第91話 五人の客と一人の観測者
宰相府からの返事が届いたのは、レンが王都へ返書を送ってから五日後のことだった。
昼営業を迎える前のClub Moon Dropでは、いつものように開店準備が進められていた。
エルナとミーナが客席を整え、セレナは予約表へ目を通している。
デュークは壁際の照明を調整し、ディーノは椅子の脚に緩みがないか確かめていた。
厨房からは、ルークが焼いている菓子の甘い香りが漂っている。
扉が開き、一通の封書を持ったロイが店内へ戻ってきた。
「王都からです」
封書には、見覚えのある深い青色の封蝋が押されていた。
剣と天秤を組み合わせた、宰相府の紋章である。
「前と同じところ?」
エルナが手を止めた。
「ああ」
レンは封書を受け取り、細い刃で封を切った。
リリア、セレナ、ノアが近くへ集まる中、レンは書状を読み進める。
前回より短い文章だった。
Club Moon Dropが示した営業方針を了承する。
すでに予約している客を移動させ、王宮関係者のために店を貸し切ることは求めない。
席の配置や担当する者についても、店側の判断へ委ねる。
正式会員名簿の提出も、今回は求めない。
その代わり、五人の王宮関係者を、通常の紹介制度に従って受け入れてほしいと記されていた。
紹介者は、レオナルド・フォン・バレンティ。
来店日は、次の夜営業。
五人はいずれも初来店である。
「要求を取り下げたんですか?」
リリアが尋ねた。
「文章の上ではな」
レンは書状の末尾を見つめた。
宰相ヴィットリオが、Club Moon Dropへの関心を失ったとは思えない。
外から命令するより、店の規則へ従った上で内側を確かめた方がよいと判断したのだろう。
「誰が来るの?」
エルナが尋ねる。
レンは添えられていた名前を読み上げた。
王宮文書官、ファビオ・フォン・レンツィ。
王宮財務官補佐、ラウロ・フォン・カステリ。
王宮儀礼官、エンリコ・フォン・サルヴィ。
王宮警備隊の文官、ニコラ・フォン・アルビーニ。
地方行政を担当する書記官、テオドーロ・フォン・マルチェージ。
全員が貴族家の出身だった。
しかし、爵位を継いで領地を治める者ではなく、王宮で実務を担っている者たちである。
「ずいぶん、いろいろな役職の方を選んだんですね」
ミーナが言った。
「偶然には見えません」
ノアが静かに続ける。
レンも同じ考えだった。
文書、財務、儀礼、警備、地方行政。
異なる立場の者から店を見せ、その報告を照らし合わせるつもりなのかもしれない。
ただし、五人全員が調査だけを目的に選ばれたとは限らなかった。
王宮から送り出される以上、店の様子を尋ねられることはあるだろう。
それでも、一人ひとりが何を考え、どのように過ごすかは、実際に来店するまで分からない。
「断りますか?」
ディーノが尋ねた。
「断らない」
レンは書状を畳んだ。
「紹介者がいて、店の規則にも従う。それなら迎える」
「調べに来る人がいても?」
エルナの表情には不安が残っていた。
「見せたくないものは見せなければいい」
レンはそれだけ答えた。
ロイ、ディーノ、デュークへ視線を向ける。
「五人とも初来店だ。いつもどおり頼む」
「分かりました」
ロイが答えた。
「六人が一度に入ると、入口が狭くなりますね」
ディーノが受付台の前を見た。
「最初は俺が確認する。その後はディーノに代わる」
ロイが言う。
「俺は外を見る」
デュークも続いた。
「ほかのお客様が来られたら、入口を空けます」
「確認が終わった方から、私がご案内します」
リリアが申し出た。
セレナは予約表と客席を見比べる。
「二卓に分かれていただくのがよいと思います」
「そうしよう」
レンは頷いた。
レオナルドは特別会員であり、特別会員用の席を利用できる。
だが、普段のレオナルドは、特別な事情がない限り通常席を選んでいた。
