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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第五章 王家から届く視線

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第93話 盗まれた会員証

 ファビオが仮会員として登録されてから三日後。


 Club Moon Dropでは、昼営業を終えたスタッフたちが、夜営業の準備を進めていた。


 窓から差し込む夕方の光は、少しずつ赤みを失い始めている。


 エルナとミーナは客席を回り、テーブルの上に置かれた小物や椅子の位置を整えていた。


 セレナは予約表へ目を通し、今夜来店する客と希望する担当を一人ずつ確かめている。


 厨房では、ルークが肉料理の仕上がりを確認していた。


 火から下ろした鍋の蓋を開け、香りと煮込み具合を確かめる。営業中にすぐ出せるよう、使う皿や器具も手の届く位置へ揃えられていた。


 香ばしい肉の匂いが厨房から漂い、店内に残る菓子の甘い香りと混ざり合う。


「奥の卓、少しだけ椅子が外へ出ています」


 ノアが手帳を見ながら言った。


「あ、本当だ」


 ミーナが椅子を元の位置へ戻す。


「ありがとう、ノア」


「入口から見た時に、通路が狭く見えたので」


 ノアはそう答えると、次に壁際の照明へ目を向けた。


「照明は、このままで大丈夫そうです」


「分かった」


 近くにいたレンが、卓へ落ちる光を一度だけ確かめた。


 受付では、ロイとディーノが会員帳と予約表を見比べている。


「今夜の予約は七組です」


 ディーノが言った。


「最初に来られるのはアルフレッド様です。その後にエミリア様と、商人の方が二組です」


「ガイルさんたちは、予約なしで来るかもしれないな」


「はい。席は残しています」


「入口が重なったら、先に予約客を確認する。初来店の方がいれば、紹介者と一緒に少し待ってもらう」


「分かりました」


 ロイは予約表を閉じた。


 ディーノが加わったことで、受付と客席の案内を二人で分担できるようになっている。


 ロイが会員帳を確認している間は、ディーノが入口と客席へ目を配る。


 ディーノが客を案内している時には、ロイが受付へ戻る。


 どちらか一人が受付へ固定されているわけではない。


 料理や酒を運ぶ必要があれば客席へ動き、空いた皿があれば下げる。キャストが助けを必要としていれば、その卓へ向かう。


 二人の動きは、営業を重ねるごとに自然につながるようになっていた。


「そろそろ時間だな」


 レンが店内を見回した。


「今日も、いつもどおり頼む」


「はい」


 全員の声が重なった。


 ロイが営業中の札を表へ返す。


 Club Moon Dropの夜営業が始まった。


     ◇


 最初に来店したのは、予約表に記されていたアルフレッドだった。


「こんばんは」


「こんばんは、アルフレッド様」


 ロイが会員証を受け取る。


 アルフレッドは一人だった。


「オスカー様はご一緒ではないのですね」


「ああ。今日は商会で任せた仕事がある」


 アルフレッドは穏やかに笑った。


「本人は来たがっていたが、まずは任された仕事を終わらせるべきだと考えたらしい」


「それは、きっとミーナも喜びます」


「終わったら、また自分で予約するだろう」


 ロイは会員証を返し、ディーノへ視線を送った。


「アルフレッド様、こちらへどうぞ」


 ディーノが客席へ案内する。


 ミーナはアルフレッドが一人で来たことに一瞬だけ残念そうな表情を見せたが、すぐに笑顔で席へ向かった。


「こんばんは、アルフレッド様」


「こんばんは。今日は息子の代わりに、私が報告役だ」


「オスカー様に何かあったのですか?」


「いや、仕事を任されているだけだ。本人は終わらせてから来ると言っていた」


「そうなのですね」


 ミーナは素直に嬉しそうな顔をした。


「次にお会いした時、お話を伺うのが楽しみです」


 続いて、エミリアが友人を伴って来店した。


 友人は初来店だったため、ロイが紹介者との関係を確認する。


「こちらは、以前からお付き合いのある方でしょうか」


「ええ。商会同士の付き合いから始まって、今ではよく一緒に買い物へ行く仲よ」


「承知しました」


 ロイは友人へ顔を向ける。


「店内では、どのようにお呼びすればよろしいでしょうか」


「マルタでお願いします」


「ありがとうございます。マルタ様、当店ではほかのお客様やスタッフが困るような行為、過度な飲酒をお断りしております。何かご不安なことがございましたら、近くのスタッフへお声がけください」


