第89話 王宮から来た魔術師
ルークの料理へ全面移行してから、Club Moon Dropの厨房には新しい流れが生まれていた。
昼と夜で仕込みの量を変える。
注文の多かった料理は翌日に少し増やし、残った料理は無理に同じ数を用意しない。
ノアがまとめた記録をもとに、ルークは食材の量と仕込みの順番を決めるようになった。
ロイとディーノは、料理の仕上がりと客席の状況を見ながら配膳順を調整する。
ディーノは完成した皿を運び、空いた器を厨房へ戻す。注文が集中した時には、ルークが事前に火を通したマッシュルームとチーズを、決められた量だけ盛り付けることもあった。
リリアたちも、料理を待つ客を放っておかない。
先に出せる料理や飲み物を提案し、追加の注文があれば黒服へ伝える。
全面移行初日のような大きな混乱は減っていた。
それでも、厨房から緊張が消えたわけではない。
「鶏料理は残り二皿分だ」
「アクアパッツァを先に出してくれ」
「盛り合わせなら、すぐに出せる」
ルークは以前よりも、周囲へ指示を出すようになった。
一人ですべてを抱え込まない。
だが、料理の味と仕上がりへの責任は自分が持つ。
その意識が、厨房でのルークの立ち方を少しずつ変えていた。
酒台では、ウイスキーのハイボールと芋焼酎の炭酸割りが作られている。
開封した炭酸水は、時間がたつほど泡が弱くなる。
ノアは開封した時刻と残量を記録し、ロイやディーノも瓶を強く揺らさないよう注意して扱っていた。
まだ炭酸水を大量に用意できるわけではない。
それでも、ルークの料理と一緒に炭酸割りを注文する客は少しずつ増え、店の新しい飲み方として受け入れられ始めていた。
◇
その日の夕方。
夜営業へ向けた準備が進む中、一台の馬車がClub Moon Dropの前へ止まった。
豪華さを誇示するような装飾はない。
だが、車体には丁寧な手入れが施され、扉の金具や車輪にも粗さがなかった。
入口の近くにいたロイが、馬車の様子を確認する。
扉が開き、先に降りたのはレオナルド・フォン・バレンティだった。
続いて、深い青色の外套をまとった男が降りる。
三十代後半ほど。
細身ではあるが、弱々しさはない。
整えられた黒髪と、周囲を静かに観察する灰色の瞳。
外套の胸元には、この国の紋章をあしらった小さな徽章が付けられていた。
男はClub Moon Dropの看板へ一度視線を向けた後、レオナルドと並んで入口へ進んだ。
ロイが扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
「今夜は、以前予約していた通り二人だ」
レオナルドが言った。
「承知しております」
男はロイへ丁寧に頭を下げた。
「ルチアーノ・フォン・アルディーニと申します。本日は、レオナルド殿の紹介で参りました」
「かしこまりました」
ロイは紹介来店者を記録する帳面を開いた。
「当店は紹介制となっております。本日はレオナルド様のご紹介としてご案内いたしますが、店内では身分にかかわらず、すべての方に同じ規則を守っていただきます」
「承知しています」
「店内で知ったほかのお客様やスタッフの情報を、許可なく外へ伝えることもお控えください」
「分かりました」
「問題行動があった場合には、紹介者であるレオナルド様にも責任をお願いすることになります」
レオナルドが頷く。
「その条件を承知した上で紹介している」
ルチアーノも、説明を省かせようとはしなかった。
「丁寧に説明していただける方が、私としても安心できます」
ロイは帳面へ名前と紹介者を記録した後、レンへ来店を伝えた。
レンは客席の様子を確認してから入口へ向かう。
「ようこそ、Club Moon Dropへ」
「あなたがレン殿ですね」
「はい」
「改めまして、ルチアーノ・フォン・アルディーニです。王宮で魔術研究と魔道具の管理に携わっています」
「王宮にお勤めなのですね」
