第88話 泡の一杯と厨房の主
村との契約を終えてから数日後。
バルドの酒商会から、最初の炭酸水がClub Moon Dropへ届けられた。
昼営業が始まる前、店の裏口へ一台の荷車が止まる。
荷台には、厚い布をかけられた木箱が固定されていた。
酒瓶を運ぶ時よりも荷車の進み方は慎重で、店の前へ到着した後も、酒商会の者たちはすぐに箱を持ち上げようとはしなかった。
荷台へ上がった一人が、固定していた紐を順番に外していく。
「思っていたより厳重ですね」
荷物を受け取りに出たノアが言った。
「普通の瓶とは違うからな」
酒商会の者が答える。
「瓶が割れなくても、栓が緩めば中の泡が抜ける。バルド会長から、急いで運ぶより静かに運べと言われている」
ディーノが木箱の片側へ手をかけ、酒商会の者が反対側を支えた。
「大きく傾けない方がいいのか?」
ディーノが尋ねる。
「多少なら問題ない。ただ、できるだけ揺らさないでくれ」
「分かった」
二人は歩幅を合わせ、木箱をゆっくりと店内へ運んだ。
ロイは受け取った本数を確認し、酒商会から渡された受取書と照らし合わせる。
普段は来客確認や会員帳、ボトル管理に比重を置いているが、納品物の確認も黒服としての仕事だった。
「十二本で間違いありません」
ロイが言った。
「瓶と栓に異常がないか、中へ入れてから確認します」
「ひびや栓の緩みがあれば、開けずに酒商会へ戻してくれ」
「承知しました」
酒商会の者を見送った後、木箱は酒台の近くへ置かれた。
蓋を外すと、仕切りの中へ厚手で丸みを帯びた瓶が一本ずつ収められている。
瓶の間には布と藁が詰められ、荷車の揺れが直接伝わらないように工夫されていた。
瓶口の栓は、金具と針金で固定されている。
レンは一本ずつ持ち上げ、光へかざした。
ひびはない。
金具も外れていない。
針金にも緩みは見られなかった。
「これが、泡の入った水ですか?」
ミーナが少し離れた場所から瓶を見つめる。
「はい」
「瓶の中は、普通の水に見えます」
「開けるまでは、ほとんど違いが分からないと思います」
セレナも瓶へ目を向けた。
「振ってはいけないのですよね」
「できるだけ静かに扱ってください。強く揺らした後に開けると、中の水が急にあふれる可能性があります」
「酒の瓶とは違う注意が必要だな」
ディーノが言った。
「運ぶ時は、重さより揺らさないことを優先した方がよさそうだ」
「お願いします」
厨房から出てきたルークが、箱の中をのぞき込む。
「本当に街まで泡を残せたのか?」
「今から確かめます」
レンは一本を手に取った。
「ただし、すぐ酒へ合わせる前に、水だけの状態を確認します」
「俺も味を見ていいか?」
「もちろんです」
レンはルークとノアを連れ、瓶を厨房へ運んだ。
ほかの者たちも気になっている様子だったが、まずは開け方や保管方法を決めなければならない。
扱い方が分かった後で、ロイやディーノたちへ説明する予定だった。
厨房の奥には、井戸水を張った深い容器が置かれていた。
朝早く汲み上げた水は冷たく、その中へ炭酸水の瓶と試飲に使う杯を入れて冷やしてある。
特別な冷却魔法を使っているわけではない。
日差しの入らない場所へ置いた冷たい井戸水を使い、飲む前に少し温度を下げただけだった。
レンは冷やしておいた瓶を取り出し、調理台の上へ置く。
針金を外し、栓を押さえている金具をゆっくりと持ち上げた。
栓が僅かに動いた瞬間。
小さく乾いた音が鳴った。
ルークが目を見開く。
「今のは何だ?」
「中に閉じ込められていた泡が、外へ出ようとした音です」
レンが栓を慎重に外すと、瓶口の内側へ細かな泡が浮かび上がった。
冷たい井戸水で冷やしておいた杯へ、瓶を傾けて静かに注ぐ。
透明な水の中を、無数の小さな泡が立ち上っていく。
「これが、話に聞いていた泉の泡なのですね」
ノアが言った。
ノアは泉へ同行していない。
だが、レンとバルドから、底から細かな泡が湧き上がる泉や、輸送方法を改良した経緯について聞いていた。
「はい。泉で飲んだ時より僅かに弱くなっていますが、十分に残っています」