「分かりました」


 マルタは少し緊張していたが、隣にいるエミリアを見て小さく笑った。


 説明を終えると、セレナが二人を席へ案内する。


「エミリア様、マルタ様、こちらへどうぞ」


「今日はあなたが担当してくれるの?」


 エミリアが尋ねる。


「はい。お二人がゆっくりお話しできるよう、お手伝いさせていただきます」


「それなら安心ね」


 さらに、正式会員の商人と、以前から何度か利用している仮会員が来店する。


 ロイとディーノは互いの動きを見ながら、受付と案内を交代した。


 来店が重なっても、入口に人が溜まることはなかった。


 営業が始まって半刻ほど過ぎた頃。


 店内には、穏やかな会話と、グラスが触れ合う小さな音が広がっていた。


 エルナの卓からは明るい笑い声が聞こえる。


「それ、本当に取引先の前で言ったの?」


「ああ。言った後で、隣にいた部下が真っ青になっていた」


「それは部下の人がかわいそうだよ」


「私も後からそう思った」


「後からじゃ遅いって」


 エルナが笑うと、担当している商人も声を上げて笑った。


 少し離れた場所を通ったディーノが、空いたグラスへ気づく。


 エルナと短く視線を交わし、客の前へ出すぎないよう静かに近づいた。


「次のお飲み物はいかがなさいますか?」


「同じものを頼む」


「承知しました」


 ディーノは注文を確認すると、そのままほかの卓の空いた皿も下げていく。


 エルナだけへ特別に声をかけることはない。


 エルナも、仕事中はディーノを恋人として見つめ続けるようなことはせず、目の前の客との会話へ戻っていた。


 リリアは初来店の女性客と話し、緊張が解けるよう、ゆっくりと言葉を選んでいる。


「甘いお酒がお好みでしたら、果実酒を少し薄めてお作りすることもできます」


「お酒にはあまり強くなくて」


「でしたら、最初は少量からお試しになりますか。飲みきらなくても問題ございませんので、無理はなさらないでください」


「そう言ってもらえると安心します」


「お水も一緒にお持ちいたしますね」


 セレナは商人二人の話へ耳を傾けながら、片方だけが会話から取り残されないよう話題を振っている。


 ミーナはアルフレッドの席で、オスカーの近況を聞いていた。


 入口近くにいたロイは、空いた皿を一枚下げた。


 そのまま厨房へ運ぼうとした時、扉が開く。


 一人の若い男が店へ入ってきた。


 年齢は二十歳前後。


 茶色い髪を短く切り、商家の者らしい上質な服を身につけている。


 酔っている様子はなく、足取りもしっかりしていた。


 男は入口で立ち止まることもなく、受付へ向かった。


「いらっしゃいませ」


 ロイは皿を近くの台へ置いた。


「会員証をお持ちでしょうか」


「ああ」


 若い男は上着の内側から、一枚の木札を取り出した。


 正式会員証だった。


 Club Moon Dropの印。


 木札の縁へ刻まれた番号。


 表面に残る細かな傷。


 ロイには見覚えがあった。


「少々お待ちください」


 会員証を受け取り、番号を確認する。


 会員帳に登録されている正式会員の名は、エドガー。


 乾物や香辛料を扱う商人で、四十代半ばの男だった。


 何度も店を利用している。


 背は低く、髪には白いものが混じり始めていた。


 目の前にいる若い男とは、明らかに違う。


 会員証そのものには、不自然なところがなかった。


 印も番号も正しい。


 ロイは男へ顔を向ける。


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「エドガーだ」


 若い男は迷わず答えた。


「店内でも、エドガー様とお呼びしてよろしいですか?」


「ああ」


 本人ではない。


 それは、すでに分かっていた。


 エドガーの顔を何度も見てきたロイが、間違えるはずはなかった。


 ただし、目の前の男がなぜ本物の会員証を持っているのかは分からない。


 拾っただけなのか。


 エドガーから借りたのか。


 あるいは、別の理由で手に入れたのか。


 ロイは男を問い詰める口調にならないよう、声を変えずに尋ねた。


「以前にもご利用いただいておりますね」


「もちろんだ」


「最後にご来店されたのは、いつ頃でしょうか」


 若い男の眉が僅かに動く。


「それを答えなければ入れないのか?」


「確認のためです」