今回も、王宮関係者を連れてくるからといって、特別会員席へ案内する必要はない。
秘密の会談ではなく、あくまで通常の紹介客として迎えるからだ。
来店日までに、店が大きく変わることはなかった。
酒も料理も普段と同じものを用意する。
王宮関係者を迎えるためだけに、特別な装飾を増やすこともしない。
調整したのは、ほかの予約客の来店時刻だけだった。
初来店の客が五人重なれば、受付に普段より時間がかかる。
そこで同じ時間へ集中していた予約を、客の了承を得た上で僅かにずらした。
ノアは五人分の記録用紙を用意する。
氏名。
紹介者。
初来店日。
店内での呼び方。
担当した者。
書かれているのは、それだけだった。
◇
来店当日の夜。
Club Moon Dropには、いつもより僅かに固い空気が漂っていた。
エルナは磨いたグラスを並べ終えた後、向きをもう一度揃える。
ミーナも茶器の数を数え直していた。
リリアは穏やかな表情をしているが、普段より背筋が伸びている。
「緊張してる?」
レンが尋ねた。
「少しだけです」
「いつもどおりでいい」
「はい」
「答えにくいことは、断っていいからな」
「失礼のないようにお断りします」
リリアは一度息を整えた。
デュークが外の様子を見に行き、間もなく戻ってくる。
「来ました」
店の前で、複数の足音が止まった。
ロイが入口へ向かう。
ディーノは少し後ろへ下がり、店内と扉の両方を見られる位置へ立った。
扉が開く。
最初に入ってきたのは、レオナルドだった。
その後ろには、年齢も体格も異なる五人の男が並んでいる。
全員が質のよい服を身につけていたが、過剰な装飾はない。
「こんばんは」
レオナルドが挨拶する。
「こんばんは、レオナルド様。お待ちしておりました」
ロイが応じた。
「こちらの五名を紹介したい」
「承知しました。皆様、初めてのご来店ですので、お一人ずつ確認いたします」
五人の中で最も大柄な男が、僅かに眉を寄せた。
「全員、レオナルドの同行者だ。それでも必要なのか?」
「はい」
ロイは表情を変えない。
「ご関係は、それぞれ確認しております」
男はレオナルドを見る。
「ここでは、私も規則へ従う客の一人だ」
レオナルドが答えた。
「店の説明に従ってくれ」
「分かった」
「入口が狭いため、まずお二人ずつお願いしてもよろしいでしょうか」
五人は互いの顔を見合わせた。
やがて、細身の男が一歩前へ出る。
「ファビオ・フォン・レンツィだ」
王宮文書官。
書状の最初に名が記されていた人物だった。
「ロイと申します。本日は、レオナルド様のご紹介で間違いありませんか?」
「ああ」
「レオナルド様とは、どのようなご関係でしょうか」
「王宮で何度か仕事を共にした。私の作成した文書を、彼が確認したこともある」
ロイがレオナルドへ目を向ける。
「間違いない」
「ありがとうございます」
ロイは用紙へ必要な内容を記した。
「当店は紹介制です。本日はレオナルド様とご一緒ですので、ご利用いただけます。ほかのお客様や働く者が嫌がる行為はお控えください。必要な場合は、黒服からお声をかけることがございます」
「支払額に関係なく?」
ファビオが尋ねる。
「はい」
ファビオはロイの顔を見つめた。
不快そうではない。
答えを頭の中へ留めているような目だった。
「店内では、どのようにお呼びすればよろしいでしょうか」
「ファビオで構わない」
「承知しました」
確認が終わると、リリアが進み出た。
「ファビオ様、お席へご案内いたします」
「君が担当するのか?」
「お席までご案内いたします。担当につきましては、ご希望を伺ってから決めさせていただきます」
「事前に決めていないのか」
「はい」
ファビオはリリアの後ろを歩き、客席へ向かった。
受付台の横を通る際、閉じられた会員帳へ一度だけ視線を落とした。
レンは何も言わなかった。
次に受付へ立ったのは、先ほど声を上げた大柄な男だった。