「はい。主に保存魔法や、加熱と冷却に関わる魔道具を扱っています」
レンは挨拶を交わしながら、鑑定を使った。
ルチアーノ・フォン・アルディーニ。
王宮所属の上級魔術師。
魔道具、保存魔法、火、冷却に関する高い知識を持つ。
王へ直接報告できる立場。
知識欲が強く、未知の技術や現象に対する関心も深い。
だが、現時点でClub Moon Dropやレンへ害を与える意図はない。
知らない技術を見れば仕組みを考えずにはいられない性格だが、相手の意思を無視して秘密を暴こうとする者ではなかった。
「本日は、奥のお席をご用意しています」
「特別会員席へ同席させてもらってよいのか?」
レオナルドが尋ねた。
「はい。レオナルド様が信用できる方としてお連れになり、私も問題がないと判断しましたので」
レンは二人を店の奥へ案内した。
ルチアーノは歩きながら、客席を静かに観察していた。
華美ではないが、落ち着いた内装。
身分によって席を分けている様子はない。
商人と冒険者が同じ空間で酒を飲み、女性客も周囲を気にすることなく会話を楽しんでいる。
従業員を大声で呼びつける者もいなかった。
「聞いていた印象とは、少し違いますね」
席へ着いたルチアーノが言った。
「どのように聞いていましたか?」
「珍しい酒を出す、紹介制の社交店だと」
ルチアーノは客席へ目を向ける。
「もっと貴族や大商人ばかりが集まる場所だと思っていました」
「当店では、身分ではなく、規則を守り、ほかの方が安心して過ごせるかを重視しています」
「冒険者も同じ条件で?」
「はい」
「王宮に勤めている者も?」
「同じです」
ルチアーノは僅かに目を細めた。
「なるほど」
◇
二人が席へ着くと、リリアが挨拶に向かった。
「本日はご来店ありがとうございます。お飲み物はお決まりでしょうか?」
「レオナルド殿から、ウイスキーに三つの飲み方があると聞きました」
ルチアーノが答える。
「ロック、水割り、それからハイボールでしたね」
「はい」
「同じ酒を三種類で飲み比べることはできますか?」
「できます。ただ、すべて通常の量でお出しすると酒が強すぎますので、少量ずつにいたしましょうか?」
「そのようにお願いします」
リリアは酒台にいるレンへ確認する。
「三種類を少量ずつでいい?」
「はい。ロック、水割り、ハイボールの順に出しましょう」
「料理は何を合わせますか?」
レオナルドが尋ねた。
「鶏もも肉の香草焼き レモンバターソースをおすすめします」
「では、それも頼もう」
「承知しました」
リリアが注文を伝えに戻ると、ルチアーノは酒台へ視線を向けた。
「三種類とも、同じウイスキーなのですね」
「はい」
「水や泡を含む水を加えるだけで、それほど印象が変わるものですか?」
「実際に比べていただくのが、最も分かりやすいと思います」
最初に運ばれたのは、ウイスキーのロックだった。
厚手の杯の中で、琥珀色の酒が静かに揺れている。
ルチアーノは杯を持ち上げたが、すぐには口を付けなかった。
香りを確かめ、僅かに傾けて酒の動きを見る。
「木の香りが強い」
「穀物の甘さもあります」
レンが答える。
ルチアーノは一口だけ飲んだ。
力強い刺激が舌と喉へ残る。
目を閉じ、飲み込んだ後の香りまで確かめてから、ゆっくりと杯を置いた。
「強い酒ですね」
「苦手でしょうか?」
「いいえ。酒そのものの力を隠さず味わうなら、この形がよいのでしょう」
次に水割りが運ばれた。
同じウイスキーへ水を加え、刺激を和らげたものだ。
ルチアーノはロックと水割りの香りを比べる。
「水を加えれば、香りも弱くなると思っていました」
「弱くなる部分もありますが、分かりやすくなる香りもあります」
ルチアーノは一口飲んだ。
「乾いた果実に近い香りが、こちらの方が感じやすい」
「蜂蜜に似ていると言う方もいます」
「確かに、穏やかな甘さがある」
ルチアーノは二つの杯を見比べる。
