第87話 泡を閉じ込める方法
ルークの料理が増えてから、Club Moon Dropでは、酒と料理を一緒に楽しむ客が以前より多くなっていた。
鶏もも肉の香草焼き レモンバターソース。
イワナの燻製と大豆のアクアパッツァ。
豚バラ肉とじゃがいものポトフ。
どれも、酒の香りを消さず、会話を続けながら食べられるように作られている。
客からの評判もよかった。
だが、脂のある料理と強い酒を続けて口にした時、後味の重さが残ることがある。
料理の味を軽くしすぎれば、鶏皮の香ばしさや、魚と豚肉の旨みまで失われてしまう。
レンは、料理そのものではなく、合わせる酒の飲み方によって、次の一口へ進みやすくできないかと考えていた。
◇
その日の夜。
ガイル、サラ、ボルドの三人が、いつもの卓を囲んでいた。
ガイルの前には、鶏もも肉の香草焼き レモンバターソースが置かれている。
皮目は香ばしく焼かれ、食べやすい大きさに切られた鶏肉へ、控えめな香草とレモンバターソースがかかっていた。
その隣には、ガイルがボトルキープしているウイスキーのロックがある。
ガイルは鶏肉を一切れ口へ運んだ。
香ばしい皮の下から、柔らかく焼かれた肉の旨みが広がる。
レモンの酸味は強すぎず、バターのコクを僅かに軽くしていた。
鶏肉を飲み込んだ後、ガイルはウイスキーの杯を持ち上げる。
冷えた酒が口へ入り、力強い香りと刺激を残しながら喉を通った。
「やっぱり、この酒は強いな」
「嫌なの?」
サラが尋ねた。
「嫌じゃない。むしろ好きだ」
ガイルは杯を卓へ戻す。
「ただ、鶏の後に飲むと、酒の濃さまで重なるな」
料理と酒のどちらかが悪いわけではない。
鶏皮とバターソースには香ばしさと旨みがある。
ウイスキーのロックには、木の香りと穀物の甘さ、飲んだ後まで残る力強さがある。
だが、両方の余韻が同時に残ると、すぐに次の一口へ進むのではなく、一度間を置きたくなる。
サラは、自分の前にあるウイスキーの水割りを飲んだ。
「水割りなら、ロックよりは軽いよ」
「どうだ?」
「飲みやすい。でも、口の中に残った重さを、さっぱりさせるほどではないかな」
サラはガイルから鶏肉を一切れ取り分けてもらい、水割りと交互に味わった。
ロックより酒の刺激は柔らかい。
木の香りと穀物の甘さも、薄くなるのではなく穏やかに広がっている。
それでも、バターの余韻はすぐには消えなかった。
ボルドは、二人の様子を見ながら芋焼酎の水割りを飲んでいる。
「ビールなら、もう少し軽く感じるんじゃないか?」
「それは分かってる」
ガイルが答えた。
「だが、俺はこのウイスキーを料理と一緒に飲みたいんだ」
「気に入った酒を変えたくないってことか」
「ああ」
「なら、料理の方を変えるしかないんじゃない?」
サラが鶏肉を見ながら言った。
「それも違う」
ガイルはすぐに首を振る。
「この味を変えてまで、軽くしてほしいわけじゃない」
少し離れたところで別の卓を確認していたレンは、三人の会話を耳にしていた。
ガイルが料理を食べた後、杯へ手を伸ばすまでの間も見ていた。
満足していないわけではない。
料理も酒も気に入っている。
だからこそ、どちらかを選ばせるのではなく、両方を心地よく楽しめる形が必要だった。
レンは三人の卓へ近づいた。
「お味はいかがですか?」
「料理はうまい」
ガイルはすぐに答えた。
「酒もうまい。ただ、二つが重なると少し強い」
「料理の量を減らした方がよいでしょうか?」
「いや、それは違う」
「鶏肉を小さくされたら、食べた気がしなくなる」
「バターソースを減らすのは?」
サラが尋ねる。
ガイルは少し考えた後、首を横へ振った。
「減らしたら、この料理のよさがなくなるんじゃないか?」
「私も、今の味は変えない方がいいと思う」
