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異世界キャバクラ王 ~酒チートと氷魔法で、夜の社交界を支配する~  作者: 阿鼻恭介
第4章 育つ店、広がる縁

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第79話 戻るために持つべきもの

 朝の商会には、荷を運ぶ者たちの声と、帳面をめくる音が途切れることなく響いていた。


 倉庫へ運び込まれた木箱には、一つひとつ荷札が結びつけられている。


 仕入れ先。


 品目。


 数量。


 受け取りの日付。


 オスカーは箱の前に立ち、荷札と手元の帳面を交互に確認していた。


「十八、十九……二十」


 数え終えると、帳面へ小さな印を付ける。


 次の荷へ移る前に、端からもう一度だけ確認する。


 記載された数量と実際の箱の数は一致していた。


 オスカーは僅かに息を吐く。


 間違えていない。


 今日も、ここまでは問題なく仕事を進められている。


 以前のオスカーであれば、同じ数字を何度も見直しながら、肝心なところで一つ飛ばしていた。


 目の前の荷札を見ているつもりでも、頭の中にはClub Moon Dropのことばかりが浮かんでいたからだ。


 ミーナは今、誰と話しているのか。


 自分が店へ行かなくなったことを気にしているのか。


 次に会った時、どのような言葉を掛ければよいのか。


 考え始めれば、目の前の数字は簡単に意識から消えていた。


 今は、以前より集中できている。


 父に隠れて店へ向かった時のように、途中で仕事を投げ出すこともない。


 任されたことを終えず、倉庫から姿を消すこともなくなった。


 それでも、心の奥には一つの期待が残っていた。


 今日も失敗しなければ。


 昨日より正確に働ければ。


 父は、Club Moon Dropへ行くことを許してくれるかもしれない。


 仕事へ向き合い始めてはいる。


 だが、その努力の先に思い浮かべているものは、今も変わらなかった。


 Club Moon Drop。


 そして、ミーナ。


 店へ戻りたい。


 父から許しを得たい。


 ミーナへ会いたい。


 それが、今のオスカーを動かす一番大きな理由だった。


「オスカー」


 倉庫の入口から声を掛けられる。


 振り向くと、アルフレッドが立っていた。


「はい、父上」


「確認は終わったか」


「こちらの荷は終わりました。帳面と数量も一致しています」


 オスカーは帳面を差し出した。


 アルフレッドは記録へ目を通す。


 以前なら、父が帳面へ目を落としただけで胸が苦しくなった。


 間違いを見つけられるのではないか。


 また失望されるのではないか。


 その不安に耐えられず、説明を求められる前から言い訳を始めることもあった。


 今は黙って待つ。


 間違いがあれば、直せばよい。


 隠したり、言い訳をしたりする方が、さらに信頼を失う。


 少なくとも、それだけは理解していた。


「問題ない」


 アルフレッドは帳面を閉じた。


「昼前に、北通りの取引先へこの書類を届けてこい」


「私がですか?」


「一人で行けるな」


「はい」


 差し出された封書を受け取る。


 アルフレッドはそれ以上何も言わず、別の作業へ向かった。


 オスカーは封書を胸元の鞄へしまう。


 以前より、任される仕事が少しずつ増えている。


 それは、父が完全ではなくとも、もう一度自分を見ようとしている証なのかもしれない。


 そう思うと嬉しかった。


 同時に、今日の仕事も問題なく終えられれば、来店禁止について何か話してもらえるのではないかという期待も膨らんだ。


 オスカーはその気持ちを抱えたまま、取引先へ向かった。


 昼前の市場は、多くの人で賑わっていた。


 野菜や果物を並べた露店。


 焼いた肉の香りを漂わせる屋台。


 布や革製品を積んだ荷車。


 品物を売り込む商人たちの声が、あちらこちらから響いている。


 オスカーは人の流れを避けながら、北通りの取引先へ書類を届けた。


 受け取りの印をもらい、商会へ戻ろうとする。


 その途中、通りの向こうから歩いてくる大柄な男の姿が目に入った。


 腰には剣を下げ、肩には使い込まれた革の鞄を掛けている。


 Club Moon Dropの正規会員であるガイルだった。


 店では、サラやボルドと共にいる姿を何度か見ている。


 長く話したことはないが、同じ客として店内で顔を合わせていた。


 ガイルもオスカーに気づいたらしい。


「おう」


 片手を軽く上げる。


「最近、店で見ないな」


 オスカーの足が止まった。


「少し、仕事が忙しくて」


 反射的に、そう答えそうになる。