レンは水を一口含んだ。
細かな刺激が舌へ触れる。
僅かな酸味があり、飲み込んだ後には、普通の水より口の中が軽くなるような感覚が残った。
ルークにも杯を渡す。
「変わった水だな」
ルークは口の中で確かめるようにゆっくり飲んだ。
「味は強くない。でも、舌へ細かく当たる感じがある」
「これを酒へ合わせます」
「酒が薄くなりすぎないか?」
「割合を調整します」
「最初から決まっているわけじゃないのか」
「使う酒や料理によって、合う割合は変わると思います」
レンは別の杯へウイスキーを少量注いだ。
そこへ、冷たい炭酸水を杯の内側へ沿わせるように静かに加える。
勢いよく注げば泡が大きく立ち、せっかく瓶へ閉じ込めて運んだものが抜けやすくなる。
琥珀色の酒の中から、細かな泡が次々に上がった。
レンは香りを確かめる。
ウイスキーの木の香りは残っている。
水割りよりも軽い印象だが、酒そのものが消えたわけではない。
一口飲むと、最初に泡の刺激が広がり、その後から穀物の甘さと木の香りが続いた。
「どうだ?」
ルークが尋ねる。
「悪くありません。ただ、料理と合わせるには、もう少し炭酸水を増やしてもよいかもしれません」
「薄くするのか?」
「酒だけを味わうなら、今の割合でもよいと思います。ですが、鶏皮とバターの後に飲むなら、もう少し軽さが必要です」
レンは別の杯を用意した。
一杯目よりウイスキーを僅かに減らし、炭酸水を多くする。
今度は泡の軽い刺激が先に広がり、その後にウイスキーの香りが穏やかに残った。
「こちらの方が、料理と一緒には合うと思います」
「鶏肉を焼く」
ルークはすぐに火の前へ戻った。
「実際に合わせないと分からない」
◇
ルークは鶏もも肉を皮目から焼いた。
余分な脂を落としながら香ばしい焼き色を付け、肉を食べやすい大きさへ切る。
控えめな香草と、レモンの酸味を加えたバターソースをかけた。
試食用の小さな皿へ盛り、レンの前へ置く。
「いつもの味ですか?」
「ああ。炭酸水に合わせて変えてはいない」
レンは鶏肉を一切れ口へ運んだ。
香ばしい皮と柔らかな肉。
バターのコクと、僅かなレモンの酸味。
飲み込んだ後、先ほど作ったウイスキーの炭酸割りを飲む。
泡の刺激が舌へ広がった。
料理の味を消すのではない。
口の中へ残っていたバターと鶏皮の重さだけが和らぎ、その後にウイスキーの木の香りと穀物の甘さが残る。
間を置かず、もう一切れ食べられた。
「どうだ?」
ルークが尋ねる。
「合います」
レンはもう一度、鶏肉と酒を交互に味わった。
「料理の香ばしさは残っています。ロックよりも、次の一口へ進みやすいです」
「水割りとは違うのか?」
「水割りより、口の中が早く整います。ウイスキーの香りも残っています」
ルークも小さな杯を受け取った。
鶏肉を食べ、その後に炭酸割りを飲む。
「確かに、さっきまで残っていたバターが軽くなるな」
「料理の味は弱く感じますか?」
「いや。飲んだ後でも、鶏の味は残ってる」
ルークはもう一切れ食べた。
「料理を変えなくても、食べやすさが変わるのか」
「はい」
「酒が料理を弱くするわけでもない」
「料理と酒の間を整える飲み方です」
ルークは炭酸水の瓶へ目を向けた。
「これなら、ガイルも気に入るかもしれないな」
「今夜、試験提供します」
「名前はどうする?」
レンは、元の世界で使われていた呼び名を思い出した。
「ハイボールと呼ぶことにします」
「ハイボール?」
「ウイスキーを炭酸水で割った飲み方の名前です」
「この街の客には分からないな」
「はい。最初は、ウイスキーを泡の入った水で割ったものだと説明します」
ノアはレンとルークの会話を記録していた。
「炭酸水一本から、何杯分を作れますか?」
「まだ正確には決めていません」
レンが答える。
「開けた後は泡が少しずつ抜けるので、その日のうちに使い切ります。残量と開封した時間を記録してください」
「分かりました」
「未開封の瓶は、日光の当たらない涼しい場所へ保管します」