「同じ酒でも、水によって隠れていたものが表へ出るのですね」
「はい。単に刺激が弱くなるだけではありません」
三つ目に運ばれたのが、ハイボールだった。
冷たい杯の底から、細かな泡が途切れずに立ち上っている。
ルチアーノの視線が止まった。
「これが、泉の水を使ったものですか?」
「はい」
「魔法で泡を加えたわけではない?」
「違います。自然に泡を含む泉の水です」
ルチアーノは杯を目の高さまで持ち上げた。
泡の動きを確かめるように、ゆっくりと角度を変える。
「街まで運んでも、これほど残るのですね」
「瓶や栓、運び方を何度か調整しました」
「飲んでも?」
「もちろんです」
ルチアーノはハイボールを一口飲んだ。
泡の刺激が口へ広がる。
その後に、ウイスキーの木の香りと穀物の甘さが残った。
「水割りより軽い」
もう一度口へ含む。
「ですが、酒の香りは水割りよりもはっきり感じる気がします」
「泡とともに、香りが口の中へ広がるためだと思います」
「刺激はあるが、ロックほど重くない」
ルチアーノは三つの杯を順番に見る。
「同じ酒とは思えないほど違いますね」
「酒を変えたわけではありません」
「飲み方を変えただけ」
「はい」
そこへ、鶏もも肉の香草焼き レモンバターソースが運ばれた。
皮目は香ばしく焼かれ、柔らかな肉へ控えめな香草とレモンバターソースがかかっている。
ルチアーノはまず、料理だけを味わった。
「香草が強すぎない」
「酒の香りを消さないようにしています」
「バターのコクはあるが、レモンで僅かに軽くしている」
厨房から様子を見ていたルークは、ルチアーノの言葉に耳を傾けていた。
料理を細かく見ている。
だが、見下すような口調ではない。
一つずつ特徴を確かめ、自分の言葉で整理しているだけだった。
「次にハイボールを飲んでみてください」
レンが勧める。
ルチアーノは鶏肉をもう一切れ食べ、その後にハイボールを飲んだ。
泡が鶏皮とバターの余韻を和らげる。
続いて、ウイスキーの香りが残った。
ルチアーノはすぐには話さず、もう一度同じ順番で味わう。
「なるほど」
「いかがですか?」
「酒が料理の味を消していない」
ルチアーノは杯を卓へ置いた。
「それどころか、次の一口へ進むために、口の中を整えている」
レオナルドが僅かに笑う。
「私も最初は驚いた」
「同じ酒を、ただ薄めただけではないのですね」
「料理と合わせるための割合にしています」
レンが答えた。
「酒だけを飲む場合と、料理に合わせる場合では、同じ割合が最適とは限りません」
「飲み方と料理の組み合わせによって、新しい価値が生まれる」
ルチアーノは独り言のように言った。
「酒を作っただけでは完成ではない。どう飲ませ、何と合わせるかまで考える必要があるのか」
その目には、明確な関心が浮かんでいた。
◇
ルチアーノはハイボールを飲みながら、炭酸泉について尋ねた。
「この水は、レン殿が見つけたのですか?」
「泉の存在を知っていたのは、バルドさんです」
「酒商会の会長ですね」
「はい。山と森の境にある村の近くで、昔から村人が飲んでいた泉です」
「では、なぜ今まで商品として扱われなかったのでしょう」
「バルドさんは、水にすぎないと考えていました」
ルチアーノが僅かに眉を上げる。
「泡があるのに?」
「街には井戸があります。遠い村から瓶へ詰めて運べば、普通の水より高くなります」
「水だけを売るなら、買う者は少ない」
「はい」
「それを酒へ使うことを考えたのが、レン殿ですか?」
「ルークさんの料理に合う、新しい飲み方が必要だと考えました」
レンは、ガイルが鶏料理とウイスキーのロックを合わせた時、両方の重さが口の中へ残ったことを説明した。
料理の脂を減らせば、鶏皮の香ばしさや肉の柔らかさまで弱くなる。
そのため、料理を変えるのではなく、合わせる酒の飲み方を変えた。
「泉の水を探した目的は、珍しい飲み物を作るためではなかったのですね」
