第81話 最初の一皿と忘れていた音
ミーナが初めて客たちの前で歌ってから、数日が過ぎていた。
あの夜を境に、Club Moon Dropの空気が大きく変わったわけではない。
昼には穏やかな時間を求める客が訪れ、夜になれば酒と会話を楽しむ会員たちが席を埋める。
ロイが受付で客を迎え、リリアたちがそれぞれの卓へ向かう。厨房ではルークが料理を用意し、ディーノとノアが店の仕事を支えていた。
これまでと変わらない日々が続いている。
ただ、営業の合間に歌の話題が出ることは増えていた。
ミーナの歌声を気に入った客から、次はいつ歌うのかと尋ねられることもある。前とは違う曲も聞いてみたいと期待する声もあった。
ミーナ自身も、客に求められることを嬉しく思っている。
けれど、次に歌う時には、前とまったく同じことを繰り返すのではなく、少し違った形にできないかと考えているようだった。
酒や料理、会話に加わる新しい楽しみが、店の中に少しずつ根づき始めていた。
その日の昼営業を終えたClub Moon Dropにも、夜営業へ向けた落ち着いた時間が流れていた。
客の姿がなくなった店内では、リリアたちが卓上を整えている。
ロイは受付で昼に訪れた会員の記録を確認し、会員帳へ必要なことを書き加えていた。
ディーノは使い終えたグラスを厨房へ運び、ノアは汚れたクロスを集めながら、夜営業で使う新しいものを棚から取り出している。
厨房では、ルークが昼営業で使った鍋や皿を片付けていた。
Club Moon Dropで提供している料理の多くは、金獅子亭から仕入れたものだった。
朝のうちに届けられた料理を、客の注文に合わせて温め直す。
昼と夜で量を変え、店で使う皿へ盛り付ける。
それが今のルークに任されている主な仕事だった。
温める時間。
盛り付ける順番。
酒と一緒に運んだ時、会話を続けながら食べやすい量になっているか。
昼と夜で異なる注文へ、どのように対応するか。
働き始めた頃は、一つずつ確認しなければならなかった。
火へかける時間を確かめ、皿を並べ、料理を置く位置を考える。注文が重なると、どれから手を付けるべきか迷うこともあった。
今では、ほとんど迷わず進められる。
料理を焦がすこともなければ、温めすぎて肉を固くすることもない。
注文が重なっても、提供が大きく遅れることは少なくなった。
その日の昼営業でも、料理を注文した客たちは満足そうに皿を空にしていた。
仕事としては、何の問題もない。
失敗したわけでもなければ、客から不満を言われたわけでもなかった。
それでもルークは、洗い終えた鍋を見つめながら、胸の奥へ残る小さな引っかかりを消せずにいた。
「ルーク、昼の片付けは終わりそうですか?」
厨房の入口から、リリアが顔をのぞかせた。
「ああ。あとは夜の分を確認するだけだ」
「今日は途中で注文が重なりましたけど、あまりお待たせせずに済みましたね」
「料理が出来上がってたからな。温める順番さえ間違えなければ、それほど遅れない」
「皆さん、おいしそうに召し上がっていましたよ」
リリアはそう言ってから、ルークの顔を見た。
そのまま店内へ戻ることなく、少し首を傾げる。
「でも、何か気になることがあるんですか?」
「どうしてそう思う?」
「いつもより考え込んでいるように見えたので」
ルークは洗った鍋を作業台へ置き、布で手を拭いた。
「少し考えてることがある」
「レンに相談することですか?」
「ああ。そのつもりだ」
「それなら、相談した方がいいと思います。できることかどうか、レンならきちんと考えてくれますから」
リリアは柔らかく笑う。
その様子は客と話している時よりも気安いが、相手の考えへ必要以上に踏み込もうとはしていなかった。
「何を考えてるのかは、聞かないのか?」
「レンへ相談するつもりなら、まずレンへ話した方がいいでしょう?」
「それもそうだな」