サラも同意した。
レンは二人の杯を見る。
ロックでは酒の力強さが、料理の余韻へ重なっている。
水割りでは刺激が和らぐが、口の中を整え、すぐ次の一口へ進ませるほどではない。
料理を変えず、酒そのものも変えない。
変えられるものがあるとすれば、飲み方だった。
「少し、ルークさんへ相談してきます」
レンは卓を離れ、厨房へ向かった。
◇
厨房では、ルークが次の注文に使う鶏肉を焼いていた。
皮目を下にして鍋へ置き、出てきた余分な脂を落としながら、香ばしい焼き色を付けている。
レンは火の邪魔にならない場所で声をかけた。
「ルークさん」
「どうした?」
「鶏肉の脂を、もう少し減らすことはできますか?」
ルークはすぐには答えなかった。
鍋の中の肉を返し、火の通り方を確かめる。
「減らせる」
「味は変わりますか?」
「変わる」
ルークは迷わず答えた。
「皮を外せば、脂はかなり減る。でも、香ばしさもなくなる。皮を長く焼けば脂は落ちるが、その分、肉まで固くなりやすい」
「バターソースは?」
「量は減らせる。ただ、バターを減らしすぎれば、レモンの酸味が前へ出る」
「今の味を保ったまま、脂の重さだけを減らすのは難しいですか?」
「ああ」
ルークは火を僅かに弱めた。
「この料理は、鶏皮とバターがあるから今の味になっている。脂を減らすことだけを考えれば、別の料理になる」
レンは頷いた。
「やはり、料理を変えすぎるべきではありませんね」
「客から何か言われたのか?」
「ガイルさんが、ウイスキーのロックと合わせると少し重いと感じたようです。サラさんの水割りでも、後味を十分に軽くするほどではありませんでした」
「なら、ビールへ変えればいい」
「そういう選び方もできます。ただ、ガイルさんはウイスキーと料理を一緒に楽しみたいそうです」
「酒を変えたくないのか」
「はい。それに、料理の味も変えてほしくないと言っていました」
ルークは焼き上がった鶏肉をまな板へ移した。
「料理も変えず、酒も変えないなら、どうする?」
「酒の飲み方を変えます」
レンの答えに、ルークが手を止めた。
「水割り以外にあるのか?」
「あります」
レンは、細かな泡を含んだ水でウイスキーを割る飲み方を思い浮かべた。
口へ含んだ瞬間、泡の刺激が広がる。
料理の香ばしさを消すのではなく、口の中へ残る重さを和らげる。
その後には、ウイスキーの木の香りと穀物の甘さが残る。
芋焼酎でも同じことができるはずだった。
穏やかな甘い香りを残しながら、イワナの脂や燻製の余韻を軽くする。
「ウイスキーや芋焼酎を、泡の入った水で割ります」
「泡の入った水?」
「飲むと舌へ細かな刺激がある水です」
「そんな水があるのか?」
「自然に泡を含む泉が、どこかにあるかもしれません」
ルークはレンの顔を見る。
「川の流れで泡立っている水とは違うんだな?」
「はい。水の中へ、細かな泡が含まれているものです」
「それで料理の後味が変わるのか?」
「普通の水より、口の中をさっぱりさせやすいと思います」
ルークはしばらく考えた。
「料理を軽くするんじゃなく、酒の飲み方で次の一口を食べやすくするのか」
「はい」
「それなら、今の料理を変えなくて済む」
「私も、そうしたいと思っています」
ルークは切り分けた鶏肉を皿へ盛り、レモンバターソースをかけた。
「本当にそんな水があるなら、試してみたい」
「バルドさんへ聞いてみます」
「酒商会なら、変わった水の話も知っているかもしれないな」
レンは頷いた。
ルークの料理を変えず、さらにおいしく食べてもらう。
そのために必要なのは、新しい料理ではなく、新しい一杯だった。
◇
数日後。
バルドは酒商会の仕事を終えた後、Club Moon Dropを訪れた。