「十日ほど前だ」


 会員帳の記録と大きくは外れていない。


 エドガーが最後に来店したのは九日前だった。


「その際、どなたが担当いたしましたか?」


「セレナだ」


 それも正しい。


 男は、会員証に刻まれていない情報まで知っていた。


 ロイは会員帳を閉じる。


「申し訳ございません」


「何だ?」


「こちらの会員証は、登録されているご本人様のものではないと判断いたしました」


 若い男の表情が硬くなる。


「何を言っている。私のものだ」


「登録されている方と、お顔が違います」


「久しぶりに来たから忘れたのだろう」


「忘れておりません」


 ロイは声を荒らげずに答えた。


「本人だと言っている」


「会員証に関する情報をご存じであっても、ご本人であることの確認にはなりません」


 若い男が口を閉じた。


 その間に、ディーノが自然な足取りで受付へ近づいてくる。


 ロイが皿を置いたまま受付に残り、いつもより長く一人の客と話していることに気づいたのだ。


 男のすぐ横へは立たない。


 入口と客席の両方を見られる位置で止まり、普段どおりの声で尋ねた。


「何かありましたか?」


「会員証と、ご本人が一致しない」


 ロイが短く答えた。


 ディーノは男の顔と、ロイが持っている会員証を見る。


 エドガー本人と何度も話したことはない。


 だが、目の前の若い男が会員帳に登録されている年齢とは大きく異なることは分かった。


「私はエドガーの息子だ」


 若い男が言った。


「父から借りた」


「先ほどは、ご本人だとおっしゃいました」


 ロイが言う。


「説明が面倒だっただけだ」


「会員証は、ご家族であっても貸し借りできません」


「父が使ってよいと言った」


「ご本人の許可があっても同じです」


「息子だぞ」


「はい」


「家族なら問題ないだろう」


「ご本人とご家族は、別の方です」


「私が問題を起こすとでも?」


「今の段階では、判断できません」


「なら、中へ入れてから見ればいい」


「それはできません」


 ロイの返答に迷いはなかった。


 若い男の声が少しだけ大きくなる。


「たかが酒場だろう」


 店内にいた数人の客が、入口へ視線を向けた。


 エルナは担当している客との会話を止めなかったが、目だけで状況を確かめる。


 普段ならディーノがすぐ近くを通った時、ほんの僅かに表情を和らげることもある。


 しかし今は、彼が受付の問題へ対応していることを理解し、声をかけることはしなかった。


「それで、取引相手には何て謝ったの?」


 エルナは客へ向き直り、会話を続ける。


 入口へ客の意識が集まりすぎないよう、普段と変わらない明るさを保っていた。


 リリアも初来店の女性客へ笑顔を向けたまま、声の調子を僅かに落とす。


「お水をもう少しお持ちいたしましょうか」


「え、ええ。お願いします」


「承知しました。こちらで少々お待ちください」


 客を不安にさせないよう、それぞれが自分の接客を続けていた。


 少し離れた場所にいたレンが、受付へ近づく。


 ロイの隣へ並ぶのではなく、男が店内へ進もうとした場合に止められる位置で足を止めた。


 ロイとディーノだけで対応できている。


 二人が助けを求めていない段階で、店主である自分が前へ出れば、二人の判断を取り上げることになる。


 レンは会話へ割って入らず、二人の対応を見守った。


「酒場であっても、当店の規則は変わりません」


 ロイが言った。


「登録されたご本人ではない以上、本日はご入店いただけません」


「父へ確認すればいいだろう」


「確認いたします」


 男の表情に、一瞬だけ安堵が浮かんだ。


「それで父が許可したと言えば、入れるな?」


「いいえ」


「なぜだ」


「会員証の貸し借りは認めていないためです」


「では、何のために確認する?」


「この会員証が、本当にエドガー様から渡されたものかを確かめるためです」


 男の表情から、僅かに余裕が消えた。


「父が渡した」


「確認が取れるまで、こちらでお預かりします」


「今日はもういい」


 男は会員証へ手を伸ばした。


 ロイは木札を取らせなかった。


 力ずくで奪うような動きではない。


 ただ、会員証を受付台の自分側へ置き、男の手が届かない位置へ移した。


「こちらは登録されているエドガー様のものです。ご本人へ確認できるまで、当店でお預かりします」


