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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第五章 王家から届く視線

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第90話 王都が求める特別扱い

 昼営業を終えたClub Moon Dropには、夜営業へ向けた静かな慌ただしさが広がっていた。


 客のいなくなった店内では、ロイとディーノが四人掛けのテーブルを一卓ずつ確認している。


 椅子の位置。


 テーブルクロスの小さな皺。


 床に落ちた菓子の欠片。


 昼は問題にならなかった僅かなずれも、酒や料理の注文が重なる夜には、黒服やキャストの動きを妨げることがある。


「この卓を、少しだけ内側へ寄せよう」


 ロイが声をかけると、椅子のがたつきを確かめていたディーノが顔を上げた。


「入口から奥へ運ぶ時に狭いですか?」


「ああ。椅子を引かれると、料理を持ったまま通りにくくなる」


「分かりました」


 二人はテーブルの両端を持ち、位置を僅かに動かした。


 大きく変わったようには見えない。


 それでも椅子を引いた状態で確かめると、入口から奥の卓へ続く通路には少し余裕が生まれていた。


「厨房前も見てきます」


「頼む。床が濡れていたら、先に拭いておいてくれ」


「はい」


 ディーノが厨房へ向かう。


 ロイは移動させた卓の周囲を一度歩き、客が座った状態でも通れることを確認してから、空いたグラスをカウンターへ運んだ。


 厨房からは、包丁がまな板へ触れる一定の音が聞こえている。


 ルークが一人で、夜営業に使う食材の仕込みを進めていた。


 洗った野菜を並べ、皮をむき、大きさを揃えて切る。


 煮込みに使う肉の状態を確かめながら、菓子へ添える果物も選り分けていた。


 鍋の火加減を見た直後には、昼営業で使った器具を洗い、次の料理に使う皿を揃える。


 一つの作業を終えてから次へ進むのではなく、いくつもの仕事を同時に動かしている。


「ルーク、昼に使った器具なら俺も洗うよ」


 レンが厨房へ声をかけた。


「大丈夫です。もう終わりますから」


 ルークは手を止めずに答えた。


 声はいつもどおり穏やかだったが、昼営業を終えてから、ほとんど休まずに動き続けている。


 以前より料理や菓子の注文が増えたことで、厨房の仕事も確実に多くなっていた。


「無理はするなよ」


「分かっています」


 そう答えながらも、ルークは次の野菜へ手を伸ばした。


 今すぐ営業が回らなくなるほどではない。


 しかし、このまま昼と夜の客が増え続ければ、いずれ一人では追いつかなくなる。


 レンはそのことを頭の片隅へ置き、カウンターへ戻った。


 エルナが磨き終えたグラスを並べ、ミーナが夜営業で使う茶器を確認している。


 セレナは予約表へ目を通し、来店予定の客をどの席へ案内するのがよいか考えていた。


 リリアは受付台に置かれた登録帳を開き、予約客の名前と紹介者を確かめている。


 客席の端では、デュークが照明の向きを調整していた。


 一つの卓だけが明るくなりすぎず、客の表情が見えにくくもならない位置を探している。


 誰か一人が大きな声で指示を出しているわけではない。


 それぞれが自分の仕事を理解し、夜の客を迎えるために必要な準備を進めていた。


 レンも酒の本数を確認する。


 冷やした果実酒。


 ビール。


 香草を使った酒。


 甘味の強い酒。


 今夜予約を入れている客の好みを考え、表へ出しておく量を決める。


 必要になればアイテムボックスから追加できるが、営業中に不自然なほど酒を取り出すわけにはいかない。


 客から見える在庫と実際に提供する量を合わせておくことも、店を守るために必要だった。


「レン」


 ノアの声が聞こえた。


 顔を上げると、店の奥からノアが歩いてくるところだった。


 片手には記録用の手帳。


 もう一方の手には、一通の封書を持っている。


「どうした?」


「店の前に、これを届けに来た人がいました」


 ノアが差し出した封書には、見慣れない深い青色の封蝋が押されていた。


 中央には、剣と天秤を組み合わせた紋章が刻まれている。


 商会や、これまで店を訪れた貴族家の紋章とは違う。


 封筒に使われている紙にも厚みがあり、簡単な連絡ではないことが伝わってきた。


「誰が持ってきた?」


「王都から来た使者だと名乗っていました。返事は後日受け取りに来るそうです」


「王都から?」


 近くでグラスを並べていたエルナが反応した。


「王都って、国王様がいるところだよね?」


「ほかに王都はないだろ」


 デュークが照明から手を離し、落ち着いた声で答える。


「それは分かってるけど……どうしてこの店に手紙が届くの?」


 エルナの声から、普段の明るさが少し消えた。


 レンも同じ疑問を抱いていた。


