第78話 消えない記録と深まる憎悪
カイルが会議室の扉を開けると、室内にはすでにバルドとグレゴール、それに数名の幹部が揃っていた。
全員が席へ着いている。
机の上には複数の帳面と書類が並べられていたが、カイルの位置からでは細かな内容までは見えない。
外部商人の姿も、書記の姿もなかった。
カイルはそれを確認しながら、表情を変えずに一礼した。
「お待たせしました」
「座ってくれ」
バルドの声は、普段と変わらず落ち着いていた。
怒鳴りつける様子もなければ、最初から罪を決めつけるような険しさもない。
その静けさが、かえってカイルには不気味だった。
指定された席へ腰を下ろす。
正面にはバルド。
少し離れた位置にグレゴール。
左右には、酒商会の中でも重要な判断へ関わる幹部たちが座っている。
この場が、簡単な事情確認ではないことは明らかだった。
「急に呼び出してすまない」
バルドが口を開いた。
「ヴァレンティーニ家に関する噂と、商会内部の記録について確認したいことがある」
「承知しています」
カイルは静かに頷いた。
「私も、根拠のない噂には迷惑していました。酒商会の名まで使われていると聞いています」
「そうか」
「はい。もし内部の記録が勝手に持ち出されていたのであれば、厳しく調べるべきでしょう」
自分も被害を受けた側であるかのように話す。
バルドはすぐには反論しなかった。
机の上に置かれていた一冊の帳面を開く。
「まず、記録の確認から始める」
バルドは一枚の紙をカイルの前へ置いた。
ヴァレンティーニ家に関する債権記録の閲覧署名だった。
「これは、お前の署名で間違いないな」
カイルは紙へ目を落とした。
「はい。私のものです」
「なぜ、この記録を閲覧した」
「過去の債務整理について確認する必要がありました」
「何のために?」
「酒商会と関係のある取引先が、以前ヴァレンティーニ家と関わりを持っていた可能性がありましたので」
カイルは準備していた答えを口にする。
グレゴールが問い返した。
「どの取引先だ」
「当時の記録を確認しただけです。実際に取引へ発展したわけではありません」
「名前を聞いている」
カイルは一瞬だけ黙った。
「複数の可能性を調べていましたので、今ここで一つへ絞ることはできません」
「では、その調査について残した記録はあるか」
「簡単な確認でした。正式な報告書を作るほどのものではありません」
グレゴールはそれ以上追及せず、別の帳面を開いた。
「同じ日、裏口から一人の雑用係が出入りしている」
カイルの前へ、出入りを記録した帳面が置かれる。
そこには男の名と、用件が残されていた。
『カイル幹部の依頼』
「この男を呼んだことは認めるか」
「呼んだことはあります」
「何を頼んだ」
「市場の評判を調べさせました」
「何についての評判だ」
「新しく店を開いた者や、酒商会を介さずに酒を扱う者についてです」
カイルはClub Moon Dropの名を直接出さなかった。
だが、グレゴールはその曖昧な答えを逃さなかった。
「ヴァレンティーニ家の記録を見た直後に、酒商会を介さず酒を扱う店の評判を調べさせたということか」
「時期が重なっただけです」
「偶然だと?」
「そうです」
カイルは迷わず答えた。
バルドは次の紙を手に取る。
「では、これも偶然か」
今度は、外部商人から聞き取った証言の記録だった。
カイルは紙へ手を伸ばさない。
目だけを向ける。
「お前と個人的な取引のある商人が、同じ雑用係へ多額の金と紙を届けたと証言している」
「その商人が、何を話したのかは知りません」
「依頼主はお前だったと言っている」
「私が依頼した仕事は一つではありません。金を届けさせたことがあったとしても、噂を流すためだったとは限らないでしょう」
「何のための金だった」
「市場調査の報酬です」
「通常の市場調査にしては、随分と多い額だったようだが」
「特別な調査であれば、報酬が増えることもあります」
カイルの声はまだ崩れていない。
一つひとつの事実へ、別の説明を与える。
記録の閲覧は債務整理の確認。
雑用係は市場調査。
金はその報酬。
すべて別件であると主張し続ければよい。
グレゴールが、証言記録の一部を指で示した。
