第84話 甘い一皿と最初の契約
指名制度が試験的に始まり、酒を守るための瓶についても話が進み始めた頃。
Club Moon Dropの厨房では、ルークが新しい材料を前に考え込んでいた。
調理台に並んでいるのは、小麦粉、蜂蜜、クルミ、それから赤い皮の付いたリンゴだった。
鶏もも肉の香草焼き レモンバターソースが正式に採用されてから、ルークが受ける注文は少しずつ変わっていた。
昼には食事として量を増やしたものが頼まれ、夜には酒に合わせた小皿として注文される。
最初は一日に提供する数を限っていたが、ルークもClub Moon Dropの厨房にある火の強さや、複数の注文が重なった時の順番に慣れてきた。
今では、最初の頃よりも多くの皿を、味に大きな差を出すことなく提供できるようになっている。
自分の料理が注文される。
料理を口にした会員が自然に酒へ手を伸ばし、その後でもう一度、皿の料理へ手を伸ばす。
空になった皿が厨房へ運ばれてくる。
その一つ一つが、ルークにとって、これまでにはなかった喜びだった。
だが、店内の様子を見ているうちに、もう一つ気になることが生まれていた。
昼も夜も、料理をしっかり食べたい者ばかりではない。
酒や会話を楽しみながら、少しだけ甘いものを口へ入れたい者もいる。
特にウイスキーを飲む会員の中には、食事を終えた後も杯を残し、何か軽くつまめるものがないか尋ねる者が増えていた。
金獅子亭から仕入れている甘い菓子もある。
それらが悪いわけではない。
昼の女性客には喜ばれており、夜に酒を飲んだ後で注文する者もいる。
けれど、ルークは自分の料理が一品採用されたことで、次の一皿についても考えてみたいと思うようになっていた。
食事ではない。
酒を飲む時間の最後まで寄り添える、甘い一皿。
それを自分の手で作ってみたかった。
「朝からずっと、それを見てるな」
厨房の入口からディーノが声をかけた。
「見てるだけじゃない。考えてる」
「何を作るつもりだ?」
「使う材料は決めた。ただ、どんな形にするかは、まだ決めてない」
ルークはリンゴを一つ持ち上げる。
「甘い菓子を作ろうと思ってる」
「金獅子亭から来る菓子とは違うのか?」
「金獅子亭の菓子は、いろいろな酒や茶に合わせられるように作られてる。俺は、新しく店へ出した酒に合わせてみたい」
「ウイスキーか?」
「ああ」
ルークは琥珀色の酒が入った瓶へ目を向けた。
「ウイスキーには、木の香りや穀物の甘い香りがある。蜂蜜や果物を使った菓子なら、合わせられるかもしれない」
「リンゴは分かるが、クルミも合うのか?」
「まだ分からない。ただ、軽く焼いたクルミの香ばしさなら、ウイスキーの木の香りを邪魔しないと思う」
「それを確かめるための試作か」
「ああ」
「金獅子亭へ相談するのか?」
「そのつもりだ」
「また何日も通うことになるかもしれないな」
「一度でうまくいくとは思ってない」
ルークの答えに、ディーノは僅かに笑った。
「前より慣れた言い方だな」
「何度も失敗したからな」
ルークは材料の上へ布をかけた。
Club Moon Dropの菓子として出す以上、甘ければよいわけではない。
甘さが強すぎれば、酒の味や香りを消してしまう。
大きすぎれば、会話の途中で食べにくい。
柔らかすぎれば指や皿が汚れやすくなり、固すぎれば、食べる音が周囲の会話を邪魔するかもしれない。
鶏肉の料理を作った時とは違う難しさがあった。
◇
その日の昼営業を終えると、ルークはレンへ、ウイスキーに合わせる甘い菓子を作りたいと相談した。
「新しい甘い菓子ですか」
「ああ。食事の後でも重くなくて、酒を飲みながら少しずつ食べられるものにしたい」
「考えている材料はありますか?」
「リンゴとクルミだ。蜂蜜も少し使いたいと思ってる」
「ウイスキーの香りに合わせるのですね」
「ああ。リンゴと蜂蜜なら、ウイスキーの甘い香りに合うかもしれない。クルミも、木の香りを邪魔しないと思う」
「甘さは控えめにした方がよさそうですね」
「俺もそう思う」
レンは調理台に並んだ材料へ目を向ける。
「形は決めていますか?」
「まだだ。焼き菓子にしたいとは思ってる」
「それなら、金獅子亭へ相談してみましょう」
「ああ」
「金獅子亭にも甘い菓子があります。リンゴの水分の扱いや、焼き上がりの固さについて助言をいただけると思います」
「俺も、それを聞きたい」
「鶏肉の時と同じように、店で過ごす時間を邪魔しないことも考えてください」