 Club Moon Dropの噂が広がっていることは知っている。


 冒険者や商人だけではなく、レオナルドのような貴族も正式会員として店を利用している。


 王宮魔術師であるルチアーノも来店した。


 ルチアーノが王都へ戻った後、国王へ店のことを報告する可能性は考えていた。


 それでも、王都から正式な使者が訪れるほど早く話が動くとは思っていなかった。


「開けてもいい?」


 リリアが慎重に尋ねた。


「店宛てなら、確認しないわけにはいかないな」


 レンは封蝋をなるべく傷つけないよう、細い刃を差し込んだ。


 紙を破らないよう封を開け、中の書状を取り出す。


 最初に目へ入ったのは、送り主の名前だった。


 ヴィットリオ・フォン・モンテフェルト。


 王国宰相。


 レンは、以前ルチアーノから聞いた人物を思い出した。


 国王を補佐し、王国の行政や貴族間の調整を担う者。


 単なる高位貴族ではない。


 多くの役人や貴族、商会へ影響を及ぼせる立場にある。


 レンの表情から差出人の重さを感じ取ったのだろう。


 店内の動きが少しずつ止まった。


 ロイが客席から視線を向ける。


 ディーノも厨房前から戻り、手にしていた布を畳んだ。


 ルークは鍋の火を弱めてから顔を上げる。


「何が書いてあるんですか?」


 リリアが尋ねた。


「最初から確認する」


 レンは書状へ視線を戻した。


 文章は丁寧だった。


 Club Moon Dropの営業方法と、身分を問わず客を迎える姿勢について、王宮でも関心が高まっている。


 国王陛下も、異なる立場の者が同じ店で交流する仕組みに興味を持っている。


 王都から複数の関係者を派遣し、実際の営業を確認したい。


 そこまでは問題なかった。


 王宮関係者にも、この店がどのような場所なのか知ってもらえるなら悪いことではない。


 しかし、読み進めるほどにレンの眉間には皺が寄っていった。


「王宮の人たちが来るんだよね?」


 エルナが待ちきれずに尋ねる。


「ああ。ただ、普通の来店じゃない」


 レンは書状をテーブルへ置いた。


「王宮関係者が来店する日は、貸切営業にするよう求められている」


「貸切?」


 リリアが目を瞬かせた。


「その日の予約客はどうするんですか?」


「別の日へ移してもらうことになる」


「もう予約してくださっている方も?」


「書状の内容に従うなら、そうなる」


 リリアの表情が曇った。


 Club Moon Dropでは、客の予約を軽く扱わない。


 身分の高い客が後から来たからといって、先に予約した客を動かすことはしない。


 希望するキャストの予定が合わなければ別の日を案内する。


 満席なら、正式会員であっても入店を断る。


 相手の立場によって、先に交わした約束を変えないためだった。


「貸切そのものが駄目なんですか?」


 ディーノが尋ねた。


「最初から日程を相談して、その日にほかの予約を入れないならできる」


 レンは答えた。


「問題なのは、後から来た人のために、すでに約束している客へ日を変えてもらうことだ」


 リリアが小さく頷く。


 王宮関係者だから迎えたくないわけではない。


 貸切自体を拒んでいるわけでもない。


 権力を理由に、先に交わした約束を破ることが問題だった。


「ほかには?」


 ロイが尋ねた。


「席は身分順に用意するようにとある。王宮での地位、貴族の爵位、商人なら商会での立場を確認して、上の者ほど店の奥へ案内するらしい」


「本人が望む席より、身分を優先するということですか?」


「そういうことだと思う」


 Club Moon Dropには、貴族専用席も商人専用席もない。


 客の人数。


 担当キャスト。


 本人が望む過ごし方。


 その日の状態。


 それらを考えながら席を決めている。


 静かに一人で飲みたい客を、賑やかな団体の近くへ案内することはない。


 足を痛めている客なら、入口から遠すぎない席を用意する。


 周囲へ聞かれたくない話がある客なら、隣の卓との距離も考える。


 客の身分ではなく、その人が安心して過ごせるかどうかを基準にしていた。


 ヴィットリオが求める席順は、その考え方と正反対だった。


「担当キャストの事前指定もある」


 レンが続ける。


「王宮側で、誰をどの客につけるか決めるらしい。リリア、エルナ、セレナ、ミーナの経歴と、得意な接客を提出するよう書いてある」


「私たちの希望は?」


 ミーナが小さな声で尋ねた。


「書かれていない」


「客の希望は聞くのに、私たちの希望は聞かないんですか?」


「もちろん、みんなの意思を無視するつもりはない」


 レンは迷わず答えた。


 ミーナが顔を上げる。


「客が希望を伝えることはできる。でも、それだけで担当を決めるわけじゃない。本人が不安を感じているなら代える。体調が悪ければ休ませる。以前に問題があった相手なら、黒服を近くにつけるか、担当そのものを断る」