「商人は、渡した紙を雑用係が開いた時、二つの文言を見たと話している」
カイルの指先が僅かに動く。
「一つは、『完済には触れるな』」
会議室の空気が静まる。
「もう一つは、『同じ場所で繰り返すな』」
カイルはゆっくりと息を吐いた。
「見間違いではありませんか」
「そう考える理由は?」
「紙を読んだのではなく、偶然一部が見えただけなのでしょう。別の言葉を誤って覚えた可能性は十分にあります」
「では、お前が渡した紙には何が書かれていた」
「市場の噂を調べる場所と、報告の方法です」
「完済という言葉は?」
「使った覚えはありません」
「同じ場所で繰り返すな、という言葉は?」
「調査先を一か所へ偏らせるなという意味であれば、似た指示はしたかもしれません」
完全に否定すれば、後から別の証言が出た時に不利になる。
カイルは僅かな可能性だけを残して答えた。
グレゴールは目を細める。
「随分と都合よく、覚えている部分と覚えていない部分が分かれているな」
「昔の仕事を一言一句覚えている者はいないでしょう」
「確かにな」
グレゴールはあっさりと引いた。
その態度が、カイルには気に入らなかった。
もっと強く責めてくれば、感情的な追及だと指摘できる。
だが、グレゴールは一つの証拠へ執着せず、次の事実へ移ろうとしている。
「では、昨日の話へ移ろう」
バルドが口を開いた。
「雑用係らしき男が近隣の街で目撃されたという話を、限られた幹部だけへ伝えた」
「覚えています」
「その直後、お前の書記が裏口から商会を出た」
「書記に外出を頼むことはあります」
「市場にいる商人へ封書を届けさせたな」
カイルは一拍置いてから答えた。
「はい」
「何を頼んだ」
「商会へ害を与える可能性のある人物の所在確認です」
ここまでは想定していた。
封書が見つかったとしても、逃亡を助ける内容ではない。
「なぜ、その人物を探す必要があった」
「噂を広めた可能性があると聞いたからです。商会の記録が悪用されたのであれば、事情を確認する必要があります」
「なぜ、こちらへ相談しなかった」
「確かな情報ではありませんでした。無用な混乱を避けるため、まず所在だけ確認しようと考えました」
「なぜ、限られた幹部しか知らない街へ向かわせた」
「そこにいる可能性があると聞いたからです」
「それは答えになっていない」
バルドの声が僅かに低くなる。
「我々は、外部へ漏らすなと伝えた」
「私は商会を守るために動きました」
「それなら、なおさら会長である私へ報告するべきだったのではないか」
カイルは言葉を止めた。
「男を危険人物だと判断したのか」
グレゴールが尋ねる。
「可能性はあると考えました」
「お前は会合で、その男が危険人物だとは聞いていない」
「噂を意図的に広めた者なら、商会に害を与える者でしょう」
「噂を広めた可能性があるとしか伝えていない。本人だとも断定していなかった」
「だから、接触させず所在だけ調べさせたのです」
「男の特徴を、なぜそこまで詳しく知っていた」
カイルの呼吸が僅かに止まる。
封書には、年齢や髪の色だけではなく、頬の傷や偽名、安宿を選ぶ傾向まで書いていた。
「以前の市場調査で知りました」
「つまり、お前はその男を以前から知っていた」
「知っていたというほどではありません」
「ならば、なぜ偽名や宿の選び方まで分かる」
「報告を受けていたからです」
「誰から」
「雑用係本人からではなく、別の者からです」
「誰だ」
カイルは答えられなかった。
適当な名を出せば、その場で確認される。
言葉を濁せば、説明の弱さが明らかになる。
「思い出せません」
「都合の悪い部分だけ、また忘れたのか」
グレゴールの言葉に、カイルの眉が僅かに動いた。
「私を罪人と決めつけているのですか」
「まだ決めつけてはいない」
バルドが答える。
「だから説明を求めている」
「説明なら、先ほどからしています」
「一つひとつにはな」
バルドは机の上の記録を順番に指した。
「ヴァレンティーニ家の債権記録を見た理由」
「雑用係を呼んだ理由」
「多額の金を渡した理由」
「完済には触れるなという文言」
「偽情報を聞いた直後、男を探させた理由」
「男の特徴を詳しく知っていた理由」
バルドはカイルを見た。