 実際、今は仕事へ向き合っている。


 完全な嘘ではない。


 だが、それだけを話せば、自分に都合の悪い部分を隠すことになる。


 父に隠れて店へ向かった時も、自分は似たような考え方をしていた。


 すべてを話さなければ、嘘ではない。


 自分の都合に合わせて事実を切り取ればよい。


 そうやって、自分の行動を正当化した。


 オスカーは一度視線を落とし、それからガイルを見た。


「仕事が忙しいこともあります。ですが、それだけではありません」


「そうか」


 ガイルは先を急かさなかった。


「私が、店へ行くことを禁じられました」


「何をした」


 からかうような口調ではなかった。


 オスカーは、起きたことを順番に話した。


 ミーナに会いたいあまり、仕事中にも店のことばかり考えていたこと。


 そのせいで失敗を重ねたこと。


 父からClub Moon Dropへ行くことを禁じられたこと。


 それでも我慢できず、父に隠れて店へ向かったこと。


 店の前でレンに止められたこと。


 今は、失った信頼を取り戻すために仕事を続けていること。


 話しているうちに、通りの中央では邪魔になると気づき、二人は市場の端へ移動した。


 ガイルは最後まで笑わなかった。


 呆れたように溜息を吐くこともない。


 オスカーが話し終えると、腕を組んでしばらく黙っていた。


「それで、お前はどうしたいんだ」


「ミーナさんに会いたいです」


 迷わず答える。


 だが、ガイルの眉が寄った。


「それは、お前が欲しいものだ」


「え?」


「俺が聞いてるのは、お前がどんな男になりたいかだ」


 オスカーは言葉を失った。


 どんな男になりたいか。


 考えたことがなかったわけではない。


 父の役に立つ人間になりたい。


 商会の仕事を任せてもらいたい。


 ミーナに認めてもらいたい。


 彼女の隣へ座っても恥ずかしくない人間になりたい。


 だが、それはすべて誰かから見た自分の話だった。


 誰にも褒められなくても。


 ミーナから何も与えられなくても。


 自分がどうありたいのか。


 オスカーには、すぐに答えられなかった。


「分かりません」


 正直に答える。


「だろうな」


 ガイルは責めるでもなく言った。


「会いたい。許してほしい。認めてほしい。そればかり考えてたんじゃ、自分がどうなりたいかまで考える余裕はない」


 オスカーは何も返せなかった。


「私は、ミーナさんを大切にしたいと思っています」


「本当にそう思ってるなら、相手に自分を支えさせることばかり考えるな」


 ガイルの言葉は率直だった。


「ミーナさんに支えてもらおうとしたつもりはありません」


「会えないだけで、仕事が手につかなくなったんだろ」


「それは……」


「話を聞いてもらえば安心する。優しくされれば、自分には価値があると思える。店に行けなきゃ、それが全部なくなるように感じる」


 ガイルはオスカーの顔を見る。


「違うなら違うと言え。だが、俺にはそう見える」


 言い返せなかった。


 ミーナと話している間、オスカーは安心できた。


 仕事で失敗しても、彼女は責めずに話を聞いてくれた。


 自分の考えを頭から否定せず、丁寧に受け止めてくれた。


 だから会いたかった。


 ミーナの優しさに触れれば、苦しさが薄れるから。


 自分が必要とされているように思えたから。


 いつの間にか、彼女がそこにいることを、自分が立つための理由にしていた。


「ミーナさんを困らせたいわけではありません」


「困らせたいと思って困らせる奴ばかりじゃない」


 ガイルは言った。


「相手を大切にしてるつもりで、自分の気持ちを押しつけることもある」


 オスカーは、父に隠れて店へ向かった日のことを思い出す。


 会いたい。


 話したい。


 自分が努力していることを知ってほしい。


 そればかりで、ミーナがどう感じるかを考えていなかった。


 父との約束を破ってまで来た自分を見て、彼女が喜ぶと思っていたのだろうか。


 レンが止めなければ、店へ入り、ミーナへ何を求めていたのか。


「男らしくなれって話じゃないぞ」


 ガイルが言う。


 オスカーは顔を上げた。


「強く見せろとか、好きな女を守ってやれとか、そういう話をしてるんじゃない」


「では、どういうことでしょうか」


「都合が悪くなった時だけ、自分で決めたことから逃げるな。それが芯だ」


 ガイルは通りを行き交う人々へ一度視線を向けた。


「仕事を大切にすると決めたなら、寂しいからって投げ出すな」


「はい」


「父親の信頼を取り戻すと決めたなら、数日真面目に働いただけで、もう許してくれって顔をするな」


 オスカーの胸が痛んだ。


 今朝も、今日こそ許してもらえるかもしれないと考えていた。


