第83話 選ばれる相手と酒を守る器
ウイスキーと芋焼酎を少量ずつ提供するようになってから、Club Moon Dropでは、これまでにはなかった希望や選び方が増えていた。
同じウイスキーでも、氷を入れたロックを選ぶ者もいれば、水を加えて香りを楽しむ者もいる。
芋焼酎の香りをそのまま確かめる者もいれば、料理に合わせて水割りを選ぶ者もいた。
一度目の来店ではロックを頼み、次に訪れた時には水割りを試す。
反対に、水割りから始めた者が、酒本来の力強さを知りたいとロックを選ぶこともある。
会員たちは、自分の好みに合う酒や飲み方を少しずつ見つけ始めていた。
そして、選ばれるものが増えたのは酒だけではなかった。
「今日は、リリアさんとお話しできますか?」
昼営業が始まって間もなく、受付を訪れた正式会員の女性がロイへ尋ねた。
これまでにも何度か来店している商人の奥方だった。
ロイは店内へ視線を向ける。
リリアは別の卓で、若い女性会員と話していた。
「ただいま、リリアはほかのお客様のお席におります」
「そうですか」
奥方は残念そうにしながらも、無理に呼ぶよう求めることはなかった。
「少し待てば、お話しできますか?」
「確認いたします。ただ、ほかのお客様への対応もございますので、お待たせする可能性があります」
「それでも構いません」
「かしこまりました」
ロイは奥方の希望を覚えておき、ディーノへ席の案内を頼んだ。
「窓側のお席へお願いします」
「分かった」
ディーノが奥方を案内している間に、ロイは店内の状況を確かめた。
リリアが今いる卓を離れた後にも、別の客へ酒を運ぶ予定がある。
奥方の席へ向かえるとしても、少し先になるだろう。
似たような希望は、以前から少しずつ増えていた。
リリアと、前に話した内容の続きを話したい。
エルナの明るい話を、もう一度聞きたい。
セレナと、落ち着いて酒を飲みながら話したい。
ミーナに、以前歌った曲について尋ねたい。
特定の相手を求める理由は、会員によって違う。
誰かと特別に親しい関係になりたいと考える者ばかりではなかった。
仕事の悩みを覚えていてくれた相手へ、その後のことを報告したい。
自分が好む酒や会話の速さを理解している相手と、もう一度ゆっくり過ごしたい。
以前聞いた話が気になり、その続きを知りたい。
そうした希望が増えることは、キャストたちが会員との時間を丁寧に積み重ねてきた結果でもあった。
けれど、希望をその都度受けているだけでは、いずれ対応が難しくなる。
同じ時間に、複数の会員が一人のキャストを求めることもある。
希望された相手を優先しすぎれば、ほかの卓への対応が薄くなる。
何より、キャスト本人が断りにくい状況を作ってはならなかった。
その日の昼営業を終えると、レンはスタッフ全員を店内へ集めた。
ロイが入口を閉め、会員帳を受付の奥へ片付ける。
ルークは厨房の片付けを終えてから店内へ出てきた。
ノアは帳面と紙を用意し、卓の端へ座っている。
全員が揃ったことを確認し、レンが口を開いた。
「今日は、接客について相談したいことがあります」
「新しい決まりですか?」
ミーナが尋ねる。
「まだ決まりではありません。試験的に始めるかどうかを、皆さんと話してから決めたいと思っています」
レンは卓上へ一枚の紙を置いた。
「特定のキャストと話したいという希望が増えています」
リリアが僅かに困ったように笑う。
「最近、よく聞かれますね」
「昼も夜も増えました」
ロイが続ける。
「受付で、誰が空いているかを確認されることがあります。ただ、今は正式な決まりがありませんので、その時の状況を見て案内しています」
「私も、前にお話ししたお客様から呼んでいただくことが増えました」
セレナが静かに言う。
「嬉しいことではありますが、ほかのお席へ向かう予定がある時に、どちらを優先するべきか迷うことがあります」