「私が持って帰る」


「できません」


「父のものだ」


「ですので、ご本人へ直接お返しします」


 男はロイを睨んだ。


 ディーノが一歩だけ前へ出る。


 エルナの恋人としてではなく、店の入口を守る黒服としての動きだった。


「これ以上、受付を妨げる場合は、扉の外へお願いいたします」


「すでに入店を断っているだろう」


「はい。ですので、ご退店ください」


 若い男は周囲を見る。


 会員証を預かっているロイ。


 入口を塞がない位置で男の動きを見ているディーノ。


 そして、少し離れた場所から受付へ注意を向けているレン。


 客席では、キャストたちが何事もなかったように接客を続けている。


 男は小さく舌打ちした。


「父に聞けば分かる」


「確認いたします」


「必ず返せ」


「ご本人へお返しします」


 若い男はそれ以上何も言わず、扉を開けた。


 外へ出る前に、店内へ一度だけ視線を向ける。


 そのまま扉が閉じた。


 レンは入口まで歩き、扉を僅かに開けた。


 男は西通りを離れる方向へ歩いている。


 誰かを待つ様子も、すぐに戻ってくる様子もなかった。


 追いかけても、店内の人手を減らすだけになる。


 レンは男の向かった方向だけを確認し、扉を閉じた。


「営業を続けよう」


 静かな声に、ロイとディーノが頷いた。


「はい」


 ロイは会員証を受付台の内側へ保管した。


 ディーノは受付の前に残っていた皿を持ち上げる。


「これは厨房へ運びます」


「頼む」


 ロイが答える。


 ディーノは皿を運び、その途中で別の卓から出された注文も確認した。


 受付で問題が起きたからといって、黒服としてのほかの仕事がなくなるわけではない。


 ロイも会員帳を閉じると、入口と客席の両方を確認した。


 客席に緊張が残らないよう、リリアたちは自然に会話を戻していく。


「ご心配をおかけしました」


 エルナが担当している客へ言った。


「もう大丈夫なのか?」


「はい。入店はお断りしました」


「本物の会員証に見えたが」


「会員証を持っていても、ご本人でなければ利用できませんから」


 エルナは明るさを失わずに答えた。


「ずいぶん厳しいんだな」


「安心して過ごしてもらうための決まりだからね。誰か一人だけ例外にしたら、ほかのお客さんにも説明できなくなっちゃうし」


「それもそうか」


 客は納得したように頷き、先ほどまでの話題へ戻った。


 エルナは少し離れた場所にいるディーノへ視線を向けた。


 ディーノも一瞬だけ彼女を見る。


 心配していたことは、互いにそれだけで伝わった。


 だが、二人とも持ち場を離れることはなかった。


 ガイルが来店したのは、その少し後だった。


 会員証を出しながら、入口にいるロイを見る。


「何かあったか?」


「後ほどお話しします」


「分かった」


 ガイルはそれ以上尋ねなかった。


 ロイが今すぐ話さないなら、営業中に広げるべきことではないと理解したのだ。


「ガイル様、こちらへどうぞ」


 ディーノに案内され、ガイルは席へ向かった。


 営業は、その後も続いた。


 大きな騒ぎが起きることはなかった。


     ◇


 最後の客を見送った後、ロイが扉を施錠した。


 リリアたちが片づけを始める中、レンは受付台の内側から会員証を取り出した。


 卓の上へ置かれた木札を、ディーノが見つめる。


「本物なんですよね?」


「ああ」


 ロイが答えた。


「印も番号も一致している。表面の傷も、エドガー様が使っていたものと同じだ」


「偽物を作ったわけではない」


 レンが言った。


「はい」


 ノアが会員帳を開く。


「エドガー様が最後に来店されたのは九日前です」


「その時、会員証の紛失について何か言っていた?」


 レンが尋ねる。


「いいえ。何もありませんでした」


 ロイは若い男とのやり取りを振り返る。


「本人ではないことは、すぐに分かりました。ただ、最後に来店した頃と、担当した者は知っていました」


「名前だけではなかったのですね」


 ミーナが言った。


「ああ」


「エドガーさんから聞いた可能性もあるよね」


 エルナが言う。


「本当に家族なら、お店の話を聞いていてもおかしくないし」


 その言葉を口にしながらも、エルナの表情は納得していなかった。