 客が誰と話したいのかは大切だ。


 静かに過ごしたいのか。


 明るく楽しみたいのか。


 以前話した相手と続きを話したいのか。


 そうした希望を聞くことも接客の一部である。


 しかし、客の希望を聞くことと、キャストの意思を無視することは同じではない。


「王宮側が経歴だけを見て割り振るなら、受け入れられない」


「はい」


 ミーナは、今度ははっきりと頷いた。


「まだある」


 レンは書状の最後へ視線を落とした。


「正式会員名簿の提出を求められている」


 ノアの表情が明確に変わった。


「全員ですか?」


「氏名、職業、身分、紹介者、利用頻度。王宮で事前確認を行うために必要だと書いてある」


「利用時の記録もですか?」


「そこまでは書かれていない。でも、名簿を渡せば、その先も求められるかもしれない」


 ノアは手帳を胸元へ抱えた。


 会員帳は受付で本人確認を行うため、ロイやディーノも使用する。


 最終的な責任はレンにある。


 その中でも、何を記録し、どこまで残すのかを最も慎重に考えてきたのはノアだった。


「提出しない方がいいと思います」


 普段、自分から強く意見を言うことの少ないノアが、迷わず告げた。


「理由を聞かせてくれる?」


「正式会員の方は、王宮へ名前を知られるために登録したわけではありません」


 ノアは書状を見つめる。


「本人確認と店内の安全に必要だから、情報を預けてくださっています。本人へ確認せず、別の場所へ渡すのは違うと思います」


「俺も同じ意見です」


 ロイが静かに続けた。


「会員帳は、客を監視するためのものじゃない。本人確認と、店の安全を守るためのものです」


「紹介者まで渡せば、その人が誰とつながっているのかも分かってしまいます」


 ノアが続ける。


「利用頻度があれば、誰が何度この店へ来ているのかも分かります」


 単なる名前の一覧ではない。


 氏名。


 職業。


 身分。


 紹介者。


 利用頻度。


 それらを組み合わせれば、Club Moon Dropへ集まる人間関係の一部が見えてしまう。


 誰と誰が親しいのか。


 どの商人が、どの貴族から紹介されたのか。


 どの冒険者が、どの店主と交流を持っているのか。


 王宮関係者の来店を確認するだけなら、そこまでの情報は必要ない。


「でも、相手は宰相なんだよね?」


 エルナが不安そうに言った。


「断っても大丈夫なのかな」


 誰もすぐには答えなかった。


 相手は、無理な要求をする一人の客ではない。


 王国の宰相だ。


 拒否したことで、酒の流通へ圧力をかけられるかもしれない。


 商業ギルドや衛兵、税や建物の検査を通して、店へ不利益を与える可能性もある。


 前世の店であれば、理不尽な要求をする客には店長や経営者が対応した。


 必要なら警察へ通報することもできた。


 しかし、この世界で王国の中枢にいる人物と対立することの意味を、レンは完全には理解していない。


 法律。


 貴族の権限。


 王宮から商会への影響力。


 知らないことが多すぎる。


 だからといって、恐れて何も考えず従えばよいわけでもなかった。


「レオナルドさんに相談しよう」


 レンは書状を丁寧に畳んだ。


「この要求を断った場合、どこまで問題になるのか。俺たちだけでは判断できない」


「今から連絡を?」


 ディーノが尋ねる。


「今夜は予約を入れてくれている。もう西通りの近くまで来ているかもしれない」


「僕が探してきます」


 ロイがすぐに申し出た。


「頼む。見つからなければ使いを出してくれ。間に合わなければ営業後でもいい」


「分かりました」


 ロイは頷くと、店を出た。


 残された者たちは、それぞれの準備へ戻ろうとした。


 だが、先ほどまでと同じようには動けなかった。


 リリアはグラスを確認しながらも、何度か書状へ視線を向けている。


 エルナは布を持ったまま、同じ場所を繰り返し拭いていた。


 ミーナも茶器を並べながら考え込んでいる。


「みんな」


 レンが声をかけた。


 全員が手を止める。


「まだ何も決まっていない。王宮関係者が来ること自体を断るつもりもない」


 レンは一人ずつ顔を見る。