「はい。ルークさんの料理を最後までおいしく食べてもらうためです」
「バルド殿は、すぐに協力したのですか?」
「最初は、水を運んでも売れないと考えていました」
「商人としては当然の判断でしょう」
「ですが、酒と料理をつなぐ材料として説明すると、村へ案内してくださいました」
レンは、最初の輸送では泡が弱くなったことも話した。
普通の酒瓶では栓が緩み、十分な泡を残せなかった。
そこで厚手で丸みのある瓶を作り、金具と針金で栓を固定した。
木箱には仕切りを入れ、布と藁で揺れを抑えた。
「保存魔法を使わず、容器と運び方だけで解決したのですか?」
「はい」
「興味深い」
ルチアーノの目が一段と鋭くなる。
「開封後、泡はどの程度残りますか?」
「その日のうちに使い切るようにしています」
「冷やした場合と、そのままの場合では違いがある?」
「冷たい方が、泡は残りやすいようです」
「冷却は魔道具で?」
「今は、冷たい井戸水や地下の保管場所を使っています」
「なるほど」
冷却に詳しいルチアーノは、その答えを聞いて少し考え込んだ。
「より低い温度を安定して保てれば、泡を長く残せる可能性はあります」
「冷却用の魔道具を使うということですか?」
「方法の一つです。ただし、冷却魔道具は決して安くありません。炭酸水のためだけに導入すれば、飲み物の価格も上げる必要が出てくるでしょう」
「それでは、料理と一緒に気軽に頼みにくくなります」
「そのとおりです」
ルチアーノは頷いた。
「高い技術を使えば、必ずよくなるわけではありません。必要な品質を今の方法で保てているなら、無理に変える必要はないでしょう」
「魔術師の方なら、すぐに魔道具を勧めると思っていました」
レオナルドが言った。
「必要のない場所へ魔道具を入れるのは、技術の使い方を間違えています」
ルチアーノは当然のことのように答えた。
「手間や費用が増え、店の目的から離れるなら、優れた道具とは言えません」
続いて、村との契約についても尋ねた。
「村人が飲む分を最優先し、一日に汲む量も決めています」
レンが説明する。
「使用料と、採取や瓶詰めを行う方への賃金も支払っています」
「泉の所有権は?」
「村にあります」
「酒商会が取得したわけではないのですね」
「はい」
ルチアーノは炭酸水の泡を見つめた。
「王宮では、価値のある水源が見つかれば、管理権を巡って争いになることがあります」
「この泉は、村の方々が昔から使ってきたものです」
「だから奪わなかった」
「はい」
「商品化した側が所有権まで持つ方が、得られる利益は大きいでしょう」
「長く続けるなら、村の生活を壊さない方がよいと思っています」
ルチアーノはレンへ目を向けた。
「酒だけではなく、商売の考え方も変わっていますね」
「そうでしょうか」
「王宮では、価値を見つけた者が、その価値を囲い込もうとすることが多い」
レオナルドが静かに口を挟む。
「だから私は、この店を気に入っている」
「少し分かった気がします」
ルチアーノは答えた。
◇
話が酒へ戻ると、ルチアーノの視線が再び鋭くなった。
「一つ、尋ねてもよいですか?」
「答えられることでしたら」
「このウイスキーは、どこで作られているのですか?」
レンは表情を変えなかった。
「製造場所については、お答えしていません」
「バルド殿の酒商会から仕入れているのではない?」
「果実酒や既存の蒸留酒は、バルドさんの酒商会から仕入れています」
「では、ウイスキーと芋焼酎は別なのですね」
「はい」
「ビールも?」
「ビールも同じです」
ルチアーノは三つの杯へ目を向けた。
「不思議に思っていました」
「何がでしょうか?」
「これほど異なる酒を安定して用意するには、相応の原料と設備が必要になるはずです」
ルチアーノは酒造りを専門としているわけではない。
だが、保存、加熱、冷却に関わる魔道具を扱うため、製造設備についての知識も持っていた。