「ボトルキープ用の棚とは分けますか?」
「はい。炭酸水用の場所を決めましょう」
ノアは記録帳へ書き加えた。
「ロイさんにも、客へ説明できるよう伝えます」
「お願いします。受付やボトル確認の時に、客から尋ねられるかもしれません」
「店内での扱いは、ディーノさんにも共有します」
炭酸水は酒ではない。
だが、Club Moon Dropの新しい一杯を作るために必要な材料だった。
◇
その日の夜。
ガイル、サラ、ボルドがいつもの卓へ着くと、ロイが会員証と預けられているボトルを確認した。
「ガイル様のウイスキー、ボルド様の芋焼酎は、どちらも残量に問題ありません」
「いつものを頼む」
ガイルが言った。
「ロックでしょうか」
「ああ」
ロイは一度レンへ目を向ける。
新しい飲み方を試す候補として、ガイルたちの名前は事前に共有されていた。
ただし、本人の希望を無視して出すことはない。
「本日は、ウイスキーの新しい飲み方もございます」
「新しい飲み方?」
「泡の入った水で割るものです。詳しい内容はレンからご説明いたします」
ロイは注文を勝手に変えず、レンへ引き継いだ。
その後、別の客が入店したため入口へ戻る。
来客確認が落ち着くと、店内へ入り、空いた杯を下げながらディーノの配膳を補助した。
レンはガイルたちの卓へ近づく。
「以前、鶏料理とウイスキーを合わせた時、少し重さが残るとおっしゃっていました」
「ああ」
「料理の味を変えず、次の一口へ進みやすくする飲み方を試しました」
「それが、泡の入った水か?」
「はい」
「ロックより薄いのか?」
「酒だけを比べれば軽くなります。ただ、ウイスキーの香りは残るように調整しています」
「水割りとは違うの?」
サラが尋ねた。
「泡の刺激があります。料理の後味を軽くしやすいと思います」
ガイルは少し考えた。
「なら、それを一杯くれ」
「承知しました」
「俺の芋焼酎でもできるのか?」
ボルドが尋ねる。
「はい。芋焼酎の炭酸割りも用意できます」
「どの料理に合う?」
「イワナの燻製と大豆のアクアパッツァへ合わせる予定です」
「なら、俺はそっちを試す」
サラも興味を示した。
「私はガイルのを少し飲ませてもらおうかな」
「自分で頼め」
「気に入ってから頼むよ」
「俺の酒なんだが」
「一口くらいいいでしょ」
いつものやり取りに、レンは僅かに笑った。
注文を厨房へ伝える。
ルークは鶏もも肉の香草焼きと、イワナの燻製と大豆のアクアパッツァを準備する。
ディーノは焼き上がる時間を確認し、先に仕上がった鶏料理を卓へ運んだ。
レンは酒台でハイボールを作った。
冷たい井戸水であらかじめ冷やした杯へウイスキーを注ぎ、炭酸水を静かに加える。
泡を逃がしすぎないよう、大きく混ぜない。
次に、ボルドの芋焼酎の炭酸割りを作る。
無色透明に近い芋焼酎へ炭酸水を加えると、杯の底から細かな泡が立ち上った。
僅かな酸味が加わっても、芋由来の穏やかな甘い香りは残っている。
ディーノが料理を運び、レンが酒を置いた。
「こちらがハイボールです」
ガイルは杯を持ち上げ、泡を眺める。
「見た目は水割りに近いな」
「飲んだ時に違いが分かると思います」
ガイルはまず、酒だけを一口飲んだ。
泡の刺激に、目が僅かに見開かれる。
「変わった感じだな」
「飲みにくいですか?」
「いや。ロックより軽いが、水割りよりウイスキーの香りが広がる気がする」
泡とともに香りが口の中へ広がり、水割りよりはっきり感じられたのだろう。
「鶏料理と合わせてみてください」
ガイルは鶏肉を一切れ食べた。
いつもの香ばしさと柔らかさを確かめた後、ハイボールを飲む。
泡が口の中へ広がる。
鶏皮とバターの余韻が軽くなり、その後にウイスキーの香りが残った。
ガイルはすぐに次の鶏肉へ手を伸ばす。
「どう?」
サラが尋ねた。
ガイルは二切れ目を食べてから答えた。
「酒が料理を消すんじゃない。次の一口を食べやすくするのか」
「そんなに違う?」
「飲んでみろ」
ガイルは杯をサラへ渡した。
サラも鶏肉を一切れ食べ、続けてハイボールを飲む。
