第80話 戻ってきた客と初めての歌
朝の商会には、荷を運ぶ者たちの声と、木箱が床へ置かれる音が響いていた。
オスカーは自分に任された取引帳簿を机へ広げ、納品記録と照らし合わせていた。
帳簿に記された品目と数量。
倉庫から出された数。
取引先が受け取った数。
請求額。
どれも一致している。
一度数字が合ったところで終わらせず、記載漏れや修正印の不足がないかも確認する。
途中、意識の端にClub Moon Dropが浮かんだ。
ロイが開く扉。
店内の柔らかな灯り。
客席で微笑むミーナ。
オスカーの手が僅かに止まる。
会いたい。
昨日、父から来店禁止を解除されてから、その気持ちは何度も胸へ浮かんでいた。
だが、店へ行くために仕事を終わらせるのではない。
任された帳簿を正しい状態にすることが、今の自分の役目だった。
オスカーは視線を帳簿へ戻し、最後の一行まで確認した。
確認した内容を一枚の紙へまとめ、帳簿へ挟む。
それから、アルフレッドのもとへ向かった。
「父上、ご確認をお願いします」
アルフレッドは帳簿を受け取り、挟まれた紙へ目を通した。
「終わったのか」
「はい。帳簿だけでなく、納品記録と在庫も確認しました」
「違いは?」
「ありませんでした。請求額と受け取りの印も揃っています」
アルフレッドは帳簿を数枚めくる。
「最初に数字が合った時点で、終わりにしなかったのか」
「はい」
「なぜだ」
オスカーは少し考える。
「数字が合っていても、ほかの記録に漏れがあるかもしれません。それに、任された仕事は、確認したと言うことではなく、正しい状態で終わらせることだと思いました」
アルフレッドは息子の顔を見た。
オスカーは褒め言葉を待たず、黙って返事を待っている。
「問題ない」
アルフレッドは帳簿を閉じた。
「このまま次の支払い日まで管理しろ」
「はい」
オスカーは帳簿を受け取った。
アルフレッドはそのまま尋ねる。
「今日は店へ行くのか」
オスカーはすぐに答えず、自分の中で決めたことを確認した。
仕事は終わっている。
使う金額も決めてある。
帰る時刻も決めた。
翌日の仕事へ影響が出るほど長く滞在するつもりはない。
「はい」
オスカーは答えた。
「ですが、遅くなる前に帰ります」
「一人で行くのか」
その問いに、オスカーは少し考えた。
自分で行くと決めることと、一人で行くことは同じではない。
最初の再来店だからこそ、父にも見届けてほしかった。
「父上にも、ご一緒していただけないでしょうか」
アルフレッドの目が僅かに細くなる。
「私がいなければ行けないのか」
「違います」
オスカーはまっすぐ父を見る。
「父上に連れていっていただくのではありません。店へ行くことは、自分で決めました」
そして、一度言葉を切る。
「ただ、最初に戻る時は、父上に隠していることが何もないと、自分の行動で示したいのです」
アルフレッドはしばらく黙っていた。
「分かった」
「ありがとうございます」
「だが、店へ向かう前に、使った書類を片づけておけ」
「はい」
オスカーは帳簿を所定の場所へ戻し、机の上を整えた。
翌日確認する記録もまとめておく。
すべてを終えた後で、ようやく帰り支度を始めた。
日が傾き始めた頃、オスカーとアルフレッドはClub Moon Dropへ向かっていた。
店へ近づくほど、胸の鼓動が速くなる。
歩く足も自然と速くなりそうになった。
オスカーは一度息を整え、歩調を戻す。
急いだからといって、ミーナへ早く会えるわけではない。
何より、会いたい気持ちだけで周囲が見えなくなる自分には戻りたくなかった。
Club Moon Dropの建物が見えてくる。
扉の前へ立つと、以前レンに止められた日のことが浮かんだ。
あの日は、父へ隠れて来た。