「ミーナを大切にしたいなら、自分の気持ちを受け止めてもらうことばかり考えるな」


 ガイルの声は厳しかった。


 だが、怒っているわけではない。


「会えないだけで崩れるなら、会えたところで相手に寄りかかるだけだ」


 その言葉は、父から叱られた時よりも深く胸へ刺さった。


 父の言葉には、反発することができた。


 自分を理解してくれない。


 ミーナと会うことを邪魔されている。


 そう思えば、聞かずに済んだ。


 だが、ガイルはオスカーから何かを奪おうとしていない。


 店へ行くなとも、ミーナを諦めろとも言わない。


 だからこそ、逃げる理由がなかった。


「好きなら、好きなままでいろ」


 ガイルが続ける。


 オスカーは驚いて顔を上げた。


「諦めなくてもよいのですか」


「何で俺がお前の気持ちを決めるんだ」


「ですが、先ほどは」


「好きなことが悪いとは言ってない。だが、その気持ちを仕事や約束から逃げる理由にするな」


 会いたいと思うことも。


 寂しいと感じることも。


 なくす必要はない。


 その気持ちを抱えたまま、自分の責任を果たす。


 感情を消すのが大人なのではなく、感情にすべてを決めさせないのが大人なのだ。


「ガイルさんは、そのようにできたのですか」


 思わず尋ねる。


 ガイルは少し目を細めた。


「できなかったから言ってる」


「え?」


「俺も若い頃、仕事を投げ出してでも会いに行きたい女がいた」


 オスカーは意外に思った。


 ガイルはいつも、サラやボルドと共に堂々としている。


 何かへ迷い、仕事を投げ出そうとした姿は想像しにくい。


「遠い街に住んでた。会える機会も少なかった」


 ガイルは昔を思い出すように話す。


「次にいつ会えるか分からないと思うと、依頼なんて放り出して行きたくなった。そこまでして会いに行けば、相手も喜ぶと思ってた」


「行かなかったのですか」


「行こうとした」


 ガイルは苦笑した。


「その時、年上の冒険者に止められた」


 その男はガイルに言った。


「お前が全部捨てて来ても、相手が喜ぶとは限らない」


 当時のガイルは、その言葉に腹を立てた。


 自分は遊びではない。


 仕事よりも大切だと思うほど真剣なのだ。


 それを理解できない年上の男が、臆病な理屈で止めているのだと思った。


「でも、後で分かった」


 ガイルは言った。


「相手を大切にすることと、相手へ自分の人生を預けることは違う」


 自分がすべてを投げ捨てて会いに行けば、相手は喜ぶとは限らない。


 むしろ、自分のために仕事や仲間を捨てたのだと知れば、重荷を背負わせることになる。


「その女性とは、どうなったのですか」


「結局、別の道を選んだ」


 ガイルは簡潔に答えた。


 そこに強い未練は感じられなかった。


「だが、あの時のことは無駄じゃない。好きだから何をしてもいいわけじゃないって分かった」


 ガイルはオスカーの肩を軽く叩いた。


「一人で立てない奴が、誰かを支えられると思うか」


 オスカーは答えられない。


「まず自分で立て。並ぶのはそれからだ」


 ミーナの隣へ立ちたい。


 そう思ったことはある。


 だが、自分は並ぼうとしていたのではない。


 彼女へ寄りかかり、自分を支えてほしいと求めていた。


 その違いに、ようやく気づき始めていた。


 ガイルは肩から手を離す。


「戻れる日を待つな」


「では、何をすれば」


「戻っても恥ずかしくない自分を作れ」


 それだけ告げると、ガイルは市場の奥へ歩き出した。


 オスカーはその場に残り、しばらく動けなかった。


 戻れる日を待つ。


 自分が今までしていたのは、まさにそれだった。


 父が許してくれる日を待つ。


 Club Moon Dropへ行ける日を待つ。


 ミーナへ会える日を待つ。


 その日のために、失敗しないよう仕事をしている。


 では、店へ戻れた後はどうするのか。


 許可を得た瞬間、努力する理由を失うのではないか。


 ミーナに会えるようになれば、また仕事中も彼女のことばかり考えるのではないか。


 オスカーは胸元の鞄へ手を置いた。


 取引先から受け取った印のある書類が入っている。


 これは店へ戻るための道具ではない。


 父の商会が取引を続けるために必要な書類だ。


 自分が任された仕事だ。


 その単純な事実を、これまで本当に考えていただろうか。


 商会へ戻ったオスカーは、すぐにアルフレッドへ書類を渡した。


「受け取りの印をいただきました」


「問題はなかったか」


「はい」


 アルフレッドは封書を確認し、机へ置く。


「では、午後はこの帳簿を見ておけ」


 小さな帳簿が渡された。


 近隣の商店へ卸した品と、請求額を記録したものだった。