「ラウロ・フォン・カステリだ」
王宮財務官補佐である。
今度はディーノが確認を担当した。
ラウロは紹介者との関係を答えた後、並べられた酒瓶へ目を向ける。
「ここで、あの冷たいビールを飲めるのか?」
「はい」
「王都で聞いたものと同じか?」
「おそらく、ご存じのものと同じかと思います」
「なら、それを頼みたい」
先ほどまで受付を面倒そうに見ていた男とは思えないほど、声が少し弾んでいた。
「お席へご案内した後、担当へお申しつけください」
ディーノが答える。
「分かった」
ラウロは大人しくデュークの後へ続いた。
三人目は、王宮儀礼官のエンリコだった。
細く整えられた口ひげを持ち、姿勢のよい男である。
ロイから簡単な説明を受けると、店内へ目を向けた。
「思っていたより、小さな店だな」
「四卓とカウンター席がございます」
「なるほど」
エンリコはそれ以上何も言わなかった。
ただ、案内に来たセレナの歩き方や一礼へ目を留める。
「こちらへどうぞ」
セレナに促され、エンリコは素直に客席へ向かった。
王宮警備隊の文官ニコラは、最も口数が少なかった。
レオナルドとの関係と呼び方を答え、店の規則へ一度頷く。
入口や客席へ視線を向けることはあったが、質問はしなかった。
最後のテオドーロは、五人の中で最も若く見えた。
「テオドーロ・フォン・マルチェージです」
名乗る声には、ほかの四人ほどの硬さがない。
「遠方の商人も利用している店だと聞きました」
「はい」
ディーノが答える。
「今夜もいるでしょうか」
「ご来店予定の方はいらっしゃいます」
「それは楽しみです」
テオドーロは微笑み、案内を待った。
五人の確認が終わる前に、次の客が店へ到着した。
ガイルとサラだった。
「今日は入口が賑やかだな」
ガイルが足を止める。
「初来店のお客様が重なっています」
デュークが答えた。
「少しお待ちいただけますか」
「構わん。急いでない」
ガイルは王宮関係者へ一度だけ視線を向ける。
サラは興味を示しながらも、無遠慮に見つめ続けることはしなかった。
テオドーロの確認が終わると、ディーノが二人へ向き直る。
「ガイル様、サラ様。こんばんは」
「こんばんは。二人だ」
会員証を確認し、ディーノは二人を普段どおり客席へ案内した。
すでに席へ着いていたファビオは、その様子を黙って見ていた。
五人とレオナルドは、二卓へ分かれた。
ファビオとラウロが、レオナルドと同じ通常席へ座る。
特別会員であるレオナルドは特別会員席を利用できるが、今日は使わなかった。
酒を飲み、紹介した者たちと過ごすだけなら、通常席で十分だと考えているようだった。
エンリコ、ニコラ、テオドーロは隣の卓へ座った。
リリアが最初の卓につき、セレナがもう一方の卓へ向かう。
エルナとミーナは、先に予約していた客を担当していた。
「飲み物のご希望はございますか?」
リリアが尋ねる。
「ビールを頼む」
ラウロは即座に答えた。
「王都で噂を聞いてから、一度飲んでみたかった」
「かしこまりました」
「料理は何が合う?」
「塩気を抑えた肉料理がございます。ビールの苦味も楽しんでいただけると思います」
「それも頼む」
リリアは笑顔で頷き、ファビオへ向き直る。
「ファビオ様はいかがなさいますか?」
「君なら何を勧める?」
「まだ、お好みを伺っておりませんので」
「見た目では判断しないのか?」
「お疲れかどうかは気にします。でも、お好きな味までは分かりません」
「強すぎないものがいい」
「甘いものはお好きですか?」
「甘すぎなければ」
「それでしたら、冷やした水で割った果実酒はいかがでしょうか。果実の香りは残りますが、甘さは控えめです」
「果実酒を水で割るのか?」
「はい。すっきりと飲んでいただけます」
「では、それを頼む」
「かしこまりました」
リリアが卓を離れると、ファビオは店内を見回した。