「分かってる」
「食べた後に、酒の香りが分からなくなるほど甘くしないこと。手を汚さず、会話を続けながら食べられること。夜だけでなく、昼にも提供できること」
「昼は茶や果実酒と合わせられるようにしたい」
「よいと思います」
レンは頷いた。
「では、マルクさんと料理人の方へ相談しましょう」
◇
昼営業を終えた二人は、金獅子亭を訪れた。
食事の時間を過ぎた店内には、遅い食事を取る者や、酒を飲みながら休んでいる客が数人残っている。
ルークとレンが店へ入ると、マルクがすぐに二人へ気づいた。
「今度は何を作るつもりだ?」
挨拶より先に言われ、ルークは僅かに眉を上げた。
「どうして分かったんですか?」
「前に来た時と同じ顔をしてる」
「そんな顔をしていますか?」
「何かを作りたいが、まだ形になってない顔だ」
マルクは笑いながら、厨房の奥を指した。
「料理人もいる。相談なら中へ来い」
二人が厨房へ入ると、以前、鶏肉の試作を見てくれた料理人が、洗った鍋を片付けていた。
「今度は何だ」
「甘い菓子を作りたいと思っています」
ルークが答えた。
「酒を飲みながら、少しずつ食べられるものです」
「うちから出している菓子では足りないのか?」
「いえ。金獅子亭の菓子は、今もお客様に喜ばれています」
ルークはすぐに否定した。
「ただ、Club Moon Dropで新しく出し始めた蒸留酒に、特に合う菓子を作ってみたいんです」
「新しい蒸留酒?」
料理人は手を止めた。
「どんな酒だ」
「ウイスキーという酒です」
「聞いたことがないな」
料理人はレンを見る。
「名前だけでは分からん。どんな味がする?」
「穀物から作った、琥珀色の強い蒸留酒です」
レンが答えた。
「そのまま飲めば、酒の力強さと、木に似た香り、穀物の甘い香りを感じます。水を加えると刺激が和らぎ、乾いた果実や蜂蜜に似た香りが分かりやすくなります」
「甘い酒なのか?」
「砂糖や蜂蜜を加えたような甘さではありません。酒の香りに甘さを感じます」
「木の香りというのは?」
「乾いた木や、僅かに焼いた木を思わせる香りです。強すぎる香草や果物を合わせると、酒の香りが分かりにくくなると思います」
料理人は腕を組み、レンの説明を聞いている。
「その酒は持ってきているのか?」
「試作用に分けたものを、僅かに持ってきました」
レンは小さな瓶を取り出した。
何度か試作を行う可能性を考え、菓子との相性を確かめるための量だけを分けていた。
「飲んでもよいのか?」
「はい。ただし、これまでの蒸留酒より強く感じると思います。最初は水を加えた方が、香りも分かりやすいです」
レンは小さな杯へ僅かにウイスキーを注ぎ、水を加える。
料理人は杯へ鼻を近づけ、すぐには飲まずに香りを確かめた。
「確かに、今までの酒とは違うな」
一口だけ含む。
眉が僅かに動いたが、そのまま口の中へ残る香りを確かめている。
「強い。だが、ただ喉を焼く酒じゃない」
「はい」
「後から甘い匂いが残るな。果物にも似てるが、それだけじゃない」
次にマルクも、別の杯で少量を味わった。
「これに甘い菓子を合わせるのか」
「はい」
ルークが答えた。
「甘さを強くすると、この香りが分からなくなると思います。だから、リンゴとクルミを使って、蜂蜜は少しだけにしたいと考えています」
「リンゴと蜂蜜なら、酒の甘い香りへつなげられるかもしれないな」
料理人は、空になった杯の香りをもう一度確かめた。
「クルミも悪くない。香ばしさを残せば、木の匂いと喧嘩はしないだろう」
「形は決めているのか?」
マルクが尋ねる。
「焼き菓子にしようとは思っていますが、形までは決めていません」
「なら、クッキーがいいだろう」
料理人が答えた。
「手でつまめる。大きさも揃えやすい。焼き方を変えれば、固さも調整できる」
「ただ、固すぎるものにはしたくありません」
「それなら、焼きすぎなければいい。少し柔らかさを残せ」
料理人はリンゴを手に取った。
「どれくらいの大きさに切るつもりだ?」
「まだ決めていません」
「なら、最初は細かく刻め。水分を飛ばしやすい。その後で、どれくらい残せば味が分かるか試せばいい」
「分かりました」
「クルミは粗く刻め。細かくしすぎると、生地全体へ味が広がって酒の香りを隠す」
相談だけで終わるつもりだったが、料理人の指示で、そのまま最初の試作を行うことになった。
リンゴを細かく刻み、鍋へ入れて軽く火を通す。