仕事を終えたふりをし、自分の感情だけを正しいものだと考えていた。
今は違う。
父と話した。
任された仕事を終えた。
使う金と帰る時刻も決めた。
そして、誰かに言われたからではなく、自分で来ると決めた。
オスカーが扉へ手を伸ばす前に、内側から扉が開いた。
ロイが二人を迎える。
「いらっしゃいませ」
オスカーの姿を見ても、驚いた様子は見せなかった。
「レンさんへお伝えします。こちらで少々お待ちください」
ロイが店内へ声を掛ける。
ほどなくして、レンが姿を現した。
「こんばんは」
「こんばんは」
オスカーは頭を下げた。
レンはアルフレッドへ一度視線を向け、それからオスカーを見る。
「今日は、誰にも隠れていませんか」
静かな問いだった。
責める口調ではない。
それでも、以前の自分と向き合うような重みがあった。
「はい」
オスカーは答える。
「父と話し、任された仕事を終え、許可を得て来ました」
「そうですか」
「ただ、許されたから来たのではありません」
レンの目を見たまま続ける。
「以前と同じことを繰り返さないと、自分で決めて来ました」
レンはオスカーの表情を確かめる。
次にアルフレッドを見る。
アルフレッドは小さく頷いた。
「分かりました」
レンは扉を広く開く。
「どうぞ」
その言葉を聞き、オスカーの胸に安堵が広がった。
「ありがとうございます」
もう一度頭を下げ、父と共に店内へ入る。
Club Moon Dropの空気は、以前と変わっていなかった。
柔らかな灯り。
落ち着いた会話。
グラスが置かれる小さな音。
酒と料理の香り。
何度も過ごした場所なのに、長い間離れていたように感じた。
客席へ目を向ける。
そして、ミーナを見つけた。
別の客の席で話していたミーナも、オスカーへ気づいた。
一瞬、目を大きく見開く。
驚きと喜びが、その表情へはっきりと浮かんだ。
しかしミーナは、すぐに目の前の客へ向き直った。
丁寧に言葉を掛けてから席を離れ、落ち着いた足取りでオスカーたちのもとへ来る。
オスカーも、自分から駆け寄ることはしなかった。
会えなかった間、自分を思い出したのか。
寂しかったのか。
聞きたいことは多い。
だが、それを今すぐ相手へぶつけることは違うと分かっていた。
ミーナは二人の前で立ち止まり、丁寧に頭を下げる。
「いらっしゃいませ、オスカーさん。アルフレッド様」
「こんばんは、ミーナさん」
オスカーの声は少し固くなった。
それでも、感情のまま話し始めることはしなかった。
ミーナに案内され、席へ着く。
アルフレッドは少し離れた席を選んだ。
息子の言葉を代わりに伝えるつもりはないのだろう。
オスカーは注文を済ませると、ミーナへ向き直った。
「最初に、お伝えしたいことがあります」
「はい」
「父に隠れて来たことも、レンさんを困らせたことも、あなたの気持ちを考えずに会おうとしたことも、間違っていました」
ミーナは黙って聞いている。
「申し訳ありませんでした」
オスカーは頭を下げた。
謝ればすべてが元に戻るとは思っていない。
許してもらうための言葉にするつもりもなかった。
「謝罪を受け入れてほしいと、無理にお願いするつもりはありません」
オスカーは顔を上げる。
「ただ、自分が間違っていたことは、きちんとお伝えしたかったのです」
ミーナはしばらく言葉を返さなかった。
やがて、穏やかな声で言う。
「お会いできて嬉しいです」
オスカーの胸が強く鳴った。
「ですが、無理をして来られることは望んでいません」
「はい」
「お父様に隠れたり、お仕事を残したりしてまで来られたなら、私は喜べなかったと思います」
「分かっています」
オスカーは頷いた。
「今度は無理をしていません。仕事を終えて、自分で来ると決めました」
ミーナは静かにその言葉を受け止める。
「私は、あなたに話を聞いていただくことへ甘えすぎていました」