「うまくいくといいですね」
リリアはそれだけ言うと、店内へ戻っていった。
ルークも、レンが何でも無条件に認めるとは思っていない。
Club Moon Dropで働くことになった時、レンは仕事内容だけではなく、この店がどのような場所でありたいのかを説明していた。
酒や料理を売ることだけが目的ではない。
客が身分や立場を必要以上に気にせず、安心して過ごせる場所を作る。
その空気を守ることが、すべての仕事につながっている。
厨房の仕事も例外ではない。
どれほどおいしい料理であっても、強すぎる匂いが店内へ残り、酒の香りや客同士の会話を邪魔するなら、Club Moon Dropには合わない。
ルークは、そのことを働くうちに理解していた。
だからこそ、自分が考えていることを、料理人としての願いだけで押し通すつもりはなかった。
昼営業の片付けが終わり、夜営業まで少し時間が空いた頃。
ルークは二階の事務所にいるレンを訪ねた。
扉を叩くと、すぐに中から声が返ってくる。
「どうぞ」
中へ入ると、レンは机の上に広げた帳面へ目を通していた。
酒の仕入れと提供数を確認していたらしく、机の端には数枚の記録用紙が置かれている。
ルークが入ってきたことに気づくと、レンは顔を上げた。
「何かありましたか?」
「少し相談したいことがある」
ルークの表情を見たレンは、手にしていた帳面を閉じた。
「座ってください」
ルークは向かいの椅子へ腰を下ろした。
何から話すべきか考えた後、まっすぐレンを見る。
「一品だけでも、自分で最初から作った料理を出してみたい」
レンはすぐには答えなかった。
驚いた様子も、困った様子もない。
ただ、ルークの言葉の意味を確かめるように尋ねる。
「金獅子亭から仕入れた料理ではなく、材料からすべて作りたいということですか?」
「ああ」
「作りたい料理は、もう決まっていますか?」
「まだ、はっきりとは決めてない。ただ、肉を使った料理にしたいとは考えてる」
「なぜ、自分の料理を出したいと思ったんですか?」
ルークは少し言葉を止めた。
料理人として、自分で一から料理を作りたい。
そう答えることもできた。
それは間違いではない。
だが、それだけではClub Moon Dropで提供する理由にはならなかった。
「今の仕事に不満があるわけじゃない」
ルークは正直に話した。
「金獅子亭から届く料理はうまい。温め方や盛り付けを任せてもらえることにも不満はない。ただ、客がどの酒を飲んで、どんな話をしながら食べてるのかを見てるうちに、この店のための料理を作りたいと思うようになった」
「この店のための料理ですか」
「金獅子亭には、食事をするために来る客が多い。Club Moon Dropは違う。酒を飲んで、誰かと話しながら時間を過ごす。その時間を邪魔せず、少しだけ支えられる料理を作りたい」
レンはしばらくルークを見つめた。
軽い思いつきで言い出したのではないことは伝わっている。
それでも、すぐに許可を出すことはしなかった。
「料理を一品増やすだけなら、難しいことではありません」
レンは静かに言った。
「ただし、ここで提供する料理には条件があります」
「ああ」
「まず、酒の味や香りを邪魔しないことです。料理の香りが強すぎれば、酒を楽しめなくなります」
「分かった」
「次に、会話を続けながら食べられること。食べるために客が長く黙り込んだり、手が汚れて話しにくくなったりする料理は、この店には向いていません」
ルークは一つずつ頭へ入れるように頷く。
「店内へ強すぎる匂いを残さないことも必要です。昼に提供した料理の匂いが夜まで残れば、夜の客が酒を楽しむ邪魔になります」
「厨房だけじゃなく、店全体のことを考えろってことだな」
「そうです。それから、昼と夜の両方で提供できること。量は変えても構いませんが、どちらかでしか扱えない料理は、今の厨房では管理が複雑になります」