完全に煮崩すのではなく、余分な水分だけを飛ばしていく。
クルミは粗めに刻んだ。
小麦粉へバターと蜂蜜を加え、火を入れたリンゴとクルミを混ぜ込む。
最初に作った生地は、ルークが考えていたよりも柔らかかった。
「リンゴの水分が、まだ多いな」
料理人が指で生地を押す。
「このまま焼けば、形が崩れる」
「もう少し水分を飛ばします」
「生地へ粉を足す方法もあるが、入れすぎれば固くなる。リンゴの方を調整しろ」
「はい」
ルークはリンゴを鍋へ戻し、再び弱い火へかけた。
その後、改めて生地を作り直し、一口より少し大きい程度に丸く広げる。
「もう少し小さくてもいいんじゃないか?」
マルクが言った。
「酒を飲みながら食べるなら、一枚を何口もかけて食べるより、一口か二口で食べられる方がいい」
「なら、少し小さくします」
形を整えた生地を焼き板へ並べ、火へ入れる。
焼き上がったクッキーの表面には薄い焼き色が付き、リンゴの甘い香りとクルミの香ばしさが厨房へ広がった。
四人で味を見る。
ルークは一口食べると、すぐに眉を寄せた。
「甘いな」
「蜂蜜が多い」
料理人も同じ意見だった。
レンは試作用のウイスキーを僅かに水で割り、クッキーの後に口へ含む。
クッキーの甘さが長く残り、ウイスキーの木の香りや穀物の甘さが弱く感じられた。
「菓子としてはおいしいと思います。ただ、ウイスキーと合わせるには甘さが強いですね」
「蜂蜜を減らします」
マルクはもう一枚食べた。
「クルミは悪くない。リンゴの味も分かる。ただ、少し柔らかすぎるな」
「焼く時間を長くしますか?」
「長くしすぎれば固くなる」
料理人が首を振った。
「生地を少し薄くしろ。中の水分が抜けやすくなる」
「分かりました」
二度目は蜂蜜を減らし、生地を先ほどより薄くした。
焼き上がりは最初より形が整い、持ち上げても崩れにくい。
甘さも控えめになっている。
しかし今度は焼きすぎてしまい、端が固くなった。
噛んだ時、小さく乾いた音が響く。
「Club Moon Dropでは、少し気になるかもしれません」
レンが言う。
「会話を止めるほどじゃないが、固いな」
マルクも頷いた。
料理人は焼き板を見ながら言う。
「中心を僅かに厚く残せ。焼き時間も少し短くする」
「はい」
その日は三度目の試作まで行った。
甘さは整った。
固さも、最初と二度目の中間へ近づいている。
ただ、リンゴを細かく刻みすぎたことで、どこを食べても同じ味になっていた。
「リンゴが分かりにくいですね」
レンが言う。
「生地全体へ混ざりすぎたな」
ルークも頷いた。
「次は、少し大きめに残します」
ルークは改善点を書き留めた。
蜂蜜を減らす。
焼く時間を短くする。
中心へ僅かな柔らかさを残す。
リンゴは細かくしすぎない。
クルミも、香ばしさが分かる大きさを残す。
「今日はここまでだ」
料理人が言った。
「夜営業があるんだろう」
「はい」
「甘いものは、少し変えただけでも印象が大きく変わる。明日、またやれ」
「ありがとうございます」
ルークは三種類の試作を分けて包み、Club Moon Dropへ持ち帰った。
◇
Club Moon Dropへ戻ると、夜営業へ向けた準備が始まっていた。
リリアが、ルークの持っている包みへ気づく。
「試作ですか?」
「ああ。まだ完成してない」
「食べてもいいですか?」
「いいが、甘さも固さも少しずつ違うぞ」
「それも試作らしくていいですね」
リリアだけでなく、エルナとミーナも集まってくる。
セレナも、二階へ置かれているリュートの様子を確認してから、卓の近くへ来た。
「どれが一番新しいの?」
エルナが尋ねる。
「一番右だ」
「じゃあ、それにする」
「待て。全部、皆で分ける」
「一枚くらい大丈夫でしょ?」
「一人で食べたら、ほかの皆から感想を聞けないだろ」
ルークが言うと、エルナは仕方なく伸ばしていた手を戻した。
全員で小さく分け、三種類の試作を順番に食べる。
「最初のは甘いですね」
ミーナが言う。
「お菓子としては好きですけど、お酒には少し甘さが強いかもしれません」
「二つ目は固いです」
リリアが端を割る。
「でも、クルミの香りは分かりやすいですね」
「三つ目が一番食べやすいと思います」
セレナが答える。
「ただ、リンゴの味が少し分かりにくいです」
「やっぱりそうか」
ルークは、金獅子亭で出た意見と同じであることを確認した。
「明日、また直す」