「この店の規則に従ってくれるなら、誰でも客として迎える。国王でも、宰相でも、それは変わらない」


「本当に国王様が来たら、レンは普通に話せるの?」


 エルナが尋ねた。


「分からない。たぶん緊張する」


「するんだ」


「するに決まってるだろ」


 レンが答えると、エルナは僅かに笑った。


 重くなっていた店内の空気が、ほんの少しだけ緩む。


「でも、緊張することと、規則を変えることは別だ」


 レンは続けた。


「偉い人だから断れない。金を多く払うから何をしても許される。そういう店にはしないと、最初から決めている」


 前世で、レンはその反対の店を知っていた。


 高額な酒を注文する客だから、多少の迷惑行為は見逃す。


 売上を作るキャストだから、体調が悪くても働かせる。


 店の利益を理由に、人の身体や意思を後回しにする。


 レン自身も、その中で酒を強要され、命を落とした。


 同じことを、この世界で繰り返すつもりはない。


「席も、爵位ではなく、その方がどのように過ごしたいかで決めるべきだと思います」


 リリアが言った。


「王宮の方へも失礼のないように接します。でも、先に予約してくださった方を後回しにはしたくありません」


「担当も、本人の意思を確認するべきです」


 セレナが落ち着いた声で続けた。


「王宮の方を接客すること自体を拒むつもりはありません。ただ、経歴だけを見て誰を担当するか決められるのは……過去の家にいた頃を思い出します」


 セレナは元貴族だった。


 令嬢だった頃は、本人の気持ちより、家名や立場によって多くのことを決められていた。


 誰と会うか。


 どの席へ座るか。


 どのように笑うか。


 家の利益になる相手へ、どのような言葉を使うか。


 現在のセレナは、自分の意思でClub Moon Dropに立っている。


 誰かの都合だけで担当を決められる仕組みへ戻すわけにはいかない。


「俺も規則は守るべきだと思います」


 ディーノが言った。


「でも、断ったことで店が閉めさせられたら、客も仲間も守れません」


 真っ直ぐな指摘だった。


 理念だけでは、店を守れない。


 無謀に逆らい、営業できなくなれば意味がない。


 だからこそ、相手の権限と王国の仕組みを知る必要がある。


「その通りだ」


 レンは認めた。


「要求を受けないとしても、相手を侮辱する必要はない。喧嘩を売るんじゃなく、この店の規則を説明する」


「今の内容のまま受け入れることはしない?」


 エルナが確認する。


「しない」


 レンは、はっきり答えた。


 しばらくして、店の扉が開いた。


 先に入ってきたのはロイだった。


 その後ろに、レオナルドが立っている。


 今夜の予約のため、すでに西通りまで来ていたらしい。


 普段どおり落ち着いた服装をしているが、ロイから事情を聞いたのだろう。


 表情には僅かな緊張があった。


「急ぎの相談だと聞いた」


「ありがとうございます。営業前にすみません」


「王都から書状が届いたのなら、放置する方が危険だ。見せてもらってもいいか?」


 レンは封書を渡した。


 レオナルドは差出人の名を確認した瞬間、目を細めた。


 そのまま黙って最後まで読み進める。


 店内の者たちは、彼の反応を待った。


「これは命令ですか?」


 レンが尋ねる。


「形式上は要請だ」


「断れる?」


「文章だけを見れば断ることはできる」


 レオナルドは書状をテーブルへ戻した。


「だが、相手はヴィットリオ・フォン・モンテフェルト。王国の宰相だ。断り方を誤れば、王宮へ非協力的な店だと受け取られる可能性がある」


「営業を止められることも?」


「宰相が一言命じただけで、すぐに店を閉じられるわけではない。Club Moon Dropは正式な契約を結び、必要な許可も得ている」


 レオナルドは一度言葉を切った。


「しかし、酒の流通、商業ギルド、衛兵、税、建物の検査。宰相の影響が及ぶ場所はいくらでもある」


 エルナが息を飲む。


 レオナルドは不安を煽るために言っているのではない。


 実際に起こり得ることを、事実として伝えていた。


「要求を全部受け入れれば、問題は起きない?」