オスカーは言葉を選ぶ。
「優しくしていただけば、自分は大丈夫だと思っていました。ですが、それではいけないと分かり始めました」
完全に理解できたわけではない。
もう迷わないと断言することもできない。
「これからは、自分の仕事や約束を守ったうえで、こちらへ伺いたいと思っています」
ミーナの目が僅かに潤んだ。
「はい」
それ以上、オスカーは言葉を重ねなかった。
ミーナへ許しを迫らず、今の自分をどう思うかとも尋ねない。
ミーナも、すべてをすぐに許したとは言わなかった。
今、目の前にいるオスカーを静かに見ていた。
少しして、ミーナが尋ねる。
「お仕事はいかがですか」
「小さな取引帳簿を一冊、任せてもらえるようになりました」
「頑張られたのですね」
「ありがとうございます」
オスカーは素直に礼を言った。
「まだ始まったばかりです。任せていただいた以上、最後まできちんと管理したいと思っています」
「とても大切なことだと思います」
オスカーは頷いた。
その後は、商会へ入った品のことや、市場で見かけた珍しい果物の話をした。
ミーナも店の新しい料理について話す。
会えなかった間、自分を考えていたかとは尋ねない。
次の来店日を決めようともしない。
ほかの客からミーナへ声が掛かった時も、不満を見せなかった。
ミーナが席を離れようとすると、オスカーは穏やかに言う。
「私のことは気になさらないでください」
「ありがとうございます。少し席を外しますね」
「はい」
ミーナが別の客のもとへ向かう。
オスカーはその背中を見送り、自分のグラスへ手を伸ばした。
アルフレッドは、少し離れた席から息子の様子を見ていた。
たった一日で変わったと判断するつもりはない。
父親が近くにいるから、感情を抑えているだけかもしれない。
それでも、以前とは明らかに違う。
ミーナの言葉を一つでも多く得ようとせず、自分の感情を自分の中へ置こうとしている。
アルフレッドは何も言わず、静かに酒を口へ運んだ。
夜営業が進むにつれ、正規会員たちが店へ集まり始めた。
いつものように、ガイルもサラとボルドを連れて現れた。
ガイルはオスカーの姿を見つけると、一瞬だけ目を細めた。
「戻ったか」
「はい」
オスカーは立ち上がり、頭を下げる。
「先日は、ありがとうございました」
「礼を言われるようなことはしてない」
「それでも、お話しいただかなければ、自分の目的を考え直せなかったと思います」
ガイルはオスカーの顔を見た。
「まだ一日二日だろ」
「はい」
「分かった気になるなよ」
「分かっています」
オスカーは素直に答える。
「これから行動で示します」
ガイルは小さく笑った。
「なら、酒を飲みすぎるな。明日も仕事なんだろ」
「はい」
それだけ言い、ガイルはサラたちと自分の席へ向かった。
営業が落ち着き始めた頃、ミーナは客席の端に立ち、店内を見渡していた。
オスカーは戻ってきた。
父に隠れてではない。
仕事を投げ出してでもない。
父と話し、自分で考え、自分で店へ来た。
彼のすべてが変わったとは思わない。
これからも迷うことはあるだろう。
自分も、オスカーへ向ける気持ちをまだはっきりと言葉にできない。
それでも、今夜の彼は、自分へ何かを求めることだけを目的に座っているのではなかった。
ミーナの頭に、一つの歌が浮かぶ。
スタッフたちの前で歌った、遠くへ向かう者の無事と再会を願う歌。
オスカーが戻った時、初めて客前で歌いたい。
そう考えていた。
だが、オスカーが戻ったから歌わなければならないわけではない。
彼の努力へ応えるために歌うのでもない。
そうなれば、歌うことを相手へ預けることになる。
ミーナは自分へ問い掛けた。
今、本当に歌いたいのか。
オスカーを引き留めるためではなく。