「水割りより軽い」
もう一度、香りを確かめる。
「でも、ウイスキーの香りは残ってるね」
「だろ」
「これなら、料理の後にすぐ飲めるし、飲んだ後にまた食べられる」
サラはレンを見る。
「私も一杯お願い」
「承知しました」
ガイルが呆れたように言う。
「最初から頼めばよかっただろ」
「飲んでから決めたかったの」
一方、ボルドの前には、イワナの燻製と大豆のアクアパッツァが置かれていた。
深さのある器から、魚と大豆の香りが立ち上る。
燻製の香りは強すぎず、煮汁へ魚の旨みが移っていた。
ボルドはイワナの身と大豆を一緒にすくって食べた。
続けて、芋焼酎の炭酸割りを飲む。
「こっちはどうですか?」
レンが尋ねた。
「芋焼酎の甘い香りは残っている」
ボルドはもう一度杯へ口を付けた。
「水割りより後味が軽い。燻製の香りも消えていない」
「煮汁とは合いますか?」
ボルドは器から煮汁をすくい、芋焼酎の炭酸割りと交互に味わった。
「合う。魚の余韻が残った後でも、次に大豆を食べやすい」
ルークは厨房の入口近くから、その反応を見ていた。
料理そのものは変えていない。
イワナの塩気も、燻製の香りも、煮汁の濃さもこれまでと同じだ。
変わったのは、合わせる酒の飲み方だけだった。
それでも、客が料理へ手を伸ばす間隔が短くなっている。
ルークは自分の料理を軽くしなくても、飲み物との組み合わせで食べやすさを変えられることを、目の前で確かめた。
「レン」
営業が少し落ち着いた時、ルークが声をかける。
「はい」
「酒と料理は、どちらかが相手へ合わせて弱くならなくてもいいんだな」
「はい。互いのよさを残したまま、組み合わせ方を変えることもできます」
「なら、料理を増やす時は、合う酒の飲み方も考えた方がいい」
「その方がよいと思います」
「分かった」
ルークは厨房へ戻った。
料理を作る時、酒を邪魔しないことだけを考えていた頃とは違う。
これからは、どの酒と合わせれば料理を最後までおいしく食べてもらえるかも考えられる。
ハイボールと芋焼酎の炭酸割りは、新しい酒を目立たせるためのものではなかった。
ルークの料理を、さらにおいしく食べてもらうための一杯だった。
◇
炭酸割りの試験提供が好評だった翌日。
レンは営業前の厨房で、ルークへ話を切り出した。
「今後の料理について、相談があります」
「新しい料理か?」
「それもありますが、もっと大きな変更です」
ルークは仕込みの手を止めた。
調理台には、Club Moon Dropで使う食材と、金獅子亭から届いた完成料理の容器が並んでいる。
今も、すべての料理をルークが最初から作っているわけではない。
ルークの料理は増えたが、まだ自分で用意していない料理については、金獅子亭から仕入れた完成料理を温め直し、盛り付けて提供していた。
「金獅子亭から仕入れている完成料理を、終わらせたいと考えています」
ルークはすぐには答えなかった。
「全部か?」
「はい。店で提供する料理を、すべてルークさんが作るものへ切り替えたいと思っています」
「急すぎないか?」
「すぐに変えるつもりではありません。必要な料理と菓子をそろえ、仕込みの数や手順を確認してからです」
「でも、全部俺の料理にするんだろ」
「ルークさんが引き受けられるのであれば」
ルークは調理台へ目を向けた。
鶏もも肉の香草焼き。
イワナの燻製と大豆のアクアパッツァ。
豚バラ肉とじゃがいものポトフ。
リンゴとクルミのクッキー。
これらはすでに自分で作っている。
だが、それだけでは客が選べる種類が足りない。
昼と夜の両方で営業し、注文が重なることもある。
毎日、同じ味と仕上がりを保たなければならない。
「嬉しくないわけじゃない」
ルークが言った。
「むしろ、そうしたいと思ってた」
「はい」
「でも、毎日同じように作れるかは分からない。注文が重なれば、今の品数でも遅れることがある」
「その不安も含めて、金獅子亭へ相談しようと思います」
「完成料理をやめる話をしに行くのか?」
「はい。ただし、関係まで終わらせるつもりはありません」