 レンが尋ねる。


「少なくとも、宰相府との正面からの衝突は避けられる」


「それを勧めますか?」


 レオナルドはすぐには答えなかった。


 四卓しかない客席。


 受付台の登録帳。


 一人で仕込みを続けるルーク。


 リリアたち女性キャスト。


 ロイ、ディーノ、デューク。


 会員情報を管理するノア。


 そして、店主であるレン。


 それらを順に見回してから、レオナルドは口を開いた。


「貴族としての私なら、要求の一部を受け入れ、残りを交渉するよう勧める」


 レオナルドが言った。


「だが、Club Moon Dropの正式会員としては、会員名簿を本人の許可なく提出してほしくない」


「私も名簿に入っているのだろう?」


「はい」


「王宮は、私がこの店を利用していることをすでに知っているかもしれない。だが、店が私の許可なく情報を渡したとなれば、話は別だ」


 レオナルドは穏やかな口調のまま続けた。


「紹介制度と会員制度は、この店が客へ約束した信用の上に成り立っている。その信用を宰相の要求一つで破れば、今後、誰が安心して登録できる?」


 ノアが小さく頷いた。


「貸切も、事前に日程を相談し、その日の予約を最初から受けない形なら問題ない」


「席順は?」


「王宮関係者が同じ一団の中で席順を望むなら、相談する余地はある。ただし、すでに座っている客を、地位が低いという理由で移動させるべきではない」


「担当キャストの指定は?」


「希望を伝えること自体は問題ない。しかし、本人の意思を無視して宰相府が決める必要はない」


 レオナルドは書状を指先で軽く押さえた。


「要求を全面的に拒絶するのではなく、Club Moon Dropの規則に沿う形なら迎えられると返答すればいい」


「それなら、王宮への協力を拒んだことにはならない?」


「王宮関係者の来店そのものは受け入れている。協力を拒んでいるわけではない」


 レオナルドはレンを真っ直ぐ見た。


「ただし、ヴィットリオが快く受け入れる保証はない」


「どのような方なのですか?」


 リリアが尋ねる。


「無能ではない。むしろ非常に有能だ」


 レオナルドの声が少し重くなる。


「王都の役人、貴族、商会、各地の領主。その関係を把握し、誰が何を望み、何を恐れているかを理解している」


「レンみたいだね」


 エルナが呟いた。


「似ている部分はあるかもしれない」


 レオナルドは否定しなかった。


「ただし、レンは相手が何を望むかを考え、その人に合う時間を提供しようとする。ヴィットリオは相手の望みや恐れを知り、管理するために使う」


 同じ観察でも、目的が違う。


 相手を理解するためか。


 相手を支配するためか。


「この店を危険だと考えているんですか?」


 レンが尋ねた。


「可能性はある」


 レオナルドは答えた。


「貴族、商人、冒険者が同じ場所へ集まる。身分に関係なく会話をする。しかも、店はその内容を王宮へ報告しない」


「この店では普通だけど」


 エルナが言った。


「この店では、な」


 レオナルドは静かに返した。


「だが、王都では社交の場そのものが、情報の集まる場所でもある。誰が誰と会ったか。何を話したか。どの家とどの商会が近づいているか。それを把握する者は、大きな力を持つ」


 レンは、書状の意図を改めて考えた。


 王宮関係者を迎えるだけなら、正式会員名簿までは必要ない。


 会員名簿を得れば、Club Moon Dropへ出入りする者が分かる。


 紹介者を知れば、人間関係も見える。


 利用頻度を知れば、誰がこの店を重要な場所としているかも推測できる。


 貸切営業や席順、担当キャストの指定だけではない。


 この書状には、Club Moon Dropを王宮側が管理しやすい形へ変えようとする意図が含まれている。


「返事は、俺が書きます」


 レンが言った。


「内容は?」


「王宮関係者の来店は歓迎する」


 全員の視線が集まる。


「貸切を希望するなら、すでに予約の入っている日を避け、事前に日程を相談してもらう。席は身分ではなく、その日の人数や希望に合わせて案内する。担当キャストは客の希望を聞いた上で、本人の意思と店内の状況を確認して決める」