「そこで、指名制度を試験的に始めたいと考えています」
レンの言葉に、エルナが首を傾げた。
「指名制度?」
「お客様が、話したいキャストを事前に選べる仕組みです」
「選ばれたら、ずっとそのお客様の席にいないといけないんですか?」
「いいえ。それは認めません」
レンはすぐに答えた。
「一人のお客様が、長い時間キャストを独占することはできません。ほかのお客様への対応もありますから、店側で時間を調整します」
ノアが紙へ書きながら確認する。
「利用できるのは、すべての会員ですか?」
「正式会員以上に限定します」
「仮会員は利用できないのですね」
「はい。仮会員の間は、店の空気や規則を知っていただく期間です。特定の相手だけを求める前に、店全体を知っていただきたいと思っています」
「指名されたら、断れないんですか?」
リリアが尋ねた。
先ほどまでの柔らかな表情が消え、まっすぐレンを見ている。
「断れます」
レンは答えた。
「理由を詳しく説明する必要もありません。そのお客様と話すことへ不安がある時、体調が悪い時、すでに疲れている時は断って構いません」
「でも、お客様が指名料を払った後に断ることになったら?」
「キャスト本人が受けられるかを確認してから、指名料を受け取ります」
「どうして断られたのかと聞かれた場合は?」
ロイが尋ねる。
「店の都合により対応できないと伝えてください。キャスト本人へ理由を尋ねさせることはしません」
リリアはしばらく黙っていた。
紙に書かれた内容と、レンの表情を交互に見る。
それから、はっきりと言った。
「私たちが断れないなら、そんな制度はやらない方がいい」
店内が静かになる。
リリアはレンを責めたいわけではなかった。
ただ、自分たちの働き方に関わることだからこそ、曖昧にしたくないのだろう。
「指名料を払っているから断れないとか、正式会員だから我慢しないといけないとか、そういうことになるなら続かないと思います」
「その通りです」
レンは頷いた。
「キャスト本人の拒否権は、絶対に変えません」
「店が忙しいから断ることもできますか?」
「できます。指名が重なった場合も、本人が無理をするのではなく、店側で調整します」
「受けられない時に、評価を下げたりしませんか?」
「しません」
レンは全員へ聞こえるよう、ゆっくりと言葉を続けた。
「指名の多さを競わせるつもりはありません。受けた数が多い者を優遇し、少ない者を低く見ることもしません」
「それなら、指名料は何のために取るんですか?」
エルナが尋ねる。
「特定の相手へ優先して時間を確保するためです。もう一つは、その時間を担う本人へ、通常とは別の負担がかかるからです」
「私たちにも入るんですか?」
「一部は、指名を受けた本人へ還元します。すべてを店の利益にはしません」
エルナの表情が少し明るくなる。
「それなら、頑張った分が分かりやすいね」
「ただし、指名を増やすために無理をする必要はありません」
「分かってるよ」
「私的な交際を求められた場合は、どうしますか?」
セレナが尋ねた。
「指名は、店内で会話を楽しむための制度です。恋愛的な返答や、店の外で会うことを約束する制度ではありません」
「それは最初から、お客様へ説明した方がよさそうですね」
「はい。勘違いが起きないよう、受付でも伝えます」
ロイが指を折りながら内容を整理する。
「正式会員以上が利用できる。指名料を取る。指名料の一部を本人へ渡す。キャスト本人が拒否できる。指名が重なれば店側で調整する。一人のお客様による長時間の独占は禁止」
「指名のないお客様への対応にも、差を付けないでください」
レンが加える。
「指名をしていないからといって、会話が短くなったり、後回しにされたりしてはいけません」
「問題を起こした人は?」
ディーノが尋ねる。