「昼は食事として少し多めにして、夜は酒に合わせて少なくする。それならできると思う」
「注文が重なっても、同じ品質を保てることも大切です。最初の一皿だけうまくできても、五皿、六皿と続いた時に味が変わるようでは提供できません」
レンはそこで一度言葉を止めた。
「最後に、一番大切なことがあります」
ルークは黙って続きを待つ。
「食べた客が、もう一口酒を飲みたくなる料理であることです」
その言葉に、ルークは僅かに目を見開いた。
「料理だけで満足させるんじゃなく、酒へ戻すのか」
「はい。もちろん、料理そのものがおいしいことは必要です。でも、ここでは料理だけが主役ではありません。酒、会話、店の空気。そのすべての中へ自然に入る料理でなければならないと思っています」
ルークはしばらく考えた後、深く頷いた。
「分かった」
「それでも作りたいですか?」
「ああ。それでも作りたい」
迷いのない返事だった。
「客の腹を満たすだけの料理じゃない。酒を楽しむ時間を支える料理を作りたい」
レンはその言葉を聞き、ようやく微笑んだ。
「では、試作してみましょう」
ルークの表情が僅かに明るくなる。
「ただし、いきなり店で提供するわけにはいきません。まずは金獅子亭へ相談しましょう」
「金獅子亭に?」
「今の料理を仕入れている相手です。こちらの料理へ一部を置き換えるなら、先に説明するべきです。それに、マルクさんや料理人の意見も聞けます」
「分かった」
「明日の昼営業が終わった後、一緒に行きましょう」
ルークは立ち上がると、レンへ頭を下げた。
「ありがとう」
「まだ、料理が採用されたわけではありませんよ」
「ああ。それでも、作る機会はもらえた」
ルークが事務所を出た後、レンは閉じていた帳面を再び開いた。
けれど、すぐには文字へ目を戻さなかった。
以前のルークなら、自分から新しい仕事を求めることはなかったかもしれない。
任された仕事を黙々とこなし、失敗しないことを優先していた。
そのルークが、この店のための料理を作りたいと言った。
レンは、その変化を嬉しく感じていた。
◇
翌日。
昼営業を終えたレンとルークは、金獅子亭を訪れた。
食事時を過ぎた店内では、数人の客が酒を飲みながら話している。
二人が入ると、店の奥にいたマルクが気づいた。
「レンじゃないか。ルークも一緒とは珍しいな」
「少し相談があって来ました」
「相談?」
マルクは二人の表情を見比べる。
「まあ、立ち話も何だ。奥へ来い」
二人は厨房の隅にある小さな卓へ案内された。
忙しい時間を終えた料理人も呼ばれ、四人で話すことになる。
レンは、ルークがClub Moon Drop独自の料理を作りたいと考えていることを説明した。
「今すぐ仕入れをやめるつもりはありません。まずは一品だけ、ルークの料理へ置き換えたいと考えています」
マルクは不快そうな顔をすることもなく、ルークへ視線を向けた。
「自分から言い出したのか?」
「はい」
「そうか」
マルクは短く答えた後、隣の料理人を見る。
「どう思う?」
料理人は腕を組み、ルークへ尋ねた。
「何を作るつもりだ」
「肉料理にしたいと思っています。ただ、まだ決めていません」
「店で一番出る酒は?」
「ビールです。果実酒を飲む客も多いです」
「客は料理を食べに来るのか?」
「いいえ。酒や会話を楽しむために来ます」
「なら、腹をいっぱいにする料理を考えるな」
料理人は即座に言った。
「金獅子亭なら、客が腹を空かせて来る。だから一皿で満足させる料理を出す。だが、お前の店では違うんだろう」
「はい」
「酒が主役の店なら、皿を空にさせる料理より、杯をもう一度持たせる料理を考えろ」
ルークは、その言葉を繰り返すように呟いた。
「杯を、もう一度持たせる料理……」
「塩辛くして酒を飲ませろという意味じゃないぞ」
料理人は念を押した。
