↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第4章 育つ店、広がる縁

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

88/130

第86話 隠していた恋と増える料理

 レオナルドが特別会員となり、鍵付きの棚へ会員たちの酒が並び始めてから、Club Moon Dropの営業には新しい流れが生まれていた。


 正式会員の中には、ウイスキーや芋焼酎を一本単位で購入し、自分の瓶を店へ預ける者が少しずつ増えている。


 受付を担当するロイは、会員証と紹介者の確認に加え、指名の希望や預かっているボトルの有無を確かめるようになった。


 指名制度も、試験開始の頃より客へ知られるようになっている。


 厨房では、ルークが新しい料理の試作を進めていた。


 店で提供する酒も料理も、客が過ごすための仕組みも、少しずつ増えている。


 その一方で、まだ仲間へ伝えられていない変化もあった。


          ◇


 その日の夜営業を終えた後。


 最後の客を見送ったロイが入口の鍵を閉め、会員帳を受付台の引き出しへ収めた。


 店内では、リリアたちが卓を拭き、使用した杯や皿を片付けている。


 ディーノは酒台の周囲を確認し、空になった酒瓶や水差しを決められた場所へ戻していた。


 ルークは厨房へ運ばれた食器を洗いながら、翌日の仕込みに必要な食材を確認している。


 デュークは黒服の補助として、店内の片付けを手伝っていた。


 客がいる間はディーノの指示を受け、料理や酒を運び、空いた食器を厨房へ戻す。


 営業後には卓や椅子の位置を整え、店で使った箱や荷物を裏口の外へ運ぶことも任されている。


 エルナは、自分が担当した卓の片付けを終えると、裏口の近くに置かれていた空の木箱を持ち上げた。


「これ、外へ出しておくね」


「俺が持っていく」


 少し離れた場所で椅子を整えていたデュークが言った。


「これくらいなら私でも持てるよ」


「分かってる。でも、エルナの片付けは終わったんだろ」


「デュークも終わったの?」


「ああ。あとは、その箱を出せば終わりだ」


 デュークはエルナの持っていた木箱を受け取った。


 二人は、まだ作業を続けている者の邪魔にならないよう、裏口から外へ出る。


 その様子を、近くの卓を拭いていたリリアが偶然見ていた。


 箱を運ぶだけなら、何も不自然ではない。


 デュークは普段から、重い箱や食器の入った籠を運んでいる。


 勤務中のエルナとデュークも、これまでと変わらない態度だった。


 エルナは自分が担当する客への接客を優先し、デュークも任された仕事を離れてエルナの近くへ行くことはない。


 目が合っても、特別な合図を交わしてはいなかった。


 けれど、裏口の外へ出た二人は、木箱を置き終えた後もすぐには戻ってこなかった。


 リリアは卓を拭く手を止める。


 様子を確かめようとしたわけではない。


 外へ出す箱がほかにも残っていないか確認するため、裏口へ近づいただけだった。


 僅かに開いた戸の向こうから、エルナの笑い声が聞こえる。


「だから、今日は本当に大変だったんだって」


「見ていれば分かった」


「デューク、途中でこっちを見てたでしょ」


「お前が客の杯を倒しそうになっていたからだ」


「倒してないよ」


「倒しそうだった」


「でも、ちゃんと受け止めたでしょ?」


「ああ」


「それなら問題ないじゃない」


「危なかったことは変わらない」


「もう、細かいなあ」


 二人が話しているのは、その日の仕事についてだった。


 店内でも話せるような内容にすぎない。


 それでも、声の柔らかさが違った。


 エルナは客や仲間へ向ける明るさとは少し違う、落ち着いた笑い方をしている。


 デュークも普段より言葉が多かった。


 木箱を置いた後も、二人は並んだまま話している。


 リリアは戸を開けなかった。


 呼び戻す必要があるほど長く外にいるわけではない。


 そのまま静かに裏口から離れ、残っていた卓の片付けへ戻る。


「何かありましたか?」


 杯を集めていたミーナが尋ねた。


「ううん。外へ出すものが残ってないか見ただけ」


 リリアはそう答え、再び手を動かした。