「どういうことだ?」
「食材の相談や、新しい料理の試食は、今後もお願いしたいと思っています。完成料理を仕入れることだけを終えます」
ルークはしばらく考えた。
「金獅子亭が受け入れると思うか?」
「きちんと説明します」
「俺も行く」
「そのつもりです」
レンとルークは、昼営業を終えた後、金獅子亭を訪れることにした。
◇
金獅子亭では、マルクと厨房の料理人が二人を迎えた。
レンは、これまで完成料理を提供してもらったことへの感謝を伝えた後、Club Moon Dropの料理をすべてルークへ任せたいと説明した。
マルクは驚いたものの、すぐに反対はしなかった。
「ようやく、その話になったか」
厨房の料理人が言った。
ルークが顔を上げる。
「分かってたのか?」
「お前が最初の鶏料理を作り始めた時から、いずれそうなると思っていた」
「でも、まだ料理の数が足りない」
「なら増やせ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから、やる価値があるんだろ」
料理人は腕を組んだ。
「今までのお前は、うちで作った料理を温め、Club Moon Dropで出していた」
「ああ」
「だが、今は何品も自分で作っている。客の反応を見て、酒との合わせ方まで考えている」
「レンが考えたことも多い」
「それでも作っているのはお前だ」
ルークは黙った。
「完成料理の仕入れがなくなれば、失敗した時に頼れる皿は減る」
料理人が続ける。
「毎日同じ品質を保つのも、お前の仕事になる。仕込みが足りなければ料理を出せない。注文が重なれば、順番も決めなければならない」
「分かってる」
「本当に分かっているなら、もう誰かの料理を温める厨房じゃない。自分の厨房だと思って立て」
ルークは料理人を見る。
「自分の厨房……」
「店はレンのものだ。だが、料理を任された厨房は、お前が責任を持つ場所になる」
「全部を一人で行うという意味ではありません」
レンが言った。
「在庫確認、配膳、客への説明は皆で支えます」
「料理の味を決めるのはルークだ」
マルクも続けた。
「完成料理の取引が終わっても、うちとの関係まで終わるわけじゃない」
「食材の相談をしてもいいのか?」
「もちろんだ。新しい料理を考えたなら持ってこい。うちの料理人も味を見る」
「仕入れ先も必要なら紹介する」
厨房の料理人が言う。
「ただし、最後に出すかどうかを決めるのは、お前とレンだ」
ルークはゆっくり頷いた。
「やる」
「本当に?」
レンが確認する。
「ああ。Club Moon Dropで出す料理を、全部俺が作る」
マルクは笑った。
「なら、完成料理の仕入れは、準備が整った日で終わりにしよう」
「今までありがとうございました」
レンが頭を下げる。
「礼を言うのはまだ早い」
マルクが答えた。
「これからも食材は買ってもらうし、相談へ来るんだろ」
「はい」
「なら、付き合いは続く」
完成料理の仕入れは終わる。
だが、金獅子亭とのつながりが切れるわけではない。
ルークは、完成した料理を受け取る立場から、自分の料理を作り、必要な時に助言を求める立場へ進もうとしていた。
◇
それから十日ほど、ルークは金獅子亭の料理人にも試食を頼みながら、新しい料理と菓子の準備を進めた。
食事として出す料理は五品。
一つ目は、鶏もも肉の香草焼き レモンバターソース。
二つ目は、イワナの燻製と大豆のアクアパッツァ。
三つ目は、豚バラ肉とじゃがいものポトフ。
これまで提供してきた三品に、新たな二品を加える。
四つ目は、マッシュルームとチーズの盛り合わせ。
マッシュルームは事前に軽く火を通し、余分な水分が出ない状態へ整える。
注文を受けた後は、数種類のチーズと決められた量で盛り合わせるため、ほかの料理より早く出せる。
昼にはパンを少し添え、夜は酒を飲みながらつまめる量にする。
五つ目は、ベーコンとバジルが入ったオムレツ。
卵は柔らかく仕上げ、細かく切ったベーコンの塩気と、控えめなバジルの香りを加える。