「塩で喉を渇かせれば、客は確かに酒を飲む。だが、それは料理と酒が合っているわけじゃない。口の中に残った味が、次の一口の酒で変わる。酒を飲んだ後、また料理を食べたくなる。そういう組み合わせを考えろ」
レンも頷く。
「料理と酒が交互に続く形ですね」
「そうだ。どちらかが強すぎれば、もう片方が死ぬ」
マルクが口を開いた。
「材料はどうする? 必要なら金獅子亭の仕入れ先を紹介してもいい」
「まずは手に入りやすいものを使いたいです」
ルークは考えながら答える。
「鶏肉はどうでしょうか」
「悪くない」
料理人が頷く。
「この街でも安定して仕入れられる。焼き方次第で、昼の食事にも夜の小皿にもできる」
「鶏もも肉を使いたいと思います」
「皮はどうする」
「残します」
「なら、脂をどう扱うかが大事になるな」
その日は、料理の方向を決め、最初の試作を行うことになった。
用意したのは、鶏もも肉、香草、バター、レモン、塩。
材料そのものは珍しいものではない。
だからこそ、焼き方と味の組み立てが重要になる。
最初の試作では、鶏肉へ数種類の香草をしっかりとなじませた。
皮目から焼き、香ばしい色を付ける。
焼き上がった肉へ、溶かしたバターとレモンを合わせたソースをかけた。
見た目も香りも悪くない。
四人で試食する。
「うまい」
マルクは素直に評価した。
けれど、料理人はすぐに首を振った。
「香草が強い」
レンも同じ意見だった。
「食べている間、香草の香りが長く残りますね。果実酒の香りが分かりにくくなると思います」
ルークも水を飲んでから頷く。
「肉料理としては悪くありません。ただ、酒と一緒に出すには香りが強いですね」
二度目は香草を減らした。
その代わり、満足感を出すためにバターを増やした。
焼き上がった鶏肉は、最初より穏やかな香りになっている。
しかし一口、二口と食べると、口の中へバターの重さが残った。
「昼の食事ならいい」
マルクが言う。
「だが、夜に酒と合わせて食べ続けるには重いな」
「バターを減らします」
ルークはすぐに次の修正を考える。
その日はそこで試作を終えた。
Club Moon Dropの夜営業へ戻る時間が近づいていたからだ。
ルークは結果を書き留めた紙を持ち帰り、その夜も厨房で料理を温めながら考え続けた。
香草を減らす。
バターも減らす。
だが、両方を減らすだけでは、味が薄くなるかもしれない。
後味を軽くするものが必要だった。
翌日の昼営業を終えると、ルークは再び金獅子亭を訪れた。
今度はバターを抑え、レモンを増やした。
後味は軽くなったが、酸味が強く、鶏肉よりレモンの印象が残る。
料理人は眉を寄せた。
「これでは酒を選びすぎる。酸味の弱い酒は負けるぞ」
「分かりました。レモンの量も見直します」
ルークは新たな問題を書き加える。
香草が強い。
バターが重い。
レモンが強い。
皮の焼きが弱い。
肉が大きすぎる。
一口で食べにくい。
皿の上でソースが広がりすぎる。
試作は、その日だけでは終わらなかった。
数日間、ルークは昼営業を終えるたびに金獅子亭へ通った。
夜営業へ支障が出ない時間だけ厨房を借り、一つずつ問題を直していく。
香草は一種類を中心にし、ほかは香りを補う程度にする。
バターは肉へ直接かけすぎず、少量のソースとして添える。
レモンは果汁だけでなく、皮を僅かに使って香りを出す。
鶏皮は強めに焼き、余分な脂を落とす。
肉は最初から食べやすい大きさに切る。
すぐには完成しなかった。
香草を減らしすぎて、肉の匂いが気になることもあった。
皮を強く焼こうとして、一部を焦がしたこともある。
肉を小さく切りすぎて、焼いた時に水分が抜け、固くなったこともあった。
それでもルークは諦めなかった。
失敗するたびに何が悪かったのかを確かめ、次の試作へ反映させる。
そうして、最初に金獅子亭を訪れてから数日後。