ロイは受付で会員証を確認し、預けられているボトルの残量を帳面で確かめた後、バルドを店内へ案内した。
来客の確認を終えたロイは受付に立ち続けるのではなく、近くの卓から空いた杯を下げ、ディーノへ次の配膳順を伝えている。
バルドがいつもの席へ着くと、レンが近づいた。
「バルドさん、少し相談したいことがあります」
「酒の卸売についてか?」
「いえ。店で使う水についてです」
「水?」
バルドは意外そうに眉を上げた。
「酒ではなく、水を探しているのか」
「ルークさんの料理に合う、新しい酒の飲み方を店へ出したいと思っています」
「どんな飲み方だ?」
「ウイスキーや芋焼酎を、泡の入った水で割ります」
バルドはしばらくレンを見た。
「泡の入った水というのは、川の流れで泡立っているという意味ではないな?」
「はい。水そのものに細かな泡が含まれ、飲むと舌へ軽い刺激があるものです」
「酒へ入れて、何が変わる?」
「料理を食べた後の重さを和らげます」
レンは、近くの卓へ運ばれていく鶏もも肉の香草焼きを示した。
「今のウイスキーは、ロックでは力強く、水割りでは柔らかく飲めます。ただ、鶏皮やバターソースと合わせると、酒の濃さまで重なることがあります」
「確かにな」
バルドは以前にも、その組み合わせを味わっている。
「泡の刺激があれば、口の中を一度整え、その後に酒の香りを残せると思います」
「普通の水では駄目なのか?」
「普通の水割りよりも、次の一口へ進みやすくなる可能性があります」
「芋焼酎も同じか?」
「はい。イワナの燻製と大豆のアクアパッツァへ合わせたいと考えています」
バルドは腕を組んだ。
「泡のある水か……」
「心当たりがありますか?」
「あるにはある」
その答えに、レンは姿勢を僅かに正した。
「どこにありますか?」
「ここから離れた村の近くだ。山と森の境に、底から細かな泡が出ている泉がある」
「飲める水ですか?」
「近くの村人は飲んでいる」
バルドは記憶をたどるように続けた。
「村人が薪や薬草を取りに山へ入った時、その泉で水を飲むそうだ。俺も昔、村へ酒を運んだ時に口にしたことがある」
「どのような味でしたか?」
「強い匂いはなかった。普通の水より舌へ細かな刺激があって、少しだけ酸味があった」
「探しているものに近いと思います」
レンの答えに、バルドは僅かに目を見開いた。
「まだ実物を見てもいないだろう」
「はい。ですから、安全性や水量も含めて確認したいと思います」
「だとしても、なぜ今まで誰も売ろうとしなかったと思う?」
「運ぶのが難しいからでしょうか」
「それもある」
バルドは杯を持ち上げた。
「だが、一番の理由は、泡があるとはいえ水だからだ」
「水だから?」
「街には井戸がある。店でも家でも、水なら安く手に入る」
バルドはウイスキーへ僅かに口を付けた。
「遠い村まで荷車を出し、瓶へ詰め、割れないように運ぶ。瓶代と運搬費まで加えた水を、誰が買うと思う?」
「水だけなら、そうかもしれません」
「そうだろう」
「ですが、酒と料理へ合わせれば違います」
レンは落ち着いて言った。
「水をそのまま売るのではありません。ウイスキーや芋焼酎へ合わせ、ルークさんの料理を最後までおいしく食べてもらうために使います」
バルドは黙って聞いている。
「水だけを見れば、遠くから運ぶ価値は低いかもしれません。しかし、酒と料理の間へ入れることで、新しい価値が生まれます」
「酒と料理をつなぐ水か」
「はい」
「ただの泡のある水ではなく、新しい飲み方を作る材料として使う」
「そのとおりです」
バルドはしばらく考えた後、低く笑った。
「なるほどな」
「何ですか?」
「俺は泉の話を知っていても、ただの水だと思っていた」