「穀物を発酵させる容器。酒を蒸留する設備。熟成させるための木樽。火と冷却の管理。それらを置く場所も必要になります」
「そうですね」
「しかし、少なくとも店へ来るまでに見た範囲では、大規模な酒造施設が近くにあるようには見えませんでした」
レンは黙って聞いている。
「これだけ品質のそろった酒を出し続けるなら、原料や木樽の出入りもあるはずです。ですが、そのような場所がどこにあるのか想像できない」
「……」
「それなのに、ビールは毎回ほとんど同じ品質で出され、ウイスキーも安定して用意されている」
ルチアーノの口調に責める色はなかった。
理解できない現象を前にした、研究者の目だった。
「どこかに、別の酒造施設があるのですか?」
レンは少し間を置いた。
「酒の作り方と場所については、お答えできません」
「独自の方法に関わるためですか?」
「はい」
「分かりました」
ルチアーノは意外なほどあっさりと引いた。
「王へ報告する必要があるとすれば、製法不明の酒として伝えてもよいですか?」
「はい。そのようにお伝えください」
「店内で味や性質を確認する範囲であれば、問題ありませんか?」
「それは構いません」
「再現を試すことも?」
「止めるつもりはありません。ただし、店やスタッフへ無断で探りを入れることは認めません」
「当然です」
ルチアーノはすぐに答えた。
「秘密を持つこと自体を、私は問題とは考えていません」
「ありがとうございます」
「ただし、製法を確認できなかったことは王へ隠せません」
「それで構いません」
「別の場所に施設があると考える者も出るでしょう」
「それも仕方ありません」
レオナルドがルチアーノへ尋ねる。
「無理に暴こうとは思わないのか?」
ルチアーノは少し考えてから答えた。
「知りたいとは思う」
「正直だな」
「ですが、規則を守ると約束して店へ入り、話せないと言われたのです。その場で無理に聞き出すのは、知識を求めることとは違う」
ルチアーノはレンへ視線を戻す。
「王へは、製法不明の酒として報告します」
「お願いします」
ルチアーノは再びハイボールへ口を付けた。
製法を知ることはできなかった。
それでも、杯の中にある酒と泡、料理との組み合わせについては、自分の目と舌で確かめられる。
今は、それで十分だと考えているようだった。
◇
その頃、客席では別の話題が生まれていた。
指名制度が始まってから、リリアへの指名は最も多い状態が続いている。
その夜も、正式会員の一人がリリアを指名していた。
ただし、一人の客が長時間独占することは禁止されている。
リリアは指名客と話しながらも、必要に応じてほかの卓の注文確認や挨拶に入っていた。
そんな姿を見ていた客の一人が、隣の者へ小声で話した。
「やはり、この店の一番はリリアだな」
「指名の数も多いらしい」
「No.1というやつか」
大声ではなかった。
だが、近くを通ったリリアの耳には届いた。
リリアは足を止めず、そのまま注文された杯を運んだ。
笑顔も崩さなかった。
しかし、営業が少し落ち着いた時、酒台の近くでレンへ小声で尋ねた。
「レン」
「どうしましたか?」
「私、No.1って呼ばれてるみたいなんだけど」
「聞こえましたか」
「うん」
リリアは困ったように眉を寄せる。
「指名が一番多いのは知ってる。でも、役割が違うのに、一番って言われても困る」
「ほかの皆さんと順位を付けられているように感じますか?」
「少しね」
リリアは客席へ目を向けた。
「セレナにはセレナのよさがあるし、ミーナには歌がある。エルナだって、初めての客とすぐ打ち解けられるでしょ」
「はい」
「私の指名が多いってだけで、みんなの違いまで順位みたいに見られるのは嫌なんだ」
レンは少し考えた。
「店として、順位を付けるつもりはありません」
「でも、客が自然に呼ぶのまでは止められないよね」
「完全には止められません」