「お前はすべて別件だと言う。だが、別々だと言い張る行動が、すべて同じ男と同じ噂へつながっている」
「偶然が重なることはあります」
「ここまで重なるものを、偶然と呼ぶのか」
「直接、私が噂を広めろと命じた証拠はないはずです」
カイルは初めて、わずかに声を強めた。
その言葉に、室内の幹部たちが互いの顔を見る。
カイルはすぐに気づいた。
言い方を誤った。
無関係であるなら、証拠の有無ではなく、やっていないと断言するべきだった。
だが、もう言葉は戻らない。
「確かに」
バルドは静かに頷いた。
「お前が『噂を広めろ』と書いた紙は見つかっていない」
カイルは僅かに胸を撫で下ろす。
「しかし、お前は今、証拠がないと言った」
「事実を述べただけです」
「やっていないとは言わなかった」
グレゴールが低く言う。
「言葉尻を捉えるつもりですか」
「ならば、今ここで言えばいい」
グレゴールはカイルから目を逸らさない。
「ヴァレンティーニ家の完済を隠し、借金を踏み倒して逃げたように見せる噂を広めるよう、誰にも命じていないと」
会議室に沈黙が落ちる。
カイルは口を開こうとした。
だが、外部商人が別室にいる可能性がある。
書記も呼ばれれば、封書を渡すよう命じられたことを話すだろう。
雑用係へ直接会った者が、ほかにもいるかもしれない。
完全に否定した後、新しい証言が出れば、嘘を重ねたことになる。
「私は」
カイルは言葉を選ぶ。
「酒商会とClub Moon Dropの関係について、市場の反応を調べさせただけです」
「質問に答えていない」
「意図的に虚偽を広めろと命じたことはありません」
「完済へ触れるなと指示したことは?」
「それは、虚偽ではないでしょう」
その瞬間、グレゴールの表情が変わった。
バルドも黙ってカイルを見る。
カイルは、自分の発言が持つ意味を理解した。
否定しきれず、正当化へ踏み込んでしまった。
「借金があったことは事実です」
カイルは続けた。
ここで止まれば、言葉に詰まったことだけが残る。
「屋敷と領地を失ったことも、爵位と家名を返上したことも事実です。虚偽を作ったわけではありません」
「完済したことも事実だ」
バルドが答える。
「それを意図的に隠した」
「すべてを一度に話さなければならない決まりはありません」
「逃げたように見せるために隠したのではないか」
「受け取る側がどう解釈するかまでは、私の責任ではありません」
カイルの声から、少しずつ平静が失われていく。
「私は事実を調べさせた。客や商人たちが、それをどう考えるかは彼らの判断です」
「同じ場所で繰り返すなと命じたのは、噂の出所を分からなくするためではないのか」
「調査先を偏らせないためです」
「それなら、なぜ調査結果ではなく、話を聞いた者たちの反応だけを報告させた」
カイルは答えられない。
バルドは机の上の紙を閉じた。
「もう十分だ」
「何が十分なのです」
「お前自身の言葉だ」
バルドは静かに続ける。
「最初は、記録の閲覧も、雑用係も、金も、封書もすべて別件だと言った」
「実際に別件です」
「だが今、お前は完済へ触れないよう指示したことを正当化した」
カイルの顔が僅かに強張る。
「それは――」
「お前は関与していた」
バルドの声は大きくなかった。
それでも、会議室の全員へはっきり届いた。
カイルは黙った。
もはや完全な否定はできない。
ならば、自分の行動に正当な理由があったと示すしかない。
「セレナ個人を傷つけるつもりはありませんでした」
カイルはゆっくりと言った。
「では、誰を狙った」
グレゴールが尋ねる。
「Club Moon Dropです」
室内の幹部たちが僅かにざわめく。
「私は、あの店へ警告を与える必要があると考えました」
「何の警告だ」
「酒商会を軽んじれば、何の問題もなく商売を続けられると思うなという警告です」
バルドの眉間に皺が寄る。
「レンさんが、いつ酒商会を軽んじた」
「酒商会の流通に頼らず、どこから仕入れたのかも分からない希少な酒を扱っている」
「それは規則違反なのか」
「違反でなくとも、商会へ何の説明もないまま続ければ、均衡を乱します」
「商会へ所属していない店へ、説明を強制する権限はない」
「だからと言って、好きにさせてよいのですか」
カイルの声がさらに強くなる。