バルドは卓の上の杯へ目を向ける。
「水だけを見れば、わざわざ運んで売る理由はない。だが、お前は酒と料理へ合わせるところまで考えた」
「まだ、使えると決まったわけではありません」
「それでも、見に行く価値はある」
「案内していただけますか?」
「ああ。ただし、泉の水が安全でも、泡を残したまま運べるとは限らないぞ」
「分かっています」
「汲んで置くと、泡が弱くなると聞いている」
「どの程度残るかも確認したいと思います」
バルドは頷いた。
「護衛を用意する。山道へ入るから、最低でも二人は必要だ」
「お願いします」
「村へ勝手に入り、水を持ち出すわけにもいかない。村長にも先に話を通しておく」
「その方がよいです」
こうしてレンとバルドは、泡を含む泉を確かめるため、山と森の境にある村へ向かうことになった。
◇
数日後の朝。
レンとバルドは、酒商会が用意した荷車に乗り、街を出た。
同行するのは、商会と長く契約している二人の護衛だった。
一人は剣を持ち、もう一人は弓を背負っている。
荷車には、水を持ち帰るための空瓶と木箱、布、簡単な食料が積まれていた。
「最初から瓶を持っていくのですね」
レンが尋ねた。
「泉を見て、使えそうなら試しに汲む」
バルドが答えた。
「ただし、普通の酒瓶だ。泡を残せるかは分からない」
「専用の瓶を作る前に、今ある瓶でどの程度まで運べるか確かめる必要があります」
「最初から新しい瓶を作らせないのか?」
「普通の瓶でも十分なら、その方が費用を抑えられます。足りないと分かってから、必要な形を決めるべきです」
「なるほどな」
「木樽の方が多く運べるぞ」
「木樽では、板の隙間から泡が抜ける可能性があります」
「栓を強く閉めてもか?」
「完全には塞げないと思います。それに、荷車の揺れで栓が緩む可能性もあります」
「なら、最初は瓶で試すしかないか」
荷車は街道を進み、やがて道幅の狭い場所へ入った。
山と森の間を通る道は石が多く、街の近くよりも揺れが大きい。
遠くには低い山並みが見え、その麓に小さな村があった。
畑と木造の家が並び、村の外側には薪が積まれている。
バルドは以前から取引のある村長へ挨拶し、泉を確認したい理由を説明した。
「泉の水を、街へ持っていくのですか?」
年老いた村長が尋ねた。
「まだ決めたわけではない」
バルドが答える。
「まず、安全に使えるか、泡を残したまま運べるかを確かめたい」
「村人が飲む分を奪うつもりはありません」
レンも続けた。
「泉の水量や、村でどのように使われているかも教えていただきたいと思っています」
村長は少し考えた後、頷いた。
「それなら、案内しましょう」
泉は村から歩いてしばらく進んだ森の中にあった。
木々の間を抜け、緩い坂を上った先に、岩に囲まれた水場が見える。
水は澄んでいた。
泉の底では、細かな泡が絶えず生まれ、水面へ向かって上がっている。
「本当に、底から泡が出ていますね」
レンが言った。
「昔からこうです」
村長が答える。
「村人は薪を取りに来た時や、薬草を探す途中に飲みます」
「腹を壊した者はいませんか?」
「聞いたことはありません」
「強い匂いは?」
「ありません。ただ、普通の水より少し舌へ刺激があります」
「汲んで置くとどうなりますか?」
「時間が経つと、泡は弱くなります」
レンは泉へ近づき、手ですくった。
水は冷たい。
口へ含むと、細かな刺激が舌へ広がった。
僅かな酸味はあるが、嫌な味ではない。
鑑定を使う。
水そのものに、強い毒性や身体へ悪影響を与える性質は見当たらない。
現在の水質にも問題はなかった。
レンは泉から流れ出す水と、底から湧き続ける様子も確かめる。
鑑定で確認できたのは、現在の湧出量と水質までだった。