「完成したら、ウイスキーと合わせるんですか?」
ミーナが尋ねる。
「ああ。水割りにもロックにも合わせたい」
「果実酒には?」
「合わないことはないと思う。ただ、まずはウイスキーに合うように作る」
「私、楽しみにしてる」
エルナが最後の欠片を食べる。
「甘いものが増えたら、昼のお客様も喜びそう」
「昼は茶や果実酒と合わせられるようにするつもりだ」
ルークは空になった包みを閉じた。
まだ完成ではない。
けれど、鶏肉の料理を作った時と同じように、直すべきところは見えてきていた。
◇
その後も数日間、ルークは昼営業を終えると金獅子亭へ通った。
リンゴの大きさを変える。
蜂蜜の量を減らす。
クルミを軽く焼いてから、生地へ加える。
生地の厚さを揃える。
焼く時間を少しずつ変える。
レンが試作用に分けたウイスキーは、香りを確かめるために一口ずつ使った。
量には限りがある。
そのため、毎回杯へ多く注ぐのではなく、クッキーを食べた後に香りが残るかを確認できるだけの量に留めた。
料理人も、何度か味を確かめるうちに、ウイスキーのどの香りを生かすべきか理解し始めていた。
「リンゴを強くしすぎるな」
料理人が言う。
「これでは果物の菓子としてはうまいが、酒の香りが後ろへ隠れてる」
「もう少し減らします」
「減らすだけじゃない。大きさを残して、生地全体へ混ぜすぎない方がいい」
「分かりました」
「クルミも同じだ。噛んだ時だけ香る程度でいい」
材料と焼き方を何度も調整した末、ようやく一つの形へまとまった。
小さめの丸いクッキー。
表面には淡い焼き色が付き、ところどころにリンゴとクルミが見える。
指で持っても崩れない。
噛めば外側に軽い歯応えがあり、中心には僅かな柔らかさが残っている。
最初にリンゴの穏やかな甘さ。
その後にクルミの香ばしさ。
蜂蜜は味をまとめる程度で、口の中へ強く残らない。
レンはクッキーを一つ食べた後、ウイスキーの水割りを口へ含んだ。
リンゴと蜂蜜の甘い香りが、ウイスキーの中にある乾いた果実や蜂蜜に似た香りと重なる。
クルミの香ばしさも、木の香りを邪魔していない。
甘さが長く残らないため、そのまま次の一口を飲むことができた。
「合いますね」
レンが言う。
「ロックはどうですか?」
ルークが尋ねた。
今度は、残していた試作用のウイスキーを僅かに氷の入った杯へ注いで合わせる。
酒の力強さがクッキーの甘さを引き締め、水割りと合わせた時よりも、クルミの香ばしさがはっきり感じられた。
「ロックにも合います。こちらは、クルミの香りが分かりやすいですね」
マルクも一枚食べ、ウイスキーを僅かに味わう。
「甘すぎない。これなら、酒を飲み終える前に何枚か食べられるな」
料理人はクッキーを半分に割り、中の状態を確かめた。
「中心の柔らかさも残ってる。焼きすぎてない」
「はい」
「一度に何枚焼ける?」
「今の厨房なら、二十枚程度です」
「焼き上がりに差は?」
「途中で焼き板の位置を入れ替えれば、大きな差は出ないと思います」
「保存は?」
「その日のうちに出す分だけ焼きます。余った場合も、翌日の昼までに使い切るつもりです」
「なら、悪くない」
料理人はもう一枚取った。
「名前はどうする」
「リンゴとクルミのクッキーにします」
「そのままだな」
マルクが笑う。
「分かりやすい方がいいです」
「ルークらしい」
レンも僅かに笑った。
Club Moon Dropで提供する、ルークの最初の甘い菓子が完成した。
◇
ルークが甘い菓子の試作を続けている間、レンとバルドは、ガラス工房から届いた二種類の試作瓶を確認していた。
一つは、店内用の角形瓶。
厚手のガラスで作られ、底が広く、棚へ置いても安定している。
瓶の首には、紐を掛けやすい僅かな段差が設けられていた。
会員番号札を付けても抜けにくく、栓を開ける際にも邪魔にならない。
もう一つは、卸売用の瓶だった。
こちらも厚手だが、店内用のような装飾はない。
木箱へ並べた時に余分な隙間ができにくく、荷車の揺れを受けても割れにくいよう、角には僅かな丸みが付けられている。
レンは二種類の瓶へウイスキーと芋焼酎を入れ、数日間保管した。
光を避け、温度が大きく変わらない場所へ置く。
瓶へ移した直後。
一日後。
そして数日後。
それぞれの香りや味に変化がないかを確かめる。
ウイスキーは、木の香りと穀物の甘さを保っていた。
芋焼酎も、芋由来の穏やかな香りと丸みが失われていない。