 最初から息子だと名乗っていたなら、まだ理解できる。


 だが、男はエドガー本人だと名乗り、顔が違うと指摘されてから息子だと言い直した。


「本人に確認しないと分からない」


 レンは会員証へ視線を落とした。


「最初から、家族として使おうとしたわけではない。本人になりすまして入ろうとした」


「顔を覚えられていないと思ったのでしょうか」


 リリアが尋ねる。


「その可能性はある」


 ロイが答えた。


「会員証さえ持っていれば入れると考えていたのかもしれません」


「でも、最後に来た時期と担当まで知っていました」


 ノアが言う。


「偶然、会員証を拾っただけでは説明できません」


「誰かが教えたのかもしれない」


 セレナが静かに言った。


「本人から直接聞いたのか、別の者から聞いたのかは分かりませんが」


 レンは頷いた。


「今の段階では、誰が何のためにやったかは決められない」


 店へ入り、酒を飲みたかっただけかもしれない。


 会員という特別な立場を試したかっただけかもしれない。


 あるいは、Club Moon Dropの受付が、どの程度まで本人を確認しているのか確かめようとした可能性もある。


 だが、証拠がないまま決めつければ、判断を誤る。


「明日の朝、エドガーさんへ確認に行こう」


 レンが言った。


「俺とロイで行く。ディーノは店の準備を頼む」


「分かりました」


 ディーノが頷いた。


 エルナが彼へ顔を向ける。


「私も明日はいつもどおり来るから、客席の準備は手伝うよ」


「助かる」


「でも、受付のことは私には分からないから、そこはロイさんたちが戻ってからね」


「ああ」


 二人の会話は恋人同士のものというより、翌日の仕事を確認するスタッフ同士のものだった。


 ノアが手帳を開く。


「今日のことは、どこまで残しますか?」


「起きたことだけでいい」


 レンが答えた。


「若い男性が、エドガー様の正式会員証を提示したこと。登録されているご本人と顔が違ったこと。最初は本人を名乗り、その後、息子だと主張したこと」


「ああ」


「最後に来店した頃と、担当した者を知っていたことも記録します」


「頼む」


「入店を断り、会員証を預かったことも残します」


「それも必要だ」


 ノアが筆を動かす。


 リリアは、受付台の上に置かれた会員証を見つめていた。


「エドガー様が、本当に貸したのでしょうか」


「分からない」


 レンが答える。


「貸していたなら、会員証は家族でも共有できないことを改めて説明する」


「貸していなかったら?」


「本人の知らないところで持ち出されたことになる」


 店内が静かになった。


 会員証は本物だった。


 男はエドガーの利用状況を知っていた。


 それが本人から聞いたものなのか、別の方法で調べたものなのかは、まだ分からない。


「明日、本人へ確認してから考えよう」


 レンの言葉に、全員が頷いた。


     ◇


 翌朝。


 レンとロイは、エドガーが営む乾物店を訪れた。


 西通りから離れた市場近くにある、奥行きのある店だった。


 店先には乾燥させた果物や香辛料の袋が並び、朝から数人の客が商品を選んでいる。


 奥で帳簿を見ていたエドガーは、二人の姿に気づくと顔を上げた。


「レンさんとロイさんじゃないか。こんな時間に珍しいな」


「営業前に申し訳ありません」


「構わん。何かあったのか?」


 レンは周囲へ目を向ける。


「少し、人の少ないところでお話しできますか?」


 エドガーの表情が変わった。


「ああ。奥へ来てくれ」


 二人は店の裏にある小さな事務室へ通された。


 狭い部屋には机と椅子が置かれ、壁際には取引帳や商品の見本が並んでいる。


 扉が閉まる。


 レンは、布に包んでいた会員証を取り出した。


「こちらに見覚えはありますか?」


 エドガーの目が見開かれる。


「私の会員証だ」


「昨日、若い男性がこれを使って、Club Moon Dropへ入ろうとしました」


「若い男?」


「最初はエドガー様ご本人だと名乗り、その後、息子だと主張しました」


「息子だと?」


 エドガーは困惑した顔をする。


「私に息子はいない」


「会員証を、どなたかへ貸しましたか?」


「貸していない」


「なくなったことには気づいていましたか?」


 エドガーは上着の内側へ手を入れた。