 オスカーは自分の机へ戻り、一行ずつ確認を始める。


 しばらく進めたところで、数字に違和感を覚えた。


 帳簿では、ある店へ木箱を十二箱納品したことになっている。


 だが、受け取りの記録は十一箱だった。


 請求書は十二箱分で作られている。


 まだ支払いは行われていない。


 このまま請求すれば、先方から余分に代金を受け取ることになる。


 以前なら、すぐに帳簿を持ってアルフレッドのもとへ行っていただろう。


 数字が違います。


 どうすればよいでしょうか。


 そう尋ねれば、父が原因を調べてくれる。


 自分は間違いを見つけたことだけを評価してもらえる。


 オスカーは立ち上がりかけた。


 だが、ガイルの言葉が浮かぶ。


 まず自分で立て。


 オスカーはもう一度椅子へ座った。


 帳簿だけでは分からない。


 ならば、ほかの記録を確認すればよい。


 最初に納品記録を調べる。


 そこには十二箱と書かれていた。


 次に倉庫の在庫記録を見る。


 出荷前日の在庫と、その後の残数を比べると、十一箱分しか減っていない。


 つまり、倉庫から出たのは十一箱だった可能性が高い。


 オスカーは荷札を保管している箱を開けた。


 該当する日の札を探す。


 しばらくして、一枚の荷札が見つかった。


 そこには十二箱と書かれている。


 しかし、搬入を担当した者の記録では、荷車へ積んだ数は十一箱だった。


 オスカーは担当者のもとへ向かった。


「少し確認したいことがあります」


「何だ?」


「この日の荷についてです。荷札では十二箱ですが、搬入記録は十一箱になっています」


 担当者は記録へ目を落とした。


「確か、その日は十一箱だったはずだ」


「荷札を書いたのは、どなたでしょうか」


「俺だ」


 男は眉を寄せた。


「前日に十二箱と聞いて書いたが、当日の朝に一箱減ったんだった。別の納品へ回したからな」


「では、荷札の書き直しを忘れたということですか」


「ああ……そうだな」


 原因が分かった。


 荷札の数量を書き直さないまま、帳簿と請求書へ十二箱として記録された。


 実際に納品されたのは十一箱。


 請求を送る前に気づけたため、先方へ迷惑を掛けずに済む。


 オスカーは、何が違っていたのかを紙へまとめた。


 どの記録を確認したか。


 原因は何だったか。


 請求書を十一箱分へ修正する必要があること。


 今後、出荷直前に数量が変わった場合、荷札と帳簿の両方へ修正の印を付けるべきではないか。


 そこまで整理してから、アルフレッドの机へ向かった。


「父上、帳簿についてご報告があります」


「間違いがあったか」


「はい。ただ、原因まで確認しました」


 オスカーは紙を差し出し、順番に説明する。


 帳簿では十二箱。


 実際の納品は十一箱。


 倉庫の在庫も十一箱分だけ減っている。


 荷札の数量変更が行われなかったため、請求書へ誤った数が残った。


「まだ支払い前ですので、請求書を十一箱分へ直せば、先方に余分な代金を求めずに済みます」


「それで終わりか」


 アルフレッドが尋ねる。


 オスカーは少し考える。


「いいえ。先方へは、こちらの記録違いで請求書を修正したことを伝えるべきだと思います。何も言わずに数字だけ変えれば、後から記録を見た時に混乱するかもしれません」


 アルフレッドは紙へ目を落とした。


「再発を防ぐには?」


「出荷直前に数量が変わった場合、荷札を書き直すだけでなく、搬入担当者と帳簿担当者の双方が変更を確認するべきです」


「分かった」


 アルフレッドはしばらく息子を見ていた。


「誰かに何か言われたのか」


 オスカーの胸が僅かに跳ねる。


 隠す必要はない。


「市場で、ガイルさんに会いました」


「Club Moon Dropの客か」


「はい」


「何を話した」


 オスカーは、店へ戻りたいと答えた時、それは自分が欲しいものにすぎないと言われたことを話した。


 会えないだけで崩れるなら、会えても相手へ寄りかかるだけだと指摘されたこと。


 戻れる日を待つのではなく、戻っても恥ずかしくない自分を作れと言われたこと。


 アルフレッドは途中で遮らなかった。


「それで、自分で原因を調べたのか」


「はい」


「店へ行く許可を得るためではなく?」


 オスカーはすぐに答えられなかった。


 以前なら、違いますと言ったかもしれない。


 だが、それは嘘になる。


「最初は、そのために働いていました」


 オスカーは正直に答えた。


「今日も失敗しなければ、父上が許してくださるかもしれないと考えていました」


 アルフレッドは黙っている。


「ですが、許可を得るためだけに働いているなら、店へ戻れた後も同じように働けるのか、自分でも分かりません」


 口にすると、自分の未熟さがより明確になった。