 レンはノアを見る。


「正式会員名簿は提出しない」


「はい」


 ノアの返事には迷いがなかった。


「必要なら、来店する王宮関係者の本人確認方法については相談する。でも、関係のない会員の情報は渡さない」


「言葉は慎重に選んだ方がいい」


 レオナルドが助言する。


「相手の要求を否定する言い方ではなく、この店ではすべての客へ同じ規則を適用していると説明するんだ」


「王宮の方だけを拒否するのではないと伝えるんですね」


 リリアが言った。


「そうだ。王宮関係者も、一人の客として丁重に迎える。そのために、店の規則を守ってもらう」


 レンは紙と筆記具を用意した。


 書き始める前に、必要な内容を頭の中で整理する。


 宰相からの書状への礼。


 国王がClub Moon Dropへ関心を持ってくれたことへの感謝。


 王宮関係者の来店を歓迎する意思。


 貸切営業については、既存客の予約を守るため、事前の日程調整が必要であること。


 席は、身分ではなく人数と利用目的に応じて決めること。


 担当キャストは、客の希望と本人の意思、当日の体制を確認して決定すること。


 正式会員名簿は、会員から安全管理のために預かった情報であり、本人の許可なく第三者へ提出できないこと。


 拒絶だけの文章にはしない。


 王宮側が通常の紹介制度へ従うなら、レオナルドやルチアーノを紹介者として迎えることができる。


 初来店時の規則説明も、ほかの客と同じように行う。


 王宮関係者だから無礼に扱うつもりはない。


 必要な敬意は払う。


 ただし、その敬意と、すでに交わした約束を破ることは別だった。


 レンは一文ずつ書き進めた。


 レオナルドは途中で口を挟まず、文章が完成するまで待っている。


 ノアは少し離れた場所で、返書の写しを残すための紙を用意した。


 書き終えた頃には、夜営業の開始時刻が近づいていた。


 レオナルドが返書を読み、表現をいくつか修正する。


 強すぎる否定を、店の方針を説明する言葉へ変える。


 貸切を拒否するのではなく、日程の再調整を求める。


 席順を否定するのではなく、すべての客が安心できる配置を店側で判断すると伝える。


「これなら、王宮への敬意を欠いてはいない」


 レオナルドが返書をレンへ戻した。


「この返事で、ヴィットリオ様は怒らないでしょうか」


 リリアが心配そうに尋ねる。


「快くは思わないだろう」


 レオナルドは正直に答えた。


「だが、感情だけで動く人物でもない。まずは、この店がどこまで規則を守るのか確かめようとするはずだ」


「誰かを送り込んでくる?」


 エルナが尋ねた。


「おそらく」


 受付や会員制度を試す者が来る可能性は十分にある。


 正式な客として来店し、どのような確認をされるのか調べる者。


 王宮や貴族の名を出し、例外を認めるか試す者。


 会員の情報を聞き出そうとする者。


 どのような形で来ても、入口で判断を誤れば、そのまま店の中へ通すことになる。


「ロイ、ディーノ、デューク」


 三人がレンへ視線を向ける。


「これから王宮関係者や、その名前を使う客が来ても、規則は変えない」


 三人が頷いた。


「判断に迷ったら、無理に通さず俺を呼んでくれ。ただし、相手を威圧する必要はない。まず丁寧に説明する。それでも納得しない場合は入店を断る」


「分かりました」