「そうだよね」
「ただ、指名記録を競争へ使わない方針は変えません」
指名数は、誰が最も優れているかを決めるためのものではない。
キャストへの負担が偏っていないか。
どの客が誰との会話を求めているか。
問題のある指名が続いていないか。
それらを確認するために記録している。
「リリアさんへの指名が最も多いことは事実です」
「うん」
「ですが、それを理由に、ほかの方より上だと決めるつもりはありません」
「それは分かってる」
「ただ、多く指名される立場として、期待されていることも事実です」
リリアはレンを見る。
「責任があるってこと?」
「はい。すべての指名を受ける必要はありません。断る権利も変わりません」
「うん」
「ですが、受けると決めた客には、期待されている分だけ丁寧に向き合う必要があります」
リリアはしばらく黙った。
「No.1になりたいわけじゃない」
「ならなくても構いません」
「でも、期待されてるなら、その期待を雑には扱いたくない」
「それで十分です」
リリアは小さく息を吐く。
「順位は嫌だけど、責任から逃げるのも違うか」
「無理をする必要はありません」
「分かってる。断る時は断るよ」
「はい」
「でも、受けた時はちゃんと向き合う」
リリアは客席へ戻った。
その背中を見ていたエルナが、レンの近くへ来る。
「何かあった?」
「No.1と呼ばれて、少し困っていたようです」
「リリアらしいね」
「そうですね」
「自分がどう見られるかより、私たちが順位みたいに見られることを気にしたんでしょ」
「はい」
「そういうところも、指名される理由なんだと思う」
レンは頷いた。
指名が多いから、誰より優れているわけではない。
だが、仲間を順位で見せたくないと考えながら、自分へ向けられた期待からも逃げない。
その姿勢が、客から信用される理由の一つなのかもしれなかった。
◇
営業を終えた後。
ルチアーノは馬車へ戻る前に、レンへ改めて挨拶した。
「本日は、興味深いものを多く見せていただきました」
「楽しんでいただけましたか?」
「はい」
「特に気になったものは何でしょう」
「三つあります」
ルチアーノは指を一本立てる。
「一つ目は、同じウイスキーでも、ロック、水割り、ハイボールで異なる価値が生まれること」
二本目。
「二つ目は、炭酸泉そのものではなく、酒や料理との組み合わせを見つけたことで、ただの水が商品になったこと」
三本目。
「三つ目は、この店です」
「店ですか?」
「貴族、商人、冒険者が同じ規則で過ごしている」
ルチアーノは静かになった店内を見回す。
「身分の高い者だから先に酒を出すこともない。王宮で働いているから説明を省くこともない」
「それが当店の規則です」
「従業員が客へ逆らえない店でもない」
「はい」
「指名制度があっても、キャスト本人が拒否できる」
「その権利は変えません」
「歌や演奏も、客を喜ばせるためだけに押しつけているわけではないと聞きました」
ルチアーノは店内の端へ置かれたリュートを見る。
その夜、ミーナの歌とセレナの伴奏は行われなかった。
だが、レオナルドから以前の演奏について聞いていた。
「王へ報告してもよいですか?」
レンは少し考えた。
「店の規則や、提供している酒と料理については構いません」
「会員の名前は?」
「許可なく伝えないでください」
「分かりました」
「酒の製法については、分からないものとして報告してください」
「そのようにします」
「炭酸泉の村についても、場所を詳しく伝えることは控えていただけますか?」
「理由は?」
「村の生活を守るためです。急に多くの者が押しかければ、泉や村へ負担がかかります」
「理解しました。商品化の仕組みだけを伝え、場所は伏せます」
レオナルドが二人の会話を聞きながら言った。
「王は興味を持つだろうな」
「持つと思います」
ルチアーノは答えた。
「酒だけではない。この店へ集まる人々にも」