「指名権を停止します。キャストへ無理を言う、断られたことへ怒る、ほかのお客様を追い払おうとする。そのような行動があれば、正式会員であっても利用を認めません」
「場合によっては、入店そのものも見直すことになりますね」
ロイが言う。
「はい。指名制度だけの問題ではありません」
ノアが紙へ条件を書き加える。
「体調や負担によって、指名受付そのものを止めることもできますか?」
「できます。今日は指名を受けないと、本人が先に決めても構いません」
レンは四人のキャストへ視線を向けた。
「試験的に始めたいと思っています。ただ、誰か一人でも今の条件では不安があるなら、始める前に直します」
ミーナがリリアを見る。
リリアは紙に書かれた内容を一つずつ確かめた。
「断った理由を、お客様へ説明しなくていいんですね?」
「はい」
「指名が多くても、全部受けなくていい?」
「もちろんです」
「指名していないお客様も、今までどおり大切にする?」
「変えません」
リリアは少し考えた後、頷いた。
「それなら、試してもいいと思います」
「私もです」
セレナが答える。
「決まりがある方が、断る時にも迷わずに済みます」
「私はやってみたい」
エルナはすぐに言った。
「どのお客様が私を選んでくれるのか、少し気になるし」
「私は緊張しますけど、皆さんと同じ条件なら大丈夫です」
ミーナも続いた。
「分かりました」
レンはノアがまとめた紙を見る。
「では、明日一日を準備に使い、その翌日から数日間だけ試験的に始めます。問題があれば、すぐに止めて見直しましょう」
ロイは受付で説明するための文言を考える。
ノアは指名の記録方法を整えることになった。
記録するのは、誰が何回選ばれたかだけではない。
指名を断った回数。
同じ時間へ希望が重なった回数。
指名を受けたキャストの負担。
問題のある言動がなかったか。
制度を続けるなら、数字だけでは見えない部分も確かめなければならなかった。
◇
翌日、ロイとノアは受付で使う説明用の紙を整えた。
ロイは実際にお客様へ話す言葉を何度も確認し、説明が長くなりすぎないよう調整する。
ノアは指名を受ける時間と、その後に向かう卓を書き込める記録表を作った。
キャストたちも、自分が指名を受けられる時間を営業前に伝えることになった。
準備を終えた次の日。
試験的な指名制度が始まった。
最初に希望が集まったのは、リリアだった。
昼営業では、以前から話していた商人の奥方がリリアを指名した。
前回話していた商会同士の付き合いについて、その後どうなったのかを聞いてほしいらしい。
リリアは指名を受け、ほかの卓への対応が遅れない時間をロイと確認してから席へ向かった。
「お待たせしました」
「こちらこそ、急にお願いしてしまってごめんなさいね」
「いえ。前にお話ししていたこと、その後はどうなりましたか?」
リリアが以前の話を覚えていたことに、奥方は嬉しそうに笑った。
夜営業では、若い商人と正式会員の男性が、それぞれ別の時間にリリアとの会話を希望した。
ただし、リリアはすべてを受けたわけではなかった。
「夜の二人目は、断ってもいいですか?」
営業前、リリアがレンへ尋ねた。
「もちろんです。何か気になることがありますか?」
「その方が嫌というわけではありません。でも、今日は昼から話す時間が長くて、少し疲れています」
「では、今夜の指名受付を止めましょう」
レンは理由を詳しく聞かなかった。
ロイにも、店側の都合で対応できないとだけ伝えるよう指示する。
指名を受けられないと聞いた正式会員の男性は、残念そうにはしたが、無理に理由を求めなかった。
「それなら、今日はエルナさんと話してみたい」
「エルナへ確認いたします」
ロイが答え、本人の意思を確かめる。
エルナは少し驚いたものの、すぐに頷いた。
「私と話したいって言ってくれたんだって?」
席へ向かったエルナが尋ねる。