「若いだけの男が、どこから手に入れたかも分からない酒を並べ、貴族や商人、冒険者を集めている。酒商会の幹部である私が話をしようとしても、店の規則だと言って断った」
「正規会員の紹介がなければ入れない。それは誰に対しても同じだ」
「私は酒商会の幹部です」
「だから特別扱いされるべきだったと?」
バルドの問いに、カイルは一瞬言葉を詰まらせる。
「少なくとも、ほかの客と同じ扱いを受ける立場ではありません」
その答えに、室内の空気が冷えた。
「貸切営業の時でさえ、あの男は私を特別に扱わなかった」
カイルは止まらなくなる。
「私が酒について尋ねても、詳しい仕入れ先は話さない。酒商会を通す考えもない。こちらが手を差し伸べても、自分たちだけで商売を続ける」
「手を差し伸べたのではなく、店を自分の管理下へ置こうとしたのではないか」
グレゴールの指摘に、カイルは睨むような視線を向けた。
「お前まで、あの男の側へ立つのか」
「側の問題ではない」
「バルド会長も、お前も、以前とは変わった」
カイルは机へ手を置いた。
「何かあるたびに、あの店の判断を正しいとする。珍しい酒を持っているからか。貴族が通っているからか。冒険者たちがあの店を気に入っているからか」
バルドは何も言わない。
カイルの中に溜まっていたものが、次々と表へ出てくる。
「バルド会長はレンを信用し、グレゴールは店を庇う。貴族も商人も冒険者も、あの店へ集まる。従業員たちは、若い店主へ疑いもせず従っている」
カイルの声が震えた。
怒りによるものか、悔しさによるものか、自分でも分からない。
「問題が起きれば、必ずあの男が正しい側に立つ」
「今回、レンさんは何もしていない」
バルドが言う。
「それなのにだ」
カイルは吐き捨てた。
「周囲が勝手にあの男を守る。お前たちが動き、客たちが店を庇い、最後にはあの男の評価だけが上がる」
机に置いた手へ、力が入る。
「あの若造は、何も失わずにすべてを手に入れている」
実際には、レンも多くのものを失い、危険や不安を抱えながら店を築いてきた。
だが、カイルには見えていない。
見ようともしていなかった。
自分が長い時間を掛け、頭を下げ、取引を重ねて得た地位。
それをレンは、珍しい酒と人当たりのよさだけで、簡単に越えていくように見えた。
「セレナの過去を知れば、客どももあの店の見方を変えると思った」
カイルの口から、決定的な言葉がこぼれた。
「元貴族の娘を働かせながら、何も知らないふりをしている店だと分かれば、少しは疑う者も出ると思った」
「つまり」
グレゴールの声が低くなる。
「お前はセレナさんの過去を使い、店の信用を落とそうとした」
「借金があったことは事実です」
「完済したことも事実だ」
バルドが重ねる。
「屋敷と領地を失ったことも事実です」
「債務を返すため、正式に売却した」
「爵位を返上したことも――」
「それも正規の手続きを経ている」
バルドはカイルの言葉を一つずつ遮った。
「お前は事実の一部だけを選び、ヴァレンティーニ家が借金を踏み倒して逃げたように見せた」
「私は逃げたとは言っていません」
「そう聞こえるように広めた」
「受け取る側の解釈です」
「では、なぜ完済へ触れるなと命じた」
カイルは答えられない。
「事実の一部だけを使い、相手へ誤った印象を与える。それを真実とは呼ばない」
バルドの声には、初めて明確な怒りが滲んだ。
「それに、お前は店を狙ったと言った」
「そうです」
「店を狙ったと言えば、セレナさんを利用し、傷つけた責任が消えると思っているのか」
カイルの口が閉じる。
「セレナさんは、お前と争っていたわけではない」
「……」
「酒商会へ害を与えたわけでもない」
「……」
「ただ働いていただけの一人の女性だ」
バルドはカイルを見据えた。
「お前は、自分が気に入らない店を傷つけるため、その女性と家族の過去を利用した」
カイルは何も答えられなかった。
会議室の中で、カイルを見る幹部たちの視線が変わっていた。
それまでは疑いと警戒だった。
今は、失望と拒絶が混じっている。
カイルは、それを自分への裏切りだと感じた。
自分も長く酒商会へ尽くしてきた。
取引を増やし、利益を上げ、商会の地位を高めてきた。