「私は、仕事を続ける理由を、店へ戻ることだけにしていました」


 アルフレッドは帳簿を閉じた。


「仕事が終わったら、奥へ来い」


「はい」


 それだけ告げられた。


 夕方になり、その日の仕事が終わる。


 荷を運ぶ音が減り、商会の者たちが順番に帰り支度を始める。


 オスカーは帳面を片づけ、商会の奥にある部屋へ向かった。


 アルフレッドはすでに待っていた。


 机を挟まず、向かい合うように椅子が置かれている。


「座れ」


「はい」


 二人きりになる。


 しばらく、どちらも口を開かなかった。


 先に話したのはアルフレッドだった。


「Club Moon Dropへ行きたいか」


 オスカーは父の顔を見る。


 ここで取り繕っても意味はない。


「行きたいです」


 正直に答えた。


 ミーナに会いたい。


 あの店へ戻りたい。


 その気持ちは、ガイルと話した後も消えていない。


「ですが」


 オスカーは続ける。


「行きたいと思うことと、行ってよい状態であることは違うと思っています」


 アルフレッドの表情が僅かに変わる。


「どう違う」


「以前の私は、ミーナさんに会えば安心できると思っていました」


 言葉を一つずつ選ぶ。


「仕事で失敗しても、あの方に認めていただければ、自分には価値があると思えました」


 それは、誰にも言いたくなかった本音だった。


「店にいない間も、自分のことを考えていてほしいと思っていました」


 会えない時間まで、自分を特別に思ってほしかった。


 ほかの客より自分を大切にしてほしかった。


「父上との約束より、自分の気持ちを優先しました」


 来店を禁じられても、父が自分を理解していないだけだと考えた。


「ミーナさんが仕事をしていることも、立場があることも分かっていたつもりでした。でも、実際には、自分だけを見てほしいと思っていました」


 アルフレッドは何も言わない。


「そして、信頼を取り戻すためではなく、店へ戻る許可を得るために働いていました」


 すべて口にすると、胸が苦しくなった。


 努力しているつもりで、目的を取り違えていたことが分かる。


「すべて理解できたとは思っていません」


 オスカーは続けた。


「ただ、今までのままではいけないことだけは分かりました」


 すぐに別人になれるわけではない。


 会いたい気持ちが強くなれば、また迷うかもしれない。


「私は、ミーナさんに会うことで立てる人間ではなく、会えなくても立っていられる人間になりたいです」


 ガイルの言葉を借りただけではない。


 今は、自分自身の願いとしてそう思っている。


「その時に、誰かから止められるまで進むのではなく、自分で止まれるようになりたいです」


 アルフレッドは長く息を吐いた。


「私も、お前へ話していなかったことがある」


「父上が?」


「ああ」


 アルフレッドは背もたれへ体を預けた。


「お前がClub Moon Dropへ通い始めた頃、私は悪いことだとは思っていなかった」


 オスカーは驚いた。


「以前のお前は、自分から誰かの話をすることが少なかった」


 商会の仕事について尋ねても、必要なことしか答えない。


 自分の気持ちや、何を楽しいと感じているかも話そうとしなかった。


「だが、店へ通い始めてから、お前は話すようになった」


 珍しい酒を飲んだこと。


 冒険者の話を聞いたこと。


 ミーナが丁寧に話を聞いてくれたこと。


 Club Moon Dropで過ごした時間を、オスカーは少しずつ父へ話していた。


「仕事へ関心を持ち始めた時も、私は嬉しかった」


 ミーナへ恥ずかしくない人間になりたい。


 その気持ちがきっかけであっても、以前より商会の仕事を見ようとした。


「だから、店やミーナさんへ感謝していた」


「では、なぜ」


「次第に、お前は仕事中も店のことばかり考えるようになった」


 アルフレッドの声は落ち着いている。


「数字を間違え、指示を聞き落とし、それでも自分は努力していると言った」


 オスカーは目を伏せる。


「私が怖かったのは、お前が誰かを好きになることではない」


 アルフレッドははっきりと言った。


「好きになった相手へ、自分の人生まで背負わせようとしていることが怖かった」


 オスカーは顔を上げた。


「ミーナさんを責めなかったのは、問題が彼女にないと分かっていたからだ」


 ミーナがオスカーを惑わせたのではない。


 店が息子を駄目にしたのでもない。


 オスカー自身が、相手の優しさへ自分の不安や責任を預けようとしていた。


「お前が仕事で失敗しても、彼女に会えば立ち直れる。自分のことを考えてもらえれば安心できる。そういう状態が続けば、いずれ彼女は、お前の気持ちを支えることまで求められる」