 しかし、何も出てこない。


 反対側の内側にも手を入れ、胸元や腰の袋まで確かめる。


 顔から血の気が引いた。


「ない」


「最後に確認したのはいつですか?」


「Club Moon Dropへ行った夜だ。帰る時に上着へ入れた。それから取り出した覚えはない」


「分かりました」


「男は入ったのか?」


「入店は断りました」


「ほかの客に何かあったのか?」


「ありません」


「店の者は?」


「誰も被害を受けていません」


 エドガーは深く息を吐いた。


「本当にすまない。私の管理が悪かった」


「今は責任を問うために来たのではありません」


「だが、私の会員証で誰かが店へ入ろうとしたんだろう」


「はい」


「男は、何を知っていた?」


「エドガー様のお名前と、最後に来店された頃、それから担当した者です」


「そこまで知っていたのか」


「店でのことを、誰かへ話した覚えはありますか?」


「酒や料理の話はする」


 エドガーは眉を寄せた。


「Club Moon Dropへ行ったことも、隠してはいない。だが、いつ行ったかや、誰に担当してもらったかまで細かく話した覚えはない」


「会員証を見せたことは?」


「ない」


「ご自宅で、会員証を最後に保管した場所は?」


「上着の内側だ。店から帰った後、そのまま寝室へ持っていった」


「ご家族以外に、その場所へ入る者はいますか?」


「使用人が掃除へ入ることはある。だが、長く働いている者ばかりだ」


 エドガーの声に、疑いと戸惑いが混じる。


 誰かを疑いたいわけではない。


 だが、会員証が勝手に店を出ていくはずもない。


「今の段階で、身近な方を問い詰める必要はありません」


 レンが言った。


「最後に使った上着と、その周辺だけ確認してください」


「ああ。妻にも聞いてみる」


「危険を感じることがあれば、ご自身で調べようとせず、街の警備へ相談してください」


 ロイが言った。


「分かった」


「会員証は、こちらで使えないようにします」


 レンが言う。


「次に来店される際は、事前にご連絡ください。確認が取れた後、新しい会員証を用意します」


「ああ」


 エドガーは、レンが持つ木札へ視線を落とした。


「それにしても、よく私ではないと分かったな」


「何度もご来店いただいていますから」


 ロイが答える。


「顔を覚えていたのか」


「はい」


 エドガーは僅かに笑った。


「覚えられていたことを喜ぶ場面ではないな」


「ですが、そのおかげでお止めできました」


「そうだな」


 笑みはすぐに消える。


「もし、受付に私をよく知らない者が立っていたら?」


 レンもロイも、すぐには答えなかった。


 エドガーは二人の沈黙を見て、表情を引き締める。


「会員証が本物で、店へ行った時期や担当まで知っていたなら、通してしまったかもしれないということか」


「可能性はあります」


 レンは正直に答えた。


「今回、ロイが顔を覚えていたから止められました。でも、誰が受付に立っていても同じ判断ができる状態ではありません」


「そうか」


「同じことが起きないよう、受付の方法を見直します」


「私にできることがあれば言ってくれ」


「ご自宅で何か分かったら、知らせてください」


「必ず連絡する」


 エドガーは深く頭を下げた。


「会員証を盗まれたことにも気づかなかった。店へ迷惑をかけて、本当にすまない」


「エドガー様に責任があるとは考えていません」


 レンははっきりと答えた。


「ただ、今後は保管に気をつけてください」


「ああ。約束する」


     ◇


 Club Moon Dropへ戻ると、スタッフたちはすでに昼営業の準備を始めていた。


 ルークは厨房で菓子の焼き上がりを確認している。


 客席では、エルナとミーナがテーブルを拭き、セレナが予約表を整理していた。


 ディーノはロイが不在の間、入口付近の確認と客席の準備を行っていた。


 レンとロイが戻ってきたことに気づくと、作業を止めずに二人へ目を向ける。


「確認できましたか?」


「ああ」


 レンは営業前に全員を集めた。


「会員証は、エドガーさんが知らないうちに持ち出されていた」


 その一言で、店内の空気が引き締まった。


「貸していたのではないのですね」


 リリアが尋ねる。


「ああ。それに、息子もいない」