それなのに、若い店主と一人の従業員のために、これまでの働きすべてが無視されようとしている。
バルドは、ほかの幹部たちへ視線を向けた。
「事実関係について、異論はあるか」
誰も口を開かなかった。
一人の幹部が静かに首を横へ振る。
別の者も、それに続いた。
カイルは周囲を見回す。
誰一人、自分を庇おうとはしない。
バルドは一枚の書面を手に取った。
「酒商会として、カイルへ処分を下す」
会議室の空気がさらに重くなる。
「本日をもって、幹部職から解任する」
カイルの指先が机を強く押した。
「商会内の重要記録への閲覧を禁じる」
「一定期間、酒商会を介した商取引を停止する」
「今回の処分と理由は、内部記録へ永久に残す」
「さらに、事件への関与を認め、セレナさんとClub Moon Dropへ向けた謝罪文を提出してもらう」
カイルの顔が強張る。
「私を、商会から追放するつもりですか」
「追放はしない」
バルドは答えた。
「お前には個人で行っている取引もある。酒商会へ所属する一商人として残ることは認める」
完全な追放ではない。
しかし、幹部として積み上げてきた権限と信用は失われる。
重要な記録を見ることもできない。
酒商会を介して行っていた取引も、一定期間止められる。
カイルにとっては、これまで築いてきた地位を根元から奪われるに等しかった。
「幹部用の印章と鍵も、ここで返してもらう」
グレゴールが言った。
カイルはゆっくりと顔を向けた。
書類へ印を押すための幹部用印章。
重要記録を保管する区画へ入るための鍵。
長い年月を掛けて手に入れた権限を、目に見える形で返さなければならない。
カイルは懐へ手を入れた。
金属の鍵を机へ置く。
続いて、幹部の印章を外した。
置いた時、小さな音が会議室へ響く。
その音が、カイルには自分の地位が落ちる音のように聞こえた。
「謝罪は、直接店へ出向いて行うのでしょうか」
カイルが尋ねる。
「いや」
バルドが答えた。
「お前を連れていけば、セレナさんへ再び負担を与える。謝罪文は酒商会が預かる」
「では、酒商会としての謝罪は」
「私とグレゴールが行う」
カイルは俯いた。
表面上は処分を受け入れたように見せる。
ここで反発すれば、完全追放へ変わる可能性もある。
「……私の判断が誤っていました」
ゆっくりと頭を下げる。
だが、その言葉に反省はなかった。
自分が悪かったのではない。
証拠を重ねられた。
バルドとグレゴールがレンへ味方した。
ほかの幹部たちも、会長の顔色を見て自分を切り捨てた。
そう考えていた。
謝罪文を書くために紙を渡される。
カイルは必要最低限の言葉だけを書いた。
事実の確認が不十分なまま行動し、誤解を招く結果となったことを謝罪する。
自分が意図的に噂を広め、セレナを利用したとは書かなかった。
バルドは文面を読み、僅かに眉を寄せた。
「これでは責任を認めたことにならない」
「私が認められるのは、自分の判断が結果として誤解を生んだことまでです」
「先ほど、自分の口で店の見方を変えさせようとしたと言ったはずだ」
「店への警告と、セレナさん個人への害意は別です」
カイルは最後まで、そこだけは譲ろうとしなかった。
バルドは新しい紙を差し出す。
「書き直せ」
カイルはすぐには筆を取らなかった。
机の上の鍵と印章へ目を向ける。
それから、ゆっくりと新しい紙へ視線を移した。
長い沈黙の後、筆を手にする。
筆先を紙へ下ろした時、力が入りすぎて墨が僅かに滲んだ。
最終的な謝罪文には、ヴァレンティーニ家の情報を利用し、Club Moon Dropの信用を落とそうとしたことが記された。
ただし、それでも言葉は必要最低限だった。
会議を終えた後、カイルは幹部として使っていた執務室へ戻った。
机の上の書類は、すでに部下たちによって整理され始めている。
重要記録へ関わる書類は、その日のうちに別の部屋へ移されることになっていた。
壁へ掛けられていた幹部の証も外される。
カイルは黙ってその様子を見ていた。
誰も目を合わせない。
これまでなら、廊下ですれ違えば頭を下げた職員たちも、遠くから様子を窺うだけだった。
その視線が、カイルの内側へ新しい怒りを積み重ねていく。
数日後、酒商会は街の商人や関係先へ正式な文書を出した。