「ああ。以前、奥の卓で話した時に楽しかったからね」
「じゃあ、今日は前よりもっと楽しくしないとね」
明るく笑うエルナに、男性も笑顔を返した。
指名制度は、一人の相手だけを固定するものではない。
話したいと思った者を選ぶきっかけになり、それまで深く話したことのなかった相手を知る機会にもなっていた。
数日間の記録で、最も多く指名されたのはリリアだった。
けれど、リリア自身はその数だけを気にしている様子を見せなかった。
自分の状態を確かめ、受けられる時だけ受ける。
相手の態度へ不安を感じれば断る。
指名された卓を離れた後は、指名のない会員にもこれまでどおり声をかけた。
「忙しそうですね」
夜営業中、エミリアがリリアへ言った。
「指名をいただくことが増えましたから」
「私と話す時間はなくなってしまうのかしら?」
冗談めかした言葉だったが、リリアはすぐに首を振った。
「そんなことはありません。指名していない方への接客を減らす制度ではありませんから」
「それなら安心したわ」
「エミリアさんは、どなたかを指名されないんですか?」
「今までどおり、空いている方とお話しするのも楽しいもの。それに、誰が来てくれるか分からない方が、新しい話を聞けるでしょう?」
「確かにそうですね」
リリアは笑いながら、エミリアの杯へ果実酒を注いだ。
少し離れた場所からその様子を見ていたレンは、指名制度がすべての会員へ必要とされるものではないと理解した。
話したい相手を自分で選ぶ者。
その日に出会った相手との会話を楽しむ者。
どちらもClub Moon Dropでの過ごし方だった。
◇
指名制度を始めて数日が過ぎると、ウイスキーと芋焼酎を求める会員も増えていた。
最初は一杯だけ試した者が、次の来店では同じ酒を頼む。
ロックを選んでいた者が、水割りも飲んでみる。
芋焼酎を料理へ合わせ、その後でもう一杯注文する。
営業後、ロイが酒の記録を見ながらレンへ言った。
「同じ方が、来店するたびに同じ酒を注文するようになっています」
「ウイスキーですか?」
「ウイスキーもありますが、芋焼酎もです。ボルドさんは、今のところ毎回水割りを頼んでいます」
「確かに、好みが決まってきたようですね」
「毎回一杯ずつ出すより、一本分を本人の酒として預かる方法も考えられるのではありませんか?」
ロイの言葉に、レンは少し考えた。
「店で瓶を預かるということですか?」
「はい。一本分を購入していただき、来店された時だけその瓶から提供します」
これまで、酒は店の瓶から一杯ずつ提供していた。
けれど、好みの決まった会員が一本分を購入し、店へ置いておけるなら、次の来店でも同じ酒を確実に楽しめる。
店にとっても、誰が何を好んでいるのか把握しやすくなる。
同時に、誰の酒かを間違えず、残量や開封日を管理する必要が生まれる。
「瓶を預かる仕組みですね」
レンが言う。
「分かりやすいので、ボトルキープと呼びましょう」
「ボトルキープですか」
「はい。ただし、始める前に保管方法を決める必要があります」
レンはウイスキーの瓶を見る。
今使っている瓶は、酒を一時的に保管するために用意したものだった。
店内で会員ごとに預かるなら、丈夫で扱いやすく、棚へ並べた時にも安定する形がよい。
会員番号を記した札を付けられる工夫も必要になる。
さらに、バルドの酒商会へ少量ずつ卸すなら、輸送に耐える別の瓶も必要だった。
「瓶について、バルドさんへ相談した方がよさそうですね」
「以前、取引のあるガラス工房を紹介できるとおっしゃっていました」
「次に来店された時、詳しく聞いてみます」
◇
数日後の夜営業。
バルドが来店すると、レンは酒の瓶について相談したいと伝えた。
営業が落ち着いた頃、二人は店内の端にある卓へ移る。
ノアも記録を取るために同席した。
「瓶の使い方は決まったのか?」