 勝手に決めつけるつもりはない。


 その場でエルナを問い詰めれば、ほかの者にも聞こえてしまう。


 もし自分の考え違いなら、二人を困らせるだけだった。


 ただ、仕事を終えた後の二人の雰囲気は、これまでとは明らかに違っていた。


          ◇


 翌日の昼営業前。


 リリアは、エルナが一人で客席の椅子を整えている時間を見計らって声をかけた。


「エルナ、少しいい?」


「うん。何?」


「ここでいいよ。今は誰も近くにいないから」


 エルナは不思議そうにリリアを見る。


 受付では、ロイが会員帳を確認している。


 ディーノとデュークは入口付近を掃除していたが、リリアたちの会話が聞こえる距離ではなかった。


 ミーナとセレナは二階でリュートの弦を確かめている。


 ノアは事務所で前日の記録を整理し、ルークは厨房で仕込みを進めていた。


「昨日、片付けの後にデュークと話してたよね」


 エルナの手が止まった。


「見てたの?」


「見ようとしたわけじゃないよ。二人が箱を持って外へ出るところが見えて、その後、少しだけ声が聞こえたの」


「そうなんだ」


 エルナは椅子の背へ手を置いたまま、視線を下げる。


 リリアは声を小さくした。


「二人、何かあるの?」


 エルナはすぐには答えなかった。


 否定することも、笑ってごまかすこともしない。


 その反応だけで、リリアは自分の考えが間違っていなかったと分かった。


「付き合い始めたの?」


「……うん」


 エルナは小さく頷いた。


「少し前から」


「やっぱり」


「怒ってる?」


「どうして私が怒るの?」


「黙ってたから」


「驚いたし、どうして話してくれなかったのかなとは思ったよ。でも、付き合ってること自体に怒る理由はないでしょ」


 リリアはエルナの顔を見る。


「仕事中の二人は、今までと変わってなかったし」


「変えないようにしてる」


「分かってる」


「デュークと仕事の後に話すようになって、最初は相談しやすい相手だと思ってただけだったの」


 エルナは、椅子の位置を少し直しながら話し始めた。


「店であったことを話したり、デュークがどう思ったのか聞いたりしてるうちに、仕事が終わった後に二人で話せる時間を楽しみにするようになって……」


「うん」


「相談に乗ってほしいだけじゃなくて、デュークが何を考えて、どう答えてくれるのかを聞くのが楽しいんだって気づいたの」


 エルナの頬が僅かに赤くなる。


「それで、私から気持ちを確かめた。デュークも同じように思ってくれてたから、付き合うことになったの」


「そうだったんだ」


「でも、皆にすぐ言ったら気を遣わせるかもしれないでしょ。仕事に影響するんじゃないかって思われるのも嫌だった」


「だから黙ってたの?」


「うん。付き合い始めたばかりだったし、私たち自身もどうすればいいか分からなかったから」


 リリアは少し考えた。


 エルナが浮かれた様子で仕事を疎かにしているなら、注意する必要がある。


 だが、実際にはそうではない。


 二人は勤務中、互いを優先していなかった。


 エルナが困っている時にデュークが手伝うことはあるが、それはほかの者が困っている時も同じだった。


「勝手に皆へ話すつもりはないよ」


 リリアが言う。


「本当?」


「私が言うことじゃないから」


 エルナは少し安心したように息を吐いた。


「ありがとう」


「でも、ずっと隠し続けるのは難しいと思う」


「そうだよね」


「昨日は私が偶然気づいたけど、次はほかの誰かが見るかもしれない。後から知られるより、自分たちで話した方がいいよ」


 エルナは黙り込んだ。


「レンには話した方がいいかな」


「同じ店で働いてるんだから、その方がいいと思う」


「反対されないかな」


「仕事へ持ち込まないなら、レンは付き合うこと自体を駄目とは言わないんじゃない?」


「でも、分からないよ」


「だったら、なおさら聞いた方がいいよ」


 リリアはエルナの肩へ軽く触れた。


「隠してるから、悪いことをしてるみたいに感じるんだよ。二人で決めたなら、二人で話せばいい」


「デュークにも相談してみる」


「うん」


「リリア」


「何?」


「本当に、皆にはまだ言わないでね」