注文を受けてから焼く必要はあるが、火を通す時間は長くない。
切り分ければ、客は会話を続けながら食べられる。
甘い菓子も三品へ増やした。
一つ目は、すでに提供しているリンゴとクルミのクッキー。
二つ目は、蜂蜜とオレンジのパンケーキ。
蜂蜜は多くかけず、オレンジの香りと酸味で甘さを軽くする。
昼は少し大きく焼き、夜は数人で分けられる小さなものにする。
三つ目は、グレープフルーツとヨーグルトのムース。
冷たい地下保管庫と井戸水を使って温度を下げ、ヨーグルトへ固めるための食材を加えて作る。
ヨーグルトの柔らかな酸味と、グレープフルーツの僅かな苦みを生かし、甘さを控える。
酒を飲んだ後でも重くならない菓子として考えた。
レンはそれぞれを試食し、Club Moon Dropで提供する条件へ合っているか確認した。
香りが強すぎないか。
会話を続けながら食べられるか。
昼と夜で量を変えられるか。
注文が重なっても品質を保てるか。
そして、食べた後にもう一口酒を飲みたくなるか。
ルークは何度も作り直した。
オムレツは最初、ベーコンの塩気が強すぎた。
量を減らし、卵の柔らかさを感じられるようにする。
マッシュルームは火を通しすぎると水分が出て、チーズの食感まで損なった。
事前に火を通す時間を短くし、完全に冷ましてから保管することにした。
パンケーキは蜂蜜を減らしすぎると、オレンジの酸味だけが目立つ。
生地の甘さと蜂蜜の量を調整する。
ムースは、グレープフルーツの苦みを残しすぎると食べにくい。
果肉と果汁の割合を変え、ヨーグルトの酸味と釣り合う形へ近づけた。
十日ほどの試作と、仕込み手順の確認を経て、五品の料理と三品の菓子がそろった。
◇
全面移行初日。
開店前、レンはスタッフ全員へ改めて役割を伝えた。
「本日から、金獅子亭から仕入れた完成料理は使いません」
厨房には、ルークが仕込んだ料理だけが並んでいる。
「注文が重なった場合、料理を出すまで時間がかかる可能性があります」
ルークは緊張した表情で聞いていた。
「ロイさんとディーノさんは、配膳の順番をルークさんと確認してください」
「分かりました」
ロイが答える。
「受付や来客確認が重なっている時は、ディーノへ店内の配膳を任せます」
「俺は厨房と客席の間を確認する」
ディーノが言った。
「空いた皿を戻しながら、先に出せる料理を確認する」
「お願いします」
「ノアさんは、食材と仕込み済みの数を確認してください」
「記録も料理ごとに分けておきます」
「リリアさんたちは、料理が遅れている時に客へ状況を伝え、先に提供できる料理があれば黒服へ確認してください」
リリアが頷いた。
「待っている方を放っておかないようにします」
「追加注文や空いた器も、私たちからロイたちへ伝えます」
エルナが続ける。
セレナとミーナも、それぞれ了承した。
「料理の遅れについて詳しい説明が必要な場合は、私が対応します」
レンが言う。
「俺からも、出す順番を伝える」
ルークが続けた。
「全部一人で抱え込まないでください」
レンは念を押す。
「分かってる」
昼営業が始まった。
最初は注文が分散していた。
ポトフ。
マッシュルームとチーズの盛り合わせ。
リンゴとクルミのクッキー。
ルークは落ち着いて料理を仕上げ、ディーノが順番に運ぶ。
ロイも来客が途切れると、空いた器を下げ、次に出す料理を確認した。
だが、昼の客が増えるにつれて注文が重なり始める。
「鶏料理が二つ、オムレツが一つ、パンケーキが一つです」
ディーノが厨房へ伝える。
「ポトフも追加です」
ロイが続けた。
「先にポトフを出す」
ルークが答える。
「温めればすぐ出せる。次にオムレツ。鶏は焼き上がるまで時間がかかる」
「パンケーキは?」
「鶏を焼いている間に生地を流す」
ルークは二つの鍋を使いながら、別の火でポトフを温めた。
そこへ、さらに注文が入る。
「マッシュルームとチーズの盛り合わせが二つ」
ディーノが言った。
「それは先に出せる」
「俺が用意するか?」
「事前に火を通したマッシュルームとチーズを、この皿の印まで盛ってくれ。パンは俺が切ってある」