バルドが尋ねる。
「二種類必要になると思っています」
「二種類?」
「一つは、店内で使う瓶です。ウイスキーや芋焼酎を一本分購入した正式会員のものとして、店で預かる方法を考えています」
「会員ごとに瓶を分けるのか」
「はい。来店された時、その方の瓶から酒を提供します」
バルドはすぐに意味を理解した。
「次に来る理由にもなるな」
「それだけではありません。好みの酒が決まった方にとっては、毎回同じものを確実に飲めます」
「誰の瓶か間違えないようにする必要があるぞ」
「会員番号を記した札を付けるつもりです」
ノアが用意していた紙を見せる。
「ウイスキーには濃い茶色の札、芋焼酎には白い札を使います。離れた場所からでも見分けやすくなります」
「悪くない」
バルドは紙を手に取り、札の位置を確かめる。
「紐を掛ける部分が必要だな。瓶の首が細すぎると、札が抜けるかもしれない」
「栓を開け閉めしても邪魔にならない形がよいと思います」
レンが言う。
「店内用は、厚手の角形瓶を候補にしています」
「丸い瓶ではなく?」
「棚へ並べた時に転がりにくく、隣の瓶との間隔も揃えやすいからです。残量も確認しやすくしたいと思っています」
「角形なら、札も前へ向けて揃えやすいな」
バルドは頷いた。
「もう一つは、酒商会へ卸すための瓶です」
「そちらは、見栄えより丈夫さだな」
「はい。荷車の揺れに耐え、木箱へ並べやすいものが必要です」
「瓶を厚くすれば重くなる。だが、途中で割れて酒を失うよりはいい」
「箱の中で動かない形にもしたいです」
ノアが紙へ書き加える。
「栓も、簡単に外れないものが必要ですね」
「そこは工房の職人へ相談した方がいい」
バルドは腕を組んだ。
「取引のあるガラス工房を紹介する。店内用と卸売用で、見本を一つずつ作らせよう」
「お願いします」
「ただし、最初から大量には頼むな。実際に使ってみなければ分からないこともある」
「そのつもりです」
「ボトルキープを始めるなら、保管場所も必要だろう」
バルドが店内を見回す。
「今ある酒棚では足りなくなるんじゃないか?」
「鍵付きの棚を別に用意します」
「なら、瓶の高さを決める前に、棚を置く場所と寸法も確かめておけ」
ノアがすぐに頷いた。
「明日、確認します」
「店で使う瓶と卸す瓶が決まれば、次は保存と輸送の試験だな」
「味や香りが変わらないか確認してから、契約の話を進めたいと思っています」
「急ぐ必要はない」
バルドはウイスキーの水割りを一口飲んだ。
「酒を守れない器へ入れて運べば、せっかくの価値が落ちる。瓶を決めるのも、酒を扱う仕事の一部だと思った方がいい」
レンはその言葉を心へ留めた。
酒を作るだけでは終わらない。
店へ置き、会員へ渡し、外へ運ぶ。
そのすべてに耐える器がなければ、同じ味を守り続けることはできなかった。
◇
瓶の相談を進める一方で、レンにはもう一つ確かめたいことがあった。
ミーナの歌に伴奏を付ける話が出てから、セレナは何度か閉店後に指を動かしていた。
楽器を持っているわけではない。
それでも、昔覚えた指の形を思い出すように、何もない空間へ手を添えていることがあった。
ある日の昼営業後。
レンは、片付けを終えたセレナへ声をかけた。
「少しよいですか?」
「はい」
「以前話していたリュートのことです」
セレナの指先が僅かに止まる。
「無理に弾く必要はないという考えは、今も変わっていません」
「分かっています」
「ですが、一度、楽器店へ行ってみませんか?」
「楽器店へ?」
「購入を決めるためではありません。実際に触れてみて、それでももう一度弾きたいと思うかを確かめるためです」
セレナはすぐに返事をしなかった。
楽器店へ行けば、リュートを見ることになる。
弦へ触れれば、過去の感覚が戻るかもしれない。
反対に、何も感じないかもしれない。