「言わないよ」


 リリアが答えると、エルナはようやく笑った。


 その時、厨房からルークの声が聞こえる。


「誰か、皿を運んでくれ」


「今行く!」


 エルナが返事をし、厨房へ向かった。


 その背中を見ながら、リリアは小さく息を吐く。


 驚きはした。


 だが、エルナがデュークと話すようになってから、以前より自分の考えや気持ちを言葉にすることが増えた気もしていた。


 問題になるかどうかは、付き合っていることではない。


 二人が仕事と私生活を分けられるかどうかだった。


          ◇


 その日の営業後。


 最後の片付けを終えた後も、エルナとデュークは帰らずに店内へ残っていた。


 二人がそろってレンの近くへ来たことで、リリア以外の者も何かあると気づく。


「レン、少し話してもいい?」


 エルナが尋ねた。


「はい」


 レンは手にしていた帳面を閉じた。


「皆さんにも聞いていただきたい話ですか?」


 エルナはデュークを見る。


 デュークが頷いた。


「うん。皆にも話したい」


 ロイは受付の確認を終え、店内へ戻る。


 ディーノとルークも手を止めた。


 二階へ道具を戻そうとしていたノアも、その場に残った。


 リリアは何も言わず、エルナの言葉を待つ。


「私とデューク、付き合うことになりました」


 店内が静かになった。


 最初に声を出したのはミーナだった。


「付き合うというのは……恋人になったということですか?」


「うん」


 エルナの頬が僅かに赤くなる。


 セレナは驚いたように二人を見比べた。


「いつからですか?」


「少し前から」


「全然分からなかった」


 ディーノが言う。


「仕事中は、今までと変わらなかったからな」


「変えないようにしてたんだ」


 エルナが答えた。


「黙っていたことは謝りたい」


 デュークが続ける。


「仕事へ影響すると疑われたくなかった。付き合い始めたばかりで、周囲へ余計な気を遣わせるのも避けたかった」


「それに、勤務中に私たちのことを持ち込むつもりはなかったの」


 エルナが言う。


「少し落ち着いてから話そうと思ってた。でも、隠したまま後で知られる方がよくないと思って」


 リリアは黙ったままエルナを見る。


 エルナも一瞬だけリリアを見て、小さく頷いた。


 レンは二人の話を聞いた後、ゆっくりと口を開く。


「二人が仕事と私生活を分けられるのであれば、付き合うこと自体に問題はありません」


 エルナは安堵したように息を吐いた。


「本当に?」


「はい。ただし、勤務中に互いを優先し、ほかの方への対応が遅れることは認められません」


「分かってる」


「二人の間で問題が起きた時も、店内へ持ち込まないでください」


 今度はデュークが答えた。


「分かった」


「どちらかが困っている時に助けることは問題ありません。ただし、それは恋人だからではなく、同じ店で働く仲間だから行ってください」


「はい」


 エルナは真剣な表情で頷いた。


「私も、仕事中の態度は変えない。自分の担当を優先する」


「俺も同じだ」


 レンは二人の答えを確認した。


「それなら、私から反対することはありません」


「よかった」


 エルナの声が明るくなる。


「でも、いつからだったんですか?」


 ミーナが改めて尋ねた。


「何日か前。仕事の後に話してて、お互いに好きだって分かって」


「エルナさんから気持ちを伝えたのですか?」


「それは……」


 エルナが言葉に詰まる。


 デュークが横から答えた。


「エルナが先に、俺の気持ちを聞いた」


「ちょっと、全部言わなくてもいいでしょ」


 エルナが慌ててデュークを見る。


 店内に小さな笑いが広がった。


「隠す必要はなくなったんだからいいだろ」


「そういうことじゃないの」


「二人とも、もう喧嘩しているみたいだな」


 ディーノが笑う。


「喧嘩じゃないよ」


 エルナはすぐに否定した。


 セレナも穏やかに微笑む。


「おめでとうございます」


「ありがとう」


「私も、おめでとうございます」


 ミーナが続ける。


 ノアは二人を見ながら言った。


「勤務の記録へ書く必要はありませんよね」


「書かなくていいよ!」


