約束してほしいことがあるの」
◇
「ただいまー」
「おかえり。今日は気に入った服、見つかったかい?」
「おかえり、七奈」
リビングでは、お父さんが新聞を広げ、その隣でお兄ちゃんがテレビを見ていた。
「うーん……まあまあかな。あんまり可愛い服はなかったよ」
そのままお兄ちゃんの隣に腰を下ろすと、身体がふかふかのソファへ沈み込んだ。
クッションに顔を埋めた途端、お兄ちゃんが隣で笑いながら、私の背中をぽんぽんと叩いてくる。
「あー、疲れたぁ……痛いってば。叩かないでよー」
「お父さーん、お兄ちゃんがいじめるー」
顔を横へ向け、新聞越しにお父さんを見る。お父さんは私とお兄ちゃんを交互に見て、困ったように苦笑した。
「今日は、変なやつに絡まれたりしなかったか?」
「もう、そんな人に会うわけないでしょ!」
「ならいいけど。七奈は昔からそそっかしくて、危なっかしいからな」
「失礼しちゃう!」
反論すると、お父さんまでお兄ちゃんと一緒になって笑い始めた。二人の笑い声を聞いていると、頬がかっと熱くなる。
傍らにあったクッションを引っつかみ、えいっとお兄ちゃんへ投げつけた。
◇
「おやすみ」
「お兄ちゃん、おやすみ」
小さく手を振り、お兄ちゃんが廊下の明かりを消して自分の部屋へ戻るのを見送った。
お兄ちゃんの部屋のドアが閉まったことを確かめてから、自分の部屋へ入り、そっとドアを閉める。
深く息を吸い込み、ベッドの下から学院に支給された飛行用の箒を引っ張り出した。窓を開けると、夜風がカーテンを揺らし、ひんやりとした空気が部屋へ流れ込んでくる。
「【浮遊】」
魔力を流すと、箒がふわりと宙へ浮かび上がった。そこへ跨がり、柄をぽんぽんと軽く叩く。
「箒さん、いい子だから、あとで私を振り落としたりしないでね」
そう言って、窓の外へ飛び出した。
その瞬間――背後で、ドアノブがかすかに回るような音が聞こえた。
振り返って部屋を見てみたけれど、中には誰もいない。
……うん。きっと、気のせいだよね。
夜風が頬を撫でる。両手で柄をしっかりと握り、眼下に波のように連なる屋根へ目を落とした。
思わず身を縮こまらせる。昼間はあんなに暑かったのに、空の上を吹く風は少し冷たい。
やがて、千晴ちゃんの家が見えてきた。
二階建ての小さな家。その二階にある窓の外で箒を止め、杖の先でガラスを軽く叩く。
待って……この場面、前にもどこかで経験したような気がする。
ガラリと窓が開き、隙間から二つの瞳が覗いた。
「七奈ちゃん……?」
「私だよ、千晴ちゃん!」
窓が全開になり、千晴ちゃんは少し後ろへ下がると、箒に乗った私をじっと見つめた。
「七奈ちゃん、本当に魔法使いみたいに箒に乗ってる……」
「ふふん、でしょー! ほら、早く乗って!」
「うん!」
「しっかりつかまっててね、千晴ちゃん!」
「出発進行――!」
「きゃっ、七奈ちゃん、もう少しゆっくり……!」
千晴ちゃんの両腕が私の腰に回り、その顔が背中へ埋まった。
風に揺れる髪が頬に触れて少し痒いけれど、千晴ちゃんの腕に包まれた腰の辺りだけは、ぽかぽかと温かかった。
人目につかない高さまで上昇すると、箒の速度を少しずつ上げていく。
澄んだ月明かりの下、二人を乗せた箒が夜空を滑るように駆けていった。
「千晴ちゃん、怖がってないで目を開けてみてよ! 景色、すっごく綺麗だよ!」
「本当に……?」
「大丈夫だってば!」
千晴ちゃんは、まだ私にしがみついている。やがて、背中に感じていた温もりがほんの少しだけ遠ざかり、その隙間を夜風が通り抜けた。
「こ、こんなに高いんだ……」
「でも、空から見る私たちの町って、こんなふうになってたんだね……」
腰に回された腕の力が、少しだけ緩んだ。