彼だけへ何かを伝えるためでもなく。
客の前へ立ち、自分の声を届けたいと思っているのか。
答えは、すぐに出た。
歌いたい。
怖さはある。
スタッフたちの前で歌った時とは違う。
今度は客がいる。
どのように受け取られるかも分からない。
それでも、自分が前へ進むために歌いたかった。
この店にいる客たちへ、自分の声を届けたい。
そして、その最初の場にオスカーにもいてほしい。
ミーナはレンのもとへ歩み寄った。
「レンさん」
「どうした?」
「一曲、歌ってもよろしいでしょうか」
レンは少し驚き、ミーナの顔を見た。
「今?」
「はい」
「オスカーさんが来たから?」
ミーナは一度迷った。
「オスカーさんにも、聞いていただきたいと思っています」
正直に答える。
「ですが、それだけではありません」
レンは続きを待つ。
「今、自分で歌いたいと思いました」
「本当に?」
「はい」
ミーナは頷いた。
「怖いです。でも、歌いたいです」
レンの表情が柔らかくなる。
「分かった」
「ありがとうございます」
「準備は必要?」
「いいえ」
「それなら、店内へ伝えるよ」
レンは客席の中央へ進んだ。
会話が少しずつ静まる。
「皆さんへお伝えしたいことがあります」
客たちがレンを見る。
「これから、ミーナが一曲歌います」
オスカーは驚き、ミーナへ目を向けた。
「ミーナさんが……?」
彼女が歌えること自体、初めて知った。
スタッフの前で歌ったことも知らない。
店へ通っていた頃、ミーナとは何度も話した。
自分の悩み。
仕事の失敗。
父との関係。
不安や寂しさ。
知りたいと思いながら、自分へ向けられる優しさばかりを見ていたのかもしれない。
ミーナにも、自分の知らない時間がある。
自分の知らない過去や才能、迷いがある。
彼女は、自分の話を聞くために存在しているのではない。
自分とは別の人生を生きる、一人の人間だ。
ミーナが客席の前へ立つ。
会話が止まり、客たちの視線が集まる。
ガイルたちもグラスを置いた。
アルフレッドも背筋を伸ばし、静かに見守る。
ミーナの指先は僅かに震えていた。
一度深く息を吸う。
歌い始める前に、オスカーへ目を向けた。
視線が重なる。
オスカーは何も求めず、ただ静かに見守った。
ミーナが目を閉じる。
最初の声は、小さく穏やかに始まった。
夜明け前の静かな道を、一人の旅人が歩き始めるような旋律だった。
澄んだ声が、店内へゆっくりと広がっていく。
遠くへ向かう者の無事を願う歌。
見送る者は寂しさを抱えながらも、戻ることを強く求めない。
相手の歩む道が、穏やかであるように願う。
歌が進むにつれ、ミーナの声は少しずつ力を増した。
離れていても、それぞれの場所で生きていく。
自分の足で歩き続けた先で、いつか再び同じ景色を見られると信じる。
高く伸びた声が、店の奥までまっすぐ届いた。
音程は揺れず、言葉の一つひとつが明確に聞き取れる。
それでも、技術を見せつける歌ではなかった。
ミーナ自身の願いや迷いが、声の中へ静かに込められていた。
最後の部分では、声が再び柔らかくなる。
帰ることを急かさず、ただ再会を信じるように。
祈りにも似た一音を残し、歌は静かに終わった。
すぐには誰も動かなかった。
最後の音が消えた後も、その余韻が店内へ残っている。
やがて一人の客が手を叩く。
それをきっかけに、拍手が広がった。
ガイルも、サラも、ボルドも笑顔で手を叩いている。
アルフレッドも静かに拍手を送った。
彼は、息子がミーナへ心を惹かれた理由の一端を理解した。
優しいからだけではない。
話を聞いてくれるからだけでもない。
ミーナ自身に、人の心を引きつけるものがある。
そして同時に、この女性は息子のためだけにいるのではないとも強く感じていた。
今の歌は、店にいるすべての客へ届けられたものだった。