 エルナが慌てて答える。


「冗談です」


 ノアの表情は大きく変わらなかったが、僅かに口元が緩んでいた。


 ロイは二人へ目を向ける。


「受付や客から見て、特別な関係だと分かるような態度は避けてください」


「分かってる」


「客から余計な誤解をされても困るからな」


 デュークも頷いた。


 最後に、ルークが短く言う。


「料理を運ぶ途中で立ち止まらなければ、それでいい」


「止まらないよ」


「なら、俺は何も言わない」


 エルナは仲間たちの顔を見回した。


 心配していたような反対はなかった。


 だからといって、何をしても許されるわけではない。


 二人が約束したとおり、仕事中はそれぞれの役目を優先する必要がある。


 それでも、隠していた時より、エルナの胸の中は軽くなっていた。


          ◇


 指名制度も、試験開始の頃より店へ馴染み始めていた。


 受付では、ロイが会員証を確認した後、指名の希望があるかを尋ねる。


 希望する者には、指名料と利用できる時間、キャスト本人が断る場合もあることを改めて伝えていた。


 指名の記録は、客やキャストに関わる情報として、ロイとレンが管理している。


 営業後、ロイがその日の指名件数をレンへ報告し、ノアが必要な部分だけを別の記録へまとめる。


 記録を確認すると、最近はリリアを希望する客が特に多かった。


 昼には、以前からリリアの接客を気に入っている女性客が指名する。


 夜には、穏やかに酒を飲みながら話を聞いてほしい会員がリリアを選んだ。


 リリアは相手の話へ丁寧に耳を傾ける一方で、ほかの卓の様子も忘れない。


 決められた時間が過ぎれば席を離れ、指名していない客への対応にも戻っていた。


 すべての指名を受けているわけではない。


 疲れが残っている日には指名の受付を止め、以前に不快な言動があった客からの希望は断った。


 ある日の営業後、ロイが指名記録を確認していると、レンが隣から尋ねた。


「負担は偏っていますか?」


「リリアさんへの希望が多いですが、本人が受ける数を調整しています。今のところ、対応できないほどではありません」


「そうですか」


 近くで片付けをしていたディーノが、その会話を聞いて振り返る。


「最近、リリアを呼ぶ客が多いとは思っていたが、やっぱり増えているのか」


「以前より増えています」


 ロイが答えた。


 エルナも近くへ来る。


「客の間でも、リリアを指名したいって話を聞くよ。一番人気なんじゃない?」


「一番って言われても困る」


 リリアは眉を寄せた。


「私たちは、それぞれ接客の仕方も役割も違うでしょ」


「でも、そう言う客が出始めてるんだよ」


 エルナが答える。


「リリアを選ぶ人が多いから」


「そういう競争をする制度じゃないはずです」


 リリアはレンを見る。


「はい」


 レンが答えた。


「指名数で順位を付けるつもりはありません」


 レンはロイが閉じた記録帳へ目を向ける。


「この記録は、誰に負担が偏っているか、どのような客がどの方との会話を望んでいるかを確認するために使います」


「指名が一番多ければ、何か特別に変わるわけではないんですか?」


 ミーナが尋ねる。


「指名料の本人への還元分は増えます。ただし、ほかのキャストより上の立場になるわけではありません」


「それならよかったです」


 リリアは小さく息を吐いた。


 だが、最近は自分を指名する客が多いという事実が消えるわけではない。


 客の間でも、リリアが最も多く選ばれているらしいという話が、少しずつ広まり始めていた。


 それを誇る気持ちより、期待を裏切らないようにしなければならないという意識の方が強かった。


「無理にすべて受ける必要はありませんよ」


 レンが言う。


「分かっています」


「希望が増えたからといって、断りにくく感じる必要もありません」


「はい。ただ……選んでくれた方には、きちんと向き合いたいと思います」


「それで十分です」


 リリアは頷いた。


 一番人気と呼ばれることには、まだ慣れない。


 けれど、自分を選んだ客へ責任を持って向き合うことならできる。


 指名数は競争のための数字ではない。


 今のリリアは、自分へ向けられた期待を知るための記録として受け止めていた。