受付台。
客席。
厨房へ続く通路。
黒服たちの動き。
「ファビオ」
レオナルドが呼ぶ。
「今日は客として来たことを忘れるな」
「規則は守っている」
「なら、まず酒を待て」
ラウロが横から笑う。
「そうだ。店を見るなら、酒を飲みながらでもできるだろう」
「あなたは、もう楽しむつもりなのか」
「そのために店へ来た」
ラウロは当然のように答えた。
やがて、ビールが運ばれてくる。
冷気をまとったグラスを見て、ラウロの目が僅かに見開かれた。
一口飲む。
最初は味を確かめるように静かだったが、すぐにもう一口飲んだ。
「これはいい」
低い声に、はっきりと満足がにじむ。
「苦味があるのに、重すぎない」
「お気に召していただけてよかったです」
「もう一杯頼みたいところだが、まずは料理を待とう」
ラウロは店の料金や経営を尋ねることもなく、ビールの泡を楽しそうに見つめていた。
続いて、ファビオの前へ果実酒が置かれる。
淡い色の酒が、透明なグラスの中で静かに揺れていた。
ファビオは香りを確かめるようにグラスへ顔を近づけ、それから一口飲む。
果実の甘い香りはある。
しかし、口の中に強い甘さは残らない。
冷やした水で割られているため、酒精も穏やかだった。
「いかがですか?」
リリアが尋ねる。
「思っていたより甘くない」
「果実酒だけでお出しすると、もう少し甘さが強くなります」
「水を入れれば、味が薄くなるだけだと思っていた」
「量を間違えると、そうなってしまいます」
ファビオはもう一口飲む。
「果実の香りは残っている」
「はい」
「悪くない」
「ありがとうございます」
リリアは、それ以上の感想を無理に求めなかった。
隣の卓では、セレナが三人の注文を受けていた。
ニコラは冷やした水で割った果実酒を選び、テオドーロはビールを希望した。
エンリコは、酒より先にセレナの所作を見ている。
「礼儀作法を学んだことがあるのか?」
「以前、学ぶ機会がございました」
「やはりそうか」
エンリコは納得したように頷いた。
「王宮の侍従にも、今ほど自然に動けない者がいる」
「ありがとうございます」
「どこで学んだ?」
セレナは僅かに間を置いた。
「過去については、私からお話ししたい時にお話しします」
「そうか」
エンリコは意外そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「では、今夜は酒の話をしよう。私には何が合うと思う?」
「強いお酒はお好きですか?」
「嫌いではないが、今夜は会話を楽しみたい」
「それでしたら、氷を入れた甘い果実酒はいかがでしょうか。氷が溶けるにつれて、味の変化も楽しんでいただけます」
「面白い。では、それにしよう」
セレナは穏やかに笑い、注文を伝えた。
ニコラは会話へ加わらず、店内へ視線を向けていた。
ガイルの声が少し大きく響く。
ガイル自身も気づいたのか、周囲を見て声を落とした。
「悪い。少し大きかったな」
「大丈夫ですよ。でも、今くらいの声でお願いしますね」
エルナが明るく言う。
「分かった」
「さっきも同じことを言っていたわよ」
サラが指摘する。
「まだ酔ってないぞ」
「酔う前から大きいのよ」
二人のやり取りに、エルナが笑った。
ニコラの口元も僅かに緩む。
「どうかなさいましたか?」
セレナが尋ねた。
「いや」
ニコラは果実酒へ手を伸ばした。
「警備の者が止める前に、客が自分で声を落としたのが珍しかった」
「あの方は、何度も来てくださっているお客様です」
「注意されても不満を言わないのだな」
「店で過ごす方は、皆様同じ決まりを守ってくださいます」
ニコラは一度頷くと、それ以上黒服の動きを追わなくなった。
酒を口へ含み、料理の皿へ視線を落とす。
テオドーロは、隣の卓に座っていた地方商人の会話を気にしていた。
商人が街道沿いの宿について話しているのを聞き、しばらく迷った後に声をかける。