「分かった」
味付けや火入れではなく、決められた量を器へ盛るだけの補助だった。
ルークは任せられる部分だけをディーノへ渡し、自分は焼いている鶏肉へ集中する。
「ロイ、鶏料理は少し遅れる」
「どの卓ですか?」
「奥の二卓だ。盛り合わせを先に出せるなら、聞いてくれ」
「承知しました」
ロイは入口に新しい客がいないことを確認し、奥の卓へ向かった。
「鶏料理は、ただいま焼き上げております。少しお時間をいただきますので、先にマッシュルームとチーズの盛り合わせをお持ちすることもできます」
客は説明を聞き、先に盛り合わせを頼んだ。
ロイは注文の変更をディーノへ伝え、再び入口の様子を確認する。
別の卓では、リリアが料理を待つ客へ声をかけていた。
「鶏料理は焼き上がるまで少し時間がかかるそうです。先にお飲み物か、すぐに用意できる盛り合わせをお持ちしましょうか?」
「では、盛り合わせをお願いしようかしら」
「黒服へ伝えてきますね」
リリアは客の希望をロイへ伝えた。
エルナたちも客との会話を途切れさせず、料理の遅れや追加注文を黒服へ知らせていく。
ノアは厨房横で、仕込み済みの数を調べていた。
「鶏肉は残り三皿分です」
「夜の分は?」
「別に確保しています。ただ、昼へ回すと夜が足りなくなります」
「今の注文分だけで止める」
ルークが答える。
「次からは売り切れにしてくれ」
「レンへ伝えます」
ノアから報告を受けたレンは、新たに料理を選ぼうとしている客へ、鶏料理が終了したことを伝えた。
「本日の鶏料理は、現在ご注文いただいている分で終了となります」
「人気なのね」
昼の常連客が笑う。
「次は早く頼まないといけないわ」
「申し訳ありません。次回は仕込みの数を調整します」
「無理に増やして味が変わるより、その方がいいわ」
「ありがとうございます」
一方、すでに鶏料理を注文している客には、リリアたちが焼き上がりまで時間がかかることを説明していた。
厨房では、ルークが最後の鶏肉を焼き上げている。
注文が遅れていても、焦って火を強くしない。
皮を十分に焼く前に返せば、料理の質が落ちる。
その間にオムレツを仕上げ、パンケーキの焼き加減を確認する。
ディーノが料理の順番を整理し、完成した皿を運ぶ。
ロイは受付と客席の間を動き、注文変更や遅れを伝える。
ノアは食材の残量を確認し、夜営業へ残す数を守る。
レンは客へ説明しながら、店全体の流れを見ていた。
忙しさはあった。
だが、誰か一人だけが状況を抱えてはいない。
昼営業を終えた時、ルークは厨房の壁へ手をつき、大きく息を吐いた。
「疲れたか?」
ディーノが尋ねる。
「疲れた」
「全部出せたな」
「鶏は途中で終わった」
「売り切れただけだろ」
「もっと用意できたかもしれない」
「増やしすぎて余らせるよりいい」
ノアが記録帳を持ってきた。
「昼の注文数をまとめました。鶏料理とオムレツが多く、ポトフは予想より少なめです」
「夜は逆になるかもしれない」
ルークが言う。
「酒と一緒なら、ポトフの小さい方も出る」
「夜の結果と合わせて、明日の仕込み数を決めます」
「分かった」
ルークはノアの記録を見る。
一人で料理を作るだけでは、店の厨房は回らない。
何が何皿出たか。
何が足りなかったか。
どの順番で出せば、客を待たせにくいか。
周囲から情報を受け取り、自分で判断する必要がある。
夜営業でも注文は重なった。
ハイボールと鶏料理。
芋焼酎の炭酸割りとアクアパッツァ。
ウイスキーとマッシュルームとチーズの盛り合わせ。
ビールとオムレツ。
食後には、リンゴとクルミのクッキーや、グレープフルーツとヨーグルトのムースも注文された。
昼の経験を生かし、ルークは最初から配膳順を伝えた。
「盛り合わせを先に出す。次にアクアパッツァ。鶏とオムレツは焼き上がり次第だ」
「了解した」
ディーノが答える。
「鶏料理が焼き上がる少し前に、レンへ知らせてください。ハイボールを作る時間を合わせたいです」
「分かりました」