栓から酒が漏れることもなかった。
卸売用の瓶は木箱へ詰め、布で隙間を埋めた上で、酒商会の荷車へ積んだ。
街の中を一度走らせ、石畳の揺れを受けた後で状態を確認する。
一本も割れていない。
栓も緩んでいなかった。
「これなら使えそうだな」
バルドが木箱の中を見る。
「はい」
「店内用も問題ないか?」
「札を付けた状態でも、開け閉めの邪魔にはなりません」
ノアが、濃い茶色と白の札を見せる。
「ウイスキーと芋焼酎も、すぐに見分けられます」
「鍵付き棚の準備は?」
「設置する場所は決まりました。瓶の数が増えても、しばらくは対応できます」
「なら、器は決まったな」
バルドは卸売用の瓶を一つ持ち上げ、底と栓を改めて確かめた。
「次は契約だ」
◇
レンとバルドは、Club Moon Dropの二階にある事務所で向かい合った。
机の上には、ノアが整理した契約条件が置かれている。
バルドの隣には酒商会の記録を担当する者が座り、レンの側にはノアが同席していた。
「最初から多くは扱わない」
バルドが言う。
「ウイスキーも芋焼酎も、まずは少量だ」
「はい。こちらで用意できる数を超えて求められても、出すことはできません」
「分かっている。無理に数を増やせとは言わない」
レンは契約条件へ目を落とした。
「卸す相手も、信用できるところへ限定してください」
「最初は数軒だけにする。酒の扱いを知っていて、こちらの条件を守れる相手だけだ」
「水を加えて量を増やしたり、ほかの酒と混ぜて売ったりすることは認めません」
「当然だ」
「酒名を勝手に変えることも禁止します」
「ウイスキーと芋焼酎の名前で扱う」
「保存方法を守れない相手へは、卸さないでください」
「日光と熱を避け、栓を開けた後の扱いも伝える」
「製法を調べようとしないこと。製造に関わる場所へ無断で入らないことも、条件へ入れます」
バルドは一瞬だけレンを見る。
「酒の品質を守るためにも、製法については明かせないということか」
「はい」
「理由も聞かない方がいいか?」
「今は、お答えできません」
バルドは少し考えた後、頷いた。
「なら、その条件も入れよう」
「よろしいのですか?」
「酒を扱いたいからといって、作り手の秘密まで奪うつもりはない」
バルドは契約書へ視線を落とした。
「酒商会が運んでも、これはレンの酒だ」
その言葉には、迷いがなかった。
「俺が売る場所を作ったとしても、作った者が変わるわけじゃない。名前も味も、勝手には変えない」
「ありがとうございます」
「ただし、品質が変わった時はすぐに伝える。売れる状態ではないと判断したら、取引は止めるぞ」
「お願いします」
「販売した本数と販売先は、すべて記録する」
「こちらでも、卸した本数を残します」
「最初はウイスキーと芋焼酎を、それぞれ数本ずつだな」
「はい。店で提供する分と、今後のボトルキープ用を確保した上で、用意できる数だけです」
「それでいい」
バルドは契約書へ署名した。
レンも、その隣へ名前を書く。
最後に、酒商会の記録を担当する者が内容を確認し、商会の印を押した。
まだ大きな取引ではない。
扱う酒も、販売する相手も、数も限られている。
それでも、Club Moon Dropの中だけで提供されていた二種類の酒が、初めて店の外へ出るための正式な契約だった。
◇
契約を結んだ後、レンは借りている自宅の中を改めて見回した。
以前は、寝るための寝台と、最低限の机が置かれているだけの部屋だった。
今では住居というより、瓶詰めと出荷準備を行う作業場所へ近づいている。
壁際には空瓶が並んでいた。
店内用の角形瓶。
卸売用の丈夫な瓶。
栓。
封印札。
商品札。
量を揃えるための計量容器と漏斗。
木箱。
洗浄道具。
保管容器。
そして、作った酒と出荷した本数を記録する帳面。
寝台の周囲にだけ、生活のための僅かな空間が残されている。
ほかはほとんど、酒を店や酒商会へ運ぶ準備のために使われていた。
レンは室内の扉と窓を確認する。
外に人の気配がないことを確かめ、鍵をかけた。
レンが全アルコール精製で作っている酒は、ビール、ウイスキー、芋焼酎の三種類だった。
果実酒と既存の蒸留酒は、バルドの酒商会から正式に仕入れている。
ウイスキーと芋焼酎は、全アルコール精製で作った後、店で提供する分、ボトルキープ用、酒商会への卸売用へ分けて瓶詰めする。
ビールだけは、同じように瓶や樽へ詰めて運ぶわけではない。