ようやく四人の前へ、納得できる一皿が置かれた。
鶏もも肉の皮には香ばしい焼き色が付き、肉から立つ香草の香りは穏やかだった。
レモンバターソースも、皿の底へ僅かに広がる程度に抑えられている。
レンは一切れ口へ運ぶ。
最初に感じたのは、鶏皮の香ばしさ。
続いて肉の柔らかさと、控えめな香草の香り。
バターのまろやかさはあるが、レモンの酸味が後味を軽くしている。
肉を飲み込んだ後も、香草やレモンが強く残りすぎない。
レンは用意していたビールを一口飲んだ。
口の中に残った鶏肉の旨みが、ビールの苦味によって引き締まる。
酒を飲んだ後、自然にもう一切れ食べたくなった。
「営業で試す候補としては、これでよいと思います」
レンの言葉に、ルークは安堵したように息を吐いた。
料理人も一口食べ、続けて酒を飲む。
「ようやく、料理と酒が交互に続くようになったな」
「はい」
「まだ客へ出してみなければ分からん。だが、最初の一皿としては悪くない」
「ありがとうございます」
「名前はどうする?」
マルクが尋ねる。
ルークは少し考えた。
飾った名前にする必要はない。
何が使われている料理なのか、客が聞いただけで分かる方がよい。
「鶏もも肉の香草焼き、レモンバターソースにしたいと思います」
「分かりやすいな」
マルクが笑った。
「昼と夜で同じ量を出すのか?」
「昼は少し量を増やします。夜は酒と合わせやすい小皿にするつもりです」
「その方がいい」
料理人は頷いた。
「ただし、完全に焼いたものを長く置くな。肉が固くなる。下ごしらえだけ済ませ、注文が入ってから焼け」
「分かりました」
「注文が重なった時、何枚まで同時に焼いて品質を保てるか、自分で確かめろ。最初から数を多く出す必要はない」
「はい」
「まずは店の連中へ食べさせろ。その後、数を限って客へ出せ。そこで問題がなければ正式に加えればいい」
ルークはすべてを忘れないように頷いた。
帰り際、マルクはレンへ言った。
「仕入れを減らすことは気にしなくていい」
「ありがとうございます」
「ルークが自分の料理を作りたいと言い出したなら、それを止める理由はない。困った時はまた来い」
ルークも頭を下げる。
「ありがとうございます。助かりました」
「礼を言うのは、客に認められてからにしろ」
料理人は厳しい口調のまま言ったが、その目には僅かな期待があった。
◇
Club Moon Dropへ戻った頃には、夜営業の準備が進んでいた。
リリアが二人へ気づき、すぐに近寄ってくる。
「どうでしたか?」
「試作は、ひとまずまとまった」
ルークが答える。
「本当ですか? どんな料理なんです?」
「鶏もも肉の香草焼きだ。レモンとバターのソースを使う」
「おいしそうですね」
「ただ、まだ店で出せると決まったわけじゃない。まずは皆に食べてもらう予定だ」
「試作はお二人とも食べたんですよね?」
「ああ」
リリアはレンへ視線を向けた。
「レン、どうでした?」
「おいしかったですよ。ビールにも合いました。ただ、実際の厨房で同じ味を出せるか、注文が重なっても品質を保てるかは、これから確認します」
「では、私たちが食べて、それから客へ少しずつ出すんですね」
「その予定です」
「楽しみにしています」
リリアは満足そうに笑った。
その話を聞いていたミーナが、近くから声をかける。
「ルークの料理が出るなら、店の楽しみがまた一つ増えますね」
「ありがとう。まだ正式に決まったわけじゃないけどな」
「それでも楽しみです」
「ミーナも、次に歌う曲を考えているんですよね?」
リリアが尋ねると、ミーナは少し照れたように笑った。
客たちから次の歌を期待されるようになり、ミーナも以前より慎重に曲を選ぶようになっていた。
「はい。今度は、少し明るい曲にしようと思っています」
「前とは違う雰囲気になりそうですね」