「私は、そのようなことを」


「望んでいなかったとしても、結果としてそうなることはある」


 ガイルと同じだった。


 困らせたいと思って、相手を困らせる者ばかりではない。


「私は、お前を支配したかったわけではない」


 アルフレッドは続ける。


「誰かを好きになるなと言いたかったわけでもない。ただ、お前自身が立てないまま、相手へすべてを預けることを止めたかった」


 オスカーは、ようやく父の考えを理解した。


 父は自分からミーナを奪おうとしたのではない。


 店へ行くことを罰として禁じたのでもない。


 自分が同じ状態のまま会い続ければ、ミーナへ負担を背負わせると考えたのだ。


「父上」


「何だ」


「申し訳ありませんでした」


 オスカーは深く頭を下げた。


「許していただくために謝るのではありません」


 以前の自分なら、謝れば許可が戻ることを期待していただろう。


「父上との約束と信頼を、自分の気持ちより軽く扱ったことが間違いでした」


 父に隠れて店へ行った。


 見つからなければよいと考えた。


 自分の感情に正当な理由があれば、約束を破っても仕方がないと思った。


「本当に申し訳ありませんでした」


 アルフレッドはすぐには答えなかった。


 やがて、静かに言う。


「今のお前の言葉は、以前より信用できる」


 許したとは言わない。


 すべての信頼が戻ったとも言わない。


 だが、以前より信用できる。


 その言葉だけで、オスカーには十分だった。


「明日から、小さな取引帳簿を一冊任せる」


「私にですか」


「今日調べたものより、もう少し取引数が多い。記録だけでなく、納品と請求の確認までお前が行え」


「はい」


「間違いを見つけることより、間違いがないよう管理する方が難しい」


「分かっています」


「本当に分かっているかは、これから見る」


 アルフレッドらしい言葉だった。


 オスカーは姿勢を正す。


「そして、Club Moon Dropへの来店禁止を解除する」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に強い喜びが湧いた。