Club Moon Dropでは、注文が入るたびに、レンが全アルコール精製でビールを作っていた。
何もないところから、いつでも同じ品質のビールを出せると知られるわけにはいかない。
そのため、客席から中が見えない酒台の内側へ、ビール用の空樽を置いている。
注文が入ると、レンは杯を樽の栓の下へ置き、そこから注ぐように見せながら、全アルコール精製で杯を満たす。
用意したビールはディーノへ渡し、客席まで運んでもらう。
樽の準備と運搬はレンだけが行う。
人通りの少ない時間に樽を店と自宅の間で入れ替えることで、外からは定期的にビールが補充されているように見せていた。
どこで作っているのかと尋ねられても、詳しく答えるつもりはない。
「独自の方法に関わるため答えられない」
そう一貫して伝える。
説明できない部分をごまかすために、架空の酒蔵や仕入れ先を作れば、いつか辻褄が合わなくなる。
答えられないことは、最初から答えない。
秘密を守るためには、その方がよかった。
レンは全アルコール精製を使い、ウイスキーと芋焼酎をそれぞれ保管容器へ満たした。
琥珀色のウイスキーは、店用、ボトルキープ用、卸売用へ分ける。
無色透明に近い芋焼酎も、同じように分けた。
保管容器から必要な量を計り、漏斗を使って瓶へ移す。
栓を閉じ、封印札を付ける。
商品札を確認し、店用と卸売用を離して置く。
すべての精製と瓶詰めを終えると、レンは部屋の中をもう一度確認した。
全アルコール精製を使った痕跡は残っていない。
完成した酒と空瓶、木箱、作業に使う道具があるだけだった。
そこで初めて、ノアを呼びに行った。
◇
ノアがレンの自宅へ入ったのは、すべての酒が完成した後だった。
扉を開けた瞬間、部屋の中に並ぶ瓶と木箱を見て足を止める。
「かなり増えましたね」
「契約が決まりましたから、店の分だけを用意していた時より増えています」
レンが答えた。
「寝る場所が狭くなっていませんか?」
「まだ眠れる場所は残っています」
「本当に、眠るだけの場所になっています」
ノアは部屋の奥を見る。
寝台の周囲だけは物が置かれていない。
それ以外の場所には、酒に関わる道具が並んでいた。
壁際に置かれた樽へ目を向ける。
「この樽も、店へ運ぶものですか?」
「はい。店へ置く位置や栓の状態も確認しなければなりませんので、樽の準備と運搬は私が行います」
「私が確認する必要はありませんか?」
「ありません。ノアさんには、瓶と木箱の確認をお願いします」
レンがはっきりと担当を分けたため、ノアはそれ以上樽へ近づかなかった。
「分かりました」
「今日は、空瓶と商品札を確認してください。それから、本数を数えて、店用と卸売用へ分けてください」
「帳面と照らし合わせます」
ノアはすぐに作業を始めた。
空瓶に欠けやひびがないかを確かめる。
商品札の文字が間違っていないかを見る。
ウイスキーと芋焼酎の本数を数える。
店用と卸売用で置く場所を分ける。
卸売用の瓶を木箱へ収納し、瓶同士が触れないように布を挟む。
レンが記した本数と、自分が数えた本数を照合する。
「酒の作り方について、聞いてもよいですか?」
作業の途中で、ノアが静かに尋ねた。
レンは手を止める。
「今は、お話しできません」
「そうですか」
「ノアさんを信用していないわけではありません」
「分かっています」
「ですが、知っている人が増えれば、それだけ守らなければならないものも増えます」
ノアは少し考えた後、頷いた。
「では、私は完成した後の作業だけを担当します」
「よいのですか?」
「はい。レンが話せないと決めているなら、無理に聞く必要はありません」
「気にならないのですか?」
「気にはなります」
ノアは正直に答えた。
「ですが、私が知らなくてもできる仕事があります。今は、それを間違えないことの方が大切です」
レンは僅かに目を細めた。
「ありがとうございます」
「ただし、作業が増えすぎた時は言ってください」
「ノアさんもです。無理をしないでください」
「分かっています」
ノアは再び瓶の確認へ戻った。
レンに秘密があることには気づいている。
けれど、それを暴こうとはしない。
自分が任された範囲を理解し、その中で必要な仕事を正確に進める。
その姿勢は、Club Moon Dropで働き始めた頃よりも、ずっと確かなものになっていた。
◇
同じ頃。
Club Moon Dropの二階では、セレナが購入したリュートを前に座っていた。