「そうですね。ただ、一人で歌うと少し単調に聞こえるかもしれません」
「それなら、伴奏があるとよさそうですね」
リリアの何気ない一言に、ミーナが瞬きをする。
「伴奏ですか?」
「はい。楽器があれば、今までとは違う雰囲気になると思います」
「それはそうですけど、演奏できる人が……」
ミーナが言葉を止める。
店の中に、楽器を扱える者がいるとは聞いていない。
レンも、すぐには心当たりが浮かばなかった。
その時、少し離れた場所でクロスを畳んでいたセレナが手を止めた。
何かを言おうとして、迷う。
けれど、ミーナたちの会話が別の話題へ移る前に、小さく口を開いた。
「伴奏でしたら、少しできるかもしれません」
全員の視線がセレナへ集まる。
セレナは急に注目されたことで、僅かに肩へ力を入れた。
「セレナさん、楽器を弾けるんですか?」
リリアが驚いて尋ねる。
「はい。リュートを少し」
「少しというのは、どのくらいです?」
「子供の頃から習っていました。人前で演奏したこともあります」
「そんなお話、一度も聞いたことがありませんでした」
「聞かれませんでしたから」
セレナは困ったように笑った。
レンは、セレナが以前受けていた教育を思い出す。
言葉遣いや礼儀作法だけではなく、音楽や舞踊も学んでいたのだろう。
「どのような曲を弾いていたんですか?」
ミーナが尋ねる。
「家へ客を招いた時に演奏する曲や、食事の席で流す穏やかな曲です。歌の伴奏も習いました」
「それなら、私の歌にも合わせてもらえるでしょうか」
ミーナの声には、隠しきれない期待があった。
しかしセレナは、すぐには答えなかった。
視線が自分の指先へ落ちる。
「今も弾けるかは分かりません」
静かな声だった。
「しばらく、楽器へ触れていませんから」
リリアも、先ほどまでの明るい勢いを少し抑える。
「どのくらい触れていないんですか?」
「家を出てから、一度も」
その言葉とともに、セレナの胸へ昔の感触が蘇る。
細い弦。
磨かれた木の表面。
客の前へ出る前に、何度も音を確かめた時間。
けれど、家を失ってからは、楽器へ触れる余裕などなかった。
自分の生活をどう立て直すか。
明日をどう過ごすか。
それだけを考える日々の中で、音楽は遠いものになっていた。
「楽器を手放した時、もう弾くことはないと思っていました」
セレナは穏やかに話していたが、その言葉の奥には過去への複雑な思いがあった。
以前の自分。
家の客の前で演奏していた時間。
すべてを失った後の生活。
それらが、リュートの音と結びついている。
レンは、セレナへ無理に頼むつもりはなかった。
「今すぐ決めなくて大丈夫です」
レンが言う。
「ですが……」
「セレナさんが、もう一度弾きたいと思った時に考えましょう。店のためだからと、無理に過去へ触れる必要はありません」
ミーナもすぐに頷く。
「私も、無理に弾いてほしいわけではありません」
セレナがミーナを見る。
「一緒に演奏できたら嬉しいです。でも、セレナさんが苦しいなら、私は一人で歌います。今までどおりでも、楽しく歌えていますから」
その言葉に、セレナの表情が僅かに和らいだ。
「ありがとうございます」
「でも、弾きたくなったら教えてくださいね」
「はい」
リリアも笑う。
「その時は、私たちにも聴かせてください」
「練習中は聞かないでください」
「失敗したところを聞かれるのが恥ずかしいからですか?」
「そうです」
「では、弾けるようになるまで楽しみに待っていますね」
リリアがそう言うと、セレナも小さく笑った。
完全に拒んだわけではない。
もう一度弾きたいと思った時に。
レンが伝えたその言葉を、セレナは心の中で繰り返していた。
◇
夜営業が始まると、Club Moon Dropにはいつもの穏やかな時間が流れ始めた。
ロイが受付で会員を迎え、ディーノが客を席へ案内する。
リリアたちはそれぞれの卓へ向かい、客との会話を始める。