「失礼。南へ続く街道の話でしょうか」
商人は驚いた様子でテオドーロを見る。
「そうですが」
「私は地方行政に関わる仕事をしています。最近、あの道を通った方の話を聞きたくて」
「王宮の方ですか?」
「今夜は一人の客です。差し支えなければ、教えていただけませんか」
商人はレオナルドへ視線を向けた後、テオドーロの席へ少し身体を寄せた。
「橋の近くにある宿なら、二月ほど前に使いました」
二人は街道と宿の話を始めた。
最初こそ仕事に関わる話だったが、やがて地方で食べた料理や、宿の主人が飼っていた大きな犬の話へ変わっていく。
テオドーロは笑いながら、商人の旅の失敗談を聞いていた。
エンリコもセレナとの会話を楽しんでいる。
王都と地方では、同じ礼儀でも受け取られ方が違う。
エンリコが王宮の慣習を話し、セレナが客として感じる距離について答える。
最初はセレナの所作ばかりを見ていたエンリコも、次第に自分の話へ夢中になっていった。
ラウロは肉料理を気に入り、ルークへ感想を伝えてほしいとリリアへ頼んでいる。
ニコラも酒を控えめにしながら、時折ガイルたちの冗談へ耳を傾けていた。
五人のうち四人は、いつの間にか店で過ごす時間そのものを楽しんでいた。
ファビオだけは違った。
果実酒を飲みながらも、視線は店内を行き来している。
リリアが卓を離れた時。
入口に新しい客が来た時。
厨房から料理が出た時。
誰がどこへ動くのか。
レンが何を言い、何を仲間へ任せるのか。
すべてを記憶しようとしているようだった。
「黒服の持ち場は決まっていないのか?」
近くを通ったレンへ、ファビオが尋ねた。
「必要な場所へ動いてもらっています」
「命令を待たずに?」
「必要なら」
レンはそれだけ答え、別の卓へ向かった。
ファビオは何かを聞き足そうとしたが、ラウロが先に声をかけた。
「ファビオ、料理を食べないのか?」
「食べている」
「ほとんど減っていないぞ」
「話を聞いていた」
「誰もお前に報告を頼んではいない」
「宰相府から来ている」
「私も同じだ」
ラウロはビールを一口飲む。
「だが、今は客だ」
ファビオは答えなかった。
レオナルドも何も言わず、二人のやり取りを見ている。
しばらくして、ファビオはようやく料理へ手を伸ばした。
一口食べ、ほんの僅かに目を細める。
「どうだ?」
ラウロが尋ねる。
「悪くない」
「素直に美味いと言えばいい」
「悪くないと言っている」
「文書官は面倒だな」
ラウロが笑う。
ファビオは不満そうに見えたが、もう一口料理を食べた。
営業の半ばを過ぎた頃、ファビオが席を立った。
「手を洗いたい」
「こちらです」
近くにいたロイが案内する。
戻る途中、ファビオは受付台の前で足を止めた。
閉じられた会員帳へ視線を落とす。
「今夜の私のことも、そこへ書くのか?」
「必要なことだけ記録します」
「何を?」
「お名前、紹介者、初来店であること、店内でのお呼び方です」
「会話は?」
「書きません」
「なぜだ?」
「本人確認には必要ありませんので」
ファビオは会員帳を見つめた。
「そうか」
帳面を見せるよう求めることもなく、席へ戻った。
その後もファビオは店内を観察し続けた。
だが、最初とは少しだけ違っていた。
ラウロから料理を勧められれば口にする。
リリアから酒の感想を尋ねられれば、短くても答える。
レオナルドが話した王都での出来事へ、時折言葉を返す。
完全に客として過ごしているわけではない。
それでも、観察だけに徹していた時より、卓の会話へ加わる時間が増えていた。
夜が更けるにつれ、五人の表情から来店時の硬さが消えていった。
ラウロは二杯目のビールを飲み終え、満足そうに息を吐く。
「王都へ持ち帰れないのが惜しいな」
「持ち帰り用の販売はしておりません」
リリアが答える。
「そうだろうな。なら、また飲みに来るしかない」