          ◇


 その頃、厨房では二つの新しい料理が試作されていた。


 一品目は、イワナの燻製と大豆のアクアパッツァ。


 アクアパッツァという聞き慣れない料理名は、レンが提案したものだった。


 魚を水や少量の酒と一緒に煮て、その旨みを煮汁へ移す料理だと説明すると、ルークは興味を示した。


 生のイワナを街まで安定して運ぶことは難しい。


 川の近くで捕れた魚を、その日のうちにClub Moon Dropまで運べるとは限らない。


 無理に生のまま運べば、途中で傷む危険もある。


 そこで使用することにしたのが、市場で販売されているイワナの燻製だった。


 燻製に加工されたイワナは、生の魚よりも長く保存できる。


 山間の村で捕れた魚を塩漬けにした後、煙で燻したもので、街の食料品店や市場でも扱われていた。


 燻製そのものをルークが作る必要はない。


 仕入れた食材を使えるため、営業前の仕込みへ大きな負担を増やすことなく、一定の数を準備できる。


 調理台には、仕入れたイワナの燻製と、柔らかく煮た大豆が並んでいた。


 ルークはイワナを手に取り、表面の色と香りを確かめる。


「香りは悪くない。ただ、そのまま煮ると強すぎるかもしれない」


「塩も使われていますね」


 レンが言った。


「ああ。煮汁へ全部出たら、かなり濃くなる」


 一度目の試作では、イワナの燻製を大きく切っただけで鍋へ入れた。


 そこへ大豆と水を加え、弱い火で煮込んでいく。


 しばらくすると、燻製の香りが厨房へ広がった。


 香ばしい匂いではある。


 だが、Club Moon Dropで提供する料理としては強すぎた。


 煮汁を味わうと、魚と大豆の旨みより先に煙の香りと塩気を感じる。


「これでは、酒より料理の香りが勝ちますね」


 味を確かめたレンが言う。


「ああ。それに塩気も強い」


 ルークは残ったイワナの燻製を見つめた。


「燻製を変えるか?」


「仕入れる品を選ぶ必要はあると思います。ただ、毎回まったく同じ塩気にはならないかもしれません」


「なら、使う前に調整する」


 ルークは次の試作で、イワナの燻製を短い時間だけぬるい水へ浸した。


 長く浸せば、燻製の香りだけでなく魚の旨みまで抜けてしまう。


 表面に残った強い塩気と煙の香りを僅かに和らげる程度で引き上げ、清潔な布で水気を丁寧に拭き取った。


 次に、頭や大きな骨を取り除いていく。


 燻製になっているとはいえ、客へそのまま出せば骨を気にしながら食べなければならない。


 それでは会話を楽しみながら食べられる料理にはならない。


「細かい骨も多いな」


 ルークが身を確かめながら言う。


「すべて取り除けますか?」


「全部は難しい。でも、食べる時に気になる大きさの骨はできるだけ取る」


 骨を取り除いた身を、食べやすい大きさへ分ける。


 大豆と一緒にすくえる程度の大きさを残し、細かく崩しすぎないようにした。


 二度目の試作では、先に大豆と水を鍋へ入れた。


 そこへ処理を終えたイワナの燻製を加える。


 すでに魚へ塩味が付いているため、最初から塩は加えない。


 香草も、燻製の香りを消さない程度に抑えた。


 弱い火で煮るうちに、イワナの旨みが煮汁へ移っていく。


 大豆も魚の味を吸い、先ほどより穏やかな香りが厨房へ広がった。


 ルークは煮汁を味わった後、ごく僅かに塩を加える。


「今度はどうだ?」


 小さな器をレンへ渡した。


 レンは煮汁を口に含む。


 最初に魚と大豆の旨みがあり、その後から柔らかな燻製の香りが残った。


 塩気も強すぎない。


「先ほどより、かなりよくなりました」


「燻製を水へ浸す時間は、仕入れた品によって変えた方がよさそうだ」


「毎回、先に味を確かめた方がよいですね」


「ああ。香りと塩気を見てから決める」


 保存の利く燻製品であっても、作った場所や時期によって、僅かに仕上がりが違う可能性がある。


 ルークは仕入れたイワナを使う前に必ず確認し、必要に応じて水へ浸す時間や煮汁へ加える塩の量を調整することにした。


「これなら、芋焼酎にも合うと思います」


 レンが言う。


「水割りなら、魚の脂と燻製の後味を重くしすぎないかもしれない」


「ビールでも悪くない」