「触れるだけでもよいのですか?」
「はい。気に入るものがなくても、弾きたいと思えなくても構いません」
セレナは少し考えた後、頷いた。
「行ってみたいです」
「ノアにも一緒に来てもらおうと思っています」
「ノアさんもですか?」
「店の備品として購入する可能性があるなら、保管場所や持ち運びも考える必要があります。ノアなら、店内のどこへ置けばよいか一緒に考えられます」
「そうですね」
レンはノアへ声をかけ、三人で翌日の昼営業後に楽器店へ行くことを決めた。
◇
三人が訪れた楽器店は、大通りから少し離れた場所にあった。
扉を開けると、木と油、それから古い弦の匂いが混ざった空気が流れてくる。
壁には大小さまざまな弦楽器が掛けられ、奥の棚には笛や太鼓も並んでいた。
「いらっしゃい」
店の奥から、白髪の混じった店主が出てくる。
「リュートを探しています」
レンが答えた。
「演奏するのは、そちらの方かい?」
店主がセレナを見る。
「はい。ただ、長い間触れていません」
「昔はどんなものを使っていた?」
「少し大きめで、音の響くものです。家へ客を招いた時に演奏することが多かったので」
「今も同じものが欲しいのか?」
セレナは店内を見回した。
磨き上げられた豪華な楽器もある。
細かな装飾が施され、遠くから見ても高価だと分かる。
以前の自分なら、そのような楽器を選ぶよう求められたかもしれない。
けれど、今必要としているのは、家の客へ見せるための楽器ではなかった。
「大きく響きすぎないものがよいです」
セレナは答えた。
「歌へ伴奏を付けるかもしれませんので、声を邪魔しない音が出るものを探しています」
「店の広さは?」
「大きくはありません」
レンが説明する。
「お客様同士の会話もあります。店内全体へ強く響くものではなく、歌の近くで柔らかく聞こえるものがよいと思っています」
「立って弾くのか、座って弾くのか?」
「座る方が多くなると思います」
「長い曲は?」
「まだ分かりません。ただ、持ち続けても疲れにくい方がよいです」
店主はセレナの話を聞き、壁から二本のリュートを下ろした。
一つは新しく、明るい色の木で作られている。
もう一つは、表面に細かな傷があり、色も少し落ち着いていた。
「まず、こちらから試してみるといい」
最初に渡されたのは、新しい方だった。
セレナは両手で受け取る。
楽器の重さが腕へ伝わった瞬間、表情が僅かに変わった。
忘れていたはずの持ち方を、身体が覚えている。
左手を棹へ添え、右手を弦の上へ置く。
けれど、すぐには音を出さなかった。
「無理をしなくても大丈夫です」
レンが静かに言う。
「はい」
セレナは一度息を整え、一本の弦へ指を触れた。
澄んだ音が、店内へ広がる。
思っていたより大きく響いた。
もう一度、今度は簡単な音を二つ続ける。
指は動いた。
だが、以前のように滑らかではない。
少し遅れ、弦へ触れる位置も僅かにずれた。
「音はよいですね」
ノアが言う。
「ただ、店内では少し響きすぎるかもしれません」
「私もそう思います」
セレナは楽器を店主へ返した。
次に、細かな傷のある中古のリュートを受け取る。
先ほどより軽い。
身体へ抱えた時も、腕や肩へ余計な力が入らなかった。
「傷がありますね」
ノアが表面を見る。
「前の持ち主が長く使っていたものだ」
店主が答える。
「見た目は新しいものに負けるが、木が落ち着いている。強く鳴りすぎない」
セレナは弦へ指を添えた。
一音。
先ほどより柔らかな音だった。
店内全体へ鋭く広がるのではなく、弾いた者の近くへ穏やかに残る。
もう一音。
そして、短い旋律。
指が途中で止まる。
思い出せないのではない。
頭の中には続きがある。
けれど、指がその速さへ追いつかなかった。
セレナは僅かに唇を噛む。
「昔と同じようには動きません」
「長く触れていなかったんだ。すぐに動く方が珍しい」