ラウロはレオナルドを見る。
「次も連れてきてくれるか?」
「私の予定が合えばな」
「文書官だけではなく、私の予定も聞いてくれ」
ラウロがファビオを見て笑った。
エンリコはセレナとの会話を終え、穏やかな表情をしている。
ニコラは料理を追加し、テオドーロは地方商人とすでに次の話題へ移っていた。
やがて、レオナルドが立ち上がった。
「そろそろ帰ろう」
「もうそんな時間か」
ラウロが名残惜しそうに空のグラスを見る。
「次は別の酒を試したい」
エンリコもセレナへ向き直る。
「今夜は有意義だった。次も君を希望してよいだろうか」
「ご希望は伺います」
セレナは微笑む。
「ただし、当日の予約と私の予定を確認してからになります」
「最後まで変わらないな」
「はい」
ニコラはガイルたちの卓へ一度視線を向けた。
ガイルが気づき、グラスを軽く掲げる。
ニコラも僅かに頭を下げた。
テオドーロは地方商人へ礼を述べ、また話を聞きたいと伝えている。
四人は、店を調べる役人ではなく、それぞれの時間を過ごした客として席を立った。
最後まで座っていたファビオが、ゆっくりと立ち上がる。
「まだ見ていないところがある」
「なら、もう一度来ればいい」
レオナルドが返した。
「次も、あなたの同行が必要なのだろう?」
「今の段階ではな」
「では、また頼む」
「先に私の都合を聞け」
レオナルドの返事に、ラウロが声を上げて笑った。
五人が出口へ向かう。
ラウロはレンへ、酒と料理が気に入ったと率直に伝えた。
エンリコはセレナへ軽く頭を下げる。
ニコラとテオドーロも、それぞれ店の者へ礼を告げて外へ出た。
最後に残ったファビオは、店内をもう一度見回した。
「今夜、正式会員になるかは決まるのか?」
「決めません」
レンが答えた。
「規則は守った」
「はい」
「なら、何が足りない?」
レンは僅かに考えた。
「また来たい理由が、まだ見えないからです」
ファビオの眉が動いた。
「理由が必要なのか?」
「一人で来られるようにするなら」
「調査に来たと思っている?」
「そう見えました」
レンは余計な言葉を足さなかった。
ファビオも怒らなかった。
「ほかの四人も、王宮から来た」
「でも、途中から客になっていました」
ファビオは扉の外にいる四人を見る。
ラウロはレオナルドへ、次に飲む酒について話している。
エンリコはセレナとの会話を思い返しているのか、穏やかな表情をしていた。
ニコラとテオドーロも、店内で起きたことを自分の言葉で話している。
「私は違ったと?」
「はい」
短い返事だった。
ファビオはしばらく黙っていた。
「次はどうすればいい?」
「普通に過ごしてください」
「それが分からない場合は?」
レンはすぐには答えなかった。
「来てから考えればいいんじゃないですか」
ファビオの目が僅かに見開かれる。
やがて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「分かった。また来る」
「私の予定を先に聞け」
レオナルドが外から声をかける。
「分かっている」
ファビオはレンへ軽く頭を下げた。
「今夜は世話になった」
「ありがとうございました」
扉が閉じる。
店内には、まだガイルたちを含めて数人の客が残っていた。
レンたちは王宮関係者の話を始めず、営業へ戻った。
空いた皿を下げる。
酒を運ぶ。
追加の注文を聞く。
「王宮の役人でも、酒を飲めば普通なんだな」
ガイルが言った。
「一人だけ、ずっと仕事の顔だったけどね」
エルナが答える。
「文書官の人か」
「よく見てたよね」
「俺の声が大きかったことも書かれるのか?」
「書かれたら、声を小さくする?」
「今でも気をつけてるぞ」
「本当に?」
サラに疑われ、ガイルは口を尖らせた。
◇
最後の客を見送った後、ロイが扉を施錠した。
ディーノとデュークが客席を片づけ、リリアたちは使用したグラスを集める。