ロイは、鶏料理の焼き上がりが近づいたところで酒台にいるレンへ伝えた。
「奥の卓の鶏料理が、もうすぐ完成します」
「ありがとうございます。今からハイボールを作ります」
ロイは受付へ新しい客が来れば、すぐに戻って会員証を確認する。
受付が落ち着けば再び店内へ入り、配膳や片付けを手伝った。
リリアたちは客との会話を続けながら、料理の進み具合を黒服へ確認する。
誰かの杯が空けば飲み物を尋ね、料理が遅れていれば先に出せる一皿を提案した。
全面移行初日は、最後まで余裕のある営業ではなかった。
それでも料理を大きく失敗することも、注文を忘れることもなかった。
最後の客が帰り、片付けを終えた後。
ルークは厨房の中で、空になった鍋と使い終えた器を見つめていた。
レンが厨房へ入る。
「お疲れさまでした」
「ああ」
「大変でしたか?」
「思っていたより大変だった」
ルークは正直に答える。
「料理を作るだけじゃなかった。何を先に出すか、何が残ってるか、誰に頼むかまで考えないと回らない」
「はい」
「途中で、全部俺がやらないといけないと思った」
「ですが、任せましたね」
「ディーノに盛り付けを頼んだ。ロイにも順番を伝えた。ノアにも残りを聞いた」
「それでよいと思います」
「自分の厨房なら、全部一人でやるものじゃないのか?」
「自分の厨房だからこそ、必要な指示を出すのではありませんか?」
ルークはレンを見る。
「味を決めるのはルークさんです。仕込みの量や、料理を出す順番もルークさんが判断します」
「でも、運ぶのは俺じゃない」
「店は一人では動きません」
レンは厨房を見回した。
「料理を作る人。客へ運ぶ人。在庫を確認する人。遅れを説明する人。受付で会員やボトルを確認する人。それぞれが動いて、初めて料理が客へ届きます」
ルークは黙って聞いていた。
「金獅子亭の料理を温めていた時も、ルークさんは厨房に立っていました」
「そうだな」
「ですが、今日からは違います」
レンはルークへ向き直った。
「今日から、この店の料理はルークさんの料理です」
ルークはすぐには答えなかった。
疲れは残っている。
失敗しそうになった場面もあった。
鶏料理は昼の途中で売り切れた。
注文が重なり、客を待たせた。
それでも、客は料理を食べ、酒を飲み、また料理へ手を伸ばしていた。
ハイボールを飲んだガイルは、鶏料理を最後まで食べた。
ボルドは芋焼酎の炭酸割りと、アクアパッツァの煮汁を交互に味わった。
ほかの客も、ルークが作った料理を選んだ。
「明日は、鶏を少し増やす」
ルークが言った。
「はい」
「オムレツの卵も、昼の分を増やす。ポトフは今日と同じでいい」
「ノアさんの記録と合わせて決めましょう」
「それから、盛り合わせはディーノでも用意できるように、量をもっと分かりやすくしておく」
「よいと思います」
「パンケーキは、一度に二枚焼けるようにしたい」
レンは頷いた。
ルークは、今日の忙しさを理由に諦めようとはしていなかった。
明日どうすればよくなるかを考えている。
その姿は、誰かの料理を預かる者ではなく、Club Moon Dropの厨房を任された料理人のものだった。
◇
バルドがただの水だと思っていた泉から、泡を含んだ水が届いた。
その水は、ウイスキーをハイボールへ変え、芋焼酎へ新しい飲み方を加えた。
新しい一杯の目的は、酒だけを目立たせることではない。
鶏皮とレモンバターソースの香ばしさを残す。
イワナの脂と燻製の香りを残す。
料理そのものを軽くせず、次の一口へ進みやすくする。
そして、金獅子亭から仕入れていた完成料理は、Club Moon Dropの厨房から姿を消した。
Club Moon Dropの厨房は、誰かの料理を温めるだけの場所ではなくなった。
そこにはルークが決めた味があり、その料理を客へ届けるために動く仲間がいた。
その料理の次の一口を支えるように、客の杯の中では新しい泡が静かに立ち上っていた。
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