営業が始まるまで、まだ少し時間がある。
事務所の壁には、ノアが用意した掛け具が取り付けられていた。
使わない時は布を掛けて保管し、練習する時だけ下ろす。
火や湿気から離れ、誰かが誤って触れることもない場所だった。
セレナは椅子へ座り、リュートを抱える。
左手を棹へ添え、右手を弦の上へ置く。
楽器店で触れた時よりも緊張していた。
今度は試すだけではない。
自分の意思で、もう一度弾こうとしている。
一音鳴らす。
柔らかな音が事務所へ広がった。
次の音へ移ろうとすると、指が僅かに遅れる。
もう一度。
今度は弦へ触れる位置がずれ、思っていたより低い音が鳴った。
セレナは手を止める。
昔なら、考えなくても指が動いた。
家へ招かれた客の前へ出る時には、曲の最初から最後まで何度でも弾けた。
それが今は、短い旋律すらつながらない。
「セレナさん?」
扉の外から、ミーナの声がした。
「入ってもよいですか?」
「はい」
ミーナが静かに中へ入る。
「練習していたんですか?」
「少しだけ」
「聞いても大丈夫ですか?」
「まだ、曲と呼べるものではありません」
「一音でも、私は聞いてみたいです」
セレナは困ったように笑った。
「失敗しても笑わないでくださいね」
「笑いません」
ミーナは近くの椅子へ座った。
セレナは短い旋律を弾く。
途中で音が止まる。
指が追いつかず、一つの音が遅れた。
「やはり、まだ動きません」
「でも、きれいな音でした」
「途中で止まりましたよ」
「最初から全部弾けなくてもよいと思います」
ミーナは急かさなかった。
「私も新しい歌を覚える時は、最初から最後まで一度に歌えません」
「歌と楽器は違います」
「違いますけど、少しずつ覚えるところは同じです」
セレナはリュートへ目を落とした。
「どの部分なら、弾けそうですか?」
「最初の短いところなら」
「では、そこだけ一緒にやりませんか?」
「一緒に?」
「私が小さく歌います。セレナさんは、最初の部分だけ音を重ねてください」
セレナは迷った後、頷いた。
ミーナが小さな声で歌い始める。
客前で歌う時より、ずっと控えめな声だった。
セレナはその声を聞き、最初の音を鳴らす。
一つ。
二つ。
三つ目で、僅かに遅れる。
けれど、ミーナは歌を止めなかった。
速さを少し落とし、セレナが追いつけるように歌う。
もう一度。
今度は、最初から四つの音がつながった。
短い旋律だった。
それでも、ミーナの歌とリュートの音が初めて重なった。
セレナは驚いたようにミーナを見る。
「今、合いましたね」
「はい」
ミーナが笑う。
「もう一度やってみませんか?」
「お願いします」
二人は、同じ短い部分を何度も繰り返した。
まだ客へ聞かせられるものではない。
けれど、セレナの指は、少しずつ昔の動きを思い出し始めていた。
◇
その日の夜営業を終えた後。
エルナは片付けを終えると、いつものように裏口から外へ出た。
デュークは少し離れた場所で待っていた。
「今日は遅かったな」
「ごめん。片付けが少し残ってた」
「気にしてない」
二人は並んで歩き始める。
最近では、特別な相談がなくても、仕事を終えた後に話すことが当たり前になりつつあった。
「今日は何かあったか?」
デュークが尋ねる。
「ルークの新しいお菓子が完成したよ」
「菓子?」
「リンゴとクルミのクッキー。甘すぎなくて、ウイスキーに合うんだって」
「食べたのか?」
「試食した。おいしかったよ。焼きたては少し柔らかくて、クルミの香りがするの」
「エルナは気に入ったんだな」
「うん。昼のお客様にも喜ばれそう」
「ほかには?」
「セレナがリュートの練習を始めた。ミーナと一緒に、短いところだけ合わせたんだって」
「聞いたのか?」
「少しだけ。まだ近くで聞かないでって言われたから、扉の外から少し聞いただけだけど」
「楽しみか?」
「すごく楽しみ」
エルナは笑った後、少しだけ歩く速さを落とした。
「それから、レンの家が酒の瓶だらけになってるらしいよ」
「行ったのか?」
「私は行ってない。ノアが手伝いに行ってるんだって」
「店の外でも仕事が増えてるんだな」
「うん。ウイスキーと芋焼酎を、バルドさんの酒商会で少しずつ扱うことになったから」
「エルナはどう思ったんだ?」
いつもの問いだった。
けれど、エルナはその言葉を聞くたびに、少し嬉しくなる。
店で何が起きたのかだけではない。
その時、自分が何を感じたのかを、デュークは知ろうとしてくれる。