 ルークは少し深さのある器へ盛り付けた。


 イワナの身と大豆を一緒にすくうことができ、煮汁も残さず味わえる。


 骨もできるだけ取り除いてあるため、客は会話を大きく止めることなく食べられる。


「名前は本当に、アクアパッツァでいいのか?」


 ルークが尋ねた。


「聞き慣れない言葉ではありますね」


「客に説明しないと分からないぞ」


「料理名の下に、イワナの燻製と大豆を煮込んだ料理だと説明を加えましょう」


「それならいい」


 二品目は、豚バラ肉とじゃがいものポトフだった。


 豚バラ肉を弱い火で時間をかけて煮込み、肉の旨みを煮汁へ移す。


 じゃがいもとにんじんを加え、香辛料は控えめにした。


 一度目の試作は、豚肉の脂が煮汁へ出すぎた。


 味は濃く、満足感もある。


 しかし、夜に酒を飲みながら食べるには重い。


「昼なら、これくらいでも食事になる」


 ルークが言う。


「ですが、夜の小さな料理としては重いですね」


 レンも同意した。


 ルークは豚肉の表面を焼き、出てきた余分な脂を一度取り除いてから煮込むことにした。


 煮込みの途中で浮いた脂もすべて残すのではなく、香りとコクが失われない程度にすくい取る。


 脂を減らしすぎれば、豚バラ肉を使う意味がなくなる。


 残しすぎれば、酒を飲みながら食べる料理として重くなる。


 何度か調整し、豚肉の旨みを残しながら、最初の試作よりも後味を軽くした。


 昼は肉と野菜の量を増やし、食事として出す。


 夜は小さな器へ盛り、酒を飲みながら少しずつ食べられる量にする。


 試作を重ねた後、二つの料理は営業へ出せる形に近づいた。


「また料理が増えるのか?」


 厨房へ来たディーノが尋ねる。


「まだ試験だ」


 ルークが答えた。


「客の反応を見てから決める」


「どっちも匂いがいいな」


「近づきすぎるな。邪魔だ」


「味見は?」


「レンがした」


「俺も働いているんだが」


「客へ出す分が先だ」


「残ったら呼べよ」


「残すつもりはない」


 ルークが答えると、ディーノは不満そうな顔をしながら厨房を出ていった。


          ◇


 二つの料理を試験提供すると、どちらも客からよい反応を得た。


 イワナの燻製と大豆のアクアパッツァは、魚と大豆の旨みを含んだ煮汁まで飲む者が多かった。


 燻製の香りは強すぎず、芋焼酎の水割りや既存の蒸留酒にも合わせやすい。


 大きな骨が取り除かれ、身も食べやすく分けられているため、客は会話を止めることなく食べられた。


「燻製の魚を煮るとは思わなかったな」


 ボルドが煮汁を味わいながら言った。


「そのまま食べる燻製より、香りが柔らかい」


「大豆にも魚の味が移ってるね」


 サラも器から大豆をすくう。


「芋焼酎と合わせても、塩辛くならない」


 ルークは厨房から客の反応を確認していた。


 仕入れた燻製を使うことで、調理の負担は大きく増えていない。


 営業前に骨を取り除き、必要に応じて塩気を調整しておけば、注文を受けた後は大豆と煮込んで仕上げられる。


 生の魚の状態を毎日心配する必要もなく、保存しやすい。


 安定して提供する料理として使える見通しが立ち始めていた。


 豚バラ肉とじゃがいものポトフは、昼には食事として喜ばれた。


 夜の小さな器も、酒を飲む合間に温かい料理を食べたい客から注文される。


 ルークの料理は、確実にClub Moon Dropへ根づき始めていた。


 だが、料理が増えたことで、新しい課題も見えてくる。


 鶏もも肉の香草焼き レモンバターソースには、鶏皮とバターの脂がある。


 イワナの燻製と大豆のアクアパッツァには、魚の脂が残る。


 豚バラ肉とじゃがいものポトフにも、量を調整してはいるが、肉の脂と旨みが含まれている。


 一皿だけなら重すぎない。


 しかし、酒を飲みながら何皿か続けて食べると、口の中へ脂が残りやすくなる。


 料理の種類がさらに増えれば、同じような課題が別の料理でも出てくる可能性があった。


 ある夜、ガイルは鶏もも肉の香草焼きを食べた後、豚バラ肉とじゃがいものポトフを注文した。


 どちらも気に入っている。


 だが、二皿目の途中で、杯へ手を伸ばす回数が減っていた。


「重いですか?」


 レンが尋ねる。