オスカーも、胸を強く揺さぶられていた。
歌詞の中には、会えなかった時間や再会の喜びを思わせる部分がある。
自分へ向けられているように感じる瞬間もあった。
それでも、歌を自分だけのものだとは考えなかった。
ミーナは自分で歌うことを選び、自分の声を客たちへ届けた。
その姿を見られたことが、ただ嬉しかった。
ミーナは深く頭を下げた。
顔を上げた瞬間、張り詰めていた緊張がほどけ、その目に僅かな涙が滲んだ。
怖かった。
それでも歌えた。
自分の意思で、初めて客へ歌を届けられた。
レンが近づき、小さく声を掛ける。
「よかったよ」
「ありがとうございます」
ミーナは胸元へ手を置き、呼吸を整えた。
拍手が落ち着くと、店内へ少しずつ会話が戻っていく。
ミーナはオスカーの席へ向かった。
オスカーは彼女が座るのを待ち、穏やかに口を開いた。
「聞かせてくださって、ありがとうございます」
ミーナの目が僅かに見開かれる。
「とても素晴らしい歌でした」
「ありがとうございます」
「ミーナさんが歌われることを、知りませんでした」
「お話ししたことがありませんでしたから」
「私は、あなたのことを知りたいと思っていたつもりでした」
オスカーは一度言葉を探す。
「ですが、自分へ向けてくださる優しさばかりを見ていたのかもしれません」
ミーナは黙って聞いている。
「あなたにも、私の知らないことがたくさんあるのですね」
「はい」
ミーナは少し照れたように笑った。
「私も、オスカーさんのことを、すべて知っているわけではありません」
「そうですね」
「これから……」
ミーナはそこで一度言葉を止めた。
「少しずつ、知ることができればよいと思います」
オスカーの胸が温かくなる。
これからという言葉に、どのような意味があるのか。
自分をどれほど特別に思っているのか。
尋ねたい気持ちはあった。
だが、今すぐ答えを求める必要はない。
ミーナは少し迷った後、言葉を続ける。
「最初にお客様の前で歌う時は、オスカーさんにも聞いていただきたいと思っていました」
オスカーの呼吸が僅かに止まる。
自分に、ではなく、自分にも。
その違いを受け止める。
自分が特別ではないという意味ではない。
最初の歌を聞いてほしい相手の一人として、ミーナは自分を思ってくれていた。
けれど、歌は自分だけに向けられたものではない。
「その場にいられたことを、嬉しく思います」
オスカーは答えた。
「戻ってくることができて、本当によかったです」
ミーナは、以前とは違うオスカーの受け止め方に気づいた。
自分の言葉から、特別な意味だけを取り出そうとしていない。
歌を自分だけのものにしようとしていない。
そのことが、ミーナには嬉しかった。
「私も、聞いていただけて嬉しかったです」
二人の間に、穏やかな沈黙が生まれた。
互いの気持ちを確かめ合ったわけではない。
すぐに恋人になるわけでもない。
それでも、以前とは違う静かな特別さが、その場にはあった。
夜が深くなる前、オスカーは懐中時計を取り出した。
まだ話したい。
歌についても聞きたい。
いつから歌っていたのか。
ほかにはどのような歌を知っているのか。
尋ねたいことは多かった。
だが、翌日も仕事がある。
帳簿の管理も始まったばかりだ。
今日だけ条件を守ればよいわけではない。
オスカーは時計をしまい、自分から立ち上がった。
「明日も仕事がありますので、今日は帰ります」
ミーナは少し驚いたように見た。
アルフレッドはまだ何も言っていない。
「もう、お帰りになるのですか」
「はい」
オスカーは正直に頷く。
「まだお話ししたい気持ちはあります」
無理に平気なふりはしなかった。
「ですが、その気持ちだけで残るのでは、以前と同じだと思います」
ミーナはその言葉を受け止め、微笑んだ。