ヴァレンティーニ家の債務は、すでに全額返済されている。
屋敷と領地は、債務整理のため正式に売却された。
当主が債務を残して逃亡した事実はない。
爵位と家名は、正規の手続きを経て返上されている。
セレナが家の財産を持ち逃げした事実もない。
そして、酒商会の関係者が記録の一部を利用し、誤解を招く情報を意図的に広めた。
酒商会が自らの責任を認めたことで、街の空気は変わり始めた。
商家の女将は、店を訪れる客へ文書の内容を伝えた。
「酒商会が正式に認めたのよ。借金は全部返してあるって」
以前セレナの噂を口にしていた男性商人も、今度は自分の取引相手へ訂正する。
「当主は逃げていない。屋敷と領地を売って返したらしい」
エミリアも、自分と親しい者たちへ事実を話した。
女性冒険者たちは、酒場で面白半分に噂を口にする者へ、
「それ、もう酒商会が違うって文書を出してるよ」
と返した。
それでも、すべての者が納得したわけではない。
酒商会が圧力を受けたのだと言い続ける者もいた。
記録そのものが書き換えられたのだと疑う者もいた。
だが、公然とそう口にすれば、今度は正式な記録と酒商会の名を無視する者として見られる。
少なくとも、セレナや家族を堂々と責める声は消えていった。
噂は完全に人々の記憶から消えたわけではない。
けれど、街の中で事実として扱われることはなくなった。
それだけでも、セレナにとっては大きな変化だった。
その日の昼営業を終えた後、バルドとグレゴールがClub Moon Dropを訪れた。
ロイが扉を開け、二人を店内へ案内する。
客席にはレン、セレナ、リリアが待っていた。
店のほかの者たちは、必要以上に場へ残らないよう、それぞれの仕事へ戻っている。
バルドは席へ着く前に、深く頭を下げた。
「このたびは、酒商会の内部にいた者が記録を悪用し、セレナさんとClub Moon Dropへ多大な迷惑を掛けた」
グレゴールも隣で頭を下げる。
「申し訳ない」
セレナはすぐには言葉を返せなかった。
酒商会の会長と幹部が、自分へ向かって頭を下げている。
それは、少し前までの自分には想像もできない光景だった。
「顔を上げてください」
ようやく、セレナが言った。
二人が姿勢を戻す。
バルドは一通の封書を机へ置いた。
「これは、カイル本人が提出した謝罪文だ」
セレナの視線が封書へ落ちる。
「読むことを求めるつもりはない。受け取るかどうかも、セレナさんが決めてほしい」
セレナはしばらく封書を見つめた。
それから、静かに手を伸ばす。
「受け取ります」
「今、読む必要はない」
「はい」
封は開けず、自分の前へ置く。
バルドは続けた。
「酒商会として、ヴァレンティーニ家の債務が全額返済されていること、当主が逃亡していないこと、爵位と家名の返上も正式な手続きによるものだったことを保証する」
「ありがとうございます」
セレナは両手を膝の上で重ねた。
「ですが、父の判断がすべて正しかったと認めていただきたいわけではありません」
バルドとグレゴールが黙って耳を傾ける。
「父は、信用する相手を見誤りました。危険な取引へ資金を出したことも、領地を守りきれなかったことも事実です」
セレナの声は穏やかだった。
以前のような怯えや迷いはない。
「それでも、父は最後まで責任を果たしました」
封書へ目を向ける。
「屋敷も領地も手放し、借金を返しました。そのことだけは、嘘にされたくありませんでした」
バルドは深く頷いた。
「その事実は、酒商会の記録と名において保証する」
セレナは小さく息を吐いた。
長く胸の奥へ押し込めていたものが、少しずつほどけていくようだった。
レンはバルドたちを見る。
「酒商会全体を責めるつもりはありません」
「それでも、内部の記録を管理できなかった責任はある」
「分かっています」
レンは頷いた。
「金を受け取っても、広がった噂が消えるわけではありません」
バルドは黙ってレンの言葉を待つ。
「正式な訂正を出し、同じように記録が使われないよう管理を改めてもらえれば、それで十分です」
「管理方法については、すでに見直しを始めている」
グレゴールが答えた。
「重要記録を閲覧する場合、今後は目的と対象となる取引先まで記載させる。私的な調査へ使えないよう、複数人の確認も必要にする」