「まずくはない」


 ガイルはすぐに否定した。


「むしろ、どっちもうまい。ただ、続けて食うと少し脂が残るな」


 同じ卓にいたサラも、取り分けられたポトフの煮汁を口にした。


「料理を軽くしすぎたら、このおいしさがなくなりそうだけどね」


「そうですね」


 レンは二人の杯を見る。


 ガイルが飲んでいたのはウイスキーのロック。


 サラはウイスキーの水割りだった。


 どちらも料理とは合っている。


 しかし、複数の料理を続けて食べた後に残る脂を、十分に軽くしてはいなかった。


 営業後、レンはルークへ相談した。


「鶏肉や豚肉の脂を、もう少し減らすことはできますか?」


「減らせる」


 ルークは答えた。


「でも、鶏皮の香ばしさや肉の柔らかさまで弱くなる。ポトフも、脂を全部取ったら煮汁の旨みが減る」


「イワナはどうですか?」


「燻製の脂を減らすことはできる。でも、やりすぎれば身が固くなるし、せっかくの魚の旨みも減る」


 レンは考える。


 料理の評判は悪くない。


 むしろ、それぞれの脂や香ばしさも含めて喜ばれている。


 その長所を消してまで、料理だけを軽くするべきではない。


「今の料理を変えすぎる必要はないと思います」


 レンが言った。


「俺もそう思う」


「ですが、何皿か続けて食べた時の後味は考えなければなりません」


「料理で変えないなら、どうする?」


 レンはすぐには答えなかった。


 空になった皿と、客が残した杯を思い出す。


 料理そのものの脂を減らさずに、次の一口へ進みやすくする方法。


 合わせる酒や、その飲み方を変えることで、後味を軽くすることはできないだろうか。


「まだ、考えているところです」


「酒の方を変えるつもりか?」


「酒そのものではなく、飲み方を変える方法がないか考えてみます」


 ルークは僅かに目を細めた。


「料理を直す必要があるなら言ってくれ」


「はい。ただ、今の良さを失わない方法を先に探したいと思います」


「分かった」


 レンは厨房の調理台へ並ぶ器を見る。


 ルークの料理が増えたからこそ、見えてきた課題だった。


 鶏皮の香ばしさも、魚の脂も、豚肉の旨みも残したい。


 その上で、客がもう一口酒を飲み、再び料理へ手を伸ばせるようにする。


 料理ではなく、合わせる一杯の方を変える。


 そのための新しい飲み方を、レンは考え始めていた。


          ◇


 エルナとデュークは、交際を仲間へ伝えた後も、勤務中の態度を変えなかった。


 エルナは客との会話を優先し、デュークもディーノから任された仕事を離れて近づくことはない。


 営業が終われば、一緒に帰る日もあった。


 だが、片付けが残っている者を待たせることも、二人だけ先に仕事を終えることもなかった。


 隠していた恋は、二人が自分たちの言葉で仲間へ伝えたことで、店の仕事を乱さない一つの関係として受け入れられた。


 指名制度では、リリアを選ぶ客が増えている。


 リリアは一番人気という言葉に戸惑いながらも、自分を選んだ客へきちんと向き合おうとしていた。


 厨房には、イワナの燻製と大豆のアクアパッツァと、豚バラ肉とじゃがいものポトフが加わった。


 保存の利くイワナの燻製を使うことで、遠方から生の魚を運ぶ必要はなくなり、ルークの仕込みにも過度な負担はかからない。


 仕入れた品ごとの香りや塩気を確かめる必要はあるが、それも料理人として調整できる範囲だった。


 ルークの料理は、少しずつClub Moon Dropの味になっている。


 料理が増えれば、客が選べる楽しみも増える。


 だが、香ばしさや旨みのある料理を続けて食べれば、口の中へ脂が残ることもある。


 料理の良さを削らず、最後まで心地よく味わってもらうにはどうすればよいのか。


 レンは料理を軽くするのではなく、合わせる酒の飲み方によって後味を変えられないかと考え始めていた。


 その答えは、まだ見つかっていない。


 ただ、新しい料理が店へ根づいたことで、次に考えるべき一杯の形が、少しずつ見え始めていた。

お読みいただきありがとうございます。

ブックマークや評価をいただけると励みになります。

よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。