長い年月の変化まで、すべて分かるわけではない。
「この泉は、雨の少ない時期でも変わりませんか?」
レンは村長へ尋ねた。
「少し水位が下がることはあります」
「飲めなくなるほどですか?」
「そこまで減ったことはありません。ただ、大勢で汲み続けたこともありません」
村人の経験と、現在の湧き方を合わせて考える。
村で使う分を残し、少量ずつ採取するのであれば、すぐに問題が起きる可能性は低い。
しかし、無制限に汲み出してよい水ではなかった。
「どうだ?」
バルドが尋ねた。
「飲むことに問題はありません。現在の水質もよいです」
「量は?」
「村人が使う分を残した上で、少量ずつなら運べると思います。ただし、一日の採取量を決め、泉の水位を確認し続ける必要があります」
「無制限には取れないということか」
「はい」
レンは村長の方を見た。
「村の方々が飲む分を、必ず先に確保するべきです」
「もちろんだ」
バルドも即座に同意した。
レンは空瓶を取り出し、泉の水を静かに入れた。
勢いよく注げば、その分だけ泡が抜けやすくなる。
瓶を僅かに傾け、水を内側へ沿わせる。
「ずいぶん慎重だな」
バルドが言う。
「泡をできるだけ逃がしたくありません」
「瓶の上まで入れるのか?」
「はい。中の空間が多いと、そこへ泡が逃げやすくなります」
瓶内の空間を少なくし、栓を強く閉める。
普通の栓だけでは、内側からかかる力に耐えられない可能性があるため、レンは布と紐を使って仮に固定した。
「これで街まで持つか?」
「分かりません。だから試します」
同じ方法で数本の瓶へ水を入れ、木箱へ収めた。
瓶同士がぶつからないよう、間に布を詰める。
帰り道の揺れをできるだけ抑えるため、木箱は荷車の中央へ固定された。
◇
街へ戻った後、レンとバルドはすぐに瓶を確認した。
栓は外れていない。
瓶も割れていなかった。
レンが最初の一本を開ける。
小さな音が鳴った。
だが、泉で飲んだ時よりも弱い。
杯へ注ぐと泡は立つものの、舌への刺激もかなり穏やかになっていた。
「完全には抜けていないな」
バルドが言う。
「ですが、求めている強さより弱くなっています」
「酒へ使えないか?」
「使えないほどではありません。ただ、これでは普通の水割りとの差が小さいと思います」
二本目も似た状態だった。
三本目は、栓を固定した紐が少し緩んでいる。
開けてもほとんど音がせず、普通の水に近くなっていた。
「荷車の揺れで緩んだか」
「それだけではありません。瓶の形と厚さも向いていないと思います」
「細長い方が箱へ並べやすいだろう」
「今の瓶は薄く、栓を強く固定することを考えて作られていません」
「なら、酒の卸売用とは別の瓶が必要か」
「はい。厚手で、少し丸みのある瓶がよいと思います」
内側から力がかかっても割れにくいこと。
瓶口へ栓を押さえる金具を付けられること。
さらに針金で固定し、揺れても緩まないようにすること。
「またガラス工房へ相談するのか」
「お願いします」
「木箱も変える必要があるな」
「瓶が中で動かないよう、仕切りを付けてください。底と側面には、布や藁を入れた方がよいと思います」
「日光は?」
「避けるべきです。熱くなれば、瓶の中へかかる力が強くなる可能性があります」
「開けた後は?」
「早めに使います。一度開ければ、泡は抜けていきます」
バルドは必要な内容を帳面へ書き込んだ。
「最初からうまくはいかないか」
「それでも、泡が残ることは分かりました」
「瓶と栓を変えれば、もっと残せる」
「はい」
一度目の輸送は失敗に近かった。
だが、無駄ではない。
普通の酒瓶で何が足りないのかが分かった。
次に直すべきものも見えていた。
◇
それから何日か後。
バルドが取引のあるガラス工房から、炭酸水の輸送に使う試作瓶が届いた。