店主は気にした様子もなく言った。
「その楽器はどうだ?」
セレナはもう一度、同じ短い旋律を弾いた。
今度は最初より少しだけ音がつながった。
「持ちやすいです」
「音は?」
「柔らかいと思います。ミーナさんの声を邪魔しないかもしれません」
レンも近くで響きを確かめた。
会話が続いている店内で鳴らしても、すべての音を押しのけるような強さはない。
それでも、歌のすぐ近くで奏でれば、十分に支えられる音だった。
ノアは楽器の大きさを見ながら考える。
「店では、二階の事務所に保管する方がよいと思います。営業中だけ下ろせば、誤ってお客様が触れることもありません」
「壁へ掛けるのと、箱へ入れるのでは、どちらがよいですか?」
レンが店主へ尋ねる。
「長く使わないなら箱だが、頻繁に練習するなら壁掛けでもいい。ただし、火の近くと湿気の多い場所は避けろ」
「事務所なら、厨房からも離れています」
ノアが答える。
「置き場所を作れます」
レンは、セレナの表情と、腕の中へ収まったリュートを見比べた。
セレナは先ほどよりも自然に楽器を抱えている。
指が動かなかったことへの戸惑いは残っている。
それでも、手放したいという表情ではなかった。
「そのリュートを、もう少し弾いてみたいと思いますか?」
レンが尋ねた。
セレナは腕の中の楽器へ視線を落とした。
傷のある楽器。
豪華ではなく、新しくもない。
けれど、今の自分が抱えるには、以前使っていたどの楽器よりも自然に感じられた。
「はい」
セレナは小さく頷く。
「もう一度、触れてみたいです」
「では、店の備品として購入しましょう」
「よろしいのですか?」
「はい。ただし、購入したからといって、演奏を約束する必要はありません」
「でも、店のために買うのでしょう?」
「セレナさんが、触れたい時に触れられるようにするためです。実際に弾くかどうかを決めるのは、セレナさんです」
セレナは再びリュートへ目を向ける。
「ありがとうございます」
それは、客前で演奏するという約束ではない。
ミーナの歌へ伴奏を付けると決めたわけでもない。
それでも、過去へ置いてきた音へ、自分から手を伸ばした言葉だった。
◇
その日の夜営業を終えた後。
エルナは店の裏口から外へ出た。
表通りの明かりはまだ残っているが、昼間の賑わいはすでにない。
少し離れた場所で、デュークが待っていた。
「待たせた?」
「いや。今来たところだ」
「本当?」
「少し前からいた」
「やっぱり待たせてるじゃない」
エルナが笑うと、デュークも僅かに笑った。
二人が仕事の後に話すようになったのは、数日前からだった。
最初は、エルナが接客について相談したことがきっかけだった。
明るく話すだけでよいのか。
自分の話ばかりになっていないか。
相手が笑っていても、本当に楽しんでいるのか分からない時がある。
デュークは、すぐに答えを押しつけなかった。
話を聞いた後で、エルナ自身がどう感じたのかを尋ねた。
それから、仕事が終わった後に短く話す時間が増えていた。
二人は通りをゆっくり歩き始める。
「今日はどうだった?」
デュークが尋ねる。
「指名制度が始まったよ」
「指名?」
「お客様が、話したいキャストを選べるの。今日は私も一人のお客様から選んでもらった」
「嬉しかったか?」
「うん。前に話したのが楽しかったからって言ってもらえた」
「それなら、よかったな」
「でも、リリアの方がずっと多かった」
「気になるのか?」
エルナは少し考えた。
「気にならないって言ったら嘘になるかな。でも、負けたくないっていうより、リリアはやっぱりすごいなって思った」
「どこが?」
「相手が話したいことを、ちゃんと待てるところ。私は楽しくしようとして、つい先に喋りすぎるから」
「今日、指名した人は、それでもエルナと話したいと思ったんだろう?」
「そうだけど」