「最初から嘘だったんだ」


 エルナが眉を寄せる。


 ディーノは何も言わなかったが、表情が僅かに険しくなった。


 昨日の男は、エドガーの息子だから使えると主張していた。


 その説明さえ、入店を断られてから作った嘘だったことになる。


「エドガー様は、会員証がなくなったことにも気づいていませんでした」


 ロイが説明した。


「最後に使った後、取り出した覚えはないそうです」


「誰が持ち出したかは?」


 セレナが尋ねる。


「まだ分からない」


 レンは答えた。


「本人にも心当たりはない」


「では、偶然拾った人が使ったわけではないかもしれませんね」


 ノアが言った。


「エドガー様が最後に来た頃や、担当した者まで知っていましたので」


「誰かが教えた可能性もある」


 レンは会員証へ視線を落とす。


「あるいは、本人の周囲を調べたのかもしれない。だが、今は何も決めつけられない」


 リリアが静かに尋ねる。


「Club Moon Dropへ入るために、そこまで調べたのでしょうか」


「ただ店へ入りたかっただけなら、もっと簡単な方法を選ぶかもしれない」


 セレナが言った。


「紹介してくれる会員を探す方が、会員証を盗むより危険は少ないですから」


「紹介を頼めない事情があったのかもしれません」


 ミーナが言う。


「または、紹介では入れないと分かっていたのか」


 ロイが続けた。


 誰かが受付の方法を確かめようとした。


 その可能性が、全員の頭へ浮かぶ。


 だが、レンはそれを結論にはしなかった。


「目的を考えるのは、もう少し情報が集まってからでいい」


 レンはロイとディーノを見る。


「今考えるべきなのは、同じことが起きた時の対応だ」


「ロイさんは、エドガー様の顔を覚えていたから止められました」


 ディーノが言った。


「俺が一人で受付に立っていたら、同じように気づけたか分かりません」


「顔を覚えていなかった?」


「見たことはあります。ただ、すぐに別人だと言い切れるほどではありませんでした」


 ディーノは正直に答える。


「会員証が本物で、来店した頃や担当も合っていたら、確認に迷ったと思います」


「それでいい」


 レンが言った。


 ディーノが顔を上げる。


「迷うこと自体が悪いんじゃない。分からないのに、自分一人で決める方が危ない」


「はい」


「昨日も、ロイの様子を見て自分から受付へ来てくれた。あれでいい」


 ディーノは少しだけ驚いた顔をした。


 レンが受付へ近づいた時、すでにロイの隣にはディーノがいた。


 二人で対応できていたから、レンは必要以上に口を出さなかった。


「今回、ロイが気づいたから止められた。でも、次も同じとは限らない」


 レンはロイとディーノを見る。


「受付のやり方を見直そう」


「はい」


 ロイが答えた。


「誰が入口へ立っていても、同じように確認できる形にします」


「俺も覚えます」


 ディーノが続ける。


「ロイさんが客席へ出ている時でも、自分で確認できるようにします」


「ただし、ロイとディーノを二人とも受付へ固定するつもりはない」


 レンが言った。


「二人とも黒服として、案内も配膳も片づけも、店内の安全確認も必要だからな」


「はい」


「だから、誰が入口へ戻っても同じ判断ができる形にする」


 ノアが会員帳へ目を向ける。


「今の記録だけで足りるかも、確認した方がよさそうです」


「ああ。ただし、今日はまだ決めない」


 レンが言った。


「何が必要なのか、営業後に改めて話し合おう」


「分かりました」


 昼営業の開始時刻が近づいていた。


 外から、来店客の足音が聞こえてくる。


 ロイは会員帳を受付台へ置き、入口へ向かった。


 ディーノは隣へ並ばず、入口と客席の両方を見られる位置へ立つ。


 エルナはそんなディーノを一度だけ見てから、自分が迎える客のために表情を整えた。


 扉が開いた。


「いらっしゃいませ」


 ロイは、いつもと変わらない声で最初の客を迎えた。


 客が差し出した会員証を受け取り、顔を見る。


 少し離れた場所では、ディーノもその客を確認していた。


 会員証が本物であっても、それだけで本人だとは限らない。


 その事実を、今度は二人とも知っていた。

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