ルークは厨房へ戻り、金獅子亭から仕入れた料理を温めていた。
まだ、自分の料理は客へ出していない。
翌日の昼営業後、スタッフ全員へ試食してもらう予定だった。
その後は数を限り、客へ試験的に提供する。
実際の営業中に同じ味を保てるか。
酒を飲みながら食べた客が、どのような反応を見せるか。
それを確認して、初めて正式な料理として採用される。
それでも、いつもと同じ料理を扱うルークの手つきには、以前とは違う意識があった。
どの酒と一緒に注文されているのか。
客は料理を食べた後、何を飲むのか。
皿へ手を伸ばす速さはどうか。
会話を止めずに食べられているか。
これまでも見ていたはずの光景が、少し違って見える。
「ルーク」
厨房の入口からディーノが声をかける。
「追加で二皿。奥の卓と窓側だ」
「分かった」
「それと、窓側の客が料理について聞いていた。どこから仕入れているのかって」
「金獅子亭だと伝えてくれ」
「もう伝えた」
「ありがとう」
ディーノは注文を置いた後、続ける。
「自分の料理を作ってるらしいな」
「店の中で話してれば、聞こえるか」
「ああ」
「まだ客へ出せると決まったわけじゃない」
「そうか」
ディーノはそれ以上大げさに反応せず、店内へ戻ろうとした。
けれど、入口で一度振り返る。
「明日、試食するんだろう?」
「ああ。その予定だ」
「なら、楽しみにしてる」
「ありがとう」
そう言い残して戻っていく。
ルークは小さく息を吐いた。
誰かが自分の料理を楽しみにしていることが、思っていた以上に嬉しかった。
店内では、レオナルドがリリアと話していた。
ルークが新しい料理を作ろうとしている話は、自然に客の耳にも入っている。
「新しい料理が出るそうですね」
レオナルドが尋ねる。
「はい。まだ試作の段階ですけど、ルークが材料から全部作っているんです」
「それは楽しみだ」
「私たちも、明日の試食で初めて食べるんですよ」
「そうなのか。皆の反応も気になるところだね」
「ルーク、ずっと厨房のことを考えていましたから。うまくいってほしいです」
リリアの言葉に、レオナルドは穏やかに頷いた。
「私も、正式に出される日を楽しみに待つことにしよう」
「店へ出せると決まったら、きちんとお伝えしますね」
「ありがとう。ほかの会員たちと同じ日に味わえるなら、それで十分だよ」
「レオナルド様なら、皆さんと同じ日に召し上がるとおっしゃると思っていました」
「そう思われていたのか」
「はい」
リリアは柔らかく笑った。
「限定数のあるビールの時も、ほかの方の分まで求めることはありませんでしたから」
レオナルドも僅かに笑う。
「楽しみにはしているよ。だが、店の順番を変えてまで先に味わいたいとは思わない」
「店へ出せるようになったら、最初にご案内しますね」
「それなら、楽しみに待つことにしよう」
レンは少し離れた場所で、その会話を聞いていた。
レオナルドは貴族であることを隠していない。
けれど、それを使って店の決まりを変えようとはしない。
限定数のあるビールが出た時も、自分へ多く回すよう求めず、ほかの客が飲む分を残していた。
スタッフにも丁寧に接し、冒険者や商人と同じ卓になっても態度を変えない。
紹介制の店である以上、会員が誰を紹介し、紹介された者がどのように振る舞うかは重要になる。
特別会員は、単に多く通った者や、身分の高い者へ与えるものではない。
店の空気を理解し、それを守ろうとする者。
ほかの会員へよい影響を与えられる者。
自分が優遇されることよりも、店全体が穏やかに続くことを大切にできる者。
レオナルドは、その条件へ近づいていた。
レンはすぐに結論を出すことはしなかった。
だが、特別会員へ進める候補として、改めて考えることにした。
◇
夜営業を終えた後。
片付けを終えた店内には、スタッフだけが残っていた。