厚手で、細長すぎない丸みのある瓶。
瓶口には丈夫な栓を使い、その上から金具と針金で固定できるようになっている。
試作瓶に合わせ、木箱にも一瓶ずつ収まる仕切りが設けられた。
底と側面には布と藁を詰め、荷車の揺れが直接瓶へ伝わりにくくしている。
レンとバルドは、再び村へ向かった。
二度目の輸送では、泉で汲む時から方法を変えた。
瓶を傾け、水を内側へ静かに沿わせて入れる。
瓶内の空間をできるだけ少なくする。
栓を閉めた後、金具をかけ、針金をねじって固定する。
木箱へ収めた後は、瓶が動かないことを一本ずつ確認した。
「ここまでして、水を運ぶとは思わなかった」
作業を見ていた村人が言う。
「水を運ぶだけなら、ここまではしません」
レンが答えた。
「泡を残したまま運ぶ必要があります」
「その泡が、酒へ使えるのですか?」
「はい」
「どんな味になるんでしょう」
「うまく運べたら、いずれ試していただけるかもしれません」
二度目の荷車は、最初よりも速度を落として街へ戻った。
大きな石を避け、道の悪い場所では特に慎重に進む。
途中で一度止まり、木箱の固定と針金の緩みも確認した。
街へ到着した後、バルドの酒商会で木箱を開ける。
針金は緩んでいない。
瓶にも異常はなかった。
レンが一本目の金具を外し、栓を開ける。
今度は、はっきりとした小さな音が鳴った。
杯へ注ぐと、細かな泡が次々に立ち上る。
レンは一口飲んだ。
泉で飲んだ時と完全に同じではない。
それでも舌へ十分な刺激があり、僅かな酸味も残っている。
「どうだ?」
バルドが尋ねた。
「これなら使えます」
「本当か?」
「はい。十分に泡が残っています」
バルドも杯を受け取り、口へ含んだ。
「最初より、かなり強いな」
「輸送方法を守れば、街まで運べます」
「では、次は村との契約だ」
◇
バルドは再び村を訪れ、村長と正式な話し合いを行った。
泉の水を街へ運ぶこと。
Club Moon Dropで、ウイスキーや芋焼酎へ合わせるために使うこと。
今後、十分な水量と需要が確認できた場合には、ほかの取引先へ販売する可能性があること。
そのすべてを隠さずに説明した。
「泉を酒商会のものにするのですか?」
村長が尋ねた。
「しない」
バルドははっきり答えた。
「泉の所有権を奪うつもりはない。今までどおり、村のものだ」
「では、村人が飲めなくなることは?」
「それもありません」
レンが答える。
「村の方々が飲む分を最優先します。その上で、一日に汲み出せる量を決めます」
「水量が減った場合はどうしますか?」
「出荷量を減らす」
バルドが言った。
「村人の分を減らしてまで売るつもりはない」
「泉から汲む者は、どうするのですか?」
「村の者を雇いたい」
「私たちを?」
「泉の扱いを一番知っているのは、ここで暮らしている者だ」
バルドは村長を真っすぐ見る。
「外から人を連れてきて勝手に汲ませるより、村の者へ任せた方がいい。採取と瓶詰めを仕事として頼み、賃金を支払う」
「瓶詰めの方法はこちらからお伝えします」
レンも続けた。
「水を静かに入れることや、瓶内の空間を少なくすること、栓の固定方法などです」
村長は契約内容を確認する。
村人が飲む分を最優先すること。
一日の採取量を制限すること。
採取した量に応じて、酒商会が村へ使用料を支払うこと。
瓶詰めを担当する村人へ、別に賃金を支払うこと。
さらに、村へ続く道の整備、泉の周囲を汚さないための管理、水量が減った場合の出荷制限も契約書へ記された。
「それほどまでして運んだ水を、街の人は買うのでしょうか」
村長が最後に尋ねた。
「水だけなら、難しいかもしれない」
バルドは正直に答えた。