「七奈ちゃん、見て。今夜の月、すっごく丸いよ」
「見えてるよ!」
肩越しに空を仰ぐと、大きな満月が夜空に浮かび、その周りで無数の星がきらきらと輝いていた。
しばらくして町の裏山へ辿り着き、一本の古い大木から伸びた太い枝の上へ着陸した。箒から降り、千晴ちゃんと並んで枝へ腰を下ろす。
「七奈ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして! だって、私たち大親友だもん」
「でも、千晴ちゃん。どうして急に、夜の裏山へ来たいなんて言ったの?」
千晴ちゃんは私の手に自分の手を重ね、遠くの夜空を見つめた。今夜の月は、いつもよりずっと丸く、大きく見える。
幹に手を添えると、草むらから賑やかな虫の声が聞こえてきた。コオロギかな。ときおり、カエルの鳴き声も混ざっている。
「大した理由じゃないの。ただ、夜の裏山がどんな景色なのか、急に見てみたくなっただけ」
◇
「七奈ちゃん、魔法の世界って楽しい?」
「楽しいよ。でも……その分、たまに結構危険なこともあるかな」
「えっ? 悪い魔法使いとか、怖い魔物もいるの? 七奈ちゃんと戦うような敵も?」
「まあ、そんな感じかな」
足をぶらぶらさせながら、最近魔法の世界で経験したことを、千晴ちゃんへ少しずつ話して聞かせた。
夜風が吹き抜ける。肩をすぼめ、千晴ちゃんの方へ身体を寄せた。
「じゃあ、この前言ってた男の子も、本当にいるんだ?」
「うん!」
「そっか……本当だったんだね」
千晴ちゃんは少し黙ったあと、懐かしむように大木の幹を見つめた。
「七奈ちゃん、小さい頃によくこの裏山へ遊びに来たの、覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ。昔は、この大きな木の下に綺麗なチョウチョがたくさん集まってたよね」
あの頃の景色を思い出すと、記憶の中にある色鮮やかな花まで、今もそこに咲いているような気がした。
「あの頃はワンちゃんも連れてきて、みんなでチョウチョを追いかけてたっけ……」
虫の鳴き声と、私たちの静かな呼吸だけが辺りに響いていた。
ワンちゃんは、千晴ちゃんの家で飼っていた犬だ。昔ここへ「探検」に来たときは、いつもこの木の下を楽しそうに駆け回っていた。
私が手を高く上げると、ワンちゃんは勢いよく跳びついてくる。そのあとでしゃがみ込み、何度も頭を撫でてあげたっけ。
「うん」
「今も、ワンちゃんがここにいてくれたらよかったのにな……」
千晴ちゃんへ顔を向ける。
千晴ちゃんは夜空を見上げていた。枝葉の隙間からこぼれる月明かりの下で、その目元には光を映した涙が滲んでいる。
「だからね、七奈ちゃん……」
千晴ちゃんが、私の手をぎゅっと握った。
「……絶対に、無事でいてね」
夜風が吹き抜け、頭上の枝葉をさらさらと揺らした。
◇
「ありがとう、七奈ちゃん」
「どういたしまして~」
箒に跨がったまま、千晴ちゃんが無事に部屋へ戻るのを見届けた。
「今夜は本当に楽しかった。おやすみ」
「おやすみ、千晴ちゃん」
箒の向きをくるりと変え、家へ向かって飛び立つ。振り返ると、千晴ちゃんは窓辺に立ったまま、ずっと手を振ってくれていた。
家へ戻ると、窓から部屋へ入り、箒をベッドの下へしまい込んだ。そのまま大の字になってベッドへ倒れ込み、枕元にいたうさぎさんをぎゅっと抱きしめる。
秘密は千晴ちゃんに知られてしまったけれど、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、胸の奥がぽかぽかして、少し嬉しかった。
「おやすみ……」
今夜はきっと、いい夢が見られるよね。