 ロイが答える。


「相手がどれだけ高い身分でも、確認することは変えないんですね」


 ディーノが続けた。


「ああ。ただし、規則を守ることと、横柄に振る舞うことは違う」


「承知しました」


 デュークも静かに頷いた。


「リリアたちも、担当を強要されたら断っていい」


「はい」


 リリアの返事に、エルナ、セレナ、ミーナも続く。


「ノアは会員帳の保管方法をもう一度確認してくれ。誰が、どの時に閲覧できるかも明確にしたい」


「今夜の営業後にまとめます」


「ルークは、いつもどおりでいい。王宮関係者が来ても、ほかの客の注文を止めてまで料理を優先する必要はない」


「できる範囲の希望には応えます。でも、先に入った注文を飛ばすことはしません」


 厨房からルークが答えた。


「それでいい」


 レンは返書を封筒へ入れた。


 使者が再び訪れるのは明日か、それとも数日後か。


 この返事が王都へ届けば、何かが動き始める。


 ヴィットリオがどのような方法を使うのか。


 国王が本当に店の考えを理解してくれるのか。


 王宮との関わりによって、これまでの客へ迷惑がかからないか。


 分からないことばかりだった。


 それでも、権力を恐れて会員との約束を破れば、Club Moon Dropが積み重ねてきた信用は失われる。


 一度の例外は、次の例外を生む。


 今回だけ。


 王宮だから。


 国のためだから。


 そうした理由を重ねれば、いずれ規則は形だけになる。


 レンが守りたいのは、決まりの文章そのものではない。


 客が安心して言葉を交わせること。


 働く者が、自分の意思を持ったまま接客できること。


 黒服が、相手の身分や支払額に関係なく店の安全を守れること。


 そのために作った規則だった。


「そろそろ開店時間です」


 ロイの声が響いた。


 全員がそれぞれの持ち場へ向かう。


 リリアたちは最後に身だしなみを確認する。


 ルークは厨房へ戻り、夜営業最初の注文へ備える。


 ノアは書状と返書の写しを、鍵のかかる記録箱へ収めた。


 レオナルドも、今夜は客として予約を入れていたため、店の外へ一度出る。


 相談相手として店内へ入ったまま営業を迎えるのではなく、正式な会員として入口から入り直すためだった。


 レンは入口近くへ移動した。


 いつもと同じ扉。


 いつもと同じ四卓の客席。


 いつもと同じ仲間たち。


 だが、これまで遠くにあった王都の権力が、確かにこの店へ目を向け始めている。


 やがて扉の向こうから、最初の客の足音が聞こえた。


 ロイが入口へ向かう。


 ディーノが客席の状況を確認する。


 デュークが厨房までの通路から僅かに下がり、店内全体へ視線を向ける。


 リリアが柔らかな笑顔を浮かべた。


 レンは封をした返書を一度だけ見た後、目の前の扉へ視線を戻す。


 王宮関係者であっても。


 大商人であっても。


 冒険者であっても。


 この扉を通る者は、一人の客として迎える。


 敬意は払う。


 希望にも、できる限り応える。


 だが、誰か一人のために、先に交わした約束や、働く仲間の意思を捨てることはしない。


 その決意だけは、誰から書状が届いても変えるつもりはなかった。

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