「それなら、ほかに求めることはありません」
レンはセレナを見る。
「セレナがこれまで通り、ここで安心して働けるなら、それで十分です」
バルドは、少しだけ驚いたようにレンを見た。
「店の信用も傷つけられた。それでも賠償は求めないのか」
「必要ありません」
レンは机の上の謝罪文へ目を向ける。
「それに、これを読むかどうかはセレナが決めることです」
「もちろんだ」
セレナは封書を手に取った。
「今は、開けません」
誰も理由を尋ねなかった。
謝罪文に何が書かれていたとしても、セレナが今すぐ向き合う必要はない。
それを決める権利は、彼女自身にある。
バルドとグレゴールが帰った後、リリアがセレナの隣へ座った。
「少し、楽になった?」
「はい」
セレナは封書を見つめながら答えた。
「すべて忘れられるわけではありません。でも、父が逃げたのではないと、正式に認めてもらえました」
「それで十分?」
「今は、それで十分です」
セレナは小さく笑った。
その笑顔には、ようやく自分の過去を誰かへ弁明し続けなくてもよいという安堵が滲んでいた。
一方、カイルは自分の商館へ戻っていた。
幹部として使っていた部屋は失った。
重要記録を見る権限もない。
酒商会を通していた取引は止められ、複数の商人から予定の見直しを求める書状が届いている。
それまで自分へ頭を下げていた職員たちは、道で会っても目を逸らした。
酒商会へ顔を出しても、以前のように奥の部屋へ通されることはない。
すべてが変わった。
だが、カイルは自分の行動が原因だとは考えなかった。
バルドとグレゴールがレンへ味方した。
ほかの幹部たちは、会長の意向へ従った。
外部商人は、自分の立場を守るために裏切った。
それだけだと思っていた。
さらに、街ではレンについて好意的な言葉が広がっていた。
「Club Moon Dropの店主は、酒商会全体を責めなかったらしい」
「従業員を守りながら、余計な賠償も求めなかったそうだ」
「若いのに冷静な男だ」
「酒商会も、店へ無理な謝罪を押しつけなかったらしい」
通りを歩いていたカイルの耳へ、そんな会話が入る。
足が止まる。
自分は幹部職と信用を失った。
レンは被害を受けたことで、さらに人々の信頼を得ている。
「結局、あいつだけが得をした」
誰にも聞こえない声で呟く。
カイルには、レンの対応が寛大さには見えなかった。
自分を惨めに見せるため、立派な店主を演じたようにしか思えない。
賠償を求めなかったことも、酒商会を責めなかったことも、すべて周囲の評価を得るための振る舞いに見えた。
「すべて、あの店が現れてからだ」
酒商会での立場が揺らいだのも。
バルドやグレゴールの見る目が変わったのも。
人々が自分ではなくレンを評価するようになったのも。
カイルはClub Moon Dropのある方角へ視線を向けた。
これまでは、店が目障りだった。
希少な酒を扱い、酒商会の影響を受けずに客を集める店。
自分を特別扱いしない、不愉快な店。
だが今は違う。
店だけではない。
レンという男そのものが、憎しみの対象になっていた。
「店を潰すだけでは足りない」
カイルの目が暗く細められる。
「あの男から、人も、信頼も、すべて奪う」
ただし、今すぐ動くつもりはなかった。
酒商会は、まだ自分を監視している。
ここで再び何かを起こせば、今度こそ完全に追放される。
カイルには個人資産がある。
独自に築いた取引先も残っている。
酒商会の外には、バルドたちの目が届きにくい商人もいる。
Club Moon Dropを快く思っていない者も、自分以外にいるはずだ。
今は大人しくしていればよい。
反省したふりをし、処分を受け入れたふりをする。
その間に、使える者を探す。
レンが何より大切にしているもの。
店。
従業員。
正規会員たちの信頼。
それらを一つずつ壊していけばよい。
セレナの名誉は、ようやく取り戻された。
街で囁かれていた噂も、正式な記録によって退けられた。
けれど、自らの悪意によって失ったものを、レンに奪われたのだと思い込む男の中で、憎しみだけが以前より深く根を張り始めていた。
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