 今すぐ立ち上がりたいほどだった。


 ミーナに会える。


 店へ戻れる。


 だが、オスカーは椅子から動かなかった。


「ただし、条件がある」


「はい」


「難しいことではない。だが、守るのはお前自身だ」


 アルフレッドは一つずつ伝える。


「まず、任された仕事を終えてから行くこと」


「はい」


「途中で店へ行きたくなっても、仕事を残して向かわない」


「守ります」


「次に、使う金と滞在時間を自分で管理すること」


 店で楽しく過ごせば、もう少しだけと長居したくなる。


 酒や料理を追加し、自分の持っている金以上に使おうとする可能性もある。


「父上に管理していただくのではなく、自分で決めます」


「三つ目だ」


 アルフレッドの表情が僅かに厳しくなる。


「ミーナさんへ特別扱いや返事を求めないこと」


 オスカーは静かに頷いた。


「自分がいない間に何を考えていたか尋ねたり、ほかの客より自分を優先するよう求めたりしません」


「言葉で求めなくても、態度で迫ることはある」


「その時は、自分が何を求めようとしているのか考えます」


「最後だ」


 アルフレッドはオスカーをまっすぐ見る。


「店へ通うことで仕事に影響が出始めた時は、私に止められる前に自分で控えろ」


 それが最も難しい条件だった。


 自分では大丈夫だと思いたい時に、自分で危うさを認めなければならない。


「守れなかった時に父上から止められるのではなく、自分で止まれるようにします」


 オスカーは答えた。


「約束します、とは言わないのか」


「約束します」


 少し考えてから続ける。


「ですが、言葉だけで信じていただこうとは思いません。行動で守ります」


 アルフレッドは僅かに目を細めた。


「分かった」


 オスカーは胸の奥へ広がる喜びを、今度は抑え込もうとはしなかった。


 嬉しい。


 ミーナに会いたい。


 Club Moon Dropへ戻りたい。


 その気持ちは消す必要がない。


 ただ、そのために目の前の仕事や約束を捨ててはいけない。


「明日、店へ行ってもよろしいでしょうか」


 尋ねた直後、オスカーは自分の言葉を考え直した。


「いえ」


 アルフレッドが何か言う前に続ける。


「まず、任せていただく帳簿の仕事を確認します。それを終えられる時間を考えてから決めます」


 アルフレッドは短く頷いた。


「それでいい」


 翌日の昼過ぎ。


 アルフレッドは一人でClub Moon Dropを訪れた。


 オスカーは同行していない。


 昼営業が落ち着いた時間で、客席には数人の客が静かに過ごしている。


 ロイがアルフレッドを迎え、レンへ来店を伝えた。


 レンは客席の端にある落ち着いた席へアルフレッドを案内した。


「今日は、お一人ですか」


「はい」


「オスカーさんのことでしょうか」


「その通りです」


 アルフレッドは、息子が仕事へ向き合い始めていることを話した。


 自分の目的が来店許可だけになっていたと気づいたこと。


 父子で本音を話したこと。


 そして、条件を決めたうえで来店禁止を解除したこと。


「息子を、再びこちらへ来させたいと考えています」


 アルフレッドは言った。


「もちろん、そちらが受け入れられるのであればですが」


 レンはすぐには答えなかった。


 アルフレッドの言葉だけで、オスカーが完全に変わったと判断するつもりはない。


 一度理解したからといって、同じ間違いを繰り返さないとは限らない。


 それでも、自分の問題へ気づき始めたことは大きい。


「店へ来ること自体を拒むつもりはありません」


 レンは答えた。


「ありがとうございます」