「それは、少し困りますね」
レンが言う。
「王が来店を望んでも、特別扱いはできないという意味ですか?」
「はい。紹介と確認が必要です」
ルチアーノは僅かに笑った。
「そのまま報告しましょう」
◇
数日後。
王宮の一室で、ルチアーノは王へ報告を行っていた。
広い机の上には、提出用の記録が置かれている。
向かいに座る王は政務の途中であり、儀式用の冠は身に着けていなかった。
「それで、その店はどうだった」
「聞いていた以上に興味深い場所でした」
「珍しい酒があるだけではないのか」
「酒だけでも十分に珍しいものです」
ルチアーノは、ウイスキーと芋焼酎について説明した。
ウイスキーは琥珀色で、木の香りと穀物の甘さがある。
芋焼酎は無色透明に近く、芋由来の柔らかな甘い香りを持つ。
「さらにウイスキーは、ロック、水割り、ハイボールという三つの方法で提供されています」
「同じ酒を三通りで?」
「はい。飲み方によって香りや重さが変わります」
「ハイボールというのは何だ」
「自然に泡を含む泉の水で割ったものです」
王の表情が変わる。
「魔法ではないのか?」
「違います。村人が昔から飲んでいた泉の水です」
「その水を売っているのか」
「水だけでは売れないと、酒商会の会長は判断していました」
「当然だ。街には井戸がある」
「ですが、店主のレンは、酒と料理へ合わせる材料として価値を見つけました」
ルチアーノは、ルークの鶏料理とハイボールの組み合わせを説明した。
炭酸が鶏皮とバターの余韻を軽くし、その後にウイスキーの香りを残す。
芋焼酎の炭酸割りは、イワナの燻製と大豆のアクアパッツァへ合わせている。
「酒を売るだけではなく、料理との組み合わせまで考えているのか」
「はい」
「その料理は誰が作っている」
「ルークという料理人です。現在、店の料理はすべて彼が作っています」
ルチアーノは五品の料理と三品の菓子についても報告した。
さらに、ボトルキープ。
指名制度。
ミーナの歌とセレナの伴奏。
正式会員と特別会員。
貴族、商人、冒険者が同じ規則で過ごす空間。
王は途中で何度か質問した。
「貴族でも席を優先されないのか」
「されません」
「王宮の魔術師でも?」
「同じでした」
「従業員は客の指名を拒否できる?」
「できます」
「特別会員は身分で決まるのか」
「店で見せた行動と信用で決まります」
「レオナルドが選ばれた理由は?」
「規則を守り、希少な酒を独占せず、ほかの客やスタッフを見下さなかったためです」
王は椅子へ背を預けた。
「変わった店だな」
「はい」
「新酒の製法は分かったのか」
「いいえ」
ルチアーノは率直に答えた。
「少なくとも、店の周囲や私が確認できた範囲には、大型の酒造設備や大量の木樽は見当たりませんでした」
「では、どこで作っている」
「レンは答えませんでした」
「聞き出せなかったのか」
「無理に聞くことはしていません」
「なぜだ」
「紹介制の店へ入り、規則を受け入れた上で、話せないと言われたからです」
王はルチアーノを見る。
「お前が未知の技術を前にして引いたとは珍しい」
「知りたいとは思っています」
「だろうな」
「ですが、製法不明の酒として報告する方が正確です」
「危険性は?」
「飲んだ範囲では問題ありません。店でも継続して提供されています」
「国へ害を与える可能性は?」
「現時点では確認できません」
「なら、すぐに取り上げる理由はないか」
王は机の上の報告書へ目を落とした。
「一度、見てみたいな」
「店へ行かれますか?」
「王が紹介制の店へ押しかければ、迷惑か」
「レンは、王であっても紹介と確認が必要だと考えるでしょう」
王は一瞬黙り、その後、小さく笑った。
「ますます興味が湧いた」
◇
王がClub Moon Dropへ興味を持ったという話は、長く王宮の中だけには留まらなかった。
詳細な報告書そのものが広まったわけではない。