ノアが手帳を持って、一卓へ腰を下ろした。
「大きな問題はありませんでした」
レンが言った。
「四人は、思っていたより楽しんでくださいましたね」
リリアが笑う。
「ラウロ様は、次に飲むお酒まで考えていました」
「テオドーロ様も、地方商人の方と楽しそうに話していらっしゃいました」
セレナが続けた。
「ファビオ様だけは、最後まで店を見ていました」
ロイが言う。
「正式会員にはしないんですよね?」
ミーナが尋ねた。
「ああ」
「仮会員にも、まだしない?」
「今日はしない」
レンは短く答えた。
「もう一度、来た時を見る」
「次も見に来ると思いますか?」
「来ると思う」
ノアは手帳へ記した。
王宮関係者五名が、レオナルドの紹介で来店。
規則違反なし。
ラウロ、エンリコ、ニコラ、テオドーロは、客として再来店の意思を示した。
ファビオについては、会員登録の判断を保留。
本人の考えを推測する言葉は、書き加えなかった。
◇
Club Moon Dropを出た五人は、レオナルドと別れ、用意されていた宿へ向かった。
ラウロはビールと肉料理について話し続けている。
「王都にも、あの酒を出す店があればいい」
「値段を聞き忘れたのではないか?」
エンリコが尋ねる。
「飲む前は気になっていたが、飲んだ後は忘れた」
「財務官補佐として、それでよいのか」
「今夜は客だった」
ラウロは笑った。
エンリコは、セレナとの会話を思い返している。
「身分や過去を尋ねるのが、礼儀だと思っていた」
「答えたくない者もいる」
ニコラが言う。
「分かっている。次は気をつける」
テオドーロは、地方商人から聞いた街道の話を手帳へ残していた。
ただし、商人の名前は書かない。
「それは報告するのか?」
ファビオが尋ねる。
「必要なら、街道を管理する者へ確認する」
テオドーロは答えた。
「今夜話した者の名まで書く必要はない」
ファビオは何も言わなかった。
宿へ着くと、自室へ入り、机の上へ紙を広げる。
宰相府へ報告すべきことは多い。
ファビオは受付で確認した事実から、順に書き始めた。
紹介者が同じでも、一人ずつ関係を確認する。
王宮関係者であっても、通常の客と同じ入口を使う。
黒服は一か所へ固定されず、必要な場所へ動く。
会員帳へ残すのは、本人確認に必要な内容だけ。
そこまで書いたところで、筆が止まった。
また来たい理由が、まだ見えない。
レンの言葉が頭に残っていた。
ほかの四人には、すでに理由がある。
ラウロはビールを飲みたい。
エンリコはセレナと話したい。
ニコラは、ガイルたちのような客が集まる空気を、もう一度確かめたいのかもしれない。
テオドーロは、地方から来た者と話したい。
では、自分は何を求めているのか。
正式会員になるまでの流れを調べたい。
黒服の動きを知りたい。
会員帳の仕組みを確かめたい。
どれも王宮文書官としての理由だった。
一人の客として何をしたいのかと尋ねられれば、答えは浮かばない。
ファビオは白い紙を見つめた。
冷やした水で割った果実酒の味。
ラウロに料理を勧められたこと。
リリアが好みを尋ねてきたこと。
レンが長い説明をせず、自分の問いへ短く答えたこと。
それらを思い出す。
報告書には必要のない記憶だった。
ファビオは再び筆を持つ。
報告書の最後へ、一文だけ書き加えた。
Club Moon Dropでは、五人の王宮関係者が、同じ立場の調査役として扱われることはなかった。
それぞれが、一人の客として迎えられた。
そこまで書いてから、ファビオは筆を置いた。
自分だけは最後まで客になれなかった。
その事実を、報告書へは書かなかった。
お読みいただきありがとうございます。
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よろしくお願いいたします。