ミーナが小さく鼻歌を歌いながらグラスを運んでいる。
その旋律を聞いたセレナは、一瞬だけ手を止めた。
何度か聞いた、次に歌う候補だと言っていた曲だった。
歌の流れへ、どのような音を重ねればよいか。
セレナの頭の中には、自然と伴奏が浮かんでいた。
低い音から始める。
歌の邪魔をしないように、間を空ける。
声が高くなるところで、少しだけ音を支える。
明るい部分では軽く音を重ね、歌声が穏やかになるところでは、弦を静かに響かせる。
指先が動きそうになり、セレナは自分の手を見た。
長く楽器へ触れていない。
今も以前のように弾けるとは思えない。
指が動かないかもしれない。
音を外すかもしれない。
昔のことを思い出し、苦しくなるかもしれない。
それでも、もう二度と弾きたくないと思っているわけではなかった。
以前の自分に求められていた演奏ではない。
誰かに評価されるためでもない。
今の仲間の歌を支えるためなら、もう一度触れてみたいという気持ちが、僅かに生まれていた。
「セレナさん?」
ミーナが声をかける。
「どうしました?」
「いえ。その歌は、次に歌う曲ですか?」
「候補の一つです。少し明るすぎるかもしれませんけど」
「そんなことはないと思います」
「そうですか?」
「はい。夜の店でも、静かな曲ばかりでなくてよいと思います」
ミーナは嬉しそうに笑った。
「セレナさんにそう言ってもらえるなら、この曲にしようかな」
「まだ伴奏をすると決めたわけではありませんよ」
「分かっています」
ミーナはそう答えた後、少しだけ声を落とす。
「でも、いつか一緒にできたら嬉しいです」
セレナはすぐには答えなかった。
ミーナの歌声を思い出す。
客へ聞かせるためでありながら、どこか自分自身も楽しんでいた声。
その声へ、自分の音を重ねる。
かつての自分が弾いていたものとは、まったく違う演奏になるかもしれない。
やがて、セレナは小さく頷いた。
「私も、そう思います」
それは約束ではなかった。
いつ弾くのかも、どの曲を弾くのかも決まっていない。
そもそも、店にはまだリュートもない。
けれど、完全に閉じていた扉へ、僅かな隙間が生まれた言葉だった。
厨房では、ルークが翌日の試食に使う材料を確認していた。
鶏もも肉。
香草。
バター。
レモン。
すべて揃っている。
金獅子亭で完成させた味を、今度は自分の厨房で再現しなければならない。
使う火も、鍋も、調理台の広さも違う。
料理を出すまでの流れも違う。
明日の試食は、客へ出すための最初の確認だった。
「まだ片付けが残ってるのか?」
厨房へ入ってきたレンが尋ねた。
「いや。明日の分を確認してただけだ」
「緊張していますか?」
「少しな」
「金獅子亭では、うまくできていました」
「ここの厨房でも同じようにできるとは限らない」
「そうですね」
レンは否定しなかった。
その答えに、ルークは僅かに眉を上げる。
「大丈夫だとは言わないんだな」
「大丈夫だと言われて、気が楽になりますか?」
「ならないな」
「ルークならできると思っています。でも、実際に作るのはルークですから」
「ああ」
「失敗しても、すぐ客へ出すわけではありません。何か違えば、もう一度直しましょう」
ルークは準備した材料へ目を向けた。
「何度も直してきた」
「なら、ここでも同じです」
レンの言葉に、ルークは静かに頷いた。
新しい料理。
もう一度鳴るかもしれないリュートの音。
一方は、料理を温めるだけだったルークが、自分の手で生み出そうとしているもの。
もう一方は、セレナが過去へ置いてきたはずのもの。
どちらも、まだ客の前には出ていない。
それでもClub Moon Dropでは、次の時間へ進むための小さな変化が、確かに始まっていた。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