だが、王が新しい酒と紹介制の店について尋ねたこと。
王宮所属の上級魔術師が、レオナルドの紹介で店を訪れたこと。
製法不明の酒があり、炭酸泉の水を使った新しい飲み方が提供されていること。
その一部は、王宮内で人の動きを見ている者の耳へ届いた。
宰相ヴィットリオ・フォン・モンテフェルトロ。
五十代。
表向きは穏やかで、感情を荒らげることはほとんどない。
長く王を支え、貴族社会の均衡を保つことを自らの役目としている。
だが、彼にとっての均衡とは、自らの目が届く場所で保たれている状態を意味していた。
王へ影響を与える者。
有力な貴族が集まる場所。
商人と冒険者の情報が交わる場。
そのどれもが、自分の管理の外にあることを好まない。
宰相は、貴族向けの高級会員制社交店も運営していた。
そこでは、身分の高い者ほどよい部屋へ通される。
客同士の会話や人間関係も、従業員を通して記録されている。
酒や食事から得られる利益よりも、誰が誰と会い、何を話したかに価値があった。
その宰相が、執務室で側近から報告を受けていた。
「王が、その店へ関心を示したのか」
「はい」
「店名は」
「Club Moon Dropです」
宰相は、すでに名前だけは知っていた。
レオナルドが特別会員となった店。
商会会長のバルドが新しい酒を扱っている店。
冒険者と商人が同じ空間で酒を飲むこともある紹介制の店。
これまでは、街にある小さな社交店の一つとして見ていた。
「王宮の魔術師が訪れた理由は」
「新しい酒と炭酸水を確認するためだと思われます」
「思われます、か」
「店内での詳細は確認できておりません」
「紹介制だからか」
「はい」
宰相は机の上へ指を置いた。
「どのような酒だ」
「ウイスキーと芋焼酎と呼ばれています。さらに、泡を含む水で割る飲み方があると」
「その水はどこから来る」
「バルドの酒商会が、山間の村から運んでいます」
「酒もバルドが作っているのか」
「それは確認できていません」
宰相の指が止まる。
「確認できていない?」
「酒商会は販売と輸送を行っていますが、製造場所は不明です」
「店主は何者だ」
「レンという男です。詳しい出自は確認できておりません」
「貴族ではない?」
「はい」
「商会にも属していない?」
「確認できません」
「それで、王や有力貴族の関心を集め始めているのか」
「そのようです」
宰相は静かに考えた。
酒。
炭酸水。
料理。
指名制度。
ボトルの保管。
歌と演奏。
そして、貴族、商人、冒険者が同じ規則の下で集まる紹介制の空間。
一つだけなら、小さな店の工夫にすぎない。
だが、それらが重なれば人が集まる。
人が集まれば、会話が生まれる。
会話が生まれれば、情報と関係が生まれる。
王が興味を持ったという事実も軽くはなかった。
「危険な店でしょうか」
側近が慎重に尋ねた。
「危険かどうかは、まだ決める必要がない」
宰相は穏やかな声で言った。
「では、放置しますか?」
「それも早い」
宰相は机の上の書類を閉じた。
「潰す必要はない。こちらで使える形にすればよい」
側近は僅かに顔を上げる。
「店主へ接触するのですか?」
「いずれはな」
宰相は静かに答えた。
「その前に、どのような相手なのかを知る必要がある」
「承知しました」
側近が頭を下げる。
この時点で、宰相はまだClub Moon Dropを壊そうとは考えていなかった。
価値のある店なら、自分の側へ取り込めばよい。
酒も、料理も、そこへ集まる人々も、自分の管理する枠の中へ入れればよい。
王は、店の酒と料理、そこへ集まる人々へ興味を持った。
だが、宰相が見ていたものは、店で生まれる楽しさではない。
酒と料理が人を集め、その人々の間で生まれる情報と影響力。
そして、それが自分の管理の外にあるという事実だった。
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