「だが、酒や料理と一緒なら価値があると、レンは考えている」
村長はレンを見る。
「本当に、この水が酒をおいしくするのですか?」
「水だけで酒がおいしくなるわけではありません」
レンは答えた。
「酒の香りを残しながら、料理の後味を軽くする飲み方へ使います。料理をもう一口食べたくなる一杯を作りたいと思っています」
村長はしばらく考えた後、静かに頷いた。
「村の暮らしを壊さないのであれば、協力しましょう」
契約が結ばれた。
バルドの酒商会は、村への使用料、瓶詰めを担当する村人の賃金、瓶や栓の費用、荷車と護衛を使う輸送費を負担する。
Club Moon Dropは、炭酸水の使い道と輸送方法を提案した対価として、今後ほかへ販売する場合より低い優先価格で仕入れることになった。
もちろん、無料ではない。
村と酒商会へ必要な費用を支払った上での契約だった。
「普通の水よりは高くなるぞ」
バルドが言った。
「分かっています」
「店で出す値段も考えろ」
「はい。酒と合わせた一杯として、無理のない価格を決めます」
「水だけを欲しがる客が出たらどうする?」
「最初は、店で酒へ使う分だけにします」
「その方がいいな」
バルドは契約書を閉じた。
「まずはClub Moon Dropで、本当に価値があるか見せろ」
「そのつもりです」
◇
村との契約を終えた後、最初の炭酸水が運ばれる準備が始まった。
泉の近くには、瓶を安定して置くための簡単な台が作られた。
採取を担当する村人たちは、汲んだ水を静かに瓶へ入れる方法を覚えていく。
酒商会は、厚手の瓶と金具、針金、仕切り付きの木箱を村へ運んだ。
街へ戻る荷車には、日差しを避けるための布がかけられることになった。
バルドは、輸送を担当する者へも注意を伝える。
「急ぐ必要はない。瓶を割らず、泡を残して運ぶ方が大事だ」
「道の悪い場所では速度を落とします」
「途中で木箱の固定も確認しろ」
「分かりました」
レンはClub Moon Dropへ戻り、ルークへ結果を伝えた。
「泡の入った水は見つかりました」
「本当にあったのか」
「はい。輸送方法も決まりました」
「もう使えるのか?」
「最初の納品を待っています」
「どんな味だった?」
「強い味はありません。舌へ細かな刺激があり、僅かに酸味があります」
「酒へ入れて、料理に合うかはまだ分からないんだな」
「はい。実際に試して、酒と水の量を調整する必要があります」
「ウイスキーだけか?」
「芋焼酎にも使います」
ルークは厨房に並ぶ食材へ目を向けた。
「鶏肉にはウイスキーか」
「はい」
「イワナには芋焼酎」
「その組み合わせから試したいと思います」
「分かった」
ルークは僅かに笑った。
「俺の料理を変えずに済むなら、うまくいってほしい」
「私もそう思っています」
料理の味を削らず、酒の魅力も失わない。
その間をつなぐために、遠い村の泉から泡を含んだ水が運ばれようとしていた。
◇
バルドがただの水だと思っていた泉は、酒と料理をつなぐ新しい材料へ変わり始めていた。
最初の輸送では、泡を十分に残せなかった。
それでも、瓶の厚さや形、栓の固定方法、木箱の仕切り、荷車の進み方を見直すことで、街まで運べるようになった。
村の水を奪うのではない。
村人が飲む分を最優先し、必要な量だけを汲み、使用料と賃金を支払う。
泉を守りながら、その水へ新しい使い道を加える。
ルークの料理を軽くするためではない。
鶏皮の香ばしさも、バターのコクも、イワナの旨みも残したまま、次の一口をおいしくするために。
最初の炭酸水を載せる荷車が、山と森の境にある村で、出発の時を待っていた。
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