「嬉しい」
エルナは答えた。
「店の中だけにあったものが、外へ広がるのってすごいと思う。でも、少し怖い気もする」
「何が怖い?」
「知らない人が増えることかな。店のことも、お酒のことも、いろんな人が知るようになるでしょ?」
「悪い人も来るかもしれないと思ってるのか?」
「そこまでは分からない。でも、今までより気をつけることは増えそう」
「そうか」
デュークは少し考えた。
「それでも、店の酒が外へ広がってほしいと思う?」
「うん」
エルナは迷わず頷いた。
「レンたちが大事にしてるものを守ったままなら、もっと多くの人に知ってほしい」
「なら、その時にエルナができることをすればいい」
「私にできること?」
「店へ来た人と話すこと。相手がどんな人かを見ること。おかしいと思ったら、レンやロイに伝えること」
「それだけでいいのかな」
「それをできる人が必要なんだろ」
エルナは、隣を歩くデュークを見る。
デュークは、いつも難しいことを言うわけではない。
けれど、自分が気づいていないところを言葉にしてくれる。
「デュークと話すと、少し安心する」
「そうなのか」
「うん」
そこまで言ってから、エルナは少し恥ずかしくなった。
前を向き、歩く速さを僅かに上げる。
デュークも隣へ並ぶように歩いた。
「俺も、エルナと話す時間を楽しみにしてる」
その言葉に、エルナの足が止まった。
「本当に?」
「ああ」
「仕事の相談がなくても?」
「なくても」
エルナは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分だけが、話せる時間を楽しみにしていたわけではない。
「私も」
エルナは小さく言う。
「相談したいことがなくても、デュークと話したい」
二人の間に、短い沈黙が生まれた。
気まずい沈黙ではない。
言葉にしたことで、今まで曖昧だったものが、少しだけ形を持った時間だった。
「それって、私たち……」
エルナは言いかけて止まる。
デュークが続きを待っている。
「お互いに、好きってことなのかな」
言った後で、エルナは顔が熱くなるのを感じた。
デュークは、すぐには答えなかった。
冗談にすることも、話をそらすこともしない。
「俺は、エルナが好きだ」
静かな声だった。
エルナは目を見開いた。
「私も、デュークが好き」
今度は迷わず答えた。
二人は互いの気持ちを確かめた。
それでも、すぐに手をつなぐことはなかった。
仕事の仲間でもある。
同じ店に関わる者として、今までどおり振る舞えるかも考えなければならない。
「これから、どうする?」
「付き合う、でいいんじゃないか」
「簡単に言うね」
「嫌か?」
「嫌じゃない」
エルナは笑った。
「じゃあ、今日から恋人?」
「ああ」
「でも、店の皆には、まだ言わない方がいいかな」
「俺もそう思う」
「付き合い始めたばかりだし、変に気を遣わせたくない」
「仕事中は今までどおりにする」
「うん。私も」
二人は再び並んで歩き出した。
関係に名前が付いたからといって、急に距離が変わったわけではない。
けれど、明日も話せることへの楽しみは、これまでより少しだけ大きくなっていた。
◇
Club Moon Dropの厨房には、リンゴとクルミのクッキーが、新しい甘い菓子として加わった。
店内用と卸売用の瓶も決まり、ウイスキーと芋焼酎は、少量ずつ店の外へ出る準備を整えた。
レンの自宅には酒瓶と木箱が並び、その片隅には、店と自宅を往復する樽も置かれている。
寝台の周囲にだけ、生活のための小さな空間が残っていた。
二階の事務所では、セレナの指が忘れていた旋律を少しずつ取り戻し始めている。
そして店の外では、エルナとデュークが互いの気持ちを確かめ、誰にも伝えないまま新しい関係を始めていた。
料理も、酒も、音も、人の気持ちも。
すぐに完成するものばかりではない。
少しずつ形を整え、守る方法を考え、誰へ渡すのかを決めていく。
レンの自宅に積まれた木箱は、Club Moon Dropの酒が店の外へ向かうための最初の準備だった。
同時に、酒への注目が高まるほど、その作り方を知られないための慎重さも必要になる。
眠るための僅かな場所の隣で、ビール、ウイスキー、芋焼酎という三種類の酒を守るための仕事が、静かに始まっていた。
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