「お仕事を大切になさってください」
「はい」
オスカーは、次にいつ会えるかを尋ねなかった。
次回もミーナを指名してよいかという約束も求めない。
「また、自分で来られる時に伺います」
ミーナは少しだけ目を細めた。
「またお会いできる時を、楽しみにしています」
その「また」は、相手を店へ縛るための言葉ではなかった。
互いが自分の仕事と生活を守った先で、再び会いたいという言葉だった。
「私も、楽しみにしています」
アルフレッドも席を立った。
会計を済ませ、二人は出口へ向かう。
ロイが扉を開け、レンが入口近くで二人を見送った。
「今日は、ありがとうございました」
オスカーが頭を下げる。
「こちらこそ」
レンは答えた。
「また、仕事を終えてから来てください」
「はい」
店主から客へ向けた、普段通りの言葉だった。
だがオスカーには、以前とは違う重みを持って聞こえた。
外へ出ると、夜の空気が頬へ触れた。
Club Moon Dropの灯りが、背後から通りへ漏れている。
オスカーは一度だけ振り返った。
扉はすでに閉じている。
それでも、寂しさに引かれて戻ろうとは思わなかった。
父と並んで歩き出す。
しばらく二人は黙っていた。
「もっと残りたかったのではないか」
アルフレッドが尋ねる。
「はい」
オスカーは正直に答えた。
「もっとミーナさんと話したかったです。歌についても聞きたかった」
「なら、なぜ帰った」
「明日も仕事があるからです」
「それだけか」
オスカーは少し考える。
「また会いたいからこそ、自分の日常を守らなければならないと思いました」
会いたい。
話したい。
その感情だけで時間を決めれば、また仕事や生活を置き去りにする。
「残りたいから残るのでは、以前と同じです」
アルフレッドは何も言わず歩き続けた。
しばらくして、静かに口を開く。
「今日は、お前を連れ帰る必要がなかった」
オスカーは父を見る。
アルフレッドは前を向いたままだった。
「自分で帰る時刻を決め、自分で席を立った」
「はい」
「一度で、すべてを信用したわけではない」
「分かっています」
「だが、今日のお前の行動は信用する」
それは、父から息子へ返された信頼の最初の言葉だった。
「ありがとうございます」
オスカーはそれ以上を求めなかった。
これからも行動を重ねればよい。
二人は自宅のある方角へ歩いていく。
Club Moon Dropでは、オスカーたちが帰った後も営業が続いていた。
ミーナは客席を整えながら、彼が座っていた席へ一度目を向けた。
今も、もう少し話したかったと思う。
歌の感想も、もっと聞きたかった。
それでも、オスカーが自分から帰ったことを嬉しく感じていた。
自分より仕事を選んだのではない。
再び会うために、自分の生活を守ることを選んだのだ。
リリアが隣へ来る。
「歌えてよかったね」
「はい」
「オスカーも、前とは少し違った」
「そう思います」
「次はいつ来るか、聞かなかったね」
ミーナは小さく笑った。
「はい」
「寂しい?」
少し考えてから答える。
「少しだけ」
それでも、表情は穏やかだった。
「ですが、またお会いできると思っています」
「約束してないのに?」
「約束がなくても、それぞれが自分のことを大切にしていれば、また会えると思います」
リリアは少し笑った。
「それでいいんじゃない」
「はい」
ミーナはもう一度、空いた席を見る。
オスカーへの気持ちに、まだ名前を付ける必要はない。
特別に思っていることだけは、分かっている。
以前のオスカーは、ミーナに会うために日常を置き去りにした。
けれど今夜は、もう一度会うために、自分の日常へ帰っていった。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