「なら、リリアと同じになる必要はないんじゃないか」
デュークの言葉に、エルナは隣を見る。
「そう思う?」
「ああ。エルナが急に静かになったら、話してる方も困るだろ」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
エルナは少し疑うような顔をした後、笑った。
「それからね。ルークの料理が正式に出るようになって、ウイスキーと芋焼酎っていうお酒も増えたの」
「飲んだのか?」
「営業中に飲むわけにはいかないよ。試飲は少ししたけど」
「どんな酒だった?」
「ウイスキーは色がきれいで、香りが強い。芋焼酎は透明に近くて、少し甘い匂いがするんだって。私は水割りの方が飲みやすかった」
「エルナはどう思ったんだ?」
その問いに、エルナは一瞬黙った。
デュークは、店で何が起きたかを聞くだけではない。
誰が何をしたのかだけでもない。
その時、エルナ自身がどう思ったのかを尋ねる。
「新しいものが増えるのは、楽しいと思った」
エルナはゆっくり答えた。
「でも、覚えることも増えるから少し大変。指名制度も始まったし、セレナは今日、リュートを選びに行ったし」
「リュート?」
「ミーナの歌に、伴奏を付けるかもしれないの。まだ決まってないけどね」
「セレナが弾けるのか」
「昔、習ってたんだって。今日、レンとノアと一緒に楽器店へ行って、中古のリュートを買ってきた」
「店が変わっていくな」
「うん」
エルナは少し前を歩きながら頷く。
「前は、毎日お客様が来てくれるだけで嬉しかった。でも今は、指名されたり、新しい酒が増えたり、歌に伴奏が付きそうになったりして、店が少しずつ大きくなってる感じがする」
「不安か?」
「少しだけ。でも、それより楽しみ」
「そうか」
デュークは、それ以上エルナの答えを変えようとはしなかった。
エルナが楽しいと言えば、その気持ちをそのまま受け止める。
不安だと言えば、無理に励ます前に理由を聞く。
その話し方が、エルナには心地よかった。
最初は、仕事について相談できる相手が欲しかっただけだった。
けれど最近は、相談することがない日でも、デュークと話したいと思う。
店で起きた小さな出来事を伝えたい。
デュークがそれを聞いて、何を考えるのか知りたい。
そして、自分がどう思ったのかを尋ねてほしい。
「明日も話せる?」
別れ道へ着いた時、エルナが尋ねた。
「仕事が遅くならなければ」
「じゃあ、終わったら裏で待ってる」
「分かった」
デュークは頷く。
二人は手をつながなかった。
互いの関係に名前を付けることもしなかった。
ただ、明日も話す約束をしただけだった。
それでもエルナは、離れて歩き出した後、胸の中へ残る温かさを意識していた。
話を聞いてくれる誰かがいるからではない。
デュークが聞いてくれることが、嬉しい。
その違いに、エルナは少しずつ気づき始めていた。
◇
Club Moon Dropでは、会員が話したい相手を選べるようになった。
同じ酒でも、ロックか水割りかを選び、自分に合う味を探す者が増えている。
店の奥では、これから会員の酒を守るための瓶と棚が考えられていた。
二階の事務所には、傷のある一つのリュートを置く場所が作られようとしている。
そして店の外では、エルナが誰に自分の気持ちを伝えたいのか、その答えへ少しずつ近づいていた。
誰と話すのか。
何を飲むのか。
どの音を、もう一度鳴らすのか。
そして、胸の中に生まれた思いを、誰へ伝えるのか。
選ぶことのできるものが増えるたび、Club Moon Dropで過ごす時間は、一人ひとりにとって少しずつ異なるものへ変わっていった。
お読みいただきありがとうございます。
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よろしくお願いいたします。