「ただし、ミーナに自分を支えてもらうことだけが目的になれば、また同じことになります」


「私も、そう考えています」


 アルフレッドは頷いた。


「だから、最初から息子を連れてきませんでした」


「本人が、自分で来る日を決めるためですか」


「はい。私が許したからすぐ来るのではなく、仕事を終え、自分で管理できる日に来るべきだと思っています」


 レンはアルフレッドの表情を見る。


 以前より、息子への怒りだけではなく、見守ろうとする意志が感じられた。


「分かりました。来店された時は、こちらでも様子を見ます」


「お願いします」


「ただ、ミーナへ特別に厳しく対応させるつもりはありません」


「それで構いません」


「オスカーさん自身が、どう行動するかを見るべきだと思います」


「その通りです」


 二人の話が終わった後、アルフレッドは酒を一杯だけ注文した。


 息子のことを頼みに来ただけで帰れば、店へ一方的な役目を押しつけることになると思ったのかもしれない。


 レンはそれ以上尋ねず、普段通り客として応対した。


 アルフレッドが帰った後、レンはミーナへ声を掛けた。


 営業の妨げにならないよう、客席から少し離れた場所へ移る。


「オスカーさんの父親が来た」


 ミーナの表情が変わった。


「何か、あったのでしょうか」


「悪い話ではないよ」


 レンは必要な部分だけを伝えた。


 オスカーが自分の問題へ気づき、仕事へ向き合い始めていること。


 父親と話し合い、条件付きで来店禁止が解除されたこと。


 ただし、来る日は父親に決めてもらうのではなく、本人が仕事の状況を見て選ぶこと。


 ミーナの顔に喜びが広がる。


「では、また来ていただけるのですか」


「その可能性はある」


 ミーナは一度頷いた後、少し迷うように尋ねた。


「オスカーさんは、ご自分で来ることを選ばれたのでしょうか」


 レンはその問いに、ミーナの変化を感じた。


 以前なら、戻ってくるという事実だけで喜んでいたかもしれない。


 今は、彼がどのような理由で戻るのかを気にしている。


「まだ、来る日は決まっていない」


 レンは答えた。


「父親が許したからすぐ来るのではなく、仕事を終えて、自分で来られる日を決めるそうだ」


「そうですか」


「前より、自分で考えられるようになったと思う」


 ミーナは胸元へ手を置いた。


「安心しました」


「会いたかった?」


 レンが尋ねると、ミーナは少し頬を赤くした。


「はい」


 隠さず答える。


「ですが、以前のように無理をして来られることは望んでいません」


「うん」


「お仕事や、お父様との約束を大切になさったうえで来てくださるなら……嬉しいです」


 ミーナはそう言い、僅かに視線を落とした。


 頭の中に、一つの歌が浮かんでいた。


 遠くへ向かう者の無事と、再会を願う歌。


 もしオスカーが、自分の意思で店へ戻ってきたなら。


 その時、自分も本当に歌いたいと思えたなら。


 客の前で初めて歌う場に、彼にもいてほしい。


 歌で呼び戻すためではない。


 何かを求めるためでもない。


 ただ、自分が前へ進む最初の瞬間を、オスカーにも見ていてほしかった。


 その歌の存在を、オスカーはまだ知らない。


 彼は新しく任された帳簿と向き合いながら、自分が店へ戻れる日を決めようとしていた。


 オスカーは、会いたいという気持ちを捨てたわけではなかった。


 Club Moon Dropへ戻りたい気持ちも、ミーナを特別に思う心も、変わらず胸の中にある。


 ただ、その気持ちに引かれて歩くのではなく、自分の足で同じ場所へ戻るための芯を、ようやく持ち始めていた。

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